実写版『美少女戦士セーラームーン』ファンブログ


最新記事〕 〔過去記事〕 〔サイト説明〕 〔管理人

【第116回】DVD第1巻:Act.4の巻(その6)


少し以前の話になるが、近所のスーパーの売り場に、ハロウィンのカボチャ(Jack o'lantern)が飾られていて「ハロウィンとは西洋のお盆のようなものです」などと書いてあるのを見かけた。
沢井美優も安座間美優もブログでハロウィンを取り上げている。安座間さんは「誘われたけど都合で参加できなかった」くらいの話だが、沢井さんの『MY HEART』には驚いた。「昔は友達と魔女とかに変装してTrick or treat!!とかいってお菓子を貰いにいってました」「姉とはどっちが多かったかなんて競い合ったり」それは日本の話なんですか?
先週日曜日のアニメ『ちびまる子ちゃん』でもハロウィンをやっていた。まあ、花輪君の家でやっている、という設定ではあるが、これも驚きだった。まさかと思って続く『サザエさん』も観たが、さすがにハロウィンは出てこなくて、少々ほっとした。とにかく、平成日本の市民層におけるハロウィンの普及は私の想定を遙かに越えている。しかし、いったい誰が何のためにそんなものを浸透させようとしているのだろう。「西洋のお盆」という解説も意味不明だ。死霊が盆踊りしている姿を想像されたりしたらどうする気か。
なんてことを心配している場合ではない。過去ログの一覧を見たら、このAct.4レビューの第1回は、9月1日である。もう11月だ。ドラゴンズも優勝した。いいかげんこのへんで終わらせなきゃね。

