実写版『美少女戦士セーラームーン』ファンブログ


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【第59回】原作と実写版の対応を中間総括、できるかなの巻

1. 再び『恋文日和』のこと


 前回の日記に引き続き、年明け早々なんだか少女漫画づいています。まず、別冊フレンドコミックスから出ているジョージ朝倉『恋文日和』を入手しました。『少女フレンド』はとっくに休刊してしまったけど、『別冊フレンド』はまだ現役なんですね。別冊っていっても、もう関係ないよってことか。篠原千絵の『水に棲む花』も買った。これも『Betsukomi』(別コミ)の連載作品であるが、もともとの本体である『少女コミック』とはもうぜんぜん別の雑誌だ。そういえば以前、小学生の娘に「頼むから少女コミックだけは、ぜったいに読むなよ!」と釘をさしたら「なんでなんで?」とヤブヘビな状態になって非常に困ったんだが、まさかこっそり読んでないだろうな。うちの娘と同様「なんで?」と思った人は、ここを見てね。でもエロいからよい子のみんなはぜったいに見ちゃだめだよ。新成人のみんなは見てもいいよ。
 ともかく、実写版セーラームーンの再放送が終わったら、こういった作品についても原作と映画の比較なんかやろうと思っておりまして、まずは『恋文日和』を読みました。この作品、2001年3月に1巻、2巻が同時発売され、3年半後の2004年9月に第3巻が発売されたという、たいへんなマイペースで刊行されている短編連作なんだが、内容は実に良い。そして読んでみて、映画版が原作のとても忠実な映像化であることがほんとうによく分かりました。たとえば、小松彩夏主演エピソードの原作「LETTER 3 雪に咲く花」は第1巻に入っていますが、原作にないのは始めの方の、学校の屋上に平然と立つ小松彩夏の登場シーン、あの場面くらいで、あとはだいたい原作に出てくるか、場面としては直接出てこなくても、セリフの中などで語られる。
 前にも書いたが、原作ものの映像化作品と言っても色々ある。原作どおりで面白いもの、原作どおりだけどつまんないもの、原作をかなり大胆にアレンジしているけど、ちゃんと原作と同じ空気が伝わってくるもの、アレンジ部分が原作の雰囲気をぶちこわしているもの、ぶちこわしているがそこが面白いもの、もう最初から「何でわざわざこの原作を選んだかな」と疑問を感じるようなもの、それでいて面白いもの。エトセトラ。
 オムニバス映画『恋文日和』は、ストレートに原作どおりで、しかも面白い作品だ。この「ストレートに原作どおり」というのも非常にむずかしいと思う。いたずらにオリジナリティを加えた作品より、一見、単に原作をそのまんま映画化した「だけ」のように見える作品の方が、原作の空気を忠実に伝えるための創意工夫がよほどこらされている、と言えるのかもしれない。ちょっと考えただけでも(1)まず原作のイメージにぴたりとはまる俳優を探し出さなければならない。(2)そして長編の場合なら、いかに雰囲気を損なわないまま枝葉を刈り取るか、逆に短編ならどのエピソードを膨らましてアクセントをつくるか、というような脚本の問題。(3)そして演出。読者が原作小説の文章から浮かべるイメージ、あるいは漫画のコマで知っているイメージを、どんなふうにスクリーンに、動く映像として表現するか。
 そういう意味で『恋文日和』はいいなあ。映画版の第2話「雪に咲く花」について言えば、まずキャスティングがうまくはまっている。といっても、ヴィジュアル的に原作漫画の「宮下千雪」に小松彩夏が似ているというわけではないのだ。それだけに、小松彩夏のなかに「宮下千雪」を見いだしたスタッフ、自分のなかから「宮下千雪」を引っ張り出した小松彩夏、どっちも立派だと思う。それから、脚本と演出。たとえば千雪がめちゃくちゃ奇妙なフォーム(両手投げ)でボーリングのボールを投げて「ピンを倒せばいいんでしょ」とか強がる場面は、原作では本当に小さな一コマだけで示されるのだけれど、映画はこれを効果的に活用して、小松さんのチャーミングなシーンを作っているのだ。そして原作漫画に出てくる手紙の文面は、いっさい手を加えずに、そのまま映画でも使われている。

