実写版『美少女戦士セーラームーン』ファンブログ


最新記事〕 〔過去記事〕 〔サイト説明〕 〔管理人

【第398回】北川景子『悪夢ちゃん』覚え書き:後編の巻

沢井美優(呂蒙子明)・中村静香(孫策伯符)・池田夏希(関羽雲長)
舞台『一騎当千』 原作:塩崎雄二/台本・演出・振付:西田大輔
11月30日(金)〜12月9日(日) 銀座博品館劇場
全席指定 6300円


アクション満載!がんばれプリンセス!行けなくてすみません
出待ちはNGだそうです(万丈情報)

1. 実写版の起源をたずねて


唐突だが、幻の企画「モーニング娘。主演の実写版セーラームーン(劇場作品)」のことは何度か話題にしたことがある。
古くは第47回(ここ)とか、近年では第369回(ここ)に書いてあるけど、改めて情報を整理すると、まず(1)「モー娘。主演のセーラームーンの企画があった」事実は、武内直子先生も認めるところである。一方、(2)那須博之監督が、まだ50歳代で病に斃れたとき、白倉伸一郎はブログ(現在は閉鎖)で「那須監督なかりせば実写版セーラームーンはなかった」と追悼の言葉を述べている。また(3)那須博之は2000年に『モー娘。走る!ピンチランナー』、そして2004年にはあの悪名高い実写版『デビルマン』を公開している。
以上の事実から、名古屋支部はおおむね次のような事実を想定していた。まず『ピンチランナー』に次ぐモー娘。主演映画の企画として那須博之からセーラームーンという案が出る(2001年)。この企画は、結局は流れてしまうが、2003年になってテレビの実写ドラマというかたちで復活し、白倉伸一郎が陣頭指揮をとることになった。何となく言い出しっぺの那須監督から企画を取り上げちゃったみたいで、悪いかな、と思った東映は、その罪滅ぼしといいますか、那須監督に、同じく東映アニメのヒット作『デビルマン』実写化の企画をゆだねる。
まあこれでだいたい外れていないだろうとは思っていたが、先日この件に関して、他ならぬ白倉伸一郎の新たな補足証言があったらしい。私はツイッターというものをやっていないので完全にスルーしていた。みなさんはとっくにご存じかも知れないが、この議論について結着をつけるデータとしてここに残しておきたい。



2. ももち伝説の始まり


私は以前、モー娘。版のセーラームーンが実現しなかった理由について、武内先生が難色を示したのではないか、と述べたことがある。セーラームーンが主語にならずに「モー娘。がセーラームーンのコスプレをやっている」感じになってしまうのがイヤだったのではないか、と。
でもそうではなかったようだ。実はこの件に関する武内先生のコメントが、2003年に出たコミック新装版、第1巻のあとがきに書かれている、という話があって、数日前から書棚を引っかき回しているのだが、なぜか第1巻だけが出てこなくて確認できない。しかし考えてみれば確かに、武内先生はそういうことにこだわる方ではない。
むしろモー娘。側が断った、というウワサの方があり得る。最近はそう思うようになった。当時のモーニング娘。といえば人気の絶頂期で、映画撮影のためのまとまった時間をとるのも大変だったろう。ましてセーラームーンともなれば、アクションシーンに特撮にコスチュームと、手間もお金もかかる。そのわりに『ピンチランナー』の興業収益はトータル5億7,300万円だったし、CDとかコンサートに較べれば、映画は明らかに実入りが少ない。最大のメリットは、セーラームーンというキャラクターとコラボすることによって「小さいお友達」のファン層を拡大充実できる、というところにあったと思うが、2000年に結成、2001年に『ミニモニ。ジャンケンぴょん!』でCDデビューしたミニモニ。の成功によって、ちびっ子ファンも自前のキャラクターで開拓できる自信はついたはずだ。
結局『ピンチランナー』の次のハロプロ映画作品は『仔犬ダンの物語』と『ミニモニ。じゃムービーお菓子な大冒険!』の2本立てだった(2002年12月)。これ、当時小学校低学年だったうちの娘が「観たい」というので、いっしょに行きました。



『仔犬ダンの物語』は、キャストに安倍なつみ以下、飯田圭織、保田圭、後藤真希、石川梨華などなどの名前が並んで、モー娘。の主演映画に見せかけているが、実はこれらの方々はすべてわき役で、たいして出番も多くない。5分以上画面に映っていたのは、安倍なつみと後藤真希くらいじゃなかったかな。あとはチョイ役。
このようなモー娘。のお姉様方に代わって、実質的な主役をつとめたのは、この年、初めて行われたハロプロキッズ・オーディション合格者の子供たちだった。当時テレビ東京で日曜の朝に放送されていた『ハロー!モーニング』でそのプロセスをドキュメントしていたが、オーディションの結果発表の翌月にはこの映画のクランクインが始まったんだと思う。つまり監督の澤井信一郎は、ほんのひと月前にはズブのシロウトだった小学生をメインキャストに、きちんと長編劇映画を完成しなければならない難題を背負ったのである。無理である。
だが澤井信一郎といえば言うまでもなく、松田聖子主演『野菊の墓』という冗談みたいな企画を見事な作品に撮りあげたマキノ雅弘門下の職人である。さすがに大方の子供たちの芝居は学芸会レベルを隠せないわけだが、すごい逸材を見つけて主役に据えて見事に磨いた。それが主人公の桃子を演じた当時10歳の嗣永桃子だ。現在の彼女にも通じるちょっと小生意気なキャラクターをベースに、達者な芝居を見せている。当時は澤井信一郎がすごいと思っていたが、ひょっとしたらももちがすごいのかも。



