実写版『美少女戦士セーラームーン』ファンブログ


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【第7回】北川景子はただいま勉強中の巻(Act.4)


 昨晩のCBCは「中日×ヤクルト」と「広島×巨人」の二元中継があって、キー局の「広島×巨人」の試合展開によっては延長の余波でAct.4再放送開始時間も午前3時台にずれ込む恐れがあった。だが広島球場は雨のため5回コールドゲーム引き分け。ついでに地元ナゴヤドームの中日は逆転勝ち、それから阪神は横浜に負け知らずの五連勝で貯金一だ。関西支部おめでとう。相手チームのファンの方には申し訳ないが、ことはすべて円満に解決した。さあAct.4だ。

 まずは訂正とお詫びだ。前々回の日記で、Act.3の最後に出て来たタキシード仮面に関して不満を言った。Act.1でもAct.2でも、彼はまず地場衛としてうさぎと出会ってから、次にタキシード仮面としてセーラームーンの前に姿をあらわす、ところがAct.3のラストでは何の前触れもなくタキシード仮面としてだけ登場し、黙って去って行く。こういうところはちゃんとパターンを踏んで欲しい、という趣旨だった。しかしそれは私の早とちりだった。あれは今回のAct.4でそのパターンを崩し、二人を急接近させるための伏線だったのだ。
 始まって5分もしないうちに、うさぎと衛は都会の雑踏のなかでぶつかる。このときの会話が「人混みで馬鹿みたいにはしゃぐなよな」「馬鹿みたいって何よ!」である。初めての「馬鹿みたい」「何よ」である。そうかこの会話はAct.4が最初か、今まで気がつかなかった、などと深夜に深く感動している私の方がよっぽど馬鹿みたいか。
 去ってゆく衛を見ながら隣の亜美に「友達?」と尋ねられ、ふくれっ面のうさぎは「全然!」と答える。ちなみに前回Act.3の最後では、去って行くタキシード仮面を見てマーキュリーが「あの人も、私たちの仲間?」と尋ね、セーラームーンが「ううん、分かんないんだけど……」と答えている。ちゃんと対応している。前回最後にタキシード仮面しか出なかったことに対するフォローを、ここで入れているのだ。

 しかも今回のメインの舞台となる仮装パーティー会場では、うさぎはクマの着ぐるみのコスプレ、地場衛はタキシード仮面の扮装という非常に変則的なかたちでもう一度ばったりぶつかる。「タキシード仮面の扮装をした地場衛」というのもおかしな言い方だが、「あこがれのタキシード仮面!」と思わず抱きつくうさぎを「何なんだこのクマは」と邪険にあつかう態度は地場衛であってタキシード仮面ではない。
 さらに最後の最後には、パーティー会場となった建物の屋上で、勢いあまって屋上から足を踏み外してしまうセーラームーンを助けようと、タキシード仮面が手をさしのべ、結局二人で真っ逆さまに落ちる場面が用意されている。しかしムーンスティックの不思議な力で、二人は光の球体に包まれてふわりと着地する。その球体のなかで、なんだか幸せな気分になって「♪セ〜ラ〜ヴィ♪」と歌うセーラームーンと、微笑みながらそれを聴くタキシード仮面。「助けてもらったな、結構、歌うまいんだな」「え、そんなあ」ここで初めて二人の間に情感の通った会話が交わされる。

ちなみに漫画とアニメでは、ここはムーンスティックがパラソルに変化して、二人はメリーポピンズ状態でふわっと着地することになるのだけれど、それを実写でやったらギャグになる。
 ともかく、今回のエピソードで、運命に導かれる二人の出会いに加速がかかり、出会い方のパターンも色々と変則的になって、心理的な距離も一気に縮まる。その前哨戦としてのパターン崩しが前回ラストの唐突なタキシード仮面の登場なのであった。恐れ入りました。。
 と言った舌の根も乾かぬうちに何だが、初放送を観たときの記憶では、Act.1から回を重ねるごとに実写版の世界に引き込まれてきたのが、このAct.4でちょっと失速した感じがあった。今回改めて観ても、うーんちょっとこれは、という感じがある。
 その要因はほぼ二つにまとめられる。(1)原作を変えた部分が、意味のある変更というよりも、予算不足などの物理的理由によるスケールダウンにしか見えないこと。(2)後半の戦闘シーンの弱さ。今回はこの二点に絞って考えてみたい。


