実写版『美少女戦士セーラームーン』ファンブログ


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【第8回】「Leo16の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて浜千咲の亜美を愛するようになったか」の巻


 安座間美優の家では食事の支度は父親がしているそうだ。うちも同じである。それから子育てなどについても、私は父親としては平均以上によく関わっているのではないかと思う。そういう点ではめぐまれた職種なのだ。だから今でも参観日にはよく出るし、家庭訪問に来た担任教師の品定め、などという話題にも、別に違和感なく入り込める。主婦属性の高い日常を送っているので、そういうところでは、男だ女だという区別が意識に上って来ないのです。
 賢明なみなさんはもうお気づきであろう。前回日記のコメント欄で、当名古屋支部が、同志関西支部の性別理解について根本的な間違いを犯していたことが判明した。今その見苦しい言い訳をしているわけです。しかしいずれにせよ、実写版の支持層は年齢が上がるほど男性率が高い、だからこんな日記に毎回コメントをつけて下さるような方は成人男子に違いない、という偏見が働いていたことは事実だ。ではNakoさんのことはなんで女性だと分かったのか、と思われる方がいるかも知れない。実はごく最近、M14さんのところで、最近の公称スリーサイズによれば小松彩夏はB88だ、とかいうような話題があって、そのときNakoさんが「うらやましい、私なんか産むたびにしぼんでゆく」という趣旨のことを書き込んでいて、私は「ふーんうちの妻と同じだな。みんなそうなのか」ということでよく記憶していたのです(おいおいおい)。Nakoさんもこんな場所でこんなコメントを引用されてさぞや迷惑であろう。ともかく全方位に向かって謝罪するしかないな。ぽんたさんすみません、これを読んで下さっている女性のみなさん、すべて私が悪かった。しかし実写版の熱心な支持者に少なからぬ女性がいることを改めて知ってちょっと嬉しい。

 

 さて次回はAct. 5の再放送視聴レポの予定なんですが、連休中である。存分に夜更かしして、存分に書ける。ただでさえ長い日記がもうとんでもないことになるぞ、と思っていたら、ここへ来て連休中の私の身辺に複雑な事情が生じて(単に「家族サービス」とも言うが)次回の放送を鑑賞できない可能性が高くなってきた。それにAct.5については、いつもお世話になっている「M14の追憶」が、かつてかなりの回数をかけて詳しく考察していた。それ以上書くネタがあるのか、という気もする。しかし一方で、乗りかかった舟だ、ここまで来たら再放送ペースに併せて「いまさら全話レビュー」を目指そう、というヘタレな私には珍しい意欲も生じつつある。この意欲が仕事に活かせればなあ。
 ともかくそんなわけで、もし次の水曜深夜に名古屋にいない場合には、ビデオ鑑賞レポートを書くという反則技で対処することに決めた。今後も同じ方針だ。その場合、次回更新は週末ということになりますが、ひとつよろしくお願いします。

 


 ところで、Act.5についてはちょっと特殊な、しかしひょっとすると個人的かもしれない問題が絡んでいるので、今回は感想レポートに先だってそのことについて少し触れておきたい。ただそうすると、どうしてもセラミュの話をしなければならないのが、ちょっとネックなんですね。今日はなにかと弁解モードである。
 だから先に言い訳してしまうが、本当は私にセーラームーンミュージカルを語る資格はない。何しろ初代の大山アンザ(1993年夏-1998年冬公演)を生で観ていないのだ。もちろん、ビデオで観た大山アンザについて多少の感想はある。素晴らしい。さすが伝説の初代セーラームーンだけのことはある。ミュージカル女優としてはやはりかなりの才能なのではないか。けれども「月野うさぎ=セーラームーン」としてはどうか。だいたいそんなところだ。でも舞台というのは、生で観ていない人が安易に評価を下してはいけない世界だ。

 二代目の原史奈(1998年夏-1999年夏)にいたってはビデオすら観ていない。しかし綺麗だね原史奈。その端正な美貌はうさぎを演ずるにはクール・ビューティーに過ぎるかもしれないが、その分プリンセス・セレニティとかは誰よりも似合いそうだ。写真で見る立ち姿も決まっているし、機会があったらぜひビデオで観たい、と、かねがね思ってはいるのですがチャンスがなくて。
 ともかく、そういうわけで私にとってミュージカルの月野うさぎと言えば、そのトンパチなキャラクターで歴代最もうさぎ役がハマっていたとも評される神戸みゆき(2000年冬-2001年春)、そして若干12才でその後を継ぎ、セラミュを演じ続けるなかでうさぎの年齢とシンクロしながら素晴らしい成長を遂げた黒木マリナ(2001年夏-2005年冬)、この二人だ。ひょっとしてこれをお読みになっているセラミュな方々、「こいつ、甘いな」と思っているかも知れない。どうか笑ってお許しください。

 ローカルな話題で申し訳ないが、名古屋ではセラミュといえば愛知厚生年金会館が定番である。ところが2001年春公演は珍しく、確か愛知県勤労会館だったかな。ま、それはともかく、娘をダシにしてその公演を観に行ったのが、私にとっては最初で最後となった神戸みゆきのセーラームーンだった。ずーっと観たかったのだ。でも娘はまだ静かに舞台鑑賞できるほどの年齢ではなかったし、一人で行くのはさすがにどうも。
 セラミュはアニメ放送時と同じころ上演されていた諸作品がベストで、以降はその時代に築いた遺産の利息で食いつないでいたようなものだ、という意見がある。確かに大山アンザ時代のビデオを観ると、その意見も頷ける。初期にはストーリー構成もすごく緊密だったのが、後になるほどキャラクター頼みになってゆくのだ。つまり宝塚におけるベルばらみたいなもんだ、なんて例え、この日記を読んで下さっている方に通じるかな。ともかく、それでも初鑑賞の私は感激した。神戸みゆきはアニメのうさぎがそのまま舞台に飛び出してきたみたいだった。その後もテレビで、彼女が出るだけでその場がぐっと明るくなり、しかし同時に雰囲気がとっちらかってしまうのを観たりした。やはり天性のうさぎだなあ。『仮面ライダー響鬼』に出てきたときは嬉しかったぞ。ミュージカルムーンと実写版タキシード仮面の夢の共演だった。

