実写版『美少女戦士セーラームーン』ファンブログ


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【第142回】Special Actの巻(12)



2008年3月28日(金)の中日新聞夕刊より、資料として。資料以上の妖艶なる美を求める方は、神戸コレクションのキャプチャー画像をお捜しください。私はまもるさんに見せていただいて、ノックアウトされちゃいました。なお記事本文に「撮影が、東京都内で行われた」とあるが、これって映画本編の撮影が始まったという意味じゃないよね。
それはそうと、こいつ『ゴーストバスターズ』に出てきたヤツじゃないのか?これがハンサム★スーツ?

1.『水に棲む花』北川景子出演シーンはいつ撮影されたか?


というわけで北川さん関係の話題から。前回の冒頭に書いた『水に棲む花』撮影期間の問題について新情報が入った。だいたいのところはコメント欄をご覧いただければ分かると思うんですが、整理しておきます。情報をご提供いただいたniheiさん、どうもありがとうございました。
『水に棲む花』で北川さんが登場するシーンの大部分は、静岡県の小山町で撮影されている(なんて知ってるふうに書いているが、今まで知らなかった)。ここはフィルムコミッションがあって、映画やドラマの撮影を盛んに誘致しているようだ。そういえば、ずっと鈴鹿でやっていたF1日本GPも、昨年は富士スピードウェイで開催された。けっこう活発にいろいろやっている町なのだな。
で、niheiさんが教えてくださったのは、その小山町フィルムコミッションのHP。そこの「作品集の紹介」というコーナーに、2002年以降、小山町がロケに協力した映画やテレビ番組の一覧表が出ていて、どこでロケが行われ、撮影期間は何月だったか、というデータが提供されている。これを見ると、あるある、ありますよ。「2004年(平成16年)」のところに『水に棲む花』、ロケ地は「八幡神社(湯船・柳島)フェニックス、他」フェニックスってよく分からないが、ともかくロケ期間は「3月5〜15日」。おお、なんと実写版セーラームーンがまだ中盤の、2004年春の時点で、この作品は撮影されていたのか。だったら、北川さんがオフショットでセーラームーンのスタッフジャンパーを着ていたのも当然だ。なるほど。
と思ったんだが、よく見るとおかしい。「2004年」のリストのいちばん上に出てくる作品が『凶』(後に『殺しの掟』と改題されてVシネでリリース)で、ロケ実施日が「4月21日」だ。いちばん最後は映画『博士の愛した数式』で、ロケ実施日が「3月25日〜5月」。で、翌年の「2005年」を見ると、最初に再び『博士の愛した数式』が挙げられている。
それで思い出した。うちの娘はつい先日、2008年の3月に小学校を卒業したが、卒業式の表記は「2007年度卒業式」であった。つまりこのリストは、「2004年」とか「2005年」とか書いてあるけれど、実際には4月に始まり3月に締めとなる「年度」表記であって、正しくは「2004年度(2004年4月〜2005年3月)」あるいは「2005年度(2005年4月〜2006年3月)」に小山町で撮影された作品を、日付順に記録しているのだと思う。『博士の愛した数式』が「2004年」「2005年」両方に出てくるのは、この作品のロケ期間が3月〜5月で、年度をまたがっているからだ。
以上の推論にしたがって、名古屋支部としては『水に棲む花』の小山町ロケ期間を「2005年の3月5日から15日まで」と考える。で、もう一度おさらいすると、セーラームーンの2本のビデオ作品のリリース順は『Special Act』(2004年11月26日)→『Act. ZERO』(2005年3月25日)だが、『Act. ZERO』に特典映像として収録されたクランクアップコメント集から判断して、実際の撮影は『Act. ZERO』→『Special Act』という順で行なわれたと考えられる。したがって2004年の10月中には、実写版セーラームーン関係の撮影はすべて終了しているはずだ。一方『水に棲む花』の北川さん出演シーンの撮影は2005年3月。この間5ヶ月のブランクがある。撮影前の準備期間を考慮に入れても、『水に棲む花』が『Special Act』における北川さんの出番シーン削減の原因となった可能性は、非常に低いということです。
で残る問題は、前回触れたWikipediaの「北川景子」の項目にある「(『水に棲む花』の)撮影は2004年におこなわれた」という記述だが、これについては、他の有力な情報が出るまで、この小山町フィルムコミッションHPに基づく誤記であろうと理解しておきます。まあともかく、niheiさんのご指摘がなければここまではっきりしたデータも出てこなかったわけで、あらためて御礼申し上げます。
しかしみんな、よくロケ地めぐりしているなあ。『水に棲む花』のプールがどこなのか、私は知らないが、マニアの間では特定されていて、みんなちゃんとプールの中に入ってカッパの真似(もしくは『地獄の黙示録』のマーティン・シーンの真似)をしているんだろうか。