(1)原作からのスケールダウン:今回のプロットはいちおう原作漫画第4話、およびアニメ無印第第22話「月下のロマンス!うさぎの初キッス」に対応する。原作およびアニメでは、D国(ダイヤモンド王国)の王女プリンセスD(プリンセス・ダイヤモンド)が来日し、記念に大使館で来賓を招いて仮面舞踏会が開かれる。しかもその舞踏会の場で、代々プリンセスに伝えられる「D国の秘宝」と呼ばれる宝石が公開されるという。この「D国の秘宝」がもしや幻の銀水晶で、プリンセスDこそプリンセスその人なのではないか、ということで、うさぎたちセーラー戦士、地場衛、それに敵側からはネフライトが、その仮面舞踏会に潜入する、という話である。
 それが実写版では、どこかの国の王女ではなく、日本のさる財閥令嬢の誕生パーティーで、ふだんは公開されない秘蔵の宝石「幻の青い水晶」が出席者に披露されるという設定に変えられている。その誕生パーティーも仮面舞踏会ではなく、もっとポップな仮装パーティーである。ついでに細かいことを言えば、アニメのネフライトはすでに失敗続きでベリル様に失望されており、今回しくじったらもう後がないという状態で乗り込んでくるのだが、実写版では、ジェダイトのヘタレっぷりにうんざりしたクイン・ベリルに召喚されて、赤毛のネフリンが意気揚々と初お目見えする回だったりする。
 ちなみに、原作の仮面舞踏会というのは、たぶん1980年代半ばの少年隊の同名ヒット曲から来ている。武内直子は地場衛=タキシード仮面のオリジナル・イメージは東山紀之だと言っていたはずだ。だから先日『喰いタン』で東山紀之と小池里奈が同じ画面に出たときには「タキシード仮面とセーラールナだ!」って思っちゃったぞ。おっきくなったなあ、小池里奈。

 すみません話を戻します。原作およびアニメのポイントは、迎賓館みたいな大使館で某国王女主催の仮面舞踏会が開かれる、そこでうさぎは、どこかの国のお姫様っぽい姿に変身して会場に潜入し、衛は衛でタキシード仮面の姿でやって来るというところにある。うさぎがお姫様の姿に変身すれば、それはつまり、まんまプリンセスである。その姿を一目見たタキシード仮面=衛は呆然とする。あれは夜ごと夢のなかで「幻の銀水晶を、お願い……」と自分に訴えるシルエットの女性、その人ではないか。思わず進み出てシャル・ウィ・ダンス?である。うさぎはあこがれのタキシード仮面が突然目の前にあらわれ踊りを申し込んできたので、瞳はハートマーク。二人はとても幸せそうに踊り出す。その光景はまさしくシルバーミレニアムの日々の再現。何かとても懐かしい、こんなことが遠い昔にあったような気分になった二人は、最後にキスを交わしてしまう。なんていい歳して少女漫画のあらすじ書いていることなんか、もう恥ずかしくないぞ私は!(何を怒っているのか)。

 実写版では舞踏会シーンなんて予算的に無理なのはわかる。いや、でもまだAct.4だ。思い切って予算を投入して、セットを組んで優雅な仮面舞踏会、やれなかったか。『仮面ライダークウガ』なんか第2話で教会のセットまるごと組んで最後に燃やしていたぞ。その結果「第3話以降の撮影ではロケ弁当も出なくなった」とはオダギリジョーの証言だ。とほほ。やっぱり無理か。仮面ライダーより貧乏みたいだしな。
 だから仮装パーティーへの変更は仕方がないとは思う。沢井美優に次々に豪華なドレスを着せてみせるテレティアSのファッションショーも、本当は原作どおりこういう衣装でうさぎがタキシード仮面と踊る舞踏会のシーンが撮りたかったんだ、というスタッフのメッセージと理解しておく。大財閥の令嬢の誕生パーティーにしては非常にしょぼい会場であるのも我慢しよう。しかしだからといってクマの着ぐるみでタキシード仮面に抱きつき、邪見にされながらうっとりするうさぎなんて、ちょっと自暴自棄なのではないだろうか?もう少しオリジナルのロマンティックな雰囲気を活かすような方策はなかったものか?



