実写版『美少女戦士セーラームーン』ファンブログ


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【第202回】読書レビュー:白倉伸一郎『ヒーローと正義』の巻(中編)


前回、北川さんの次の映画についていろいろ憶測を書いたお陰で、次の次の作品についても、信頼性の高い情報が入ってきた。Nakoさんありがとうございます。するってえことは、時代劇が春休み、現代劇がゴールデンウィーク公開か?ま、ともかく、前回の分と併せて予想を書いておく。

『花のあと』 2010年2月公開予定
 原作:藤沢周平 
 脚本:長谷川康夫 飯田健三郎
 監督:中西健二
 プロデューサー:小滝祥平
 出演:北川景子 甲本雅裕 佐藤めぐみ
 製作:『花のあと』製作委員会 東宝・テレビ朝日・ディスティニー

『瞬』(またたき) 2010年4月公開予定
 原作・脚本:河原れん 
 監督:生野慈朗
 プロデューサー:岩倉達哉
 出演:北川景子 岡田将生
 製作:『瞬』製作委員会 S.D.P・電通・札幌テレビ放送



『太陽と海の教室』の印象のせいか、北川さんと岡田くんのカップルというのが、いまいちピンと来ない。『瞬』の北川景子は、ヒロインの泉美ではなく、サブヒロインというか、弁護士の真希子のような気がする。とすると泉美役は北乃きいか?でも北乃きいのブログから札幌入りした気配は読み取れない。よく分かんないね。あとは専門の方々の調査におまかせします。
S.D.P(スターダストピクチャーズ)配給になるのは確実だが、監督とかプロデューサーとかは、たぶん『余命』のスタッフをそのまま継ぐ形になるんじゃやないかという、ただの私の予想だからね。


もう一件、ひろみんみんむしさんのブログで知ったが、渋江譲二くんがテレビドラマ『俺たちは天使だ!』のリメイクというか続編に主演(一応「主演」としておく)するらしい。しかも、テレビ放送期間中に、同タイトルの舞台もあるらしい。やったね草食系!
ちょっと気になるのは、沖雅也のオリジナル『俺たちは天使だ!』のヒロインが多岐川裕美だったことだ。まさかそれにちなんで、今回の続編に多岐川華子が出てしまうとか、そんな過ちは起こらないだろうね。
まあいいや。今回は逃げてないでまじめに書評に取り組むつもりなので、マクラはそろそろ切り上げる。とにかくそういうわけで、ここのところ実写版キャストに関する情報収集において、北陸ブロック・東北ブロックのマダムたちがめざましい成果をあげておられます。今後の活躍にも期待したい。

『ヒーローと正義』内容紹介


さて本題だ。
【前回までのあらすじ】2003年、東映プロデューサー白倉伸一郎は、教育関係の出版社「子どもの未来社」から、「ヒーローと正義」という本を書いてみないか、と誘われた。新しく立ち上げる「寺子屋新書」の、創刊の一冊である。でも俺みたいなのが本なんて書いていいのかな……。しばらく逡巡した白倉だったが、まあ、自分のようなテレビ屋が日頃どんなふうに番組づくりに取り組んでいるか、この機会に書き残しておくのもいいだろうと、依頼を引き受ける。
とはいえ、あくまで本業はテレビブロデューサーで、物書きとしては素人、これは余技だ。そういうつもりで書き始めた白倉だったが、2003年の暮れに勃発した羽入辰郎と折原浩のマックス・ウェーバー論争を目の当たりにして威儀を正す。ただでさえ厳正なアカデミズムの世界にありながら、「誠実」であろうとする努力を忘れない学者の方々を前に、どうして自分が「素人だから」を言い訳に、いいかげんな気持ちで本など出せよう。ちゃんとやろう。白倉は途中まで出来あがっていた原稿をご破算にして、一から書き改め始める。その心意気や良し、と言いたいところだが、はたして締切りに間に合うのか?(つづく)


なんて、前回は結局「あとがき」の内容に拘泥しているうちに終わってしまった。しかし、あれから2週間も考えていたが、やっぱり分からないなあ。羽入・折原論争の何がそれほどのインパクトを与えたのか。それに、どういう筋みちで「学者が誠実であろうとしているのだから、学者ではない自分は、なおさら誠実でなくてはならない」という理屈が出てくるのだろうか。