「神代様、あたし、たぶん消えちゃうけど、覚えていて。みんなに忘れ去られるのは本望だけれど、あなたにだけは、わずかな断片でいいから覚えていてほしい」
「宮下様、手紙、読みました。なにがあろうと早まってはいけない。冬が来れば春が来る。素敵なことは、巡りくるんだ。君は春の花を見たことがないのかい?ないのなら、あるいは、忘れてしまったのなら、俺に、花を見る手伝いをさせてくれないか?」
「神代様、あの手紙、あたしが書いたと気づいてくれるとは思いませんでした。あたし、健全でなにかゆるぎないものを持っているあなたを想ってました。あなたを想うと、なんだか普通の娘のようで、幸せっぽくもありました。でもあたし、クズみたいな女なんです。きっと母親とおなじように、クズみたいな男たちに弄ばれるしかない女なんです。花なんか見れない。あたし……」

 私はなにを漫画のネームを書き写しながらじ〜んとしているのか。まあともかく、改めまして小松さんにおかれましては、成人式おめでとうございます。もちろん、北川さんと安座間さんも。

2. 新装版セーラームーンの衝撃


 それから、今回ようやく新装版の武内直子『美少女戦士セーラームーン』を買ったのである。ご存知のように、これは実写版の放送開始にあわせて再編集のうえ刊行された愛蔵版だが、私はもうとっくに旧版を揃えていたので買わなかった。しかし最近コメント欄に「原作も読んでみます」なんて書いてくださる人もおられて、これから新装版で入手された方のために、どのエピソードが何巻にあるのかを確認する意味でも必要だな、と思い、とりあえずダーク・キングダム編の載っているあたり、2巻と3巻を買ってみたんです(1巻は書店になかった)。そして驚いた。これはかつての単行本にあった作画上のミスを、こまごまと修正してあるんですね。場合によってはデジタル処理で。つまりスターウォーズでいう「特別篇」なのである。
 こういうことは実写版でもやって欲しい。マーズのハイヒールが脱げそうになっている場面をデジタル処理で修正したり、ルナとアルテミスのシーンを大幅にCGに入れ替えたり、体育館を教会っぽくデコレーションしなおした特別編。最後の地球崩壊のシーンなんかもバージョンアップ。どうせだったら、撮影したけど時間の都合でカットしたシーンも復元する。だからエピソードによっては、正味30分を越える回もある。田崎竜太・舞原賢三・小林靖子監修。どうですか。自分で書いていてだんだん観たくなってきたなあ、これどうにかして東映にアピールする手段はないものか。
 いやそれはともかく新装版だ。もっと驚いたのは、巻末に添えられた武内直子の4コマエッセイである。ここにはセーラームーンのオリジナル構想に関する、ほとんど「目が点」になりそうな秘話が登場する。もともと武内直子という人は、カラーページやイラスト集を描くのがいちばん楽しいと公言しているだけあって、ストーリーの作り方やキャラクターの設定はかなりゆるい。たぶん描きたいシーンがまず浮かんで、そのシーンに向かって後から物語を構築していくタイプなのだと思う。だからボツになったストーリー案や設定のなかには、かなりむちゃくちゃなものがあったのだろうとは思っていたが、これほどだったとは。
 たとえば 木野まことの名前が最初は「地野まもる」で「スケバンの不良」という設定だったとか。まこちゃんがタバコを吸っているラフスケッチが紹介されている。絶句。あのロングスカートやガラッパチなしゃべり方は「スケバン」の記号だったのか。
 原作漫画をお読みの方は、初登場となる連載第5回で、まこちゃんが夜「おそくなっちったぜ」とビールの自販機で飲み物をかっているコマを憶えていらっしゃるであろう。私は長いこと「ビールも売っている自販機で、別の飲み物を買っているんだな」と自分に言い聞かせていたが、やはりそうではなかったのかも知れない。
 そして私が最もあぜんとしたのは亜美ちゃんの初期設定である。本当に開いた口がふさがらなかった。もう余計な解説とかはつけずに、武内さんのお言葉をそのまま引いておく。

マーキュリー。最初の設定は加速装置をもつサイボーグ/しかも第一部ラスト近くで敵にやられ、腕とかもげて死ぬ予定/しかし担当に大反対されて人間になり、セーラー戦士もだれひとり死なずにハッピーハッピー/しかしアニメでは、第一部ラスト、何やら死んだっぽくされまして、姫、ちょっと根にもってたりして(すぐに生き返ったけどけどね)。姫もね、やりたかったの。キャラがばんばん死ぬマンガ。

