実写版『美少女戦士セーラームーン』ファンブログ


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【第58回】新春特別企画第2弾:セーラームーンはなぜあんな髪の色なのか?の巻


 J-GUIDEさんの人気投票なんだが、投票する以上は全員にしなくちゃいけないし(それでは人気投票にならないだろ)、そうすると全員分のコメントを用意しなくちゃならないし、どうしよう。各コメント2000字までって自分のルールを決めてこれから書いてみようとも思うが、字数制限あるのかな。

 

 それはともかく、前回、レイの黒髪のことについて書いたので、それにちなんで新春の談話(って何だ?)を続ける。髪の話だ。
 ハリウッドにおける「正統派美女」もしくは「主人公」の条件には「髪はブロンド」という項目がある、と思う。かつて『クレオパトラ』を演じて美女の代名詞となり、また二度のアカデミー主演女優賞に輝いた経歴をもつエリザベス・テイラーが、それでもなおハリウッドでは異端の人という印象をぬぐいきれなかった理由のひとつは、やはりあの漆黒の髪にあったのではないか。あるいは、日本などではほとんど神格化されているオードリー・ヘプバーンの評価が、海外ではそれほど高くもないという事実にも、そのへんのことが関係しているのではないだろうか。何だかんだ言って、マリリン・モンローのようなゴージャスなボディと豊かな金髪というタイプがハリウッドの理想なのである。だからみんな髪を金に染める。ハリウッドに進出した人気女優で、もともとブロンドなのに黒く染めている変わり者っていったら、ウィノナ・ライダーくらいだよな。あとクリスティーナ・リッチはもともと黒髪か、とか考えていくと、ハリウッドで黒髪でがんばる女優がいかに「異端」であるかがはっきり分かる。
 もちろん、だからといって北川景子は金髪に染めなきゃ正統派ハリウッド女優になれないぞ、なんてバカなことが言いたいわけではありません。今日のお題は少女漫画だ。

 