1. Gothic Lolita & Maid


というわけで、桜木財閥の令嬢、桜木由加の誕生日が、なにゆえハロウィン・パーティーを兼ねているかについても、あまり深くは考えないでおく。おそらく、由加お嬢様が10月下旬の生まれだったので、どうせだったらみんなで楽しめるようにと、いつの頃からか、関係者をいっぱい招いてハロウィン・パーティー形式で開催する習慣ができたのであろう。
しかも今年は、お嬢様の20歳の誕生日だ。なんて話は私が勝手に考えたものだが、しかし今年はこのパーティーで特別に「幻の青い水晶」を公開するというのだ。滅多に公開しないお宝みたいだから、ただの誕生日ではないはずだ。婚約披露というのも考えたが、それらしい男の影もないし、私には「20歳の誕生日」くらいしか思いつきませんでした。他の可能性にお気づきの方は、ごめんどうでもぜひコメント欄でご教示ください。それから、パーティーのD. J. を演じている露木亮介さん、桜木由加役のみさき・ゆうさんについては、すでに【112回】に書いたのでいいですね。
さて、このパーティーシーンの、浜千咲の「ネコ耳メイド服しっぽ付き、そしてメガネはかけたまま」コスプレについて【第113回】でちょこっと触れたところ、コメント欄でStreamKatoさんから、あれはメイドではなくゴスロリであろう、というご指摘をいただいた。
メイド服とゴスロリというのはどこがどう違うのか。
ロリータ・ファッションとは、ご存じのように、1955年に出版されたナボコフの小説『ロリータ』の12歳のヒロインに由来する命名で、少女っぽさを強調した服装のことを指す。ただし日本で言う「ロリ」のベースとなるのは昔のヨーロッパの上流家庭の子供服、特にヴィクトリア朝時代のイギリスのお嬢様たちの衣裳だ。『不思議の国のアリス』(1865年)のイラストとかが典型的なイメージである。それがどうしてゴスと結びつくかというと、このヴィクトリア朝が、ゴシック・リヴァイバルの時代であったことと関係あるのではないか。
もともと「ゴス」「ゴシック」という語は軽蔑語だった。イタリア・ルネサンスの人々が、ヨーロッパ中世建築や美術のごつごつと重苦しく、古めかしい様式を「ゴート人っぽい(goth)」つまり「粗野で、洗練されていない」とバカにしてそう呼んだのが始まりだ。当時発明された活版印刷のフォントも、筆記体の流麗さを欠いていたので「ゴシック体」と呼ばれた。それが19世紀イギリスでは、むしろ頽廃的な美やロマンの象徴として再評価されるようになったのである。
中世風のゴシック建築が新たに造られたり、そういう館を舞台にした怪奇・幻想趣味の小説(ゴシック・ロマンス)が書かれた。シェリー夫人の『フランケンシュタイン』(1818年)とか、うんと後ではブラム・ストーカーの 『ドラキュラ』(1897年)とかね。今日「ゴス」「ゴシック・ホラー」とか言う場合の猟奇・耽美・幻想・怪奇といった印象は、このころできたものだ。
そして当時の流行色は黒だった。ヴィクトリア女王は、1861年に夫を失ってから自身が亡くなるまでの40年近くの間、常に喪服を着ていた。それが女性服の流行として広まり、黒がおしゃれということになり、子供服も黒色ベースのものが造られた。ヴィクトリア朝イギリスというのは、フランケンシュタインやドラキュラの小説が書かれ、切り裂きジャックが暗躍し、街にはアリスのような少女たちが、葬式でもないのに黒服を着て歩いていた時代なんです。というのは極端かも知れないが、それが平成日本のゴスロリファッションの原風景なんだろうと思う。
一方メイド服は、上流家庭に仕える使用人の娘が着るエプロンドレスだ。こっちはベルギーの民族衣装が元になっているという。でも、ヨーロッパの使用人の服装をしていればメイドコスプレかというと、そうでもない。ミュージカル『眠れる森の美女』の「料理番の娘」の衣裳なんか、まぎれもなくメイド服だが、「沢井美優のメイドコスプレ」というふうには、あまり言われていないと思う。いま日本で「メイド服」として認知されているものの主流は、ヴィクトリア朝イギリス時代の使用人服だ。またしてもヴィクトリア朝。
この時代、メイド服はけっこうおしゃれに進化した。使用人とはいえウチで働くからにはきちんとしたものを、という貴族の見栄なのか、身分が低く貧しい娘たちに、せめて仕事着だけは着飾らせてやりたい、という優しい配慮なのか。それは知らないが、いろいろと可愛らしいデザインもできて、そうすると結局、おしゃれな子供服と似通ってきた。もちろん、色は黒で決まり。これがメイド喫茶のメイド服の原型になるのだから、そりゃゴスロリと混同されても仕方がないですね。どちらもヴィクトリア朝が起源なのだ。
というわけで、ゴスロリとメイドは、場合によっては見分けもつかないくら似ているし、そういう服を売っている店の側が、両者を区別せず「ゴスロリメイド」なんて呼称を使う場合もある。ゴスロリは、ヴィジュアル系バンドのコンサートに集まる少女たちをきっかけに、世間に知られるところとなった。そういうバンドの台頭は、1990年代前半からである。一方、メイド喫茶(コスプレ喫茶)の普及は1990年代後半からという。いずれにせよ、実写版が放送されていた2003年にはどちらもポピュラーな存在だったのだが、その時点で両者がどこまで混同されていたのかは、ちょっと分からない。
う〜ん。余計なこと書きすぎ。昨夜、北川さんが黒いメイド服でドラマに出演したのを観て、私は興奮しているのかな。本題に戻らないと。