 原作のマーキュリーはポケコンとか使ってメカに強いんだが、それは理系の天才という意味のほかに、本人もメカだったということらしいのである!それから美奈子。

Vちゃん。この子は思いついた時から、名前も設定もほとんどかわらず、超お気に入り。動かしやすいので主人公にするつもりでネームも作ってた。しかし主人公の座をセーラームーンにうばわれるわ、連載していた雑誌『るんるん』はつぶれるわ、出る予定だったオリジナルアニメビデオは出ないわ、さんざんな目に合い、まるで『おしん』だ。

 前にも書いたように、武内直子は決して、主人公だった美奈子をじゃけんにしてうさぎをヒイキにしたわけではない。この発言で、武内先生がむしろ美奈子をとても可愛がっていたことが分かります。
 いやーこんな面白いことが書いてあると知っていたら、もっと早く新装版を買っておくんだったわ。まったく。

3. 原作&実写版:比較検討(その1)


 さて『恋文日和』が原作の忠実な映画化であるとするならば、実写版セーラームーンは、原作にけっこうアレンジを加えたという作例だ。だから実写版が放送されたとき、原作ファンのなかからも「原作に忠実っていう割にそうでもないじゃん」という声は出てきた。確かに原作にはなかった設定や人物はいろいろ出てくる。けれども(この日記をお読みいただいている方にはお分かりのとおり)私自身は、そのアレンジ部分を、実写オリジナルの要素と見なすよりも、むしろ原作の雰囲気を、実写版という器にふさわしいかたちで再現するための工夫として評価したい、という立場をとっている。つまり実写版こそ「原作を掘り下げ、そのスピリットを忠実に再現した映像化」だと誉めたいわけだ。今回は、そのあたりの問題を、原作の第一部、ダークキングダム編にあたる各話の内容と、実写版との対応関係に注目しながら検討してみたい。いままでに紹介した部分の繰り返しもあるが、ご容赦ください。まずは連載第1回から第5回までの原作のあらすじは次のとおりである。

【Act.1 うさぎ SAILORMOON】
うさぎがルナと出会い、セーラームーンに変身して、親友のなるちゃんのママに取り憑いた妖魔を退治する。タキシード仮面と出会う。
【Act.2 亜美 SAILORMERCURY】
うさぎは同じ十番中学の2年5組の天才少女、亜美と親しくなる。亜美の通うクリスタルゼミナールにダーク・キングダムが侵入し、亜美のような頭脳優秀な生徒を洗脳しようとする。それを阻止するために戦うセーラームーン。戦いの最中に霧が立ちこめ、霧の中からアイアンキング、ではなくてセーラーマーキュリーが登場。亜美が仲間の戦士であることが判明する。
【Act.3 レイ SAILORMARS】
火川神社前の停留所を通るバスが乗客もろとも失踪する行方不明事件が多発する。うさぎと亜美は調査の途中で、同じように事件を追っている霊感少女、火野レイと知り合う。このバスを通学に使っていた地場衛は事件に巻き込まれ、異次元に吸い込まれるバスの乗客を救おうとしてうさぎが変身する瞬間を目撃してしまう。事件の首謀者、ダーク・キングダム極東支部長のジェダイトと戦ううち、レイもまたセーラー戦士であることが明らかになる。マーズに変身したレイは一撃でジェダイトを倒す。ジェダイトさようなら。
【Act.4 Masquerade 仮面舞踏会】
世界最大の宝石産出国であるD国のプリンセスが来日する。プリンセスは記念に大使館で晩餐会を主宰し、その席で王室に伝わる幻の秘宝を公開するという。これがプリンセスで、秘宝が「幻の銀水晶」ではないかと大使館に侵入するうさぎたち、地場衛、そしてダーク・キングダムの戦い。前回倒された極東支部長ジェダイトに代わって、ダーク・キングダム北米支部長のネフライトが登場。
【Act.5 まこと SAILORJUPITER】
麻布十番に新しいブライダルサロンがオープン。しかしこれは結婚にあこがれる乙女のエナジーを吸い取ろうとするネフライトの企みだった。十番中学に転校してきたばかりの、見た感じは男っぽくて乱暴者だけど内面はとても乙女チックな少女、木野まことはその事実を知って怒り心頭。気がついたらセーラージュピターに変身して、フラワーハリケーンに雷落としの合わせ技であっさりネフライトを葬り去っていた。さらばネフライト。

