実写版『美少女戦士セーラームーン』ファンブログ


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【第400回】おつかれちゃん『悪夢ちゃん』そして2013年の巻


プリンセス、お疲れ様でございました。タマちゃんもな。

1. これで十分


失礼ですが新年のご挨拶は省略。どちらさまにおかれましても、本年もよろしくお願いいたします。
昨年末は、のっぴきならぬ事情とはいえ、半月ほどブログをお休みしちゃってすみませんでした。で、その間に『悪夢ちゃん』が終了した。改めて2012冬シーズンのドラマ視聴率レースを見ると『ドクターX』(平均19.10%)と『PRICELESS』(平均17.71%)が2強で、続く第2グループとして『MONSTERS』(平均11.93%)、『結婚しない』(平均11.83%)、『悪夢ちゃん』(平均11.53%)の3作品がつけて、その後ろに、驚くなかれ『匿名探偵』(平均10.46%)がいて、それから『TOKYOエアポート』(平均10.16%)と、ここまでの7作品が2ケタって感じ。ちなみに『悪夢ちゃん』と並んで私が応援していた『好好!キョンシーガール 〜東京電視台戦記〜』は、2%とか3%とか、そんなもんだ。
『悪夢ちゃん』の最終回(11.2%)をどう読むかは人によって違うと思う。8%まで落ちた『MONSTERS』が最後に13.4%という数字を出して頑張ったことを思えば、物足りないという意見もあるだろうが。私は、ウラに松本清張ドラマSP『熱い空気』(テレビ朝日)という強敵がいたことを考えれば、なかなか健闘したと思う。



松本清張の短編『熱い空気』は「表向きは円満そうな上流家庭の欺瞞を家政婦が暴露する」というコンセプトが面白くて、過去に何度かドラマ化されている。なかでも1983年の市原悦子主演『松本清張の熱い空気 家政婦は見た!』は、その後ながらく続いた市原悦子のヒットシリーズの原点として有名である(松本清張は、安易なシリーズ化に賛同せず、一作きりで原作クレジットから外れている)。それを今や視聴率クイーンで、しかも松本清張『黒革の手帖』にも主演した米倉涼子が演じるって言うのだから、これは手強い。実際『熱い空気』は18.6%を記録した。その真裏で『悪夢ちゃん』11.2%、立派じゃないですか。

2. Before you slip into unconsciousness


で、ブログ再開第1弾は、まず『悪夢ちゃん』レビュー完結編からいこうと思ったわけだが、でもこれ、やっぱり難しいや。なにしろ最終回が怒濤の展開で、ここまで放りっぱなしと思われた初回からの伏線を突如パタパタと回収して、挙げ句の果てに、ほとんど伏線を張っていなかったサプライズまで幾つかオマケにつけてくれるとは思わなかった。それを紹介しちゃうと、未見の方にとっての魅力は半減だ。最近はHDD録画保存というスタイルも普及しているから、正月休みにまとめて録りだめした番組を観ようと思っている向きもいるのではないか。詳しく物語の中身を追うのは止めにしておきます。



『悪夢ちゃん』は、ジャンルとしては「(SF的アイデアを投入した)広義のミステリ」ということになるのだろうなぁ(自信がない)。未来の凶事を知らせる予知夢を見る少女がいて、認知神経学者の祖父が、その夢を映像化する装置を開発する。そして担任の先生が、装置に映し出された悪夢の意味を読み解いて、悲劇を未然に防ぐ。
少女はなぜ予知夢を見ることができるのか。オープニングのナレーションによれば「その少女の無意識は、他人の無意識とつながることができた。そして少女が眠るとき、その魂がめざめ、他人の不吉な未来が悪夢となって現われるのである」ということらしい。しかし「他人の無意識とつながる」ことが未来の予測へとつながるって、それはどういう理屈なのだろう。第10話のラストで悪夢ちゃん(木村真那月)は意識を失い、そのまま最終話(第11話)まで昏睡状態が続く。そんな孫の姿を見て、祖父の古藤万之介(小日向文世)は「結衣子は無意識の世界に行ってしまったんだ」とつぶやく。「どういう意味?」と問いかける彩未(北川景子)。万之介は説明する。


  


万之介「結衣子はいつも、夢は外からやって来ると言っていた。夢とは人間の無意識だ。もしかしたら人間の無意識というやつも、我々の外側にあるのかも知れない」
琴 葉「それじゃあ、心が外側にあるっていうことになりません?」
万之介「そうかも知れない。我々の外側に人間の無意識のかたまりがあって、我々の心は常に、そこから影響を受けて生きているのかも知れない。結衣子はその無意識にアクセスすることができたわけだから、とうとう意識の中で生きることがつらくなって、夢の中に行ってしまったのかも知れない。結衣子は自ら望んで、目覚めないのかも知れない」


  


彩 未「無意識の世界を選んだってこと?」
万之介「このまま眠り続ければ、現実にいる結衣子の身体は、滅びるだけだろう。結衣子の魂は無意識の世界に行った。


  