2. コスプレとファッション


StreamKatoさんは、Act.4の亜美の服装について「エプロンを着けていないのでゴスロリ」と判断されている。これは確かにそうだ。メイド服は使用人の仕事着だから、必ずエプロンがなければならない。だから、エプロンを着けていない時点でそれはメイドではないことになる。ただし逆に、エプロンをつけていればただちにメイドということにはならない。『不思議の国のアリス』の衣裳を思い出していただければ分かるように、ロリ系がエプロンを着けている場合もある。
加えて、このパーティーがハロウィンパーティーであることも考慮に入れておく必要があろう。西洋の盆踊り、いやお盆だ。それにふさわしい衣裳はやはりゴシックであろう。これで一件落着だ。
でももうひとつの「ネコ耳」問題についても考えておきたい。StreamKatoさんは「メイドにネコ耳という組み合わせならば、当時としてはけっこう斬新と言えるけど、ゴスロリにネコ耳だったら普通だ」とおっしゃっている。そうなんですか。
頭飾りそのものは、本来のロリにもメイドにもある。もちろんヴィクトリア朝にネコ耳はなかった(と思う)が、ロリ系には、アリスのイラストで明らかなように、ヘアバンドがあった。メイドのヘッドドレスは、仕事用の帽子(キャップ)を省略した「ホワイトブリム」という、フリルのようなひらひらの頭飾りだ。実際に普及したのは、ヴィクトリア朝ではなく続くエドワード期だったと言うが、今日のメイドコスプレにはそれが取り入れられている。『モップガール』の北川さんもそうでした。あれはナイジェルさんのブログによると「ぴな」(メイドカフェぴなふぉあ)の制服だそうだ。
つまりリボン状のヘアバンドは、元からどちらにもあった。そして今日では、その代用品として、弾力のあるプラスチックや金属で出来たカチューシャが売られている。そういうのを販売しているページを検索してみると、「メイドコスプレ用ネコ耳カチューシャ」というのもあるし、ゴスロリ用のアクセサリー類にネコ耳を分類しているカタログもある。少なくとも現在では、ゴスもメイドもぐしゃぐしゃで、本来どうであったのかはさっぱり分からなかった。
ただ、もしStreamKatoさんがおっしゃるように、ネコ耳がもともとメイドではなくゴスロリのものであるとしたら、それはなかなか面白い問題なのだ。つまりネコ耳というのはゴスロリ・ファッションとゴスロリ・コスプレを区別する指標の一つだったのかも知れない。
これまで私がゴスロリと言ってきたのは、実はゴスロリ・ファッションのことで、Act.4で亜美がしているようなゴスロリ・コスプレのことではない。ゴスロリとは本来ファッションであってコスプレではないので、そっちの説明を優先してきたのだ。
ではファッションとコスプレはどこが違うか。これは簡単だ。ゴスロリの人はコンサートやブティックに行くとき、あの格好のまま家を出て、電車に乗って、会場に向かう。終わればそのまま家に帰る。ゴスロリとはあくまで日常の着こなしの一部で、ファッションとはそういうことだ。しかしコスプレイヤーは、家を出るときからセーラー戦士やラムちゃんやゲームキャラクターの格好をしているわけではない。普通の格好で会場まで行って、付近のトイレなどで着替えて、コミケやしょこたんのイベントに参加するのである。それがコスプレだ。コスプレのジャンルに制服モノがある。ナースとかスチュワーデスとか婦警さんとか。制服は、仕事が終われば脱ぐもので、白衣のまま帰宅するナースはいない。
そういう意味では、本来ゴスロリはコスプレではないはずだ。けれどもその非現実的なインパクトをもつビジュアルを、コスプレとして取り入れる人が、だんだん出てきたのだと思う。おそらくネコ耳というアイテムは、その段階で、つまりゴスロリ・ファッションからゴスロリ・コスプレが生まれたときに用いられるようになったのではないだろうか。仮説に過ぎないが。
Act.4の亜美は、厳密にはゴスロリではなく「ゴスロリのコスプレ」だ。それを示すのがネコ耳としっぽとヒゲだ。そして火野レイの場合も、赤影のマスクが同じ役割を果たしている。彼女の巫女の姿は、一種の制服ではあるが、神に仕える聖職者として潔癖に生きる、だから男とは付き合わないという意思表示であり、生き方のモード(様式)である。したがってそのままではコスプレにならない。だから仮装パーティーに出席するためには、赤影のコスプレが必要だったのだ。あのマスク抜きでは、彼女の巫女姿はファッションである。
しかし「コスプレとは何か」いうことをこれ以上マジメに考えると、非常にむずかしい問題が続出して来るので、もうやめる。特に小松彩夏という人は究極の謎だ。この人はドラマの中で看護婦役をやっている時にもナースコスプレにしか見えないし、下手すればどんな服装をしていてもコスプレに見えてしまうのだ。

3. クマの着ぐるみとタキシード仮面


ええい今回でAct.4レビューを終わらせると決意した矢先、また油を売ってしまった。残る課題はてきぱきと片付けよう。まずは何度か触れたクマの着ぐるみ問題だ。すっきりした結論は出ていないが、ひとまずけりをつけておきたい。
実写版を、うさぎと衛の恋の変遷という点から見ると、律儀というかなんというか、クールの節目ごとに転機が訪れていることが分かる。