 ここまでで、実写版の完全オリジナルストーリーと言えるのはAct.5ぐらいで、あとは原作のプロットに基づく映像化である。最初の3話はほぼストレートに対応する。Act.3(セーラーマーズ誕生篇)のバス失踪事件は少々スケールダウンしているが、まあこれは予算とかそういう事情もあるのだろう。Act.4も、実写版はだいぶ改変を加えているが、プロットは原作の流用である(第7回 参照)。原作Act.5、まこちゃん誕生篇の「なるちゃんたちがあこがれるブライダルサロン」という設定は、実写版Act.6では「なるちゃんたちがあこがれるバスケのタケルさん」へとだいぶアレンジされてはいるが「乙女心をもてあそぶ男は許せない」というまことの怒りを基本ラインにおいているあたりはちゃんと対応しています。
 これら最初の数話が放送されたころ、アニメファンから出てきた意見に、実写版はあれよあれよという間に戦士がそろってしまって、アニメに較べて慌ただしいなあ、というのがあった(ちなみにアニメは、第1話「泣き虫うさぎの華麗なる変身」、第8話「天才少女は妖魔なの?恐怖の洗脳塾」、第10話「呪われたバス!炎の戦士マーズ登場」、第25話「恋する怪力少女、ジュピターちゃん」と、徐々に戦士が見つかっている)。でも実はこのように、これは原作に忠実な展開なのである。
 とはいえ、確かに実写版の出だしはバタバタした感じがある。理由は簡単で『なかよし』は月刊雑誌なのだ。実写版はそれを週1回の放送で1話ずつ消化していったので、なんか早回しの映画を観せられているような印象になってしまったのだ。その意味では、雑誌連載と同時進行で、原作が進むのを待ちながら少しずつ新戦士を出していったアニメの方が、むしろ原作のペースにより近かったと言える。
 というわけで実写版は、原作のストックが貯まるまでオリジナルストーリーでつながなければならない、というアニメ時代の悩みはなくなった代わりに「月刊雑誌の連載だった原作をそのまま実写化すると、ものすごくハイペースになる」という別の問題をかかえていた。いま紹介した最初の数話については、まあ仕方がない面もある。すでにみんなが知ってるセーラームーンの話なのだから、美奈子はともかく、まこちゃんまではさっさと出しておきたい。スポンサーの意向とかもあったでしょうし。でも同じペースで原作漫画を1話ずつ実写化していったらどうなるか。全49話。原作の第49話というのは、足かけ5年続いたセーラームーンの最終シーズン『セーラースターズ篇』の第7話「スターズ7」である。つまり1年間でちびムーンやプルートやウラヌスやネプチューンやサターンやその他もろもろ、 ほとんど「今週の新戦士」という感じで次から次へ新キャラが登場して物語はめまぐるしく展開していくことになる。当然、無理ですよね。当初、実写版は前半がダーク・キングダム編で、後半は『R』のちびうさ篇(ブラック・ムーン篇)になる、というウワサがあったが、せいぜいそのくらいが限度だろう。

4. 原作&実写版:比較検討(その2)


