実写版『美少女戦士セーラームーン』ファンブログ


最新記事〕 〔過去記事〕 〔サイト説明〕 〔管理人

【第516回】がんばれ舞原賢三!ケンゾウのエイゾウの巻



 実は私、映画制作にあたって、クラウドファウンディングという手段に訴えることを、必ずしも良しと思ってはいない。というのも一昨年、東京女子流の主演映画『五つ数えれば君の夢』(監督:山戸結希、2014年)のファンドが行われたときには、そのあざとさに、かなり冷めた気分にさせられた思い出があるからだ。だってさ、コースによってそれぞれ特典が大きく違うのだ(詳しくはこちらをご覧ください)。


3万円→写真やポスターのお土産をメンバーが手渡し
4万円→映画衣裳での集合チェキ撮影会
15万円→サイン入り等身大パネルプレゼント


 3万円コースへの出資者は120人、4万円コースへの出資者は43人、15万円コースは6人ということだが、15万円出した6人の方々は、まず間違いなく3万円、4万円コースにも噛んでいるはずである。計22万円。それぞれ特典内容をちょっとずつ変えて、少数の熱狂的ファンから絞れるだけ絞り取る。払う側は納得ずくなんだろうけど、なんだかねえ。作品自体はそんなに悪くなかったんだけどね。こんな感じの映画です。








 どんな映画か……分かんないかこれじゃ。
 この作品のファンドの場合、目標額300万円に対して、ファンが結束して700万円以上が集まったというのだから、やはりアイドルはすごい。延べ人数は320人だが、最低額の500円コースから最高額の15万円コースまで、全コースに入れたファンも絶対にいると思う。
 それに較べると、舞原賢三監督が現在展開中の『あわ百合』ファンド(ここ)は、投資金額が増すほど、少しずつ特典が増えてくるシステムなので、二重三重に払う必要はない。しかも最高額の10万円コースは「舞原監督と都内某所にて映画について語り明かすことが出来ます」という、もはや商品価値はどこにも見当たらない特権(笑)。ただ、舞原監督がアイドルでもないのに身体を張っている、そこに投資できるかどうかという、こちらの哲学というか美学を試されるようなものである。いやほんと。
 だから『五つ数えれば君の夢』ファンドには批判的だった私も、今度はいっちょ加わったよ。だって舞原賢三だぜ。
 が、しかし、目標額200万円に対して現在の出資者は24名、総額25万円弱で残り日数はあと一カ月あまり。前回のブログにも書いたように、これは目的達成型のファンドなので、目標額に至らない場合には、どうも「残念でした、解散!」ということになるらしい。それはいたたまれない。少しでも我らが舞原賢三の力になってあげたい。



 というわけで今回は、実写版セーラームーンにおける舞原演出の魅力を改めて伝えたい。内容はこれまで書いたことばかり。つまり一種の「総集編」なのだが、これを読んで一人でも多くの人が「そんな舞原監督の新作映画見たいなあ」と思い「ま、ちょっとどこかで一杯飲んだつもりになって」という軽い気持ちで『あわ百合』ファンドに出資してくれれば、本当に嬉しいぞ。

1. イエス・フォーリンラブ


 それは実写版セーラームーンのAct.2から始まった。仮面ライダーともスーパー戦隊とも違う、女の子をターゲットとした新しいタイプの特撮番組を始めるにあたって、白倉伸一郎は女性ライターの小林靖子をメイン脚本家に、そしてパイロット版の監督に田崎竜太を起用した。おそらく三人ともそれぞれに手探り状態だったに違いないが、ガチな小林脚本を田崎監督がガチに演出したことで、奇跡が始まる。
 田崎監督がセーラームーンに続けて手がけた作品『Sh15uya』のDVD第1巻付録ブックレット「総監督・田崎竜太の世界」には、次のように書かれている。


 田崎は『劇場版 仮面ライダー555』の後、白倉プロデューサーが新たに担当することになった『美少女戦士セーラームーン』の第1話第2話を演出する。
 「『仮面ライダー』ももちろんいろんな点で挑戦したけど、『セーラームーン』は自分的に挑戦度が高い。自分として慣れ親しんだジャンルではないので」
 田崎は、『セーラームーン』という作品を《自分の中にあまり無かった部分》として捉え、《得意な世界》じゃなくても、プロの監督として対応できるのか、という挑戦をすることになる。
 第2話《マーキュリー誕生篇》で、水の戦士マーキュリーが覚醒する時、落下しながらセーラー戦士になってゆく、と脚本に書かれていた。それを手がかりに、覚醒する以前、孤独な亜美(マーキュリー)は、孤独感が募るほど、上へ向かってゆく、という演出設計をした。エスカレーターで上がってゆく、とか、屋上に行く、とか。最後は覚醒し、落ちてゆく。