Act.01 セーラームーンとタキシード仮面の出会い。
Act.13 鴨川ツーリングで、うさぎと衛の距離が「7センチ」縮まる。
Act.26 衛、ロンドンへ行く。恋の終わり。
Act.39 エンディミオン「俺は今からお前の敵になる」宣言。

Act.1の出会いに始まる第1クールが「セーラームーンとタキシード仮面篇」で、Act.13からAct.26までが第2クール「うさぎと衛篇」、続く第3クールは「つかの間の蜜月篇」(Act.32の衛の帰還からAct.36のプリンセス・ムーン覚醒まで)と言いましょうか、で、最終クールが「プリンセスとエンディミオンの悲劇篇」という具合である。
第1クールで描かれるのは最も明るい恋のかたちで、まだ恋に恋しているような少女のうさぎは、正体も分からないまま、無邪気にタキシード仮面にあこがれている。けれども厳密には、この第1クールも、折り返し点となるAct.7でトーンが変わる。Act.7でセーラームーンは、セーラーVに「危険なのよ、彼は敵だと思いなさい」と不吉な予言をされ、地場衛は遊園地の鏡の間でうさぎの変身を見てしまう。だからAct.9になると、全体はニセタキシード仮面をめぐるドタバタ劇なのだが、最後の二人の会話はシリアスだ。セーラームーンは「私、何度も助けられているのに、顔も名前も知らなくて」と訴え、タキシード仮面は「その方がいい、多分」と答えるだけで去って行く。見送るセーラームーンの表情は複雑だ。無邪気な恋はすでに終わり、今後の展開への予感が影をさしている。
そういう意味でAct.4は、前世とかプリンセスとか、これから自分を待ち受ける運命をまだまったく自覚していないうさぎが、タキシード仮面と会話できたことを何の屈託もなく喜ぶ唯一のエピソードであり、ラストシーンの「まいったなあ」という照れ笑いに、すべてが集約されてくるような明るい話だ。
何度も書いたが、オリジナルの原作漫画第4話「仮面舞踏会 −Masquerade」や、アニメ無印第22話「月下のロマンス!うさぎの初キッス」は「仮面舞踏会にプリンセスの姿で潜入したうさぎが、タキシード仮面とばったり出会い、前世の記憶を漠然と呼びさまされ、ロマンティックに見つめ合う(そして最後にキスをする)」という話だった。その「プリンセスの姿に変装する」という部分を、実写版が「クマの着ぐるみ」に替えたのは、ひとつには、こういう明るく子どもっぽいレベルに、うさぎの恋愛感情をとどめておくためなのだろう。
原作やアニメなら、ここでうさぎのタキシード仮面への想いが、ロマンティックな恋愛に一歩進んでも、それは構わない、というか、そういう展開が必要だ。なぜなら原作もアニメも、前世の因縁に導かれて二人が再び恋に落ちる、という流れになっているからだ。
しかし実写版では、二人は前世の運命を知らないまま、プリンセスとエンディミオンとしてではなく、いまを生きる月野うさぎと地場衛として想いを寄せ合うし、前世の悲劇は、そんな二人を引き裂こうとする障害としてたちふさがる。そういう物語にするためには、この時点でのうさぎの気持ちを、まだ本当の恋には至らない、タキシード仮面という虚像に対する、恋に恋する少女の一方的な思い込みとして描いておかなくてはいけない。本当の恋はもっと苦しいものだし、それは第2クールになってから、タキシード仮面ではなく地場衛に対して芽生えるものだからだ。
それからもうひとつ、タキシード仮面の側にとっても、このシーンのもつ意味は深い。クマにしがみつかれた地場衛は当惑し、自分がタキシード仮面の姿になっていることを忘れたかのように、いつもうさぎと喧嘩しているときと同じ辛辣な態度で「ちょっとアンタ、おい……悪いけど離してくれ」と対応する。しかしクマは離れない。クマの着ぐるみに抱きつかれたタキシード仮面はなんだか間抜けに見える。
ここで地場衛が素のキャラクターを出していること、そして、クマとツーショットになったタキシード仮面の映像が、ただ凡庸なパーティーの一場面にしか見えないことは重要だと思う。つまりタキシード仮面とは、セーラームーンのような「変身」ではなく、仮装パーティーにも自然となじみ、着ぐるみとの間抜けなツーショットにも異和感がない程度の、ただの「変装」であって、中身はいつもの地場衛でしかないということが示されている。
だから彼はこのエピソードで、まあネフライトと一戦まじえはするが、いつものように格好よくセーラームーンを救えない。ビルから落ちそうになったセーラームーンに救いの手を差しのべるが、一緒に落っこちてしまうのである。そしてセーラームーンのスティックから放たれた光の玉に包まれて、かえって助けられる。そして、ほっとして思わず美奈子の歌を歌うセーラームーンに、つい「けっこう、歌うまいんだな」なんて、これまた間抜けな感想を言ってしまうのである。これもタキシード仮面ではなく、地場衛自身のことばだ。
こういう展開が、Act.9のニセタキシード仮面騒動につながる。タキシード仮面とは、セーラー戦士のような選ばれしヒーローではなく、その気になれば誰でもなれる変装に過ぎない。Act.9の最後に彼は言う「俺にはお前たちみたいな力がないから」。俺はお前みたいに変身できるわけでもなく、絶体絶命のピンチを救える特別な力もない。お前がさっき救った間抜けなニセタキシード仮面と、何も変わらない存在だ。
このAct.4の「クマの着ぐるみ」問題は、漫画やアニメでは戦士たちと同格のヒーローであったタキシード仮面を、ただのコスプレにおとしめることで、やがて彼が、この実写版では前半2クールで姿を消してしまう展開への、伏線を張っているように思える。ではなぜ小林靖子は、タキシード仮面を前半だけで退場させたのか。これは今後の宿題としておきます。

