実写版『美少女戦士セーラームーン』ファンブログ


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【第181回】DVD第2巻:Act.5の巻(余談)

 祝・復活

MC-K3さんの情報でみなさんもご存じですよね。私もそれで知った。CMとはいえ、これは一人の女優の復活である。いや本当は『呉清源』とか『クリアネス』とかあるらしいんだが、観てないもんですから。
『Act.ZERO』が出たのは2005年の3月末で、あれから3年半が過ぎている。私がこのブログを始めて間もなく、レビューの名を借りたラブレターを書いたのは、おととしの春のことだった(恥ずかしげもなくリンクを貼るが、ここのいちばん最後)。かくも長き不在。ようやく、モデルとかではなく、動いて演技する彼女が還ってきた。まあ艶やかに美しくなられて、涙が出そうだ。
なんか今日はふつうにレビューを書く気が起こんないや。余談みたいなところで勘弁してください。

 

【追記】ひろみんみんむしさんから、コメント欄に次のような書き込みをいただいた。

振り向いてから微笑むまでの表情の移ろい。
戦士の中では泉里香にしかできない演技です。

そうですね。それを多少なりとも表現するために、画像を2枚にしてみました。

1. これはいつの話か


前回、このAct.5の学校のお話は、月曜日の出来事だろうと推測した。その根拠として、(1)前日の描写が明らかに休日であること(亜美は朝起きて私服でクラウンに出かける)、(2)うさぎたちのクラスは月曜日の1時間目が英語であること(午前中の早い時間に小テストをやらないと、桜田先生には放課後までに赤点の発表をする時間的余裕がない)という2点をあげた。
そうしたら、こっちよ!さんから「ウィークデイ、しかも月曜からパジャマパーティーっていうのもいかがなものか?」というご指摘をいただいた。そう言われてみればそうだ。でも書いちゃったしな、と思って現役中学生の娘に訊いてみたら「まあ、いいんじゃない」という感じの返事だったので、「まあ、いいでしょ」という感じのコメントをつけておいた。
しかし娘の立場になってみると、いきなり「あのな、中学生が月曜から友達ん家に泊まってパジャマパーティーやるっていうの、あると思うか?」なんて訊ねられて、どうせまたドラマの細かいことを突っ込んでばかりいるオタクなお父さんが、何かバカなことを考えているんだろうと、適当に返事をしただけなのかも知れない。
そこで私はもう一度よく考えながらビデオを観てみたんだが、結論から言えば、やっぱりそのままで良いみたい。というのは、このパジャマパーティーで亜美が寝込んで、次の場面はクラウンに移る。どーんと落ち込むうさぎの様子からして、すぐ翌日のことだと思われるが、うさぎは制服姿だ。そしてそんなうさぎを「私はおかしいと思っていた……うさぎはさ、ホント名前の通り駆け足だね。そんなに急には変わらないって」と優しくたしなめるレイも、やはり制服を着ている。つまりパジャマパーティーの翌日も学校は普通にあったことになる。
うさぎたち2年1組の時間割によれば、月曜のほかに、金曜日も1時間目が英語なのだが、それだと翌日は土曜日で学校は休み。つまり、(1)前日が休日で、(2)翌日は普通に学校があって、(3)その日は朝早くから英語の小テストが行われる、という条件を満たすのは、やはり月曜日以外にはない。
ではこれは何月何日から何月何日にかけての話か。実写版の世界における時間の進行は、だいたい現実の世界と重なっている。たとえばAct.1は10月3日に始まり(うさぎが居残り掃除をしている教室の黒板に「10月3日(金)日直 北野・山崎」と書かれている)その翌日の10月4日土曜日が休みで、うさぎはなるちゃんママのジュエリーショー会場で、初めてセーラームーンに変身して妖魔と戦う。Act.1の放送日はまさにその当日、2003年10月4日(土)だった。それからAct.14、クラウンでの新年パーティーは2004年1月10日放送。新年会にしてはやや遅めだが、火川神社の初詣客が落ち着いて、レイも参加できるころ合いとなると、だいたいこんなもんだろう。うさぎがバレンタインのチョコをタキシード仮面に手渡すAct.19は、ずばり2月14日の放送。また、だいぶ後のエピソードになるが、うさぎたちが成績表をもらって夏休みになり、児童館でボランティアをするAct.41は7月24日放送。ドラマの中の時間は、ほとんど現実と同時進行になっている。
で、Act.5のオンエアはいつかというと、2003年11月01日(土)。だからこのお話も、その週の出来事と考えるのがいちばん無難だ。二日後の月曜日は11月3日で文化の日なので、日・月の連休となり、この話は成り立たない。つまりこういうことだ。