 その次の夏公演を愛知厚生年金で観たときは黒木マリナだ。いささか主役としての華というかオーラに欠けるきらいがあったが、とにかく初々しく、はつらつとして、元気があった。しかもその後は回を重ねるごとにぐんぐん成長していった。若いって素晴らしい。黒木マリナ、私にとって『ラ・ソウルジャー』はあなたの歌と踊りです(年季の入ったセラミュのファンの方々は、ここで失笑していることだろう)。でもあれちょっと歌詞がエッチですね。「あらわにされた真珠」なんて、まだ娘らしさの残っていたころのあなたが歌うのを聴いてドキドキしてしまいました。
 一体何のことを書こうとしていたのだっけ。そうだ。つまりですね、私が体験した神戸みゆきと黒木マリナ、この二人のうさぎ時代にまたがって水野亜美=セーラーマーキュリーを演じていたのが、河辺千恵子(2001年冬 -2002年春)だったのです。そうそうこっちが本題だ。

 セラミュにおける歴代マーキュリーの本命は、大山アンザと共に卒業した初代の森野文子(1993年夏-1998年冬)だと言われている。ビデオで観ても分かるのだが、この人はかなりのシンクロ率で水野亜美=セーラーマーキュリーというキャラクターに同化していて、要するにいわゆる「はまり役」なのだ。そのイメージがあまりにも鮮烈だったために、以降は誰が亜美を演じても、もうひとつブレイクできない低迷時代が続いたと聞く。しかし私の観た5代目マーキュリー河辺千恵子は実に良かったね。先代の影などみじんも感じさせない、河辺千恵子の亜美がそこにいた。

 そう、それは河辺千恵子の亜美=マーキュリーだった。つまり亜美のキャラクターに入っていくというよりも、むしろ亜美を自分の側に引き寄せて演じていた。おそらくそのあたりに、森野文子の影を吹っ切ることができた理由があるのだろう。ただそれは、セーラームーンのような、各キャラクターに対する思い入れの強いファンがいる作品の場合、下手をすればかえって反感を買う方法論であり、コアなセラミュファンの反応がどうであったのかも、私は良くは知らない。でもおおむね好意的に受け入れられていたように思うし、河辺千恵子はそうやって亜美を演じ切る自信と才能をもっていた。私などは、わずか二回の舞台を観ただけで、それまでアニメや漫画を通して抱いてた水野亜美のイメージが、河辺千恵子によって完全に塗り替えられてしまった。だから彼女が2002年春公演を最後に卒業し、夏からは新たに若山愛美のマーキュリーとなっても、結局最後まで馴染めなかった。いやマナミンあなたが悪いんじゃなくて、河辺マーキュリーにすっかり洗脳されていた私が悪いのだ。

 2003年の秋に実写版が始まったとき、事前にあまり情報を得ていなかった私は仰天した。河辺千恵子がいるではないか。セーラームーンに帰ってきたのだ。そしてすぐに混乱した。原作やアニメでは別のクラスだったはずの水野亜美がうさぎと同じ教室にいる、それはいいのだが、二人いるのだ。本物の方がなぜか自分は大阪なるだと言っている。ニセ物はちらっと見たところIQ300の天才少女とも思えない内気な眼鏡っ子だ。これはいったいどうなっているのだ。なんてね。でも本当にそんな気持ちだったのだ。
 それでもAct.2の強烈な印象で、ひとまず私の混乱は去った。しかしだからといって「河辺マーキュリー洗脳プログラム」が完全に解かれたわけではなかった。Act.3で「一緒にお弁当食べようよ」とうさぎに誘われた浜千咲の亜美が、河辺千恵子の視線を気にするように「予習があるから」と言って屋上に行ったときには、やっぱりね、という想いが頭の中をかすめたものである。本物の亜美がいる以上、ニセ者としては屋上に逃げるしかないではないか。

 Act.5は、そんな混乱をかかえた視聴者(って私以外にどれくらいいたのか分からないが)に投与された治療プログラムである。この物語では、うさぎを軸に河辺千恵子と浜千咲が徹底的にフィーチャーされる。我々は否応なしに二人の亜美に直面させられ、そしてここでは浜千咲が亜美なのだという刷り込みを受ける。それでも抵抗する私のような重症者に、河辺千恵子は全編を通じてサブリミナル・メッセージを送り続ける。<河辺千恵子ノ亜美ヲ愛シテクレタふぁんノミナサン、私ハ舞台デ私ノ亜美ヲ演ジキッテ卒業シマシタ。今度ハてれびデ、大阪なるトシテ再ビせーらーむーんノ世界ニ帰ッテ来ルコトガデキテ嬉シイデス。河辺千恵子ノなるヲ応援シテクダサイ。ソシテ亜美役ノ浜千咲ちゃんヲヨロシク>
 最後のシーンで、河辺千恵子は「水野さん」を「亜美ちゃん」と呼び、うさぎも「なるちゃん、亜美ちゃんて呼んでる」と心の中でつぶやく。これがプログラム解除のパスワードだ。これで私の「河辺マーキュリー洗脳プログラム」は消去された。以降、私は落ち着いて浜千咲の演じる水野亜美の物語を追うことができるようになったのである、という、かなりビョーキなお話でした。