個々の人間の心の世界は、無意識という深い地下水脈で他の人間とつながっていて、悪夢ちゃんは何かのキューが出ると、本人の意志とは関係なく、その地下水脈に引きずり込まれる。そして特定の他人の心の深層にアクセスしてしまう。しかもその地下水脈は、他にも様々な、あらゆる人々の魂の情報が縦横に行き交う「人間の無意識のかたまり」なので、そこに入り込むことで、無数の人間の様々な思いや行動の集積として、未来にどういうことが起こりうるかが見えてしまう。そういうことかな。つまりユング心理学のパロディだね。神話や伝説に出てくる空想上の生き物たちが、けっこうむりやり夢の中に登場していたのもそういうこと。


  

元型論

元型論

3. こういうのをオフビート感覚というのだろう


第1話を観終えた段階では、悪夢ちゃんの見る謎めいた夢の意味を、彩未先生が絵解きして真相にたどりつく謎解きミステリが毎回のエピソードの骨子となって、加えて、主人公の彩未先生の「過去の秘密」がシリーズ全体を通じての謎として設定されるんだろう、と思った。みなさんもそう思いませんでしたか?でも第3話でそういうパターンがあっさり崩れた。崩れたといっても、テコ入れとか路線変更的な印象はぜんぜんなくて、初めから計算されていた感じであった。何が計算されていたかというと、つまりその定石崩しが、後半けっこうむちゃくちゃな展開になっていった物語を、視聴者をあきれさせず、引っ張っていくための布石になっていたところが、スタッフの計算どおりだったのではないか。
ともかく『悪夢ちゃん』は、設定や画面のあっちこっちに「それは無理!」と断言したくなる突っ込みどころがあって、しかも話が進めば進むほど、そういうポイントが増えていった。大家さんもいろいろ書いているが、たとえば夢のデータを取らなければならないとはいえ、溺愛している孫娘に、毎晩、巨大なヘッドセットを装着させるお祖父さんとか。



こんなもの毎晩つけて寝たら私だって悪夢を見そうだ。
あと、自分にも予知夢を見る能力があることを知ってから、彩未は行方の分からない教え子を探すために、TPOをわきまえずに仮眠を取る。ここまでは意図的なギャグなんだけど、しかし「生徒を救わなくちゃ」と気がはやっている状態で、化粧も落とさずパジャマも着ず、保健室のベッドにガバッと寝て、それで寝られるものかと思う。


  


校 長「武戸井先生、どうでしたか?」
彩 未「場所の特定までは無理でした」
一 同「ハァ?」
彩 未「琴葉先生、ちょっと保健室お借りしていいですか」


  


琴 葉「どうするんですか?」


  


彩 未「ちょっと仮眠します」


  
  
  


でも次のカットでは、もう夢の世界に入っている。
それに、そもそも彩未は、自分自身が記憶喪失である(少女時代の一時期の記憶がまとめて欠落している)ことも自覚していなかったのである。いわゆる「新本格」系統のミステリ小説にありそうな設定だが、でもタキシード仮面が、自分の記憶の欠損に不安を感じるあまり、泥棒行為に走っちゃったことなんかと較べると、たいそう呑気な話である。



でも、第3話から後、視聴者は、このドラマには安心して鑑賞できる「お決まりのパターン」がないことに気づく。しかも回を追うごとに話の展開が加速度的にスピードを上げていくもんだから、我々も細かい突っ込みどころにいちいち構ってもいられなくなってきた。いや構うのだが、それも意図的に仕組まれたギャグとしてサックリ楽しむ程度にしておいて、しつこく拘泥せず、常に我々の目線の斜め上を疾走していく物語を追うようになったのだった。そういう意味では実によく計算されたシリーズ構成だったと思う。
最終2話も、今から思い返すに突っ込みどころ満載ではあったが、なにせネタバレになるのであまり書けない。ひとつだけ挙げると、第10話で、誘拐された子供たちが早朝の学校に戻ってくるシーン。誘拐された児童の無事を祈りながら、朝までまんじりともせず待ち続ける先生たち。しかし全教員がいつもの服装のまま、職員室のいつもの定位置で徹夜する必然性がどこにあるのか。このあと授業があるというのに。



でもスベりがちな熱血教師の麦山先生(岡田圭右)が「少し空気入れ替えますか」と職員室の窓を開けたところ、明け方の学校正門から入ってくる子供たちの姿が!