2. 被害者不在の物語(その1)


さて前回の『Special Act』レビューは「母親とはぐれて泣いている少女(子役さんのお名前は不明)が道化師に襲われ、それを見たうさぎは思わず体当たりをかけてこの子を救う」というシーンに触れて、このうさぎが格好いい。変身できないけれどもヒーロー魂を感じる、というようなことを書いたところで終わった。
突如あらわれた悪の軍団。逃げまどう群衆。混乱の中で、親とはぐれた子ども。襲いかかる敵。そこへ颯爽と登場する正義の味方。かつての特撮ものでは定番のパターンだが、最近はあまり見なくなった。でも『Special Act』のここでは、それをそのまんまの展開でやってれるのである。テレビシリーズ本編でもほとんど見ることのできなかったシーンだ。
実写版で子どもの被害者と言えば、Act.10でゾイサイトの「プリンセスへのレクイエム」攻撃に倒れたかぐや姫少女のエリカちゃんぐらいだが、別に直接、妖魔に襲われたわけではない。というか、そもそも実写版では、いわゆるゲスト被害者というものが非常に少ない。もちろん妖魔に襲われたり、エナジーを吸い取られたりする人々の姿は描かれるが、ちゃんと役名やセリフを与えられた作中人物、しかもレギュラー(うさぎのクラスメートたちも含む)以外となると、ほんとうに少ないのである。
この「実写版は被害者不在の物語である」という問題については、色々な角度から解釈が可能なのではないかと思う。ちょっと脇道にそれることになるが(いつもだ)、ここで少々、整理しておきたい。
まず最初に言えることは、実写版は、平和を守る戦士たちの戦いを描いた物語ではない、ということだ。これについてはM14さんの考察をご参照ください(ここ)。本来ヒーローがヒーローであるためには「平和な日常を乱す悪の出現」が不可欠で、それを効果的に表現するためには「悪に襲われて被害を受ける一般市民」の描写も、また必要である。けれども実写版のメインテーマはそこになく、むしろ友情や恋愛、そして運命(前世)との葛藤といった、主人公たちの内面の戦いを掘り下げることにあった。ヒーローものというよりは「中学生日記」であり、妖魔との戦いは、物語の構成上、その過程において現れる手段や障害に過ぎなかった。だいたいそういうことですね。
これについて、蛇足を承知でもうちょっと話を追加すると、たとえばアニメ版セーラームーンなどは、まさしく「平穏な日常を過ごしていた人が妖魔に憑依され、本人や周囲に災厄が降りかかるが、セーラー戦士の活躍で平和をとりもどす」というワンパターンの物語を繰り返していた。しかし、ではそれだけがアニメ版の魅力であったかというと、そうでもない。むしろ、そういった戦いと絡んで出てくる友情や恋のエピソードが、多くのファンにアピールして、大ブームとなったのだと思う。あるいは脚本の小林靖子以下、多くのスタッフが共通する『仮面ライダー電王』だって、毎回ゲスト被害者を出しながら、しかも主人公たちの人間関係や成長物語を一年間かけて描いていた。だから必ずしも、ゲスト被害者を立てながらでは「戦う中学生日記」は成立しない、というわけでもない。
では実写版がことさらに「被害者不在の物語」となったのはなぜか。ひとつには、これは美奈子への配慮なのではないか、と思うのである。これは以前にも述べた(【第22回】の「3. 美奈子こそハードボイルドかも知れない」の項)。
美奈子は被害者のことをあまり考えない人だ。Act.7で、遊園地に妖魔が現れて客たちを襲っても、それには一切関与しない。そしてすべてが終わった後で、タキシード仮面に近づくなとセーラームーンに忠告するためだけに登場する。Act.8では、ナコナココンテストの会場に到着した時点で妖魔の気配を感じると、集まったファンの身に危険が迫っていることなど何も考えていないかのように、自分だけあっさり引き返す。Act.15では、自分のジュエリーを「幻の銀水晶」であるかのように見せかけ、わざと盗賊団に盗ませて、ダーク・キングダムがそれを追うようにしむける。盗賊団が妖魔に襲われてひどい目にあうだろうとか、それがジュエリーオークションで誰かに落札されれば、何の罪もない人が被害にあうだろうとか、そういうことへの配慮は感じられない。Act.17では、倒れた自分を気づかうマーズに礼を言うどころか、妖魔を追わないことを「なっかりだわ!戦士としてぜんぜん成長してないじゃない」となじる。要するに美奈子の行動は(1)「プリンセスに前世の悲劇を再現させないこと」(2)「プリンセスの影武者として敵の注意を引きつけ、逃げ回ること」(3)「プリンセスを守るために妖魔を倒すこと」という「プリンセス三原則」から成り立っていて、自分も含め、他の人々を妖魔の被害から守ることは、二の次である。
だから美奈子には、どうしても冷酷な印象がつきまとう。しかし、自分や仲間の戦士に対して厳しいのはいいが、エナジーを奪われた一般市民を見捨てることさえ、使命のために辞さない性格であるというのでは、ちょっと残忍すぎる。かといって、もし美奈子が、一般市民への被害を防ぐためにも戦おうとすれば、街に出て他の戦士たちと共闘する機会が増えてしまうし、そうなると、孤独な戦士としての美奈子のキャラクターが弱まる。こういうジレンマというか、困った状況の中で、小林先生以下スタッフは、無意識のうちに、被害者の描写をできるだけ抑えることで、美奈子から、冷酷な印象を少しでも払拭しようとしたのではないか、と考えてみたんです。