 日本の少女漫画の世界は、古くからこういうハリウッド的な、あるいは西欧的な美の基準にものすごく忠実であった。だからヒロインは大抵、金髪か、あるいは白黒画面が基本の漫画では白く抜かれている。たとえば『ベルサイユのばら』の主人公は、池田理代子によればオスカル、マリー・アントワネット、フェルゼンの三人だそうだが、この三人は決して髪を黒く染めては描かれない。主役だからだ。一方、主役とカップルになるアンドレのようなサブキャラクターは黒髪で描かれる。これは二人きりのコマになった場合、画面が白っぽくも黒っぽくもなりすぎないようにというバランス上の問題だろう。
 さらに言えば、「黒髪の女」(もしくは髪の色の濃い女)はしばしば悪役を振られる。ベルばらでは正統派ブロンド娘で心の正しいロザリーと、黒髪の性悪女である姉ジャンヌが対比的に描かれる。あるいは『キャンディ・キャンディ』のイライザとか。要するに、少女漫画の主役はブロンドである、もしくは、黒髪であってはならない、というお約束が、1970年代が終わるくらいまでの少女漫画にはあったのだ。これは物語の舞台を海外にするしないを問わないルールだ。庄司陽子『生徒諸君!』のナッキーは黒髪ではなかったはずだ。
 こういう法則は、70年代に少女漫画界に新しい波を作り出した萩尾望都とか竹宮恵子とか大島弓子とか青池保子あたりの人々によっても、わりとしっかり守られている。たとえば『ポーの一族』のエドガーとメリーベルは金髪だったし、『トーマの心臓』のトーマはその黒髪ゆえに特異な存在として作品のカギをにぎる。彼女たちは「24年組」と呼ばれ、少女漫画界に改革を起こしたとされるが、髪の毛のモードに関して言えばきわめて保守的である。そもそも、池田理代子や一条ゆかりのような、より正統派かつ保守的な少女漫画家たちだって、実は昭和24年(1949年)生まれだったりするのだ。
 もちろん、これがものすごく乱暴なくくり方であることは承知している。そうじゃない作品だってありましたよ。古くは『りぼん』に連載されていた巴里夫の『5年ひばり組』の主人公シンカンセンは黒髪だったと思う。それからスポ根の系譜は無視できない。浦野千賀子『アタックNo.1』における鮎原こずえと早川みどり、山本鈴美香(この人も昭和24年生まれ)『エースをねらえ!』における岡ひろみと竜崎麗香、どちらも、ヒロインのひろみやこずえの方が日本人らしい黒髪で、敵役というかライバル(でも後半は良き理解者となる)のみどりや竜崎の方が、外人のような髪をしているのである。竜崎(お蝶夫人)なんて、とても日本人の高校生には見えない。美内すずえの『ガラスの仮面』も同系統だ。これも一種のスポ根だろう。
 このような髪の毛のモードという問題を考える上で、1980年代の少女漫画界で最も重要な存在は松苗あけみではないかと思う。一条ゆかりの弟子らしく精緻なタッチの絵柄、しかしストーリーはとことん古典的な少女漫画といったテイストの作品を描いていたこの作家は、『ぶ〜け』に連載した『山田君と佐藤さん』そして大ヒットとなった『純情クレイジーフルーツ』で、学園ものの世界に新境地を開拓する。それらの作品は、ある意味でどれも「髪の毛」をテーマにしていた。たとえば『山田君と佐藤さん』は、ありきたりな「聖子ちゃんカット」だったヒロイン(黒髪)が、思いきってショートヘアになってから、それまでの引っ込み思案な性格を脱皮して独特のずぶとさを発揮する、という話だったし、『純情クレイジーフルーツ』では、主人公たちが通う私立丸の内女子高校の教頭先生が最大の敵役になる。この教頭は、女学校の生徒だった戦時中、自慢の美しい赤毛の髪ゆえに教師たちからいじめられたつらい想い出があって、その恨みを、教師となった今、生徒たちにぶつけているのである。だから校則の規定よりわずか数ミリ髪が長いだけの生徒でも、全校集会で壇上にあげて見せしめにハサミを入れてしまうというおっかない人だ。それまでの少女漫画界の常識的な設定をひっくり返して、「赤毛」が悪役で、黒髪がヒロインになる、というところにこの漫画の面白さと新しさがあった。
 しかもこの黒髪の主人公は、主人公でありながら、ちゃんと古典的な「黒髪の女」の性格をもそなえている。ハリウッド映画から『ベルばら』のジャンヌにいたる「黒髪の女」は、情熱的で、欲望が強く、性的に奔放で、男をたぶらかす、といった共通の属性をもっている。『純情クレイジーフルーツ』のヒロイン吉原実子もそうなのである。顔は一重まぶたと三白眼でめちゃくちゃ性格きつそう、そして実際かなり気が強いのだが、水商売系というか男好きのするタイプ(母親はバーの雇われママ)。だから女子校に入学したことがつまらなくてしょうがない。担任の小田島先生に気があるのだが、別の男にナンパされるとほいほいついていってしまったりもする浮気性、という、まあ主人公としては異色の設定だ。
 『純情クレイジーフルーツ』について少し詳しく書いたのは、この漫画の主人公たち四人組のキャラクター設定が、あるいはセーラー戦士に影響を与えているのかも知れない、と思うからである。といってもこれまた私の勝手な思いこみであって、武内直子が松苗あけみを読んでいたかどうかさえ、私は知らない。でも(1)長い黒髪とセクシーなラインをもち、情熱的だがめちゃくちゃきつい性格の吉原実子、(2)周りから「あの子だれ」と囁かれるくらいの美少女、とにかく可愛いくて栗色の髪をした桜田みよこ、(3)成績優秀、おっとりタイプのメガネっ子、文才もあって卒業後は少女小説家としてデビューしてもいる桃苗あけび、(4)背が高くて力持ち、陸上選手に選ばれるほどの身体能力を持ち、男っぽいルックスからみんなに「沢渡君」と呼ばれるけど、本当は可愛いものが大好きでお嫁さんになるのが夢という沢渡杏子……という4人のキャラクターは、うさぎを除く4人の守護戦士と非常によく対応するような気がするんですけどね。まあよくあるパターンと言えばそうなんだけど。

 

