実写版『美少女戦士セーラームーン』ファンブログ


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【第580回】お盆もアイドリングモードの巻

1. 話題の映画を観た



 お盆休みで今回もちょっと休憩モードで進行します。
 評判の映画『シン・ゴジラ』、私も先日、行ってきましたよ。すごく良かった。やっぱりゴジラ映画は日本でなきゃ、と思った。
 ネットのレビューを見ると、エヴァンゲリオンとの関連性とか、要するに庵野秀明監督作品としての議論が圧倒的に多い気がする。それもいいんだけど、そもそもエヴァとの類似は、監督がワザと仕掛けていることなので、そこまで親切に釣られてあげなくても良いと思う。一方、これまでのゴジラ映画の流れを踏まえた評価はあまり見かけないので、私が少し書きます。



 実は『シン・ゴジラ』を観ていて連想したのは007シリーズだった。それは例のBGMを聞いたせいかも知れない。
 って何だそれ、と思う人のために解説しておくと、2作目の『007 ロシアより愛をこめて』(1963年)以来、初期のジェームズ・ボンド映画のサントラで何度も使われた、日本語通称「007のテーマ」(有名な「ジェームズ・ボンドのテーマ」とは別だよ)という曲がある。聞いていただきます。



 ティンパニが印象的なナンバーだが、実はエヴァンゲリオンに、これをまんま元ネタにした「Decisive Battle」という曲がある。主として戦闘態勢に入るときとか緊迫感のあふれるシーンに使われる。それをまた本広克行が『踊る大捜査線』で流用しているって話もあるんだけどそれは措いて、今回、庵野秀明自身が『シン・ゴジラ』に同じ曲を使っているわけ(エヴァの方ね)。それで私は「あっ007のあれがまた出て来た」とか思って、観ているうちにだんだん、『シン・ゴジラ』と最近の007シリーズが重なってしまったわけなんです。ややこしい話ですみません。



 ダニエル・クレイグがジェームズ・ボンドを演じている最近の007シリーズ(『カジノ・ロワイヤル』『慰めの報酬』『スカイフォール』『スペクター』)は、いままでこのシリーズに否定的だった批評家たちからも絶賛されている。それは、ジェームズ・ボンド映画が(特にロジャー・ムーア時代に)次第に手放していったスパイ映画本来の孤独感や緊迫感を、シリーズ設定をリセットすることで改めて取り戻したからだ。でも一方で、ショーン・コネリーから(レーゼンビーを経て)ロジャー・ムーアに、さらには(ティモシー・ダルトンを経て)ピアーズ・ブロスナンにいたる全ジェームズ・ボンド・シリーズへのオマージュも、あちこちにばら撒かれている。Mなんてピアーズ・ブロスナン時代のジュディ・デンチをキャラクター設定を変更しつつそのまま使っているくらいだ。



 今回の『シン・ゴジラ』は何よりも、たった一匹の怪獣の前に都市が厳かに崩壊していく、悲劇的で荘厳なヴィジョンが核になっている。ダニエル・クレイグの007が、あれやこれやの新発明の秘密兵器(それはそれで楽しいんだけれど)を封印して孤独な闘いに徹したように、今回のゴジラもライバル怪獣(それはそれで楽しいんだけれど)を出さないことで、『ゴジラ』(1954年)、『空の大怪獣ラドン』(1956年)、『大怪獣バラン』(1958年)、『モスラ』(1961年)といった初期作品への原点回帰を果たした。そういう意味では本当にひさしぶりに登場したピュアな「怪獣映画」である。しかしその一方では、長い歴史をもつシリーズ過去作品に対するリスペクトに満ちてもいる。



 あまりネタバレしないように注意して書くが、たとえば平成ゴジラシリーズ(三枝未希シリーズ)のラスト三部作『ゴジラvsメカゴジラ』(1993年)『ゴジラvsスペースゴジラ』(1994年)『ゴジラvsデストロイア』(1995年)に登場したベビーゴジラ、リトルゴジラ、ゴジラJr.の進化形態なんかも、本作にはひそかに反映されていると思う。