 というわけで、ここから先、実写版もまたオリジナル脚本で新たな展開を見せていくわけだが、ひとまず原作に戻って、中盤のお話がどのように進んでいくかを見ておこう。

【Act.6 タキシード仮面 TUXEDO MASK】
地場衛が、夜ごと繰り返される「幻の銀水晶を、お願い」の夢にうなされたあげく「幻の銀水晶」の存在をマスコミに公表してしまったために、世間に「幻の銀水晶を探せ」ブームが起こる。その機に乗じて、ダーク・キングダム欧州支部長ゾイサイトは「幻の銀水晶研究家」の異園(いぞの)教授としてテレビのワイドショーに出演し、電波を通じてTOKYOじゅうの人々のエナジーを吸い取る。ことの重大さに気づいたタキシード仮面はセーラームーンに助けを求め、セーラームーンは強力なヒーリングの力で、エナジーを吸われた人々を元に戻し、力尽きて倒れる。タキシード仮面はその返礼として、セーラームーンに自分の正体を明らかにする。
【Act.7 地場衛 TUXEDO MASK】
タキシード仮面が地場衛であることを知り、それまでの反撥から一転、衛への恋心に揺れるうさぎ。一方、ダーク・キングダムでは、クイン・メタリアがいよいよ本格的な復活を開始し、ベリルは、レンタル・ビデオのチェーン店「ダーク」を拠点に、サブリミナル・ビデオで人々を洗脳し(いつもこんな話ばっかりだ)プリンセスを捜し出そうとする。現れたセーラームーンに襲いかかるゾイサイト。だがそのゾイサイトを一撃で倒してセーラーV登場。ゾイサイトもバイバイね。
【Act.8美奈子 SAILOR V】
セーラーVこと愛野美奈子は、自分こそプリンセス・セレニティであると宣言する。そして、今まで単独で調査してきた結果、一連の怪事件の背後にダーク・キングダムがいて、かれらは前世で月を滅ぼした宿敵であることを告げる。一方、ダーク・キングダムからは最後の刺客、中東支部長クンツァイトが登場。TOKYO中に大停電を起こし、セーラームーンをおびき寄せて襲うが、間に入ったタキシード仮面が一撃を受けて倒れる。
【Act.9  セレニティ PRINCESS】
タキシード仮面が倒れたショックのあまりプリンセス・セレニティとして覚醒するセーラームーン。「まぼろしの銀水晶」の輝きとともに戦士たちは前世の記憶を取り戻しはじめ、メタリアも力を増す。クンツァイトはひとまず、タキシード仮面の遺体を抱きかかえたまま退散。

 どこで区切っていいかよく分からなくなってきたが、とりあえずここまでを原作の中盤とします。原作Act.6は、すでにこの日記の第15回第16回で書いたように、実写版ではAct.9とAct.10にバラして使われていますが、以降はほとんど原作と実写版の対応関係はつけがたいほど、別の話になっていく。
 のですがしかし、まったく異なるストーリー展開に見えながら、実写版は「タキシード仮面の正体がばれる」「ヴィーナスがプリンセスを名乗る」「タキシード仮面がクンツァイトに倒され、ショックでうさぎがプリンセスの姿になる」「前世の関係が明らかになってくるが、うさぎと衛は離ればなれになる」という原作の要所要所は外していない。タキシード仮面の正体ばれと美奈子がプリンセスの名のりをあげる順序が違うくらいで、あとはきちんと順番どおりにポイントを押さえているのである。とりわけ、アニメには出てこなかった、タキシード仮面の正体を知ったときのうさぎの「なんで、気づかなかったんだろう」の名シーンを、より効果的なシチュエーションで再現してくれたのは嬉しい。
 加えて実写版は、このあたりから、陽菜や黒木ミオといったオリジナル・キャラクターに加えて、原作の、それもダーク・キングダム篇以降に登場する人物を思わせるキャラクターや設定を織りまぜてきている。例えば、まるで外部戦士のようにセーラームーンたちと合流しないヴィーナスとか、明らかに「実写版ちびムーン」であるセーラールナとか、暗黒のプリンセス、ブラック・レディの面影をもつダーク・マーキュリーとか。さらには終盤に出てくるプリンセス・ムーン。これはやっぱり破滅の戦士セーラーサターンなのではないだろうか。
 あるいは、実写版のAct.21あたりからまことと微妙な関係になり始める元基。もちろん原作では、二人は恋愛関係にならない。でもこれは、実写版の元基のキャラクターに、原作の浅沼一等を取り入れたのだと私は思っている。浅沼君は先輩の地場衛をすごく尊敬している麻布学園中等部の1年生で、アニメでは、確か『スターズ』にほんの少し出てきたくらいだったと思うが、原作では園芸サークルを通じて年上のまことと知り合い、男っぽいまことの女らしい本質に気づいて、純情一徹にまことに恋する少年である。

一 等「オレ、聞いちゃったんです。ネコがしゃべってるとこ。レイさんや亜美さんがつれさられたってどういうことですか!?まことセンパイの帯電体質って、衛センパイの力ってなんなんです!?みんな、人間じゃないんですか!?」
まこと「おまえはむかしのあたしの親友ににてるよ。まっすぐで正直で、いっしょうけんめいしたってくれたのに、あたしはなにもいわず、ここへひっこしてきてしまった……衛の力はサイコメトリーといって、手でふれてあらゆることを<感じる>能力なんだ。ふつうの人間にはない力だが、人間だよ、あたしたちも。あたしたちは、敵と戦う宿命をもつんだ。そして同じ宿命をもち戦うレイや亜美を、どうしても助けたい。どんなキケンなことでもこわくない。いつかおまえにも、たいせつに思えるヤツができたらわかるよ。それは友だちだったり、好きなひとだったり……」
一 等「まことさん!強いんですね、すごく。スゴイやみんな。オレも強くなりたい。男のオレが、まことさんのなんの力にもなれないなんて!オレに力があったら、守れるのに」