それに較べるとモーニング娘。のお姉様たちは、名目上の主演である安倍なつみが何とか頑張っていていた程度で、あとは小学生と較べてすら演技がちょっとアレでした。今にして思えば、この人たちを使って那須博之監督がセーラームーンを撮ったら、マジで『デビルマン』を越える大惨事になっていたのではないかと、ほんとうに亡くなった方に申し訳ないんだけど、つくづく思う。しかしその一方で、同時上映だった『ミニモニ。じゃムービーお菓子な大冒険!』が「ヒグチしんじ」つまり樋口真嗣の監督デビュー作であったことを考えると、もしこの企画のかわりに当初予定通りセーラームーンが実写化されたら、樋口真嗣の特撮によるセーラームーンが観られたわけだよなぁ。そう考えるとちょっと残念な気もする。


3. 「異色教師」の問題(前回の続き)


というわけで、前回に引き続き悪夢ちゃんの話題。えーと、なんだっけ。
男性教師が主役の学園ものドラマっていうと、主人公は判で押したような「型破りな熱血教師」と相場が決まっているのだが、女性の教師となると『女王の教室』とか『パズル』とか『好き!すき!!魔女先生』とか幅がある。だからこそ『悪夢ちゃん』の彩未先生みたいなおかしな教師の登場する余地があったのではないか、そのへんまで話をした。



とはいえ、北川景子の武戸井彩未は「異色教師」というのともちょっと違うと思う。


分かりやすいところで言うと、彩未先生の悪夢ちゃんへの接し方は、あまりにも対等かつ遠慮なさすぎて、ちょっと先生としてそれでいいのか、という疑問を感じてしまうよね。悪夢ちゃんはとっても先生を慕っているのに、先生は一貫して悪夢ちゃんを厄介者あつかい。保護者的な振る舞いはまるで見せない。第7話で彼女の身柄をGACKTに押さえられて、ようやくそういう素振りを見せた感じ。逆に、悪夢ちゃんも悪夢ちゃんで、特定の先生をあんなに慕うっていうのも、ハタで見たらちょっとおかしい。
もうだんだん推論を重ねるのが面倒になってきたので(書いている時間もないし)結論みたいなところから行くと、私は、このドラマの企画当初からヒロインの設定が「学校の先生」だったのかどうか疑問に感じているのだ。

4. フシギの悪夢ちゃん


犬木加奈子『不思議のたたりちゃん』
実写版の短編劇映画がとても良かったんだが、画像がない。


主人公(もしくは主要登場人物)の名前に「〜ちゃん」とか「〜くん」をつけて、そのまま作品の題名にしてしまう、というやり方は、児童漫画の世界では常套手段で、『悪魔くん』とか『コメットさん』とか『ひみつのアッコちゃん』とか、まあ色々あるが、なんと言っても第一人者は藤子不二雄のAの方だろう。同じ藤子不二雄でも、藤子・F・不二雄先生の場合、『ドラえもん』『パーマン』『21エモン』等々、「〜ちゃん」や「〜くん」抜きでも、そのまま作品題名として使える明朗なキャラクターが多い。対して藤子不二雄Aの作り出す主人公たちは、「怪物」とか「ハットリ」とか「魔太郎」とか「猿」とか、呼び捨てでは不気味すぎるので、『怪物くん』『忍者ハットリくん』『魔太郎がくる!!』『プロゴルファー猿』などと、何か呼び名を付け足してイメージを緩和することになる。『悪夢ちゃん』というタイトルはこの系列に属する。眉間にしわをよせた北川景子のアップで『悪夢』というポスターも、ちょっと見たい気はするけど。
怪物くんはヒロシの、ハットリくんはケン一の「ぼくの友だち」である。『悪夢ちゃん』というタイトルから連想されるお話も似たようなものだ。悪夢ちゃんの相手役は、担任の先生なんかではなく、同級生の方がすっきりするんじゃないか。みなさんそう思いませんか?ヒロイン彩未は小学五年生。ある日不思議な転校生がやってきた。隣の席にやってきたその子は何だか妙に親しげで、かえって気味悪いんだけど、なぜか懐かしさも感じさせる。彩未は自分が悪夢ちゃんに妙に慕われていることをプレッシャーに感じて、わざと冷たく当たったりして、でも結局、彼女のことが心の隅では気がかりて、それもそのはず、二人は幼い頃とっても仲良しだった。でも彩未は記憶喪失で、幼少時の記憶に空白期があり、悪夢ちゃんの方も人為的に記憶を消去されていて、過去の秘密があったのである。
彩未が担任の教師だから、悪夢ちゃんに対する接し方に大人げなさを感じてしまうが、これが同級生の子供だったら、反撥したり友情を感じたり、という彩未の揺れ動く心に説得力が出てくる。彩未と悪夢ちゃんを同い年の子供同士にした方が、プロット的には自然じゃないのかな、と思うのだ。
そういうわけで私は、ひょっとすると最初の『悪夢ちゃん』の企画は、昨今の子役ブームを背景に、少女二人をメインに据えた学園ドラマだったのかも知れないなぁ、なんて思っている。
それが「北川景子主演で」ということになって、プロットが全面的に練り直された、というのが名古屋支部の想定(というよりは妄想)だが、もっともそれは、決して改作が急遽なされたという意味ではない。完成台本の仕上がりはかなり早い方だったというし、プロットの変更が(あったとして)キャラクターの立ち位置や相互の関係性をより重層的なものにして、かなりふつうじゃない女教師が誕生した、ということが言いたいのです。第4話、にこやかで当たり障りのない仮面を捨てて「変身」した彩未先生が、教室で小泉綾乃と対話をする時の話の内容には独特の説得力があった。M14さんも触れていたが(ここ)、あらためて採録してみたい。