 「こう設計できた時、自分で納得がいった。」ある意味《演出論》的アプローチで良いのではないか。「大学での映画の勉強が、ちょっと役に立ったのかもしれない」と田崎は思った。
 『セーラームーン』を演出して、「まだまだやれることがあるんだな、と気づかされた」と田崎は言う。「《子ども番組》という《レッテル》の陰には、実はいろんな可能性がある。《レッテル》に騙されないで、やらなきゃいけない。お客さんに“騙されないでね”って言う以前に、自分が騙されていることもある。自分で勝手に《境界線》を作ってしまう。その《境界線》を、上手く、モヤモヤッと馴染ませて、すこーし浸食してゆくような、そんなことができたらなぁ、と」


 そしてこういう田崎竜太の「落ちていく」演出プランにビビッドに反応し、文字通りフォーリンラブしちゃったのが舞原監督である。実写版セーラームーンDVD第9巻の特典映像の中で、「好きなエピソードは?」と質問された彼は「第2話」と答えている。



「好きなエピソード……いちばん衝撃的だったのは第2話ですね。初めて1、2話観たときに、『不思議少女もの』だと思って入ってきてたので、『あぁこんなに真面目に作るんだ』って……あと第2話に関しては、もう何か、裏の裏の裏の裏の意味がいっぱいあったりなんかして、非常に田崎さん真面目に作ってるんだなあと思って、非常に衝撃を受けた記憶がありますね。で、第2話の印象が強いですね」



 田崎竜太はこの第1話、第2話に加え、第7話、第8話を演出したあとは、佳境に入った『仮面ライダー555』に戻ってしまったが、パイロット監督として多くのものを残した。その方向性を受け継ぎ、以降、実写版セーラームーンの屋台骨を支えることになったのが、第5話で初登場した舞原賢三である。

2. 屋根裏の散歩者


 田崎竜太監督が担当した4話のうち、Act.1にはクラウンは登場しない。そして残るAct.2、Act.7、Act.8の3話でクラウンが登場するカットには、ものすごくはっきりした共通の特徴がある。カメラは必ずクラウンの入り口、階段の上から部屋を見下ろす位置に据えられる。そして階段の手すり越しに、のぞき見るようなショットから始まる。


Act.2


Act.7


Act.8


 田崎監督はクラウンを、秘密のドアを開ければすぐに入れるだけではなく、そこから階段を段々と下りていった先にある、簡単には手の届かない、少女たちだけの「秘密の場所」として設定した。そしてそれを撮るときには、入り口で立ち止まり、手すり越しにそっと、美少女たちの聖域をのぞき見る、遠慮がちでおどおどしたおじさんの視線になるのだ。これはやばいオジサンだぞ。やばいけどよく分かる。
 こういう視線を継承したのがAct.5の舞原賢三である(それに較べるとAct.3とAct.4の高丸監督は明朗会計)。しかし舞原監督の場合、階段から手すり越しにそっと伺う、なんてもんじゃない。
 オープニング終了後。亜美が「私は月野さんと本当に友達になったんだろうか?」と不安にくれる様子を、天井裏からのぞき見ている謎のオジサンのような視線。これはほとんど江戸川乱歩ではないか。


 
 と思いきや、カメラはそのまますーっと降りていって、ちょっと距離を置いて、心配そうに亜美の傍らに寄り添う。最初がこっそりのぞき見るような視点だっただけに、ものすごく大胆な感じがする。




 そう。このダイナミズムが舞原賢三なのだ。監督が台本を読んで、亜美という子に(あるいは浜千咲の魅力に)引き込まれていく、そういう、監督が作品にのめり込んでいくプロセスが、そのまま画面にあらわれてしまうところが魅力なのである。ちなみに小林靖子の台本はこんな感じ。


  一人座っている亜美。
  壁には、三人で撮ったポラが何枚か貼ってある。
  亜美、曲がっている写真を直してみたりする。


 この「ポラ写真」が、Act.5全体を通じてのテーマというかモチーフになるわけだが、この部分の話の運び方がまた舞原賢三(笑)。ちょっと分析してみましょう。ちなみにカメラマンは松村文雄。



思い悩む亜美


ふと壁に視線をやる


ポラ写真


曲がっている写真を直す


 「亜美が壁に目をやる」という動作を媒介して、カメラは亜美から壁のポラ写真へと移動する。要するにカメラが登場人物の視線に乗っかって興味の対象を移していく。だけど、それは必ずしも、その登場人物の目線というわけでもないんですよね、たぶん。舞原監督の「このポラ写真が今回のエピソードのテーマだな」という思いと、亜美の視線が一体化している感じ。つまり監督が乗ってくると、作品の中に半分首を突っ込んじゃって、登場人物の視線を借りて、監督が作品世界をキョロキョロしてるようなカメラワークになる。そしてそののめり込み方が、視聴者には気持ち良いわけです。