 まあしかし、こういうタイプはやはり例外的である。以降、高口里純『花のあすか組!』のようなルックス的によりリアルなヒロイン(黒髪でショートヘア)も、出てくることは出てきたが、少女漫画、それも低年齢層を対象とした世界では依然として、主役は「日本人でも金髪(もしくは栗色、白黒画面では白髪)」が主流だったと思う。そして武内直子の『美少女戦士セーラームーン』は、その中でもほとんど時代錯誤なくらい、少女漫画の古典的モードに忠実に描かれた作品である。ヒロインは月のプリンセスで、ゆえに金髪でなければならない。そしてプリンセスのダミーを演ずる影武者も金髪でなければならない。そうでないと、誰も彼女がプリンセスだとは信じない。そういう世界観なのだ。
 だからこれを実写でやるのは『生徒諸君!』を実写でやるのとは違う。『生徒諸君!』のナッキーが黒髪ではないのは、たんに少女漫画としての文法上のお約束を守っただけなので、ドラマにする場合には当然、実写のリアリズムの法則にしたがえばいい。つまり物語そのものは少女漫画的リアリティを離れても成立する。だから別にナッキーが黒髪でも問題はない。実際この作品は小泉今日子主演で映画になり(この間亡くなられた岸田今日子が母親だった。怖かった)あとテレビドラマにもなったが、髪の毛の色なんかこれっぽっちも問題にはならなかった。そういえば、実にどうでもいい話だが、80年代に制作されたアニメ版『生徒諸君!』の主題歌はつちやかおりでしたね。いや本当にどうでもいいことであった。
 けれどもセーラームーンの基本にあるのは、日本の普通の中学生の女の子が、変身して戦うセーラー服美少女戦士であり、かつ超古代に栄えた月の王国で非業の死を遂げたプリンセスの生まれ変わりであり、しかもそれを現世に伝えるのがしゃべる黒猫である、という、これはもう、普通のドラマではあり得ない、SFやファンタジーにすらならないお話である、それがシリアスでロマンティックな物語として成立するのは、身もフタもない言い方だが、少女漫画だからだ。だから主人公は日本人なのに金髪という漫画的記号を背負っていなくちゃならない。そういう少女漫画でしかあり得ない法則のなかで初めてリアリティをもつ、少女漫画のなかでしか成立しない物語が『美少女戦士セーラームーン』なのだ。
 このようにセーラームーンの場合、文字通りマンガチックな物語に「漫画内リアリティ」を与えているのが、そのヒロインが金髪であるという漫画的法則であったりする。うさぎが金髪だからこそ、荒唐無稽な話が説得力をもつのである。いやホントですって。だから黒髪ではどうしても駄目なのだ。そういう意味では、この作品はアニメ化が限度で、もともと実写映像化は不可能に近かったとも言える。
 それが何で実写化という企画になったかというと、ミュージカルの成功ということがあったと思う。ではミュージカルはなぜうまくいったか。実は私にはよく分からない部分もある。個人的に思い返してみても、麻布十番公園に神戸みゆきなり黒木マリナなりが、あの黄色いカツラでなんの釈明もなく登場してくるセラミュの世界は、やはり直視するにはかなり勇気が要ったし、受け入れてしまっている今、自分は家庭と仕事をもつ成人男子として何か捨てちゃいけないものを捨てたのかも知れないという後ろめたさもある。その居心地の悪さに耐えながら、何回も繰り返しビデオを観て、実際に公演にも足を運び、自分の心を開放できるようになるまでには、けっこう長い時間が必要であった。なぜそこまで努力しなければならないかという疑問を感じる人は、残念ながらセーラームーンミュージカルには向いていない。私も、河辺千恵子という強力な動機がなければ、そんな苦労はしなかったはずだ。で、そういう世界が、曲がりなりにも十年以上も広い支持を受けて存続したという事実は、正直、私には理解しがたいのだ。まあ主な客層は小学校低学年の女子と、その親ということになるのかな。いや客層がよく分かんないんだあれは。
 まあそのことは機会を改めて考えることにして、それでもセラミュが成功した理由を考えると、やはりうさぎたちが、ちゃんとあの髪の毛の色をしていたからではないかと思う。舞台の世界だったら、たとえば、新劇とかミュージカルとかオペラとか、それこそ宝塚のベルばらとか、金髪のカツラをかぶって演技する前例は多々ある。だから心理的な抵抗は、比較的少ない。ただセーラームーンミュージカルの場合、金髪ではない。うさぎの髪、あれはアニメと同じ黄色のカツラである。
 この「金髪ではなく黄色」っていうのは、かなり重要なポイントだと私は思うのだ。なぜならさっき挙げた演劇やオペラやミュージカルって、つまり役者は日本人だけど、役は外人ということで、だから金髪のカツラをかぶっているんだと、こちらも納得しながら観ているわけだが、うさぎって日本人なのに堂々と金髪なのだ。しかしあれは、少女漫画の世界で主人公であることを示す「特別な色」だから、リアルな金髪である必要はない。で、アニメと同じ真っ黄色のカツラ。これで、かえって舞台の上に展開する世界全体が、ものすごくマンガチックなものとして成立する。そういう効果があるんじゃないかと思う。

 

 すみません、せっかくの正月三ガ日なので、せめて元日と、もう一回くらいは記事を更新したいと思い、2日の晩から書き始めましたが、年賀の挨拶とか、子どもたちのカルタの読み手(というかレフリー)とか、思わぬ雑事に時間をとられ、後の時間はだいたい酒ばかり飲んでいたような気もしますが、小枝のネットテレビ出演を鑑賞する間もなく(笑)、とうとう3日の深夜0時を越えてしまいました。しょうがないのでそろそろ更新します。私が今回の記事でやりたかったのは、(1)「うさぎの髪の色の必然性を、少女漫画という文脈の側から読み解くこと」だったんですが、うまく言いたいことがお伝えできているかどうか。それに男なのでさすがに読んでいる量に限りがあり、少女漫画史的なことについて間違いがあるかも知れません。もしありましたらご面倒でもご指摘いただければ幸いです。
 で、それを踏まえて、いちばん言いたかったのは、実は(2)「沢井美優のセーラームーンの金髪は実に見事に決まっていて、一点の疑念の余地もなかった。それが実写版成功の第一の要因であった」ということです、でもこれについては、M14さんが語っていらっしゃいますし、くだくだ説明する必要もないかも知れません。それから(3)「Act.25のプリンセスが黒髪だった、あれはあれで良かったのか?」という疑問もあるのですが、こちらについてはまだ私なりの結論が出ていません。前世のシーンでもプリンセス・セレニティは黒髪のままですが、あれ、どうなんだろうなあ?
 という、またも中途半端な記事になってしまいましたが、一応、年始スペシャル第二弾ということで書いてみました。さあそろそろ仕事始まりますね。もう始まっている方もおられるか。今年もお互い、頑張りましょう。ではまた。