1. 「この出会いは偶然じゃない」(Friend)
12年といえば干支がひと廻りする。そのぐらい過去の話になったので、昔を知らない人のために書いておくが、実写版セーラームーンは放送当時、インターネットの世界では、駄作とか失敗作とかそれはひどい言われようだったのである。でもいまとなっては「良かった」「楽しく観ていました」という声が多く聞こえる。
だいたいネットにおけるバッシングって、実は匿名をいいことに一部の人々が声を荒げているだけで、周囲はたくさんの無言の反撥によって、十重二十重に囲まれている場合だって少なくないと思う。ただそういう声なき声は(良識があるために)たいてい沈黙を守っていて、最後にはすべて忘れ去られてしまう。
実写版セーラームーンは、放送当時はサイレント・マジョリティだった支持者たちの声が、時が経つにつれ次第に大きくなって、かつての無責任な批判や言われなき悪口を押しやった稀有な例である。どうしてそうなったかというと、やはり最大の要因は、番組終了後もスタッフ、キャストが折りに触れ、この作品に関わったことを肯定的、積極的に発言し続けてきたところにあると思う。
なかでも北川景子のようなトップクラスの人気女優になった人が、繰り返し自分の原点としてセーラームーンを語って来たことの意義は大きい。事務所も当初はあまり触れて欲しくなかったみたいだし(移籍後最初の作品であるSpecial Actでは変身すらNGだった)一部マスコミもセーラーマーズ時代を、北川景子の「黒歴史」「恥ずかしい過去」として取り上げてやろうと躍起になっていたが、当の本人が東映特撮出身でレオタード着てがんばっていたことを臆せず公言するので、そういう大人たちの思惑はほとんど意味がなくなってしまった。
彼女としては、たんに自分の気持ちを素直に語っただけなのだろうが、これはスター女優北川景子が、同世代の同性の支持を確固たるものとするうえでも、きわめて正しい戦略だった。現在20代、30代の女性にとって、セーラームーンは恥ずかしいどころか、子どものころ最初に憧れたヒーローなのである(と思う。おじさんよく分かんないけど)。
ちょっと前の、神田沙也加のOLがエレベーターで「乙女のポリシー」を歌うCMや、今やっているチョコラBBの「職場で働く美少女戦士たちへ」というCMは、明らかにそういうフェイズで作られている。
だから北川景子のセーラーマーズは、同世代女子にとって黒歴史どころか最高にカッコいいデビュー作なのである。実写版のレオタード姿を「恥ずかしい過去」と見るオヤジ雑誌のエロ目線こそ、むしろ恥ずかしいほど時代が読めていないのだ。
それにしても、北川景子がこんなにビッグになったことひとつ取っても凄いのに、当時の戦士たちが、アラサーになった今もそれぞれに美しく、みんな現役の女優やモデルとして活動していること、そして定期的に戦士の集まりを開いてファンに報告してくれること、そしてそのために実写版セーラームーンが忘れられた作品にならず、逆にその評価をじわじわ高めていること、どれも奇跡みたいだ。北川景子の結婚を祝って、セーラー戦士が現役ピカピカのまま、こんなふうに集結して、ますます仲良くしているなど、12年前に番組が終わった時点で誰が想像しえただろう。そういう励みがあるので、うちのブログもたいして停滞することなく、気づけば今月で開設10周年に達した。これからも細々とがんばります。
2. 捜査開始
さて2016年3月13日放送の松本清張スペシャルドラマ『黒い樹海』(テレビ朝日)レビューの続きである。
笠原祥子(北川景子)は、亡くなったお姉さんの上司(桜井聖)の厚意で、契約社員として東都新聞文化部に採用された。
与えられたデスクはお姉さんのもので、まったくの後任というかたちである。
初出勤日なんだけど、早くも先輩の町田知枝(酒井若菜)に外回りに引っ張り出される。姉の信子が担当していた文化人たちに、お姉さんの後任としてひととおりご挨拶をしておこう、という話だ。
祥子には願ったり叶ったりの話である。なぜなら祥子は、休暇をとった姉は誰かと不倫旅行に出かけ、そこで事故にあったのではないかと疑っている。そしてもしそれが真実なら、不倫の相手は、おそらく文化部記者だった姉が取材で接触した男性の誰かだろう、とも踏んでいる。姉のような聡明な女が恋に落ちるとしたら、その相手は姉が取材していた一流の文化人くらいしかあり得ない、というわけだ。こういうふうにまとめてしまうとかなり強引な理屈だが、そのあたり、原作は松本清張ならではの語り口でそれなりに納得させられるし、今回のドラマもテンポ良く進んで行くのであまり気にならなかった。
まあ、いくらお姉さんが不慮の事故死だからって、今日びの大手新聞がそんなに簡単に妹を(契約社員でも)採用してくれるんだろうかっていうふうにも思うけどね。そのへんは、あまり一般的な企業に勤務していない私にはわからない。原作が書かれた昭和三十年代ならあったかもな、という気もするが。
ま、ともかくそういうわけで、祥子(北川景子)は知枝(酒井若菜)につられられて、生前の姉とつき合いのあった文化人たちに挨拶回りをすることになる。
まず最初は、華道望月流の家元、佐敷泊雲(古田新太)。葬式に派手な生け花を献じた人。
なんかおネエな雰囲気で、かたわらに美少年を置いている。
別に華道の家元がみんな假屋崎省吾さんみたいなキャラではないと思うんだが、こういうの好きなんだろうな、古田新太。
佐 敷「どうも、お待たせしました」