2003年10月26日(日)亜美『本当の友達になれる本』を買う
2003年10月27日(月)うさぎの家でパジャマパーティー
2003年10月28日(火)へこむうさぎ。陶芸教室展示会場の近くでポヨンと対決
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2003年11月01日(土)Act.5オンエア

年号まで明記する必要があるのか、と思われる方もいらっしゃると思うが、Act.17の教会の墓地にある火野レイの母の墓には(ななめ横の映像で読み取りにくいが)「RISA HINO 1963〜1995」と刻まれているし、『Special Act』の水野亜美の運転免許には「平成元年9月10日生」とあるから、実写版の世界は年号も現実世界に準拠していると考えていい。

2. 原作原理主義に賭ける想い


さて、ちょっと前の【第177回】では、StreamKatoさんのおかげで、戦士のみなさんのファッションについての、スタイリストさんの証言(角川書店『特撮ニュータイプ:Newtype THE LIVE』2004年5月号)を紹介することができた。この『特撮ニュータイプ』という雑誌は、何度も実写版の特集を組んでくれていたので、ご記憶の方も多かろう。で、それがきっかけで最近、同誌の記事を改めて読み直して「ふうん」と感じ入ったことがあるので、今回はそれを紹介したい(たんに昔読んだ内容を忘れていたので感心しただけ、のような気もするが)。『特撮ニュータイプ』2004年 1月号(No.010)の巻頭特集、白倉伸一郎プロデューサーへのインタビュー記事である。発売日は2003年11月末。
タイトルが「原作原理主義に賭ける想い」というだけあって、初っぱなからこんな発言が出てくる。

「実は今回は原作を忠実に描くというのが至上命令だったんですよ。だから、それならばその決まりを逆手にとって、原作を徹底的にやりつくそうと“原作原理主義”というスローガンまで掲げました」

実写版の製作発表にあたって、白倉プロデューサーが「原作原理主義」宣言をした事実はみなさんもご存じでしょう。ただ、この記事によれば、白倉さんは自ら望んで積極的にそう言い出したわけではなかった。望むと望まざるとにかかわらず、もともと、原作に忠実に制作せよという「至上命令」が下っていたのだ。これがどこから出た「命令」かというと、武内直子先生と考えて間違いないだろう。はっきり言って、スタッフにとっては迷惑なはずだ。自由な脚色やアレンジの可能性が束縛されるのだから。ところが白倉プロデューサーは、それを「逆手にとって」むしろ積極的に「原作原理主義」をうたったのである。どういうことか。

「こちらとしては、“一からスタートしようとしているドラマ”なんですが、すでに原作やアニメが完結していて、『セーラームーン』という世界はものすごく広がりがあるわけです。だからファンもスポンサーもその広がりを塊として捉えていますから、例えば月野うさぎという女の子を個人として見れないんですよ。すでに最初から“この後こうなるはずだから、こうしないとダメ”だったり、逆に“この後こういう出会いがあるから、こうしてはダメ”というさまざまな制約を背負わされてしまっているキャラクターですから。でも、僕はそんなことは全部飾りだと思っているんです。それはすごく楽しい飾りではあるんですが、それを剥ぎ取った時に何が残るのかということを見失わないようにしないといけない。だからすごく難しいことをやっていると感じています」