3. 被害者不在の物語(その2)


ヒーローと正義 (寺子屋新書)

ヒーローと正義 (寺子屋新書)

それからもうひとつ、これは白倉伸一郎プロデューサーの、実写版制作当時の考え方に関わる問題なんじゃないかということだ。白倉さんはご自身の著書でこのように書かれている。

わたしたちが漠然と思い浮かべるヒーロー像といえば、正義の名のもとに、被害者を助けるために粉骨砕身するような存在である。あるいは、正義うんぬんはさておいても、ヒーローものの「物語としての面白さ」は、かわいそうな被害者を「かわいそう」と思い、それを助けようとするヒーローに感情移入するところにあるように思われる。(『ヒーローと正義』第1章「正義のヒーローはどこにいる」)

ここまでは、さっきのM14さんのブログにあった「正しいヒーローものの文法」とまったく同じことを言っている。しかし白倉プロデューサーは、ここで日本神話や昔話に見られる英雄物語のパターンを分析してみせて、実はそれは本来ヒーローものに必要な要素ではないと言う。たとえば記紀神話のスサノオノミコトの物語を要約すれば(1)不思議な出生をした主人公が、(2)いけにえの少女クシナダを助けるために、(3)ヤマタノオロチを退治する、というお話だ。ここには人々の感情移入をさそう哀れな被害者が存在するし、その被害者を襲うヤマタノオロチは悪い怪物であり、ゆえにスサノオは正義だ、というヒーローものの文法が成立する。ところが昔話の「桃太郎」になると(1)不思議な出生をした主人公が、(3)鬼ヶ島へ行って鬼退治をする、という物語で、(2)の被害者が存在しない。鬼ヶ島の鬼が娘をさらうとか、人々に災厄をもたらしたという描写は出てこない。それでも桃太郎は鬼ヶ島に乗り込んで鬼を退治するし、人々は、桃太郎に退治されたから、鬼は悪い怪物だったのだろう、と考えるのである。さらに「金太郎」の場合、マサカリかついで熊にまたがっているだけで、何かを退治したかどうかさえ判然としない。一応、成長して坂田金時になったとすれば、大江山の鬼退治に参加したことにはなるが、基本的に金太郎のお話は、ヒーローは「悪い怪物」がいなくても、それだけで正義となりうることを証明している。これが白倉プロデューサーの考えである。

