実写版『美少女戦士セーラームーン』ファンブログ


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【第198回】ライダー脚本家降板劇に思ふの巻

 

泉里香ブログが開設しましたね。私が初めて訪問したときには、すでに3名が読者になっておられた。ホント、この人たちってヒママメだよな。
さらにNakoさんのご活躍により、北川景子さん主演の時代劇が、2010年公開予定の『花のあと』であることも判明した(原作:藤沢周平、監督:中西健二、共演:甲本雅裕、佐藤めぐみ)。これもみなさん「M14の追憶」でご存じですよね。そんなわけで、実写版周辺は、けっこう明るく盛り上がった今週であった。
が、その反面「會川昇、諸般の事情で『仮面ライダーディケイド』の脚本(メインライター)を途中降板!」という暗いニュースもあった。私はそれを「黒猫亭日乗」で知って、そこからのリンクでquonさんの「PARALLEL LINE」を読んだ。
あと幾つかの特撮関係のサイトやブログを観てまわったけど、結局この2つのブログに書かれていた以上の事はあまり分からなくて、考える材料はほとんどなかった。それでもここ数日、このことばかり考えていたので、実は他に書くネタがない。というわけで、今回は會川昇降板問題について少し書いてみる。
いや、しかしうちはセーラームーン原理主義のブログなので、會川さんがどうこうという話は直接出てきませんが。

1. プロデューサーは細部に宿りたまうか?


ちょうど2年ほど前、中部地区限定の再放送が終了したとき、私は最終回レビュー(第81回)で、以下のようなことをダラダラと書いている。

  1. 一年間、再放送を観ては各話の感想を書いてきたが、このブログでは、主として脚本家と監督のことばかり書いて、プロデューサーについてはほとんど言及しなかった。
  2. なぜかというと、脚本家や監督と違って、プロデューサーの意見や個性は、作品のどこにどういうふうに発揮されているのか、よく分からないからだ。
  3. それに白倉プロって、そんなに自分の意見をゴリ押しするような人ではなくて、現場の作家たちの自由に任せる部分が多かった感じがする。
  4. だから一年間レビューをやりながら、一度も「白倉伸一郎」の名に触れてこなかったが、Final Actに至って、やはりその存在を意識せずにはおれない。

ちょっと補足っぽく書き足しておく。
たとえば米アカデミー賞の「作品賞」のオスカー像はプロデューサーに渡される。脚本家は脚本を書き、監督は役者を演出し、現場を仕切るが、そういった一切合切を含む作品全体のトータルプロデュースは、その名の通りプロデューサーのものだ。だから実写版セーラームーンを「作品」として語る場合には、本当は白倉伸一郎をメインに語らなきゃいけない、という見方も成り立つ。
ただ、実際にキャラクターを動かし、台詞を書く脚本家や、俳優たちに演技をつけ、映像を作る監督やカメラマンといった方々の仕事ぶりならともかく、プロデューサーの作家性がどこでどう発揮されているかということは、素人目にはなかなか分からない。おそらくプロデューサーの意見やアイデアは、ストーリーやら何やらを考える会議や、脚本家に書き直しを命じる段階で発揮されるものだろう。だから完成された撮影台本には、すでに小林靖子的な要素ばかりではなく、白倉伸一郎の個性が混ざりこんでいるはずだ。でもそれを「ここがプロデューサーの意向で書き直された部分だね」とは、簡単に識別できない。当たり前の話だが。
もちろん、さっき挙げた黒猫亭さんやquonさんのブログのように、あれこれ情報を駆使して、平成仮面ライダーシリーズなどに通底する「白倉テイスト」とは何か、それなりにきちんと把握したうえで議論しているサイトもあるが、私にはちょっとそこまでの見識がないんだよね。私の知っている範囲で、白倉伸一郎の名が「構成・演出」としてクレジットされている唯一の作品は、小学館の雑誌で応募するともらえた全員サービスビデオ『いっしょにおどろう! セーラームーン・スーパーダンスレッスン』だが、これで白倉さんの作家性はつかめない(笑)。
それに、白倉プロデューサーって、高寺成紀(現:高寺重徳)との対比で、わりと穏健派という印象がある。『仮面ライダークウガ』の高寺プロデューサーって言えば、第2話の教会のセットで早くも全体の予算を使い尽くしちゃったとか、脚本家に何度も書き直しを要求したあげく、スケジュールが遅れて総集編の回が増えたとか、ライダーの究極変身フォームを出すのを最終回まで引っ張って、玩具を売りたかったバンダイを怒らせたとか、とにかく武勇伝には事欠かない方だ。その点、白倉さんって、自分の主義主張を無理して押し通さず、そういうスポンサーや上層部の意向もきちんと受けるし、かといって脚本家や監督になにかゴリ押ししたという話も聞かない。非常にバランス良く作品を管理・運営していく人という印象がある。
そういう意味で私は、実写版セーラームーンって作品は「小林靖子の書いた物語を田崎・舞原・鈴村・高丸・佐藤監督たちが映像化した作品」と見なして、プロデューサーはさしあたって無視しても、まあいいか、と思って、再放送レビューを書き続けたわけだ。