(2)戦闘シーンの弱さ:実はこれまでの各回は、ヴィジュアル的にはともかく、物語的にはうさぎ、亜美、レイが戦士として誕生するまでが話のメインで、最後に妖魔をやっつけるのは、まあオマケであった。だから大きいお友達としては、なるほどこのキャラクターをこう描いたか。これこそ私の求めるセーラームーンだ、と大いに喜んで、妖魔との闘いになったら「…………」と所々見なかったことにしてやり過ごせば良かった。しかし今回はバトルのシーンの担う役割が大きい。直視しなければならないのが辛い。
 実写オリジナルの妖魔の設定、それから闘い方、そういった構成自体は間違っていないと思う。つまり、前回はレイがうさぎと亜美に「仲間になったつもりはない」と宣言したところで終わった。そしてレイというキャラクターは、そう簡単に前言を撤回するような軟弱な性格ではないことも、前回できっちり描写された。しかしセーラームーンの話としては、だからと言ってレイをいつまでも単独行動させておくわけにもいかないので、今回でなんとか、彼女が戦士の仲間になる結末にもっていかなければならない。そのため、亜美とレイの対話や(これについては後で触れたい)、うさぎの天真爛漫で放っておけないほどのお馬鹿ぶり(レイを助けに来たつもりが逆にレイに助けられる)が、次第にかたくななレイの心を解きほぐしていく、という描写が用意されている。いるのだがしかし、それだけでは頑固者のレイちゃんを転向させる理由としてはまだ弱い。そこで、より説得力をもつ展開として、うさぎ・亜美・レイの三人が力を合わせないと倒せない妖魔を登場させ、その敵との闘いを通して、三人を結束させる、という手を考えたのだろう。そこで三体のサボテン・ブラザーズの登場だ。
 仮装パーティー会場があるビルの屋上でバトルが始まるが、このサボテン妖魔は三体を同時に一撃で倒さない限り、すぐに蘇ってしまうので三人は苦戦する。そこへ「♪セ〜ラ〜ヴィ♪」と流れてくるメロディ。さっき仮装パーティー会場のDJにうさぎがリクエストした曲だ。とっさのうさぎの提案で、美奈子の曲でテンポをとって同時攻撃……などという細かい展開の説明は、こんなオタクな日記を読んでる皆さんなら先刻ご承知だろうからもういいや。今まででセーラーVが一瞬も出てこない回はAct.2とこのAct.4。そこでAct.2では美奈子の曲を、亜美とうさぎを結びつけるきっかけにして、Act.4でもやはり同じ曲を、三人の結束を固める小道具に使う、という工夫もいちおう評価したい。

 そういう意味で、後半のプロット自体はそれなりに考えられていると私は思う。問題はアクションシーンそのものの弱さである。触手に自由を奪われたマーズを助けに駆けつけたうさぎが、クマの着ぐるみが脱げないで変身できず、かえってマーズに助けられる、という屋内バトルのおちゃらけは、アニメ版のテイストを少し取り入れたものだと思ってこれも我慢する。私はアニメの戦闘シーンをあまり好きではないのだが。しかし屋上に舞台を移しての闘いは、今回の物語のカナメである。ここがハードでシリアスに感じられないというのは、やっぱり困る。いつもいつもの引用で申し訳ないが、この段階での実写版の戦闘シーンは、専門家の分析によって「氷河期」と名づけられている。
 ただ、『一夜限りの特別番組 ラジオ特番「DJムーン」』のトークを聴かれている方ならご存じの通り、この戦闘シーンでは浜千咲が腰を痛め、北川景子はテスト撮影時に肩を脱臼して、迷惑になってはいけないから、と誰にも言わずに自分ではめて本番に臨み、撮影終了後に病院に行ったんだそうである。そういう努力に免じてもうこれ以上追求しない。


 以上、だいぶ文句を書いてしまったが、だからといってつまらなかったかというと、楽しかったですね。やっぱり寝ないで観て良かったよ。今回のAct.4再見で私が最も感じ入ったのは北川景子である。今よりもやや少女っぽい面影があってとても可愛い。いや違った。いや可愛いのは真実だが、それよりも彼女の芝居に対する取り組みぶりが心に残った。
 たとえばさっき少し触れた、浜千咲との会話のシーン。亜美はルナの指令で、あこがれのタキシード仮面にぼーっとしているクマうさぎを残してパーティー会場を抜け出し、この建物のどこかにいるらしい妖魔を探索している。いつの間にか猫耳メイド服コスプレから普段着に戻っています。そして、やはり妖魔の気配を察知して忍び込んだレイとばったり会う。「気をつけた方がいいわ」とだけ忠告し、さらに単独で捜査を続けようとするレイに、亜美は提案する。


亜 美「あの……仲間ってことじゃなくて、戦士同士として協力しない?」


  


亜 美「……妖魔には、人数多い方がいいと思うし」
レ イ「それは……まあ」
亜 美「レイさん……もしかして、仲間が怖い?」


  


レ イ「え?」


  


亜 美「ごめんなさい。ちょっと、分かるような気がしたから」
レ イ「そう……なのかな」(考え込む)


  