いずれにせよ、その書き直しによって、本書の内容がより良くなったかというと、これは疑問である。はっきり言ってしまえば、中途半端にアカデミックっぽくなってしまったような気がする。
たとえばこの本の第1章では「ヒーローの普遍的な役割とは何か」というテーマのもと、スサノオノミコト・桃太郎・金太郎といった古典的ヒーローに共通する物語要素が抽出される。記述自体はなんだか学術書っぽいが、そもそも、どういう基準でスサノオと桃太郎と金太郎なんだよ。かたや記紀神話、かたや民話である。じゃ、ヤマトタケルやオオクニヌシや浦島太郎はなぜ一言も触れられないのか。
それに、こういうテーマに取り組むなら、ジョセフ・キャンベルの『千の顔をもつ英雄』は、ぜったいに外せない参考文献だと私は思うんだが、一言も触れられていないし、巻末の文献一覧にも出てこない。
あるいは第6章で白倉氏はジョン・ロールズの『正義論』(A Theory of Justice)という本を挙げるが……まあいいや。ともかく、ここで感想を言い出すと、また本文に入る前に終わってしまいそうなので止める。要するにアカデミックと言うよりはプソイド・アカデミック。
でも急いで付け加えると、私は読んでいて楽しかった。要するに白倉伸一郎は、独りコツコツ文章を紡いで論理を構築できるタイプの人ではないんだよ。なんかもっと訳が分かんないものを抱えていて、だからこそ脚本家や演出家という、自分の言葉(表現技術)を持っている人々の力を借りて、手さぐりしながら作品を作り出していくんだ。つまり根っからのプロデューサー体質である。
しかしそういう話は、本書の内容を紹介してからだ。というわけで、以下は『ヒーローと正義』全6章のダイジェストです。感想や私の突っ込みは後回しにして、ひとまず内容紹介に徹してみたい。

第1章「正義のヒーロー」はどこにいる



まずは第1章。そもそも「ヒーローとは何か」「ヒーローたる者がそなえていなければならない条件とはどのようなものか」という問題提起があり、これに対して民俗学的というか文化人類学的というか、まあそんな感じのアプローチで考察が進められる。
たとえば日本神話に出てくる最初のヒーロー、スサノオノミコトは、生け贄になりかけたクシナダヒメの命を救うために、恐ろしい大蛇ヤマタノオロチと戦う。我々はこんなふうに「か弱い犠牲者(女子や子供)を守るために、悪い奴と戦って勝つ」のがヒーローだと思っている。
しかし古来伝わる神話や民話、英雄譚などをもっと調べてみると、実はヒーローに必ずそのような「物語」が必要なのではないことが明らかになる。たとえば『桃太郎』には被害者がいない。桃太郎は、誰かあわれな犠牲者を救うためではなく、ただそこに鬼がいるからという理由で鬼ヶ島に向かう。本当に鬼が「悪」であるかどうかも、実は分からない。
さらに『金太郎』に至っては、その鬼さえ直接には登場しない。世間では「マサカリ担いで熊にまたがる怪童」くらいの認識しかないだろう。それでもヒーローだ。ヒーローとは、正義のために戦うことによってヒーローになるのではない。たとえ悪役が登場しなくても、あからじめヒーローとして認められているのである。
しかしそのように、ヒーローのアイデンティティが「か弱い犠牲者を守ること」にあるのではないとしたら、ヒーローに退治される悪役もまた、街で暴れ、一般市民を襲うから「悪」なのではない、ということになる。実際、桃太郎の鬼はそんなふうに暴れていない。ではテレビの子供番組に出てくる怪獣や怪人たちなどの「悪」は、いったい何をもって「悪」なのだろうか。

第2章 怪獣の悪・怪人の悪



そこでこの章では、「怪しい獣」(怪獣)や「怪しい人」(怪人)が、なにゆえに「怪しい」のか、という問題が考察される。
怪獣映画の草分け『ロスト・ワールド』(1925)と『キング・コング』(1933)は、どちらも「秘境で発見され、都会に連れて来られた巨大生物が、檻を破って街を破壊してまわる」という共通のプロットをもっている。日本怪獣映画の嚆矢『ゴジラ』(1954)も、深海で眠っていたジュラ紀の恐竜(には見えないが)が、水爆実験でめざめ、東京に上陸して、破壊の限りを尽くすという話だ。つまり怪獣とは、本来、秩序だった文明世界と隔絶された世界にいるべき野生の存在が、境界線を越えて「こちら側」へ来ることの恐怖を描いた作品と言える。だから怪獣は、破壊することによって悪なのではなく「越境」すること、領域を侵犯してこちら側に来ることによって悪なのだ。動物園の動物は、たとえ人を襲う危険がなくても、檻やサクを越えて、こちら側に来てしまってはいけない。それと同じことだ。
しかし以上は怪獣のみに当てはまる理屈である。これに対してライダーの怪人は「人」であり、一匹一匹が無秩序に登場する怪獣とは違い、組織の一員として、いわば組織のためにライダーを倒そうとする、きわめて文明的な存在だ。もちろん、近年の平成ライダーシリーズには、かつてのショッカーのような「悪の組織」は存在しない。これは制作側の意図的な試みだが、そのぶん登場する怪人たちのデザインは、外見上の統一性を高め、「同じブランド」であることを強調している。それは怪獣が、かつて『ウルトラマンA』でヤプールという組織に統合されていたときさえ、一体一体にバラエティをもたせてデザインされていたのとは対照的だ。