被害者の存在が、英雄物語にとって必要不可欠な要素ではないとするならば、退治されるべき悪は、どこにもない。わたしたちのなかにイメージとしてある「かわいそうな被害者を怪物から助けるヒーロー」という黄金のパターンを英雄物語は必要としていないのである。『桃太郎』の鬼は、娘をさらったりするのをサボってしまったし、『金太郎』にいたっては、物語に登場すること自体をサボってしまった。それでも主人公たちはヒーローたりうる。(『ヒーローと正義』第1章「正義のヒーローはどこにいる」)

あとがきによれば、この『ヒーローと正義』という本の大部分は、2003年の暮れから2004年の春にかけて「通勤電車の中や、深夜のロケ現場の片隅で」書かれている。つまり実写版の放送期間中に、制作の忙しい合間を縫って執筆されているわけです。そのわりにセーラームーンのことには一言も触れていないが、ここに書かれた「被害者の存在が、英雄物語にとって必要不可欠な要素ではない」「退治されるべき悪は、どこにもない」という主張は、実写版が「被害者不在の物語」であることや、戦士たちが倒すべき「悪」を見失い、結局うさぎ(プリンセス・ムーン)を倒さざるをえなくなる渾沌としたFinal Actへの、プロデューサーの自註と考えてもいいだろう。
もっとも未読の方のために急いで付け加えておくと、この本、かなり理解するのがむずかしい。たとえば、どうして英雄物語の基本パターンを抽出するために、スサノオと桃太郎と金太郎を比較するのか(酒呑童子も出てきたな)、実は私にはよく分からない。たんに自分の都合に合う素材を恣意的に引っ張り出してきたとしか思えない。しかも金太郎にいたって「敵の悪役が存在しなくても、主人公はヒーローである」という、ある意味で究極の結論を出してしまった以上、次は当然その「対立者(敵)なしに成立するヒーロー物語」とは何か、という問題へ考察を進めるべきだろう。なのに続く章ではそれをあっさり忘れたかのように、ヒーローにはやっぱり敵がいる、という視点に戻る。で「もう、ヒーローが正義で敵が悪なんて簡単に決めつけられないんだよ」という、まあそりゃそうだろうというゆるいコンセプトのもとに、『ウルトラマンコスモス』や『仮面ライダークウガ』のエピソード、社会問題、ファシズムにいたるまで、実に様々なテーマが取り上げられる。でも研究と呼ぶには一本スジの通った論理の発展がなく、エッセイと呼ぶには妙な理屈をつけすぎで、最後は、いまやヒーローは渾沌だ、そのことを通して、子どもたちは「渾沌が悪で秩序が正義」という、美しいが危険な世界観から開放されるべきだ、という結論にいたる。こんなブログを書いている私が言えた義理じゃないが、ちょっと話のまとまりがなさすぎるんじゃないかと思う。
でも逆に言えば、この人はやっぱり文章で理路整然と自分の思考を語ることには向いていない、現場のプロデューサーなんだってことが分かって、私はそんなに悪い印象はもっていない。とにかく、実写版の制作で大わらわだった白倉さんの頭の中で渦巻いていたあれやこれやが、この一冊に整理もつかず、垂れ流し状態でぶちまけられているわけで(だんだん表現がひどくなってきた。すみません。でも黒猫亭さんなんて、もっと凄い言い方をしてますから)、これは実写版を手がけていた真っ最中の、リアルタイムでのプロデューサーの脳内ドキュメントとして、たいへん貴重な記録です。いつかそのうち、きちんとブックレビューを書きたいと思っているのだが。