  
  


彩 未「自由とは何ですか?答えられる人……誰でもいいです。自由に答えなさい」


  


綾 乃「周りに流されず、自分の考えで判断し、行動することです」
彩 未「なぜそう思いますか?」


  


綾 乃「そう習ったからです」
彩 未「では、周りに流されず、自分の考えで今日は学校を休みたいと思い、そのように行動することは自由ですか?」


  


綾 乃「それは自由ではありません。自由の意味をはき違えてます。それは自分勝手です」
彩 未「それは不登校です。不登校をすべて自分勝手だと言ってもいいのですか?その人のかかえる悩みや、取り巻く環境などを考えずに、それは自分勝手、自由の意味をはき違えていると、そのように発言することは、あなたの自由ですかそれとも自分勝手ですか?」
綾 乃「そこまでは分かりません」


  


彩 未「そこまでは分からない。自分のことなのに分からない。それが自由なのか自分勝手なのかさえ分からない。……分からなくてもいいんです。そう思うことが自由なのです。学校で教わることの自由とはむしろ、分かることではなく、自分の中に分からないと思うことを増やすことです。先生が何を言おうと、そう簡単に分かった気にならないでください。それでは教科書を開いて」


いいなあこれ。この台詞を、現在の北川景子よりも上手に演じられる人だってもちろんいるだろう。そうだな、今ふっと浮かんだけど『告白』の松たか子なんかどうでしょう。すごく迫力ありそうだ。



でもやっぱり北川景子じゃないとだめなんだよね。最後の方の妙な説得力は、現在の彼女がもっている不安定感があって初めて生まれるものだと思う。自分が揺れ動いていることをさらけだし、自分の考えを、できるだけ正確に相手に伝えようとするあまり、教育的配慮など眼中にない。でもその誠実なコミュニケーションへの意志が、今日もっとも教育者に求められる態度でもあるので、結果的に彩未先生は、現代的な意味でとてもよい先生ということになるのだ。そう思わない人も多いだろうけど。

5. タイムアップ。すみません



最近どうしても週末の時間が思うようにならなくて、更新が遅くなってすみません。本当はまだもう少し考えたい謎がある。それは伏線のようで伏線のようでもなくて、意味ありげだが意味がないのかも知れない数々の細部に対する疑念だ。たとえば、第1話に出て来たサイコパス先生のブログ。わりと意味ありげに出て来たわりには、第5話で書き手の正体がバレて以降、中途半端なかたちで物語では言及されなくなってしまった。



あるいは第4話のラスト。晩ご飯を用意したGACKTが、「これを食べたらすぐに帰るから」というと、彩未は「帰らなくてもいい。今日は泊まっていっても許す」という。



quonさんも書かれていたように(ここ)「泊まっていっても許す」というのは、つまりそういう意味のほかにはありえない。たとえ翌朝めざめたときの彩未が、いつものように腹巻きをしていても、それ以外にない。



しかもその、二人が寝ている間に彩未が見た夢(夢王子と手をつないで、どこまでも空を堕ちていくという内容)が、いったいどういう意味なのか。いやそれよりもやっぱり、なんであのタイミングでGACKTを泊める気になったのか。わかんないっす。海外のドラマなら、なんとなく寝てしまうというのもありそうだが(そうか?)日本のドラマとしては、いかにも唐突という気がする。




それから、第3話で鉄棒で頭を打った子は、よそのクラスのいじめっ子らしいんだが、そのイジメ問題は放置しておいていいのか、とか、第6話の『白鳥の湖』のバレエ少女とお母さんの関係はあのままで大丈夫か、とか、ひとつひとつ議論したい謎は多いんだけど、もう限界なのでこのくらいにしておきます。ではまた。


あ、あと最後にもうひとつ。これもかなりの謎。毎朝、「授業を始めます」というセリフの前に、すでに黒板がものすごく汚れているような気がするんだが、あれは何の伏線なのか。