新たな作品世界を一から作り上げようにも、何しろ相手はセーラームーンだ。1990年代半ばを代表する大ヒットアニメで、すでにどういう作品か、多くの人に知られてしまっている。「月に代わっておしおきよ!」の決めゼリフ以下、無数の「お約束」があって、従来のファンは実写版にもそれを求めてくるだろう。でも、その膨大なお約束を守って実写版を作るとしたら、オリジナリティの入り込む余地などほとんどない。
白倉プロデューサーは、そんなのぜんぶ白紙に戻して、新しいセーラームーンを作りたかったんだね。そしてそういう彼の姿勢にお墨付きを与えたのが武内直子先生その人だった。
セーラームーンには原作・アニメ・ミュージカルと色々あるが、世間がイメージするのはほとんどアニメ版だ。しかし武内直子がアニメ版に複雑な感情を抱いていたらしいという話は、これまでもこのブログで何度か書いた。武内先生は、アニメに愛着をもち、三石琴乃以下キャストたちと交流を結びながらも、どこかで(これは私のセーラームーンの忠実な映像化ではない)という納得しきれない想いを抱いていたようなのだ。だから実写化の話が来たときに「原作に忠実に」という注文が出たのだ。
そういう意味で、この「原作に忠実に」をさらに詳しく言えば「アニメ版と違って、原作に忠実なセーラームーンを」という意味である。そして白倉プロデューサーが乗ったのは、本当は「原作に忠実に」ということよりも、むしろこの「アニメ版とは違って」という隠れた部分だった。
<この実写版は、アニメ版にとらわれず、既成のイメージはぜんぶご破算にして、原作漫画に基づいて一から作品を作りますよ。アニメ版のファンのみなさんには悪いけど、それが武内先生の意向でもありますからね>。これが白倉伸一郎の「原作原理主義」という戦略の意味するところだ。決して、原作のストーリーを忠実になぞる、という宣言ではない。では「原作原理主義」とは具体的にどういうことか。
脚本に小林靖子を起用した理由を、白倉プロデューサーは次のように語っている。

「ストーリーよりもキャラクターの方を優先できる人…だからですね。そして一緒に地獄まで行ける人(笑)。でも冗談ではなく、小林さんの置かれている状況というのはすごく大変だと思いますよ。新しいゲストキャラクターやエピソードを出せば、すごく簡単にお話を作れる構造のドラマなんですが、それを全部封じているんですね。レギュラー同士の関係性でしか話を作らないという決め事をしていまして。漫画でもアニメでもやらなかったことというのは意外とあるんですよ。レイとまことの関係だったり、うさぎがいない時の亜美の立ち位置だったり、こういう部分は早くからやっていかないとできなくなってしまうところですから。“原作原理主義”とは、ただ単に原作通り追っていくだけではなくて、本来持っていただろう世界まで掘り下げることなんじゃないかと思います」

「ストーリーよりもキャラクターの方を優先できる」っていうのはどういうことか。たとえば井上敏樹という人は、最初からストーリーをぐいぐい動かしながら、そこに登場人物を放り込んでいくタイプの脚本家だけれど、小林靖子の場合は、まず主要登場人物のキャラクターがしっかり確立されるまで、話は大きく動き出さない。そういうことを言っているのかな。
まあともかく、キャラクター重視というのは当然の話だ。アニメ版の戦士たちのキャラクターは強烈で、ミュージカル版もほとんどその影響下にある。それほど強固なイメージをどこまで払拭できるかどうか、それが、実写版がオリジナルな作品になれるかどうかの鍵だ。そしてその課題をクリアするために小林靖子が起用された。では、実写版ならではの新しいうさぎたちを創造する手がかりがどこにあるかというと、原作だ。
原作漫画『美少女戦士セーラームーン』の戦士たちは、アニメ版よりもロマンティックだったり、勇敢だったり、神秘的だったり、クールだったり、アンニュイだったり、総じてそれぞれ複雑な陰翳にみちている。ただ武内先生は、そういうキャラクター描写をとことん突き詰めているわけではない。むしろ、人物の性格や人間関係がだんだん複雑になっていくとブレーキをかけて、シンプルな方向に戻してしまうのだ。これは原作者の良心だと思うね。『なかよし』の読者年齢を考えれば、そんなにややこしい心理描写は出来ないし、アニメ版と原作があんまりかけ離れたキャラクターになれば、幼いファンが混乱する。一部で誤解されている向きもあるが、武内直子はそういうことを大切にする人だ。
その、原作漫画ではあまりディープにならない程度に抑制されていた人物描写を、もっともっと突き詰めていって、原作が「本来持っていただろう世界まで掘り下げる」というのが、アニメ版を越えるために実写版が取った「原作原理主義」という方法論だった。
それは半分は成功した。「半分は」というのは「作品の質をキープするという点では」って意味だけどね。逆に後半では、心理描写が複雑になりすぎて、本来のユーザーであるべき低年齢層の視聴者を置いてけぼりにする要因になった。アチラを立てればコチラが立たずというか、帯に短しタスキに長しというか。