だいぶ長々と述べてきたが、私は、こういう白倉プロデューサーのヒーロー観もしくは「正義」観が、特にプリンセス・ムーン登場以降の実写版の物語の展開に大きく反映されているのだと思う。そして小林靖子は、そんなふうに「ヒーローものの既成概念を壊す」とか小理屈を振り回す白倉さんに対して「んもう、インテリぶって。あ、東大卒だから本物のインテリか」とか、ぶつぶつ文句を言いながら脚本を書いていたんじゃないだろうか。もちろん、ケンカしたとかそういう意味ではないが、Final Actが我々に与える不思議な印象の大部分は、何というか「白倉VS小林」という緊張関係から来ているような気がする。そのことは一応、再放送レビューの最終回でも考察してみたけれど、まだまだ未整理なので、いずれまた考え直してみたい。
ともかくそういう、テレビシリーズ終盤の緊張感というかストレスから解放されて、肩の力の抜けた状態で小林さんが『Special Act』を書いたとき(推定)、つい「妖魔に襲われる少女を助けるうさぎ、そしてそのうさぎに危機が迫ったとき、脈絡もなくさっそうと現れるタキシード仮面」という、いかにもヒーローものの古典みたいなシーンを挿入したことに、私はちょっと注目してしまうのである。ついでに言うと、後半でバイクに乗って助けに入る美奈子の、ストレートにヒーロー的な扱いにも、そういうニュアンスを感じる。美奈子を最終的にどうするか、という点でも「白倉VS小林」はあったように思うんだよね。
結果的にはかなり実験的な作品になってしまった実写版セーラームーン。これはこれで面白かったが、次はもっとカタルシスあふれる娯楽作品の王道をめざそう。そういう小林靖子の方向性が、ほんの少しだが、すでにこの『Special Act』に具体的に現れていて、しかもこの路線が、次の白倉・小林コンビの作品『仮面ライダー電王』へとつながっていく、という気もするのだ。なにしろ『電王』は、娯楽性を強く意識して、エピソードごとにゲスト被害者を立てる、まさに古典的な「被害者の物語」なわけだしさ。しかもその一方で、プリンセス・ムーンとうさぎの関係を思わせる多重人格テーマが変奏されてもいるのである。

4. パチモン四天王、登場


というわけで話は戻る。やっと戻る。少女を救ったものの、こんどは自分が道化師にじりじりと迫られ、思わず息を呑むうさぎ。道化師が剣を振りかざす。危機一髪、というところでタキシード仮面が乱入、ステッキでさっそうと道化師妖魔を退治する。

うさぎ「衛!」
タキシード仮面「うさぎ下がってろ」
うさぎ「命令しないでよ。私だって」(そのへんに落ちていた木の枝を拾ってかまえる)
タキシード仮面「馬鹿。お前はもうセーラームーンじゃないんだぞ」
うさぎ「馬鹿って何よ!」

お約束の会話だ。妖魔と戦っている最中だったはずなのに、こういう会話をしていると、敵が姿を消してしまうのもお約束なら、次にここで爆発があるのもお約束。ドカーン「きゃあ!」。そしてその煙の向こうから、いよいよクンツァイト、ゾイサイト、ネフライト、ジェダイトの登場だ。ニセモノだけど。

タキシード仮面「おまえたち…」
クンツァイト「久しぶりだな。マスター」
うさぎ「四天王。どうして…」
クンツァイト「我らの新しい女王がお呼びだ、一緒に来てもらおう」
タキシード仮面「新しい女王、どういうことだ」
クンツァイト「来れば分かる」

気になるのはこの会話シーンの切り返しショット。手持ちカメラの映像でやたらと不安定にぶれるんだけれど、これは何かの効果を狙ったものだろうか。実はニセモノであることを暗示しているとか。まあとにかく、四天王の放った光に包まれて、その場から忽然と消え去るうさぎとタキシード仮面。わずかの差で到着するセーラールナ「うさぎちゃん!衛君!」。二人の運命やいかに。次回に続く。またしても、ほとんど話が進まなかった。言っておくが、私としてはどんどん先を急ぎたいんだよ。誰も信じてはくれないだろうが。