3. 中村優一さん、俳優復帰おめでとう


 そういう舞原監督の特徴が、シロウト目にもはっきりと分かるほど出てくるのは、やはり小林靖子脚本作品なのではないか、と思うんですよね。ものすごく複雑な例を見てみましょう。セーラームーンから3年後の作品『仮面ライダー電王』第19話(2007年6月3日放送、脚本:小林靖子/監督:舞原賢三)。ちなみに以下の分析は、当時うちのブログにもよくご意見いただいていた「失はれた週末」(ひこえもん劇場)の黒猫亭さんの解説を私がパクったものです。
 この回は、仮面ライダーゼロノスこと桜井悠斗(中村優一)とデネブ(声:大塚芳忠/中の人:伊藤慎)の顔見せエピソードである。
 設定としては、のび太がタイムマシンで未来に飛んで、自分のフィアンセになったしずかちゃんを見に来たら、歴史に改変が加えられていて、しずかちゃんはのび太の記憶を失って喫茶店を経営している、みたいな感じ。違うか。
 ともかく、桜井悠斗は過去の世界から、自分の将来の婚約者、野上愛理(松本若菜)を見に来たのである。そしたら、その愛理さん狙いのヘンな常連客(永田彬と上野亮)がいるので、ちょっとイラついている。





 ふと反対方向を見上げれば、この店のシンボルである天体望遠鏡。




 これは、愛理と悠斗の思い出の品なのだが、愛理にとっては失ってしまった過去の記憶に属し、過去から来た悠斗にとっては「これから」思い出の品になるべきアイテムだ。





複雑な思いを胸に、そのまま憮然として、再びカウンターの方を見やる悠斗。



尾崎正義(永田彬)は相変わらず愛理さんを口説き続ける。



 足元を見おろせば、他のあまたの男性客が置いていったらしい花束とプレゼントが、フロアにまとめられている。




 そして「忘れ物」の札が。つまり愛理は、男性客たちが他ならぬ彼女への思いを託して置いていったプレゼントや花束を、お客さんの「忘れ物」と勘違いしているような天然ボケなのである。



 「ったくよ」という感じの悠斗だが、ある意味、愛理が幸せそうなのはいいことかもな、と思っているようにも見える。



 すると不意に背後から手が伸びてコーヒーを置く。振り返る悠斗。そこに愛理が。



 以下、悠斗と愛理の会話が続く。
 とにかくカメラ位置があっちこっちへめまぐるしく動き回る(撮影は倉田幸治)。いろいろなものの位置関係がどうなっているんだか、よく分からなくなってしまいそうだが、実際には悠斗の視線を媒介してつながっているから、そんなにとっちらかった印象はない。ていうか、視聴者も一緒の視線になって、悠斗の「どれも初めて見るものばかり」「でも未来の自分にとっては、思い出の詰まった懐かしい光景なのだ」という奇妙なとまどいと好奇心に揺れる心象を、何となく共有できる感じになるのである。

4. ズーム・イン!


 こういう、視線と一体化することで生まれる舞原演出のダイナミズムは、画面の横移動だけではなく「奥行き」という形式でも現れる。さっきのAct.5の初めの方「天井から舞い降りるカメラ」の動きもそうだけど、ここではセーラームーンのAct.6、木野まこと初登場の回を見てみよう。
 女の子たちに人気のストリートバスケ少年、タケル(田代功児)がシュートを決めて、なる(河辺千恵子)や香奈美(平井愛子)や桃子(清浦夏実)がミーハーに騒いでるんだけど、その後ろの木陰で、まことがひっそりタケルを見つめている、という場面。この時のズームなんて、ちょっと不思議な感じがしませんか。カメラは桃子となるの間を割って入って、まことに迫っていくのである。



 これはもちろんタケルの目線ではない。本当なら、冒頭で、まことにボコボコにされた三人組の視線であるべきだ。まことが密かにタケルに心寄せていることに気づいて、その気持ちをもてあそぶ残酷なあそびを思いつくのである。でも三人組はここには出てこない。だから登場人物たちの視線ではなくて、監督が、まことを見つけ出して見守っている、そういう気持ちが奥行きのベクトルで示されているのである。
 あるいはお昼休み。まことは、女子力高めの可愛いお弁当を見られるのが恥ずかしいのか、屋上で食べようとするが、そこにはすでにおにぎりを食べながら参考書を読んでいる亜美が。かるく会釈する二人。
 この場面、そもそも映像ドラマの文法の基本である、いわゆる「イマジナリー・ラインの法則」もあまり守られていない。
 イマジナリー・ライン(想像線)とは、向き合う人物AとBの視線をつないだ線である。で、二人の対話の場面を撮る場合、常識的には、カメラはこの線を越えてはいけないことになっている。Act.2の田崎監督を例にあげてみます。