第3章 世界の境界



怪獣の問題をとりあげた前章に対して、この第3章では、もっぱら「怪人たちはなぜ悪なのか」という問題が追求される。
怪獣は自然界からやってきて、街に上陸してこちらの領域に侵入することによって「悪」となるが、怪人は、互いに外見上似通った共通性をもち、組織化されいる。つまり怪獣よりはるかに人間に近い、文明的・社会的な存在である。第1章で考察したとおり、かれらが「悪」である根拠が、犠牲者を襲うことにないとしたら、いったい何を理由に怪人は「悪」と見なされるのか。
記念すべき『仮面ライダー』第1話の怪人はクモ男で、第2話はコウモリ男だ。つまりスパイダーマンとバットマンということで、アメコミヒーローへのしゃれた宣戦布告なのだが、このようにライダーの「怪人」とは、元々はヒトと別種の生命とのかけあわせ、ヒトのハイブリッド(雑種)なのであり、以降もさそり男、サラセニアン(サラセニア人間)等々と、同じ路線で続いていく。怪人とは人間に似て、一部は人間であり、それでいて人間に非ざる「人間モドキ」だ。実はこのことこそが、怪人が人々から「悪」と見なされる最大の理由だ。
我々が怪獣を怖れるのは、それがヒトと動物の境界線を無視して、勝手にこちら側に侵入してくるからだった。一方、怪人はより人間に近い存在なので、無秩序に人間世界に足を踏み込むことはない。しかし何もしなくても、そこにいるだけで、怪人はヒトと他の動物との間に引かれた境界線を曖昧にしてしまう。ヒトでもあるがクモでもある、あるいはコウモリでもある、という両義性によって「ヒトはヒトである」という我々の確信に揺さぶりをかけ、不安に陥れる。そういう不安をもたらすがゆえに怪人は悪なのだ。
人間は絶えず自分の周囲に張られた境界線を意識し、そのラインの外側は異物、内側は自分と同類、というように排除を繰り返す。ヒトと動物との間に境界線を引き、男と女の間に境界線を引き、アーリア人とユダヤ人の間に境界線を引く。そうやって自分のアイデンティティを確認して心の安定を得る。怪人は見かけ上が人間と似ていて、人間と動植物との間に引かれた区別を曖昧にしてしまう「人間モドキ」だ。だから存在すること自体が「悪」だ。これは、かつてナチスによってユダヤ人が「悪」と見なされたのと同じ理屈だ。怪人はなぜ悪なのか、という問題は、実は現実世界の差別問題と深くつながっている。

第4章 勧善と懲悪/都市社会の秩序



と、ここまで怪獣と怪人をめぐる考察が続いた後、この第4章で、話題がようやく子供番組と正義のヒーローたちに戻ってくる。
これまで述べてきたような境界線への欲望は、近年の子供向けヒーローの行動基準にもなりつつある。そのために、ヒーローたちにも、境界線の内側(共同体内部)のルールを優先的に守ることが要求される。かつては、正義のためなら少々の規則違反も見逃されたヒーローたちだが、そのような横紙破りは、最近の視聴者からは許されない。たとえば『仮面ライダーアギト』の主人公が記憶喪失のままバイクを乗っていることについて、記憶喪失の人間がなぜ運転免許を取れるのか、という指摘が多くあった。そのため、実際には記憶喪失でも免許を取得できることを示すために、主人公が画面に向かって免許証を示すシーンを入れざるを得なかった。
秩序ある市民社会という境界線の内側にある以上、庶民もヒーローも、まずなによりその秩序を維持するための取り決めを尊重すべきである。このような考え方から、仮面ライダークウガ(2000年)は、敵に必殺技を放つ前に、周辺住民への被害の波及を怖れ、わざわざ山奥まで相手を連れていくようになったし、ウルトラマンコスモス(2001年)は、怪獣たちを倒すのではなく、可及的速やかに保護区へと収容し、秩序(コスモス)を回復することを最大の目的とするようになった。どちらも、子供番組のヒーローたちのイデオロギーが、都市中心的・管理社会的・秩序志向的な世界観・価値観に基づくようになった具体例だ。
2002年、千代田区は路上喫煙や歩きたばこの禁止条例を定めた自治体の先駆けとなったが、施行にあたってのキャッチフレーズは「マナーからルールへ」であった。これは「勧善から懲悪へ」という、新世紀のヒーローたちの基本姿勢の変化を端的に表現している。かつての変身ヒーローたちは、子どもたちに、見習うべき「マナー」を示し、良い行いを奨励する(勧善)手本であったが、新しいヒーローたちは、都市社会の「ルール」を示し、禁則を破ったものを罰する(懲悪)法の番人、管理者である。
そしてそれにあわせて、ヒーローの行動に関しても、なぜそうしなければならないかのルールが整備されていく。ライダー1号にとってキックは格好いい必殺技だったが、クウガにおいては「なぜ必殺技がキックでなければならないか」の設定が入念に施されている。ライダーはいわば、ルールに縛られてキックをするのだ。