2. Final Act Revisited


でも後半は、そうも言っていられなくなった。具体的に言えば第4クール、プリンセス・ムーンが登場してから最終回までの間に、それまで慣れ親しんだ「小林靖子の書いた物語」のなかに、そうではない要素がどんどん入り込むのを強く感じるようになった。前半からの流れで言えば、このお話は、少女たちが強い意志をもって運命に挑む戦いのドラマのはずだったんだが、Act.48あるいはFinal Actには、それとは全く逆の、個人の意志などあっさり呑み込んで怒濤のごとく崩壊する、叙事詩のような神話的悲劇としての側面が色濃く表れるようになっていった。それで私はようやく、白倉伸一郎という人のことを真剣に考え始めた。
まあそんなわけで、あまりアテにはならないんだけど、私の印象では(a)「戦士たちが前世の運命を変えるために戦う」という、近代ドラマ的な部分が小林靖子的な要素で、(b)の「運命は避けられずプリンセス・ムーンが暴走して星が破滅」というギリシャ悲劇的な部分は白倉伸一郎のテイストなんだろう、と見当をつけたわけです。小林靖子バージョンでは、うさぎは、仲間たちの友情の力を借りて、自分自身の前世の人格(プリンセス・ムーン)を浄化して星の破滅の危機を回避するはずだったのではなかったろうか。それなのに「お前こそ災いをなす者、大いなる悪だ」というベリルの予言どおりにプリンセスが暴走し、星の破滅が避けられなかったのは、それが白倉プロデューサーの意向だったからだろう。だいたいそんなふうに考えたのだ。
だいたい小林さんは、Act.47で愛野美奈子を死なせることにもかなり抵抗があったようだ。でもこれもプロデューサーからの要望だったので、受け入れざるを得なかった(推定)。そういう意味では、Act.47あたりから、小林靖子のフラストレーションは、かなり溜まっていたんだと思う。最終回のプリンセス・ムーンの退場の仕方がどうにも釈然としないのは、そのへんの無理が最後にたたって、小林先生にも、プリンセス・ムーンというキャラクターを、うまく動かすことができなくなっていたせいではないでしょうか。
ただ、最後の最後にそういう不協和音がほんの少し響きはしたが、全体的に見て、実写版セーラームーンにおける白倉伸一郎と小林靖子のコラボは、かなりうまくいったと思う。ゴールイン直前にわずかに歩調が乱れたけど、一年間の長丁場をよくぞ二人三脚で走り抜いたものである。そしてこの自信が『仮面ライダー電王』の大成功をもたらしたのだと、私は信じています。
電王の終わり方も、まあSFというか、タイムトラベルテーマの作品としてはけっこう噴飯物なんだけど、実際に見ていると意外とそういう不満を感じさせない、すっきりした後味になっている。そのへんの印象について、黒猫亭さんは次のように書いている。

小林靖子が「電王」を何とか成功裡に完遂出来たのは、これまでの経験から白倉PDに合わせると謂うか、自身とはまったく異質な白倉イズムにおいて許容可能なラインが何処にあるのかと謂う経験値が上がってきたからだろうし、白倉PDのほうでも小林靖子が「身内」になったからこそ、何だかよくわからないけれど任せておいても大丈夫だろう的に小林靖子の創案を肯定する気持ちになってきた、と謂う経緯がある。