 

3. 手応えあり


ええとですね、もうひとつ書くつもりだったんだけど、もう時間いっぱいなんで、手短にしておきます。「もうひとつ」っていうのは、さっきの話の中にあったこんな発言だ。もう一回引いておこう。

「新しいゲストキャラクターやエピソードを出せば、すごく簡単にお話を作れる構造のドラマなんですが、それを全部封じているんですね。レギュラー同士の関係性でしか話を作らないという決め事をしていまして」

これも興味深いですなあ。セーラームーンでこういう縛りを作っていたからこそ、白倉&小林コンビは『仮面ライダー電王』でその真逆の路線を行ったのかも知れない。
という話は今はいいんだった。なんで実写版セーラームーンではこんなルールをわざわざ設けたかというと、たぶんアニメ版との差別化をはかったのではないかと思う。アニメ版では「毎回ゲストが妖魔に狙われて、それを守るためにセーラー戦士が戦う」という、ヒーローものではお馴染みのパターンがあった。実写版でもそれをやっちゃうと同じになるから、あえて禁じ手にしたのではないかね。でもそのせいで実写版は「被害者不在の物語」となった。このへんの問題についてのマジメな考察は、まだマジメだったころの『M14の追憶』で読むことができる(これ)。
でも、そう言いながらも、実は実写版の最も初期は「ゲスト被害者」パターンだったりする。Act.1のなるママ(渡辺典子)、Act.2のアルトゼミナール講師(春木みさよ)、Act.3の、巫女の女の子たち(これは例外扱いにしてもいいか)、Act.4の桜木財閥令嬢(みさきゆう)といった具合である。「レギュラー同士の関係性でしか話を作らない」という縛りが本格的に表に出てくるのは、このAct.5からなのだ。


はじめに書いたように、このインタビュー記事は『特撮ニュータイプ』2004年1月号に掲載されている。発売日は2003年11月の終わり頃である。そうすると、取材が行われたタイミングは、オンエアが始まってちょっと後の10月下旬ってところかな。ということは、Act.5が撮影後のすべての作業を終えて完成し、2003年11月1日の放送を待って待機している、ちょうどその頃のインタビューなのではないかと思う。
Act.1からAct.4までの実写版のストーリーは、多少アレンジはあっても、だいたい原作をほぼそのままなぞっているし、被害者を軸にした妖魔VS正義のセーラー戦士、という比較的シンプルな図式を離れていない。しかしそのなかで、うさぎ、亜美、レイと次々に登場する個々のキャラクター描写は、原作をさらに一歩踏みこんで、より複雑で陰影に富んだものになっている。そういうキャラクター描写の積み重ねが実を結び、初めて本格的に登場人物たちが一本立ちして、原作ぬきの実写版オリジナルストーリーに結晶したのがこのAct.5であり、Act.5の完成を見て、やっと「手応えあり」という確信をつかんだ白倉伸一郎が、意気揚々と語ったのがこのインタビューなんじゃないだろうか。そう考えると面白いね、というお話でございました。


それにしても水の戦士の復活は嬉しいなあ。亜美ちゃん、お帰り。