第5章 「正義はひとつ」か



仮面ライダー1号は「ショッカーの改造人間」であり、蜘蛛男やさそり男と同じ「バッタ男」である。ウルトラマンはベムラーを追って外宇宙から地球にやってきたエイリアンだ。ヒーローたちはみな怪獣や怪人たちと同じ「向こう側」に出自をもちながら、同類である怪人や怪獣を倒すことによって「こちら側」の世界に市民権を得る。しかしそれでもなお、かれらはやはり怪人や怪獣たちと同じ異形の存在であり続ける。
これがたとえば学園ドラマの場合だと、型破りな教師は、はみだし者の「不良」を説得して秩序の側に復帰させることによって、人々の心をひとつにまとめる。つまり、伝統に縛られていた校長や教頭も、同僚の教師も、生徒たちも、父兄も、その教師の主義主張を受け入れ、価値観が一元化されて「正義はひとつ」ということになって終わる。
しかし特撮ドラマのヒーローは、決してそのような形で、作品世界のあらゆる価値観を一元的に収束しない。侵略者を倒すことでかりそめの市民権を得ても、人間世界にありながら異人でもある、という両義的な在り方そのものは変わらないのだ。むしろそのような両義性、曖昧さを持ち続けることにヒーローの条件、アイデンティティがある。
境界線の内側、つまり自分の側にある者たちだけが「正義」で、その外にいる者は悪だという偏狭なイデオロギーは、差別や人種、国家間の争いを生んできた。ヒーローは自らが境界線をまたがる両義的な存在であり続けることによって、そのような思いこみを排し、人々が「正義とは何か」を改めて自分の胸に問いかけるように促すのだ。

第6章 正義とジャスティス



だいたい以上で論旨としては終わっていて、この第6章は一種のエピローグである。
スパイダーマンと同じマーベル・コミックのヒーローに『デアデビル』がいる。主人公のマック・マードックは、昼は弱者のために法廷で戦う盲目の弁護士だが、夜は深紅のコスチュームに身を包み、法で裁けない悪に正義の鉄槌を下す仕置人デアデビルとなる。決めぜりふは一言「ジャスティス」。単語として訳すなら「正義」の一語だが、映画化されたときの字幕では「正義の裁きだ」というセリフになっていた。

英語の「ジャスティス」(正義、大義)という語には、単なる「正義」だけではなく、「正義の名のもとに悪人を裁くこと」という意味も含まれる。正義に従わない者、正義に刃向かう者には、毅然とした態度で対処しなければいけない。場合によっては血を流すことも厭わない。それがジャスティスだ。先のイラク戦争は「大義(ジャスティス)なき戦争」と批判されたが、裏返していえば、つまり「ジャスティス」(正しい裁きの結果)であれば大量殺戮も正当化される、ということである。
しかしそのような「ジャスティス」は、世界が自分を中心に回っていて、正義は常に自分の側にある、という確信の上に成り立っている。揺るがない自分という軸を中心に、境界線を引いていって、その区分のもとに世界をすべて秩序だてようとする、ある種の天動説である。そういう考え方が、9.11以降の現代も、人種間や国家間に起こっている様々な紛争や戦争の原因を作り出していることは言うまでもない。だとすれば我々の考えるヒーローの意義は、むしろ両義性と曖昧さを武器に、そのような一元論的な価値観に揺さぶりをかけ、渾沌に引き戻すことにあるのではないか。正義は常に疑いなく正義なのではなく、悪もまた、必ずしも一方的に断罪すべき悪なのではない。ヒーローは両義的でもあり、渾沌である、ということを通じて、子どもたちは「渾沌が悪・秩序が正義」という危険なビジョンから解放される。


以上、『ヒーローと正義』の内容紹介であった。それに対する私の感想は、なんか疲れたんで次回。やっぱり前・中・後編になってしまったよ。なかなか終わらなくて、重ねがさね済まない。