 昭和ゴジラにはミニラという「ゴジラの息子」がいたけれども、平成ゴジラはそこを掘り下げて、そもそもゴジラはどのように誕生するのか、雌なのかそれとも単性生殖なのか、そして幼獣から成長体へ、どのくらいの期間でどんなふうに成長するのかという疑問にチャレンジすべく、ベビーゴジラという「二代目」を登場させた。



 ベビーゴジラは太古の恐竜ゴジラザウルスが海底の核廃棄物の影響を受けて怪獣化した、いわばゴジラの原初形態である。それが南太平洋にある架空の島バース島の天然ウランを餌に、次第にゴジラと同じ形態へと個体進化していく。そのあたりを三作かけて描いて「ゴジラはどのようなプロセスを経てああいう姿になったのか」を説明していた。
 三部作最後の『ゴジラvsデストロイア』(1995年)は、ゴジラの体内の核反応が暴走してメルトダウン寸前になるという話だった。その危機に対して、我が国は戦闘機スーパーX3の冷凍弾を使って「ゴジラを凍結・溶解させる」という作戦を実行する。



 ゴジラは凍結状態になって死ぬが、その核エネルギーを吸収したジュニアが、次世代ゴジラとして咆哮をあげるところで物語は終わる。
 その四年後にシリーズが再スタートした『ゴジラ2000 ミレニアム』(1999年)以降の「ミレニアム」シリーズでは(実際には一作ごとに設定がリセットされるパラレルワールド形式だったけど、以下それを適当にまぜこぜます)ゴジラがエネルギーを求めて東海村の原子力発電所を襲いそうになる。



 そのため日本政府は「ゴジラの攻撃目標になる原子力発電の永久放棄」を宣言し、電力はソーラー、風力などクリーンエネルギーに一本化される。倒壊した東京に変わって首都を大阪に移したので、国会議事堂は大阪城の隣に建っている。



 万城目学はこのビジュアルを見て『プリンセス・トヨトミ』のプロットを思いついたのではないかと、私は半分くらい真剣に思う。
 ゴジラが再び現れる時にそなえて、史上初の女性総理(水野久美)が「対G特殊兵器開発法案」を国会で可決させ、日本が再び軍事国家と化することを懸念する世界への説得に務める。



 この世界においては、自衛隊違憲論者に対しては、自衛隊はゴジラなどの怪獣が国内に出現した場合にそなえて必要である、という主張がなされる。というふうに、「ゴジラがもし本当に存在したら」というシミュレーション的な要素をどんどん強めている。このへんは平成ガメラの影響もあるけど。
 今回の『シン・ゴジラ』は、エヴァンゲリオン風の意匠で全体を覆いつつ、基本プロットにはこういう歴代ゴジラ作品の設定や着想を練り直して採り入れているところがあって、そういう意味でゴジラ・シリーズの総決算的作品であると思う。
 もちろん、意図的にやっているという意味ではない。ていうか表面的にはまったく意図してないと思う。でも庵野監督のことだから、なんだかんだとゴジラシリーズはひととおり観ているはずだし、オタクの習性として「ああここは自分ならこうするのにな」と、いちいち突っ込みをいれては記憶の底にため込んでいたはずだ。空想特撮映画を愛する才能豊かな映像作家の識閾下にぎゅっと濃縮された、そういうさまざまな思い(とエヴァのストレス)が、今回「ゴジラ映画を撮る」という千載一遇のチャンスを得て一気に炸裂したのではないか。この映画にはそんな爽快感がある。