 そう言われたまことは、浅沼君の額に軽くキスしてやる。浅沼君はそれで参ってしまって「秘密は誰にも言いません」とか約束しちゃうのである。でもそれだけだ。まこちゃんは年下の男に興味がないみたいですね。
 私は原作の男性キャラのなかでは、この「オレに力があったら、守れるのに」とまことに告白する一等君が大好きで、まこちゃん、その気持ちに応えてやれよ、年齢や身長の差なんて関係ないだろう、と思ったものである。その一途さは、実写版の元基そのものだ。だから彼は実写版で元基の人格の一部となり、まこととめでたく結ばれたのだと勝手に信じている。
 さらに言えば『るんるん』の方に掲載された番外編「カサブランカ・メモリー」で描かれる、レイと父親の確執。漫画ではレイは父親に対して冷ややかな態度のままで、和解の兆しはおとずれない。ちょっと淋しすぎる。でも実写版はAct.34で、この親子の関係を救ってやったのだ。
 と、まあこのように実写版は中盤で、原作とはまったく違うストーリー展開のなかにも、原作ファン泣かせの名場面をばんばん出してくる。そこが良いんだよなあ、と私なんか思うわけですが、原作ファンの皆さんはどのように思われるでしょうか。

5. 原作&実写版:比較検討(その3)


 さて原作の終盤です。

【Act.10 MOON 月】
前世の記憶を完全なものにすべく月に翔んだ5人の戦士は、シルバー・ミレニアムの廃墟で、コンピューターによって再現されたクイーン・セレニティの立体映像に出会い、前世に起こった物語の全貌を伝えられる(日記第54回参照)。地球に戻った戦士たちは、クンツァイトと最終決戦の末、クンツァイトを倒す。クンツァイトもさようなら。一方、ベリルはメタリアの力を借りて、タキシード仮面=エンディミオンを甦らせ、手先としてうさぎの元に送り込む。
【Act.11 再会 ENDYMION】
初対面の元基に催眠術をかけて、元基の親友「遠藤」になりすましたダーク地場衛は、うさぎに接近して戦士たちの秘密基地を探す。衛とそっくりの「遠藤」に動揺したうさぎは、彼を信用しようとしてまことたちと対立する。が、その時すでに衛はクラウンの地下に戦士の基地があることを探り当てて侵入してきた。衛とともに、セーラームーンたちの前に初めて姿をあらわすクイン・ベリル。
【Act.12 敵 QUEEN METARIA】
クイン・ベリルと戦士たちの最終決戦。ベリルはセーラームーンをとらえるが、ヴィーナスは月のクイーン・セレニティから授かった聖剣でベリルにとどめをさす。しかしクイン・メタリアに支配されたままの衛=エンディミオンは、セーラームーンを連れ去ってダーク・キングダムの本拠地、北極Dポイントまで飛ぶ。それを追う戦士たち。
タキシード仮面からセーラームーンを取り戻そうとする戦士たちだが、ダーク化したタキシード仮面はものすごく強い。ルナの説明によれば、彼の体内には「幻の銀水晶」のかけらがある。クンツァイトに倒されてうさぎが涙を流したとき、うさぎの身体から衛の体内へと銀水晶の一部が吸収されたのだという。そのパワーをメタリアが悪の力として取り込んでいるので圧倒的に強いのだ。だからメタリアを封印するためには、まず衛を殺し、その体内にある「まぼろしの銀水晶」のかけらをうさぎの身体に取り返して、完全な結晶体に戻さなければならない。他に方法はない。意を決したセーラームーンは自ら聖剣でタキシード仮面を刺し貫くが、絶望のあまりそのまま自刃する。
【Act.13 決戦 REINCARNATION】
倒れた二人を、完全体となった「幻の銀水晶」が包み込む。しかしメタリアはその力を呑み込んでさらに巨大化する。各地に異常寒波が吹き荒れ、地球は暗黒化し、滅亡に向かう。だが銀水晶に包まれたうさぎと衛はまだ生きていた。戦士たちは、最後の望みを託し、プリンセスを目ざめさせるためにすべてのパワーを銀水晶に送り込んで、力尽きる。復活するうさぎ。そして衛も、胸にしまっておいた四つの石の輝きとともに甦る。クンツァイトたち四天王の願いがマスターを甦らせたのだ。衛の力を得て、セーラームーンはメタリアとの最後の戦いに挑む。
【Act.14 終結 そして 始まり PETIT ETRANGER】
セーラームーンが開放した幻の銀水晶の力は、メタリアを封印し、廃墟となった月の宮殿をも甦らせる。その力を受けた衛は、メタリアに暗黒化された地球を緑の星に戻す。月の宮殿で、甦ったシルバー・ミレニアムの新女王となったうさぎは、しかし月野うさぎとして地球で暮らすことを選ぶ。先代のクイーン・セレニティはうさぎに新しい変身コンパクトを与える。変身したセーラームーンのヒーリングの力で、倒れていた亜美・レイ・まこと・美奈子は甦り、またすべての地球の人々も、悪夢から目ざめたように息を吹き返す。
再会を喜ぶうさぎと四人。こうしてまた平和な日常が戻った、かに見えたが、レイは護摩の炎のなかに不吉な予兆を見いだし、うさぎと衛のデートの最中には空からうさぎそっくりの小さな女の子が降ってきた。