4. レイはどうして仲間を受けいれたのか


一方、亜美はルナの提案で、浮かれているうさぎを置いて普通の姿に戻り、ルナと手分けして会場の建物内を調べることにする。そこでレイとばったり出会い、合流することになるわけだが、その時の会話については、再放送レビューの時に引いたので省略します。会話の後、レイの後を歩く亜美の笑顔がいいですね。なんかちょっと心を開いてくれて、一緒に行動してくれているレイをみて、つい微笑んでしまう、という。最初のクラウンのシーンで「でも私は、レイちゃんがどう思ってても、仲間だって思ってるから」といううさぎのセリフを受けたときの亜美の笑顔も良かったし、Act.4も結局、亜美の控えめな微笑と視線が、三人の関係をまとめていく役割をはたしている。
そこへ「きゃあっ!」という悲鳴が聞こえて、駆けつける二人。サボテン妖魔との対面だ。
ここからAct.4は妖魔との対決シーンに入る。コミカルな演出とアクションのへたれっぷりに隠れて、最初観たときにはよく分からなかったが、物語的には非常に繊細な流れになっている。その点については『失はれた週末』のレビューに、非常に詳細な分析があり、またこのブログの【第97回】のコメント欄でこっちよ!さんが指摘されたこともあるので、それをなぞるようなことしか書けないが、やはり大事なところですので、だいたいざっと復習しますね。
亜美が、妖魔に取り憑かれたお嬢様から「幻の銀水晶」かも知れない「幻の青水晶」(ややこしいね)を奪回する。すかさず二人は変身、マーズが「それを持って逃げて、時間を稼ぐから」と言い、マーキュリーはうなずいてその場を逃げ出す。マーズは妖魔退散の火の玉を放つが、お嬢様から離れたサボテン妖魔は二体に分裂し、一体はマーキュリーを追い、もう一体はマーズに襲いかかる。
短いシーンで各キャラクターの違いが的確に描き分けられる。冒頭の池袋西口公園では「私はずっとひとりでやってきたし、その方が気が楽なの」なんてうそぶいていたレイが、ここではとっさに「それを持って逃げて、時間を稼ぐから」と役割分担を決めて、マーキュリーに指示を出す。こういう描写で、何だかんだいっても、レイという子が、根っからのリーダー体質であり、状況判断力と強い責任感をもっていることが示される。
状況判断力に関しては亜美も同じで、これは前回Act.3冒頭の「第1回セーラー戦士クイズ」の伏線が活かされている。セーラー戦士の使命は?というルナの質問に「人間のエナジーを奪う妖魔と戦うこと」とだけ答えたうさぎに対して、亜美は「プリンセスと幻の銀水晶を探し出して守ること」と答えている。つまり妖魔が出現しても「幻の銀水晶を守ること」という大事な目的を見失わない冷静さをそなえているのが亜美で、だからマーズの指示に二つ返事で「幻の青水晶」を持って逃げ出すのである。その一方で、妖魔の相手をひとまずマーズに任せることで「レイさんなら、きっと大丈夫ね」という「仲間」への信頼と連帯のメッセージを送ってもいるのだ。
ところが、マーズは妖魔の放ったツタにがんじがらめにされてしまう。そこでBパートに移り、うさぎが遅ればせながら登場する「レイちゃん、待ってて、いま助けるから」。
しかし、もしここで、うさぎが簡単にセーラームーンに変身してマーズのツタを断ち切ってしまうと、結局マーズは自分で自分を守ることもできないくせに、リーダー風をふかせて「時間を稼ぐから」なんて偉そうなことを言ったことになるし、亜美は亜美で、マーズの実力を見誤り、仲間を見捨てて逃げ出したことになってしまう。だからマーズは自力で窮地を脱しなければならない。そして脚本はちゃんとそうなるように計算されている。うさぎがクマの着ぐるみを脱げず、変身できずにもたついている間に、とうとう妖魔のツタに束縛されてしまうのである。
その様子を見たマーズは必死でツタを断ち切り、うさぎも助けてやる。