 ただ過去のゴジラ映画って、理想はそれなりに高いところにあるんだろうけど、できあがった作品はどこか残念だった。ダサイというか、もたついているというか、とにかく「気持ちは分かるんだけど、リアリティがね〜」的な溜息が出た。たとえば『ゴジラ×メガギラス G消滅作戦』(2000年)に「あの巨大な体重を支えている足が弱点だ、足を狙え」っていう、わりとリアルっぽいセリフが出てくる。それでちょっと期待して観ていても、結局、砲弾は頭とか胸ばかり攻撃していて、やっぱ駄目じゃん、と思う。きっと台本を見た撮影現場の人が「足ばかり攻撃してたら画面が盛り上がらないよ」とか言って変えちゃったんだろうけど、そういう間抜けな感じが常にあったんですね。



 あるいは『ゴジラvsメカゴジラ』(2002年)で、水野久美の総理大臣が、全幅の信頼を寄せて中尾彬に国を託す場面でも、わりと真面目なのに、観ていて「え〜っ中尾彬が次の総理?」と内心で失笑を禁じえなかった。



 今回の作品で、途中で首相が大杉漣から平泉成に替わる。考えてみればこれも相当な人事だと思うんだけど、でも間抜けな感じがしない。リアリティに裏打ちされた格好良さというのか、『シン・ゴジラ』はなかなか笑えないのである。
 でもそういう「つい失笑しちゃう」場面がないと、なんだか東宝の怪獣映画じゃないよ。どこか東宝らしいもたつきというか、ダサさというか、残念な場面が無いと、困ったな、これは出来が良すぎるぞ……。
 なんていう面倒くさい東宝怪獣映画オタク(私だが)のために、庵野監督は石原さとみを投入したのだと思う。



 今回石原さとみの演じたアメリカ特使という設定のリアリティのなさ、いかがわしい巻き舌の英会話、無駄なセクシーさ。安いセレブ感、すべてにおいて「これぞ東宝怪獣映画」という軽さと薄さで、重厚なあまり東宝の怪獣映画らしくなくなりかけた『シン・ゴジラ』を、たった一人で、全力で引き戻していた。もう「女ニック・アダムス」と呼びたい。さすがは沢口靖子の後輩、東宝シンデレラ、東宝のために一肌脱いだ。



 ……と思ったら、実は石原さとみは東宝シンデレラじゃなくて、ホリプロタレントスカウトキャラバンのご出身だそうである。本当だったらこれは長澤まさみがやらなくちゃいけない役だったのだ。それなのにこんなに東宝怪獣映画のために尽くしてくださるとは。石原さとみ様、感動です。

2. Wonderland



 すまん、ちょっとセーラームーンと関係ないことに熱が入ってしまった。というわけで、いきなり次の話題。
 タキシード仮面界の出世頭、浦井健治である。前にも紹介したとおり、浦井健治の初ソロアルバムが2016年8月3日に発売となった。来月はソロコンサートも予定されているという。『ミュージカル美少女戦士セーラームーン 誕生!暗黒のプリンセス ブラックレディ』(2001年7月〜8月)のデビューから今年で15周年である。お盆明けの名古屋公演に、まだ小学校入学前だった娘を連れて行ったっけ。その娘もとっくに成人になった。



 私は『誕生!暗黒のプリンセス ブラックレディ』のVHSビデオを所有しているのだけれど、うちには再生できるデッキがなくなってしまった。バンダイ版セラミュの公演本編でDVD化されていないのは、神戸みゆきのラスト・ドラクル三部作とこの黒木マリナ・浦井健治の初コンビ作『誕生!暗黒のプリンセス ブラックレディ』(および冬の『改訂版』)だけだと思う。そんなわけで、デビュー当時の浦井健治のマントさばきってどんな感じだったかなあと思っても、簡単に確認できなくて困っている。
 どうしてそんなことを思い立ったかというと、ひろみんみんむしさんから、華麗にマントをひるがえす最新の浦井健治の姿をメールで届けていただいたのである。