レ イ「友達とか、家族とか、いつかきっと壊れるから……今までずっとそうだったし」


 レイに話しかける亜美の想いはどのようなものか。彼女は、大好きなママみたいな立派なお医者さんになりたい、という想い一筋でずうっと優等生路線で生きてきたのだけれど、結局そのせいで、うち解けて話ができる友達ひとり作れないまま思春期を迎え、今は孤独を感じ始めている。しかし滅多に会えないママは、娘の微妙な心境の変化を知るよしもなく、励ますつもりで相変わらず「自慢の娘」「期待している」「がんばって」というメッセージを送り続ける。手本にすべき人がママしかいない亜美は、それを負担に感じながら逃れることもできず、期待に答えなくちゃ、友達なんか作っている場合じゃない、とますます自分を追い込んで優等生のカラに閉じこもってしまっていた。でも本当は、それは「ママのようになりたい」自分の気持ちを「ママのようにならなければ」という言い訳に変えて、友達を作れない自分の勇気のなさをごまかしていただけなのかも知れない。月野さんと友達になってみてそれが分かってきた。ひょっとして「レイさん」も、不吉な霊感少女と呼ばれて友達ができなかった孤独を、私にはこの力でやるべき使命がある、だから友達なんかいなくてもいい、と思い込むことでごまかそうとしているんじゃないか。だったら少し勇気を出して、仲間になってみれば、何か少し変わるかも知れないよ。亜美が言いたいのはそんなことだと思う。

 そう問いかけられて少しレイは考え込む。「仲間なんかいらない」という主張が、ほんとうは傷つくことを恐れて自分の心に張った予防線であることは、レイも無意識では理解している。だから亜美の言葉が心に触れる。半分は分かるし、半分は当たっている。ただ「友達とか、家族とか、いつかきっと壊れるから」というセリフのなかで、レイが考えているのはやっぱり家族だ。パパである。だから、最終的にはママとの絆を信じている亜美のことばに、残り半分のところで何かしら違和感をおぼえてしまう。亜美も亜美で、なぜレイがここで「家族」と口にするのかはよく分からず、黙ってレイを見つめる。微妙に気持ちが通じ合い、微妙にすれ違う。そのような心理の対比が、今後のエピソードにおける二人の関係への伏線となっている。
 ここでの北川景子の演技は、上手い下手で分類すれば、残念ながら「段取り芝居」に近い。相手のセリフを受けて、ためらう、はっとする、うつむく、という手順をなぞりながら演技しているのが、視聴者にもある程度見えてしまう。相手が浜千咲という、天性の演技力に恵まれた才能の持ち主であるだけに、よけいその印象が強い。あるいは最後に三人で力を合わせて妖魔を倒した瞬間、思わず嬉しそうにガッツポーズする、次の瞬間「あ、やっちゃった」という顔をしてちょっとはにかむ、なんていうのもそうだ。

 しかしそこが可愛い、いや間違えた、そこに嫌みを感じない。むしろ新人女優が初めからへんなクセをつけず、基本に忠実に、一所懸命に演技しているのを見る気持ちの良さがある。北川景子はただいまお勉強中なのである。
 このセリフで、なぜレイは躊躇するのか、はっとするのか、うつむいて考えるのか、背後にどういう心理の流れがあるのか、おそらく監督や脚本家からレクチャーを受けて、そういうことをひとつひとつ考えながら、彼女は演技を組み立てている。それがまだこなれていないから、視聴者にも段取りが見えてしまう。しかし、結局ヒイキの引き倒しになるのを承知で言ってしまえば、そうやって、下手をおそれず演技を初歩から学び、学んだことを自分のものにして、積み上げながら北川景子は着実にこのドラマのなかで成長してきたのである。それが今の彼女を築いているのだなあとしみじみ思う。やっぱりこの人は努力家だよ。
 良識ある大人はただの子供向け特撮ドラマと言うかも知れない。しかし今のテレビドラマの世界で、一年間かけて役を作り込むという修業のできる現場がどれだけあり、ひとつひとつのセリフの意味を考えるに価するしっかりした脚本がどれほどあるというのか。いきなりゴールデンタイムの役をとっても、昨今の1クール全11回程度のドラマではそんな学習は無理だし、しようとする人も少ない。しかし誰もが月9をうらやむ。そんななかで、与えられたチャンスに前向きに取り組み、自分の糧として成長した北川景子は、今は女優として確実にステップアップし、次のステージへと進んでいる。いまだに実写版への郷愁を断ち切れない我々にとって、それが去って行く後ろ姿に見えてしまうのは少々淋しい話だが、これからも前途を見守っていこうではないか。



(放送データ「Act.4」2003年10月25日初放送 脚本:小林靖子/監督:高丸雅隆/撮影:松村文雄)