 この場合、うさぎと衛、どっちを撮っているカメラも、二人の視線をつないだこっち側(B)にある。そうやって切り返すと、二人が対話している感じが出る、と言われている。
 ではもし、一方の人物をAエリアで撮って、もう一方をBで撮るとどうなるか。そういう、一般的な法則を無視したことで世界的に有名な監督が小津安二郎である。『麥秋』(1951年)のクライマックス。杉村春子と原節子の会話、原節子が唐突に、杉村春子の息子の嫁になることを了承する名場面だ。




 この場合、杉村春子も原節子も同じ方向を向いていて、本当に面と向かって対話しているのかな?と、見ていて微妙な不安みたいな気持ちになる。それが小津安二郎の狙いなのかどうかは知らないが、ともかく教科書的な意味では、やってはいけないカメラ位置である。カメラが二人の目線をまたぎ越え、AエリアとBエリアを行ったり来たりしてしまっているからだ。



 で、セーラームーンAct.6の昼休みの場面に戻って、まことと亜美が初めて出会い、ぎこちなく会釈するシーンのカメラ位置を考えると、やっぱり一般法則を無視してイマジナリー・ラインを踏み越えているのである。







 では舞原監督はどんな意図があってこういうルール違反をやったのか、というと、たぶん理屈ではない。ただ情熱的に作品世界にのめり込んで、気づいたら本来、踏んではいけない線を踏み越えてしまっていた。でも舞原演出においてはセオリーよりもパッションとエモーションが尊重される、ということなのだと思います。
 だから続く展開もすごく面白い。会釈を交わしたあと、まことは亜美から離れて座り、背中で隠すようにしてお弁当を開く。この時ほんとうは、亜美はまことのお弁当をチラッと覗いていなくちゃいけない。そうじゃないと、この後のクラウンの亜美の「あの人のお弁当、可愛かったよ」というセリフにつながらないからだ。
 ところが、実際には亜美はお弁当を見ていないのだ。なぜか。たぶん舞原監督の考える亜美は、初対面の相手のお弁当をジロジロのぞき見るような、はしたない子じゃないからだ。その通り、この解釈は圧倒的に正しい。だから亜美は、まことに会釈をしたあと、手もとの参考書に視線を落とす。
 でもこの謎の転校生に対しては、亜美も実は興味津々である。広げた参考書の中身なんて頭に入らない。でも盗み見なんて良くない。でも気になる。どうしよう。
 そこで舞原監督は「じゃあ、おぢさんが代わりに見ておいてあげよう」と、亜美に代わって弁当を見に行くのだ。いやホント。だって、亜美は視線を本の上に落としているのに、次のカットで、カメラはまことの背中にずーっとズームして、弁当を覗こうとしているんだよ(笑)。



 この目線は監督のものだ。で、そうやって監督が覗いたお弁当の中身を、あとのクラウンの場面では、亜美がうさぎとレイに知らせているのである。



亜 美「あの人のお弁当、隠してたけど、手作りでとっても可愛かったよ」



亜 美「すごく女の子してた」



 うそだ。見てなかったじゃないか(笑)。
 だから客観的に考えてみればヘンな話なんだけど、亜美の亜美らしさを守ろうと思えば、これで正解ということなのだろう。少なくとも私はそう思う。
 不思議な話だ。学生の自主制作映画なんかでも、この手のつなぎ間違いとかがあると「駄目じゃん」と思えてしまう作品と、むしろ「そこが良いんじゃない」と積極的に擁護したくなる作品がある.その違いはどこにあるんだと問われても、私にはうまく説明できない。
 ただ舞原監督に関して言えば、つまりは作品への「愛」があふれていて、それが、映画の基本ルールさえ踏み越えさせる力になっているから、観ている我々もそんな監督を肯定せざるをえない、いや積極的に肯定したい、ということになるんだろうな。いやマジで。



 そんな舞原賢三が、あらためて少女たちの恋愛未満の関係を描きたいと、自分で映画のプロジェクトを立ち上げた。『あわ百合』というのは「百合」以前=淡い百合という意味だろう。きわどいといえばきわどいが、やはり実写版セーラームーンを愛するものとしてはぜひ観たい。
 と思って昔の文章をかき集めてみました。あと一カ月あまり。頑張れ。
(もう一度リンク貼るけど、『あわ百合』ファウンディングはここです。)




小林脚本・舞原演出『ゴーバスターズ』第20話(2012年)より