 というふうに、原作の話は第2部(アニメの『R』)へとつながっていく。
 クンツァイトに倒された衛が連れ去られ、そこで甦ってダーク・キングダムの手先となるという展開は、アニメの方で踏襲されている。原作やアニメのうさぎと衛は、お互いの正体を知り、前世の記憶を取り戻した段階で、わりとすんなり恋愛関係に入ってしまって、その気持ちは以降ずっと揺るがないから、そういうふうにして二人を引き離し、試練を与えるのである。
 一方、これまで何度も書いてきたように、実写版の終盤は、それぞれの戦士が前世の記憶を取り戻さないまま、前世の宿命と葛藤するさまを描きながら進んでいく。これだけは、原作とはまったく異なるテーマだ。うさぎと衛も同様であり、二人は前世ぬきで、月野うさぎと地場衛としてお互いの気持ちを確かめ合う。だから衛は意志を奪われてダーク化することなく、自分の意志でロンドンに行き、自分の意志で帰って来てうさぎに思いを告白する、という流れになる。そういう意味では確かにこの終盤の展開は「原作に忠実」とは言えないですね。
 でも、これも繰り返しになるけれど、そうやって、いままで原作やアニメで十分に描かれなかったうさぎと衛の恋愛物語を深く掘り下げてくれたところも、私はすごいなあと思ったのである。そしてその上で、メタリア化した衛をうさぎ自身が倒さなければならないという悲劇的な宿命や、最後にマスターを笑顔で送り出す四天王といった原作の忘れられない場面を、きっちり再現してくれている。それからムーンフェイズの時計。この時計は原作では第6話で、タキシード仮面としてセーラームーンを抱きとめた衛の懐からすべり落ちて、うさぎのものになる。それは戦いのせいで壊れてしまっているのだが、うさぎがプリンセスとなり前世の記憶を甦らせたとき「逆回りに」動き出すのである。そういう意味では実写版には必ずしも必要ないアイテムなのだが、やはりないと淋しい。それを「衛からうさぎへの贈り物」としてちゃんと出してくれるあたりも、やっぱり実写版はいいなあ。


 だんだん何を言いたいのか自分でも分からなくなってきたので今回はこのへんで終わりにしておきますが、原作とくわしく比較すればするほど、原作を尊重しつつ、しかも独自の視点で原作の世界を再構築して見せた実写版の深さというのが分かってくるし、それはまだまだ明らかにされてはいないのではないか、ということが書きたかったわけです。今週からまた再放送が始まります。次回はAct.36で、このへんから、そういう実写版ならではの「再構築」「再解釈」とは結局なんであるのか?というむずかしいテーマがつきまとう。なんて思ったりもしておりましたので、実写版最終クールの展開への覚え書きとして原作の流れをざっくりまとめてみた、という話であります。