佐 敷「あら、いつもの担当の方とは違うのね?」
知 枝「ですから、先日事務所の方を通じて……」
佐 敷「ん、何?」
生徒の声「あっ!」佐 敷「ちょっと何やってるの!」
知 枝「あきれた。告別式に自分の名前で花出しといて」祥 子「そういうのはぜんぶ他人まかせなんじゃないですか?」
佐 敷「どうも、お待たせしました」
佐 敷「で、何だっけ」
知 枝「あの、先日先生を担当させていただいておりました笠原信子は異動になりましたので」
知 枝「え?」祥 子「新しく私が担当させていただくことに」
佐 敷「あ、そ」
祥 子「すみませんまだ名詞が刷り上がっていなくて」
祥 子「花山祥子と申します。よろしくお願いします」
佐 敷「花山……お花の山ね。ステキな名前ね!」
祥 子「おそれ入ります」
「花山」という偽名を聞いた佐敷は大喜び。いやホントに古田新太は楽しそう。
とっさに偽名を名乗るわけだが、ぱっと生け花を見て「花山祥子」と名乗るあたり、桑畑三十郎とか『椿三十郎』とかの乗りで、男前の北川景子ならではの決まり具合である(笑)。加えてここから先、ヒロインは本名を隠して探りをいれることになって、物語にちょっとしたスリルが生じる。これは原作にはない趣向だ。原作の主人公は、故人となった前任者の妹であることをずっと公言しているので、このへんの味つけはドラマ版独自である。
なぜ偽名を名乗ったか。名字が死んだ姉と同じだと、相手がもし姉の不倫相手やその関係者だった場合に警戒されてしまうから……という答えが話の流れ的には正解だが、このドラマの北川景子は探偵でも探偵の探偵でもないので、それだと機転が利きすぎである。というわけで、ちゃんとそれなりの説明がある。このあたりに脚本家の匠の技を感じました。
知 枝「なんで偽名なんて?」祥 子「あの場で恥をかかせてしまうと、ちょっと面倒な人かなって。お弟子さんたちもいたし」知 枝「……あなた、どこでも仕事できそうな感じじゃない」
祥 子「いや、ちょっとしたことで我慢ができないんです」
知 枝「ああ、それね」
で、ながらく正座を強いられた佐敷泊雲の家を出て、公園かどこかのベンチでひと休み。会話のあいだ、いろんな人が二人の前を行き交う。こういうエキストラに人件費を使っているかどうかが、ドラマとしてのグレードをはかるひとつの目安である。北川景子の出るドラマはだいたいお金がかかっている。
祥 子「それさえ直せたらねって、姉からもよく……」
知 枝「大丈夫、さっきも十分我慢できてた。まあ私に言わせれば、お姉さんはちょっと我慢しすぎな所があったと思うけど」
小説の方では、あくまでも積極的で新聞記者をやってる姉と、もともと控えめで普通のOLをやっていた妹というコントラストになっていた。でもこのドラマ版では、意外と我慢する古風な姉と、意外と前へ出るタイプの妹というふうに変更されていて、この「意外と古風な姉」というあたりが、原作とはかなり異なる事件の真相につながっていく。
3. 「責任をとるべき人がいる」
そのとき、町田知枝の持ち物の中でバイブ音がする。スマートフォンを取り出す知枝。そして会話を終えた知枝は謎めいた言葉を残す。このあたりは原作にはまったくない、ドラマオリジナルの伏線である。
知 枝「はい、はい……え、いまからラファエル?」
知 枝「分かった。行く。私も話あるし」
知 枝「ごめん。次、先行っててもらえる?」祥 子「え?」
知 枝「小児科の西脇先生の出版パーティー」
祥 子「私一人で?」
知 枝「すぐ追っかけるし」
知 枝「私もさ。すっごい悔しいのよ。信ちゃんがあんな死に方して」
知 枝「お姉さんがあんなことになってしまったのには、責任をとるべき人がいる」
祥 子「それ、どういう意味ですか?」知 枝「うん」
祥 子「姉のことで責任をとるべき人って」知 枝「有名人だったらなおさらよ」
祥 子「誰なんですか?」
知 枝「ごめん。あとでゆっくり話そ」
ということで町田知枝(酒井若菜)はその場を去り、祥子はひとり小児科医の西脇(沢村一樹)の出版記念パーティーに向かう。祥子にとってはこれが、生きた町田知枝の姿を見た最後の機会となってしまった。
祥子のM(姉の死の原因は明らかに事故だ。なのに、それについて責任を取るべき人物がいるとは、いったいどういう意味なのだ。しかもそれは、有名人……)
ミステリとしてのこのお話の面白さは、最初の事件は明らかに偶然の事故なのに、何かしら不自然な要素があって、それを追求し始めたところで第二、第三の事件が起こり、なんだか連続殺人のような様相を呈してくる、という謎めいた展開にある。主人公は、最初の事件では被害者の身内として否応なしに事件に巻き込まれるが、姉の死に不審な点があると感じて動き出し、続く事件と姉の事故死との関連を解き明かそうとするのである。このあたり、昭和三十年代の小説にしては、かなりヒロインが積極的に動いているんじゃないかと思う。反面、現代のドラマのヒロインとしては、まだまだ受身な感じもする。そこのところを脚本は、ややアクティブなキャラクターに軌道修正して、主人公に探偵っぽく偽名を名乗らせたり、ただいま失職中の理由を「いや、ちょっとしたことで我慢ができないんです」と言わせてみたりしているのだろう。そういう性格設定が、北川景子という現代的なようで古風なような女優とうまくかみ合っていると思います。
今回はこのへんで。しかしこんなペースでは、レビューが完結するまでに半年くらいかかってしまうのではないか。どうする。