 すごいね。これはなにかというと、帝国劇場で『王家の紋章』というミュージカルの舞台をやっているのだ。『王家の紋章』とはあの『王家の紋章』である。細川智栄子(漫画)と芙〜みん(原作)という実姉妹コンビが1976年から『プリンセス』に連載している長ロングランの少女漫画だ。



 ちなみに同じ1976年に『花とゆめ』で連載開始したのが美内すずえの『ガラスの仮面』で、この二つは少女漫画界における二大「終わらない漫画」として有名である。ただ、連載ペースがとんでもなく落ちてはいるけど、そのうち完結する(かも知れない)気がする『ガラスの仮面』に対して、『王家の紋章』ってもう、終わるに終われないというか、栗本薫の『グイン・サーガ』みたいになっちゃっている(実は私はどれも最初の十冊ぐらいしか読んじゃいないのだが)。さらにちなみに、やっぱり同じ1976年に、週刊少年ジャンプでは山止たつひこ(現・秋本治)『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の連載が始まっている。どんな年だよ1976年って。



 お盆休みで気がたるんでいるせいか、話が横に流れてばかりですまない。知らない人のために『王家の紋章』がどういうお話か、ちょっとだけ紹介すると、アメリカの財閥令嬢で考古学オタクの16歳の少女キャロルが、エジプトに留学して墳墓の発掘調査に参加したら、復活した古代の女王の呪いで本物の古代エジプトにタイムスリップしてしまう。
 で、エジプトには珍しい金髪の白人娘で、しかも20世紀の知識や教養をもってあれこれ発言して、それが古代エジプト人には奇跡みたいにみえるもんだから「ナイルの娘」と崇められるようになる。現代の医学の知識をもって幕末へ飛んだ仁先生みたいなもんです。違うか。



 古代エジプト世界には激しい気性と美貌の少年王メンフィスがいて、最初はいろいろあるんだけど結局キャロルはこの美貌の王と結ばれる。それで嫉妬されたり、さらわれたり、まあときどき現代に戻ってきたりもする。そしてどこへ行っても異様なほどモテまくり、男の独占欲をかき立てるので、彼女の周囲では常に血が流れ、戦争が絶えない(かなり適当な紹介)。
 1976年にこのようなタイムスリップものの漫画って、まだそんなになかったと思うし、しかもスケールがでかい。アメリカ人のヒロインが古代エジプトに飛んじゃうのである。ちょっと前に『テルマエ・ロマエ』というのがあったが、あれは西暦130年ぐらいの古代ローマの風呂が現代の日本の温泉とつながっていたという話である。『王家の紋章』のメンフィスは架空の王様だが、ラムセス2世とかツタンカーメンがモデルと思われるので、紀元前1300年頃の話である。ケタが違うね。こういうのに較べると、少年時代の自分にタイムスリップする話とか、幕末に行って坂本龍馬に会ったり、戦国時代へ飛んで有名な武将と知り合いになったりする話は、それだけでなんかちょっと小物っぽい感じがします(違うか)。



 ともかく、これほど息の長い人気作品に、アニメ化や舞台化(ドラマ化はちょっと難しいか)の話が一度もなかったとは思えない。でも過去のメディアミックスは、ドラマCDとかイメージアルバムとかはあるが、映像化はなかった。それが連載開始40周年記念ということで、デビュー15周年の浦井健治を主演に迎え、ついに舞台化されたということである。すみませんようやく本題に戻れました。音楽がシルヴェスター・リーヴァイ、演出は元宝塚歌劇団の荻田浩一、ヒロインのキャロルは新妻聖子と宮澤佐江のダブルキャストで……って、宮澤佐江って誰?