小林靖子は最近のインタビューで、『仮面ライダー龍騎』の時は、メインライターの自分も知らない間に、井上敏樹に脚本の発注がどんどん出て、やや疑心暗鬼気味だったというような意味のことを語っていた。つまり『龍騎』の段階では、まだ白倉伸一郎としっかりした信頼関係は築けていなかった。セーラームーンでやっと、白倉プロデューサーとつきあう極意をつかんだのでしょう。だから上の引用文の「これまでの経験」という部分を、より限定して言えば「実写版セーラームーンの経験」ということになる。
だからちょと声を大にして言いたいんだけど、『電王』ってのは、実写版セーラームーンの経験と反省があればこそ、あれだけのヒット作になったんだよ。

3. 交替要員だったのかも


だんだん何を言いたいんだか分からなくなってきたので、話を戻す。
今回の降板劇の背景についてはよく分からないが、少なくとも直接の原因が、脚本家と白倉プロデューサーとの確執にあることは間違いないらしい。基本的には「ソリが合わない」という、わりと月並みな理由らしいんだが、一部のウワサによれば、これまで脚本が張り巡らせた伏線を台無しにするような終わり方を白倉さんが要求して、會川昇が納得できなかったせいだ、とも言われている。ここのところに私は一番興味をもった。信憑性があるんだかないんだか、分からないのだが。
実写版のファンなら「実写版セーラームーンは当初、前半2クールがダーク・キングダム篇で、後半2クールはちびうさ/ブラック・ムーン編(つまりアニメの『R』)になる予定だった」というウワサ話を聞かれた方もいらっしゃることと思う。もちろん私も真偽のほどは知らない。ただ、実際の作品も、Act.26で、ちびうさならぬセーラールナ登場、Act.28でダーク・マーキュリー篇が終了と、このへんで大きな区切りを意識しているし、あり得ない話じゃないな、とは思う。
しかも、そのタイミングで脚本家が交替するはずだった、というウワサも、本放送のころから語られていた。つまり小林靖子は、前半ダーク・キングダム篇のメインライターとして起用されたのであって、後半は井上敏樹か誰か知らないが、別の作家が後を継ぐはずだった。ところが結局、小林靖子が全話受け持つことになったんだそうだ。
この話、私は眉唾だなあと思っていた。だって小林靖子のような伏線の名手を、シリーズ前半だけ起用して後半はクビにしたら、最後のツジツマがうまく合わないに決まっているじゃん。それに、白倉プロデューサーは穏健派で、シリーズ途中でメインライターを切るような荒療治をする人ではないんじゃないか、という印象があったのだ。
でも、今回のディケイド問題は、そういう私の先入観を吹っ飛ばした。いま現在のウワサでは、ディケイドは古怒田健志&米村正二が後を継ぐらしい(その前にワンポイントリリーフで小林靖子が入るようだが)。米村さんはすでに係わっているが、いずれにせよ會川昇以上にディケイドの話全体をうまくまとめられるとは思えない。ていうか、本当にまとまるのかよ。それでも白倉伸一郎はきっちり會川昇を切ったのである。白倉プロデューサーって「10周年記念に、これまでの平成ライダーをぜんぶ出して」なんてキワモノ的な注文にも、「そんなことできません」なんて突っ張ることなく二つ返事で応じる穏健派だと思っていたら、う〜ん、こういうときはキッパリやるんだ。
そしてそう考えると「実写版の折り返し地点で白倉プロが小林靖子を切る可能性も考えていた」というウワサも、あながちタダのデマではなかったかもしれない。【第181回】に引用したインタビュー記事の中で、白倉伸一郎は、小林靖子を実写版のメインライターに起用した理由を「ストーリーよりもキャラクターの方を優先できる人」だったから、と言っているけど、ひょっとすると白倉さん、前半は小林先生にキャラクターを掘り下げてもらって、後半は別のシナリオライターに物語を転がしてもらう、という分担を、どこかで考えていたのかも知れない。


まとまりもなくあれこれ書いているうちに朝が近づいたのでこれくらいにしておく。結論めいたこともなくてすみません。本文がつまんないので、コメント欄は今回、掲示板として解放する(いつもか)。美少女アクションのパンツのことでもなんでも好きなように書いてくれ。返事するから。