校庭で感動の再会。このテレビ的で分かり易すぎる画に持っていくために、職員室に全教員をスタンバイさせておいたのである。

4. Anniversary Year



ちょっとしりきれトンボだけど、『悪夢ちゃん』についてはこのくらいにしておく。さて今年は2013年、ついに実写版放送10周年、沢井美優ブレイクの年である。
つい最近も話題にしたが(ここ)実写版セーラームーンは、そもそも那須博之監督による「モーニング娘。主演映画」として企画された。おそらくアニメ版の放送10周年を記念して2002年に公開される予定だったと思われるが、結局は2003年にテレビシリーズとして実現された。
そして昨年2012年7月には「セーラームーン20周年記念プロジェクト」として新たなアニメ版の制作が発表された。それが今年2013年にはお目見えするという話なんだけど、これもたぶん、1年ぐらい遅れるんじゃないでしょうか。ていうか、本当に実現するのかね。
実際、7月の記念イベント(【第378回】参照)の情報としては、およそ1年後、2013年夏ごろの公開を目指していること、ももクロが主題歌を歌うこと、その程度しか伝えられていない。そもそもテレビシリーズなのか劇場版なのかOAVなのかも不明。あとは三石琴乃と古谷徹は、イベントでは成り行きで、出演するようなことを言っていたが、その後の報道では「未定」となっている。
そんなわけで当ブログではこのニュースが伝わった時点で「この新作アニメの話、ホントは具体的なツメが出来ていないままの見切り発車じゃないか?」と心配していたわけだが、案の定というか、その後すでに半年近く経ったけど、なぁ〜んの続報もない。そればかりか、百日紅さんがコメント欄で教えてくださった「2012年10月より月1ペースで、雑誌連載時のカラーページを復刻、さらに書き下ろしを加えた愛蔵版コミックス全10巻(A4版箱入りボックスタイプ)が刊行開始」という話も、その後まったく音沙汰がない。新年早々ですが、私はすでに、すくなくとも今年中の新作アニメ版公開は無理なんじゃないかと後ろ向きに考え始めている。ももクロの主題歌だけ先に出ちゃったりして。


かなり適当なコスプレのみなさん


ももクロのスタッフは、プロレスのギミックとかに関してはなかなかマニアックだが、こういうコスプレになると、まるでダメですね。


それはともかく、どうも新作アニメは間に合わないのではないか。それなら、穴埋めに実写版を地上波で再放送して欲しい。オンエア10周年記念だし……ということが言いたかったのである。
本当だったら『仮面ライダークウガ』(2000年)の終了後に、第1話と第2話をベースに、未使用シーンも復活させて再編集した「特別編」みたいなものが望ましい。でも、高寺プロデューサーの『クウガ』は、まだ液晶大画面テレビがたいして普及していなかった時代に、いち早くハイビジョンカメラで撮影して、それを当時の地上波の画質に落として放送していたという先見の明ある作品だ。だから今後あらためてマスタリングしなおしてブルーレイで出しても意味がある。我々の実写版の場合、フィルム撮りではなく普通のビデオ撮りで画面比4:3なので、ちょっとね。だから「特別編を」なんてゼイタクは言わない。普通に地味に再放送してもらうだけでいい。それに、この再放送を機に、新たなファンを獲得して、なんてことも、今回に関しては私は思っていないんだ。同窓会でいい。どうもこのたびの20周年記念イベントは、かつてセーラームーンに夢中だった世代に向かって行われるべきもの、という気がするのだ。



たとえば、ご存じの方も多いと思うが、最近バンダイから発売された「ママのためのプリキュア変身コンパクト」というのが大評判で、ツイッター方面では、いい齢したアラサーの女子が(すまんなあ、流れとはいえこんな呼び方で)「ぜひセーラームーンでこういうのを出してくれ」と次々に声を上げて、それで「手製のセーラームーンコスメ」を作っちゃったりした人もいるんだそうだ(ご存じない方は、この記事をお読みください)



ここに今回の20周年記念プロジェクトのメイン・ターゲットがある、と私は思う。三石琴乃さんだって、ネットで見かけた記事の中で、そういうことをおっしゃっていた。



新アニメでも三石さん、古谷さんが声を担当するかどうかは現時点では未定だが、三石さんは次のように語った。「去年東映アニメのプリキュアでハミィというキャラをやっていたとき、『本当にセーラームーンを見ててそういうのを作りたくて東映アニメに入った』と涙を流してくれるスタッフがいたんです。セーラームーンを好きなまま大人になった人たちが新作を見る。制作する私たちは、真摯に、心を込めて、前作よりもパワーアップする気持ちで取り組まないといけない」
   (『ITMediaニュース』2012年7月9日


記事の方で、新作に三石さんと古谷さんが参加するかどうかは「現時点では未定」と書かれていながら、三石さんのコメントは「制作する私たちは、真摯に取り組まないといけない」と、すでに参加する気まんまんで、このあたりの足並みの不揃いさ加減に、改めて不安にさせられる文章だが、それはそれとしてさすが三石琴乃、「セーラームーンを好きなまま大人になった人たちが新作を見る」と断言するあたり、今回の新作のニーズを正確に見きっているなぁ。


というわけで、今年のアニバーサリーは、壮大な「内輪の大盛り上がり」が理想の姿だと私は思う。実写版10周年も「この機会に実写版セーラームーンの再評価を」とか野暮なことをいうのはよしましょう。当時から観ていた人、あとからファンになった人、とりあえずこのドラマが好きな人だけを対象に、それ以外の需要拡大を目指すようなことは考えずに、今年の私はブログを書く。でもできれば沢井美優の需要がもう少し増えてくれればいいんだけど。
というわけで初っぱなから迷走する記事となったが、今年もよろしくお願いします。