  と思ったら元AKB48で、AKB歌劇団や『ウルトラマンサーガ』で秋元才加と組んでいた子だった。私も知ってた。でもあれだね、『ニーチェ先生』で松井玲奈、『トライベッカ』で渡辺麻友と、ここのところ浦井健治はAKBグループとの親交を深めつつあるような気がする。あと宮野真守も出ている。山口祐一郎も。豪勢ですね。
 などというおしゃべりをダラダラしていてもキリがないのでこのへんで。今回見逃したという方も、初演のカーテンコールの際、来年春の再演決定がアナウンスされたので(2017年4月東京、5月大阪)次は頑張ってください。



 えーとそれでソロアルバムだ。一緒にセーラームーンミュージカルを観に行っていたうちの5歳の娘が20歳になっちゃって、浦井健治はデビュー15周年で、8月には初のソロアルバムを発表し、9月にソロコンサートを行うことになったっていう話だったんですよ本来は。
 前半は、『二都物語』あり『デスノート』あり『エリザベート』ありディズニーありと、いかにもミュージカルスターのソロアルバムっぽい感じだったけど、『ヘドヴィグ・アンド・アングリーインチ』の「真夜中のラジオ」が選ばれていたのがちょっと予想外だった。セーラームーン的な聴きどころは、やはり小坂明子が曲を書いた「Color of Dream」。小坂明子と浦井健治ということもあって、もう終わって10年以上も経つのに、バンダイ版セラミュの新曲を聞かされているような錯覚に陥って楽しい。



 それから大島ミチルが10年くらい前に、浦井君のフォトブックだかDVDだかの特典として書いた「彼方」という曲も収められている。これはエンディング曲のように響くのだが、このあともうひとつコミカルなボーナス・トラックがあって、何かと思ったら劇団☆新感線の舞台「薔薇とサムライ」で浦井健治が演じた役の後日談みたいな書きおろしソングだそうである。なので高田聖子以下新感線のメンバーが参加している。中には『仮面ライダー鎧武』でドリアンを演じた吉田メタルもクレジットされている。泉里香にケーキを作ったり、サルグツワを噛ませたりしていた人だ。






 おっと吉田メタルじゃなくて泉里香がメインになってしまった(わざとらしい)。
 それはともかく、ファンクラブイベントに参加されたひろみんみんむしさんのお話によれば、彼は古代エジプトのファラオ役に挑戦中であることを報告した際も「タキシード仮面以来のマントさばき」みたいなネタで笑いをとりつつ、そういうふうにデビュー以来の経験が今に活かされているとか、明に暗にセラミュを推していたそうである。



 私は大和悠河がネルケ版セラミュの立ち上げに際して「宝塚以来のマントさばきをお見せします」みたいな発言をしていたことを想い出した。大和悠河のマントさばきは、さすがに歴代タキシード仮面のなかでも随一のエレガントさだけど、ひょっとして浦井君もそのことをちょっと意識していて、元タキシード仮面として、自分も負けずにがんばろう、なんて気持ちも少しはあるんじゃないだろうか。まあ私の妄想です。
 というわけで、もういちどメンフィスのマントさばきを拝見しましょう。



 本日はこの後、もう一人、自分がセーラームーン出身であることを誇りにしているスター、北川景子の『家売るオンナ』第5話反省会、およびWOWOWドラマ『ヒポクラテスの誓い』の予習会を予定していたんだけれど、『家売るオンナ』はそんなに反省点もないし、『ヒポクラテスの誓い』の原作もまだ読み終わっていないので、こんなところで。思いのほかゴジラを論じてしまってバランスの悪いブログになったぞ。



 最後に、浦井健治と、彼の後を継いで七代目タキシード仮面となった城田優の二人が『女性セブン』にツーショットになったという惑星直列みたいな話があったので、これも御紹介しておきます。もちろん私は『女性セブン』買ってないよ。




んじゃ、お互いお盆はゆっくりできたらいいね。




 【おまけ】さっきの『女性セブン』の反対側ページ。なぜ載せると言われても困るが、せっかく戴いたので、ついでに(ファンに怒られるぞ)。