マーズ「まったく、あなたが私を助けてくれるのかと思ったら」
うさぎ「私もそうしたかったんだけど……脱げた!でも、あたし感動したよ」
マーズ「えっ」
マーズ「レイちゃん、ありがとう。仲間っていいなぁ」
  (二人とも笑顔)

でもそれだと、駆けつけておきながらマーズに助けてもらったうさぎ一人がバカになる。ようなのだが、でもこの点についてもぬかりなく布石は打ってある。すでに前回Act.3で、セーラームーンはプロペラ妖魔のツタに、同じようにがんじがらめにされていたのに「レイちゃん、逃げて」と言い、さらに枯れ葉攻撃でやられそうになったレイを助けるために、自力で必死にツタを断ち切っている。自分の身がピンチになったときに、それでも他者のために底力を発揮する、という、前回セーラームーンの取った行動を、ここではマーズがうさぎのために反復している、というところがポイントだ。
Act.3のレイは、それでも最後にはセーラームーンの手を借りず、自らセーラーマーズに変身して妖魔を倒した。そして助けてくれようとしたセーラームーンに礼も言わず、仲間になることを拒絶した。レイはこういうプライドの高い人なので、今回、もし単純にうさぎに助けられただけだったら、それを自分の負い目と感じて、なお頑なに心を閉ざしていたかも知れない。
でもここで、レイは前回セーラームーンがやったように自分で束縛を断って、逆にうさぎを助けてあげる。そうしたら、うさぎはそれを屈託なく「ありがとう。仲間っていいなあ」と感謝した。こういうふうに相手から受けいれられるというのは、レイの想定していなかった事態だ。そうかこの人の気持ちには何の表裏もなくて、ただ仲間がピンチだったら懸命に助けようとするし、自分が助けてもらったら、迷惑をかけたとか自分が足を引っ張ったとか、余計なことも考えず、素直に「ありがとう」って言うんだ。それが「仲間」って言っていた意味か。これではレイも笑っちゃうしかない。
やっぱりほとんど『失はれた週末』のなぞりだが、とにかくキャラクターの描き分けが素晴らしい。しかし実際にぼーっと観ていただけでは、今回のバトルは妙にコミカルだなあという印象しか残らない。それはなぜかという問題には、あえて触れません。


尻切れトンボだが、これでAct.4レビューは終わりにします。そのほか「待ちなさい」やルナCGシーンのカウントと言った細々したデータ的なことは、Act.1からAct.3まででやった分とまとめて、DVD第1巻の総括というかたちでやります。しかし、もうすぐまた戦士のお誕生日が来るわけだが、今度ばかりはネタがなくて本当に困ったぞ。