実写版『美少女戦士セーラームーン』ファンブログ


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【第203回】読書レビュー:白倉伸一郎『ヒーローと正義』の巻(後編)

1. また余談なんだけど、今いちばんホットなあの人の話


昨年暮れの北川ブログにこんなことが書いてあった。

どうやら今は邦画が熱いようなので、プライベートでは洋画フリークの私も
時代に乗り遅れないように最近はちょこちょこ邦画も見るようになりました。
最近見た中ではアスミックで特別に試写で見せていただいた
『重力ピエロ』は個人的にすごく好きな感じだったので
公開したらもう一回見に行きたいと思っています。
           (「KEIKO'S BLOG」2008年12月15日 )

『重力ピエロ』の試写を観たら良かった、というだけの話に、なぜ「プライベートでは洋画フリークの私も」云々と、ゴチャゴチャ言い訳めいたイントロがつくのか。いったい誰に対して何を釈明しているのか。わざわざ最後に「公開したらもう一回見に行きたいと思っています」と、お気に入りぶりを強調しているのも気になる。どうも判然としなかったが、StreamKatoさんからの情報(前回コメント欄)でよ〜く分かった。
『重力ピエロ』の公式サイトに北川さんのコメントが出ているのである。新聞広告などでも使われるのではないだろうか。つまりアスミックは、もともとコメントを取るために北川さんを招待して試写を見せたわけだ。
という前提で読み直せば、上のブログが意味するところは明瞭だ。「確かに私はプライベートでは洋画が好きで、今回『重力ピエロ』を見に行ったのも、もともと仕事の一環でした。でも見てみたら本当に感動したんです。ですから、近く公式サイトに私の感想がアップされますが、決してみなさん、それを営業用コメントだとか社交辞令だとか思わないでください。ちゃんと本心からそう言っているのです」だいたいそういうことだろう。北川さん、相変わらずの屈折ぶりである。
そしてそのコメントが、案の定というか、凄いことになっている。他のタレントの方々が「愛ってとても素晴らしい、と思いました」(大沢あかね)とか、「人生は素晴らしい!と勇気づけられました」(はるな愛)とか、あるいは「めっちゃ感動しました!!素晴らしい映画なので沢山の人に観てもらいたいなって思いました☆」(矢口真理)なんて、マイルドに誉めたり激しく誉めたりしながらも、基本はライトにまとめているなか、北川さんだけは、なぜかヘビー級のパンチを出してくる。

「北川景子さん(女優)の感想コメント」
これほど映画らしい映画を私は久しぶりに見たと思う。
いつまでも見る人全員に衝撃と感動を与え、
後世名作として残ってゆくだろう。


もし仮に『この映画を映画館で見ようと考えていない』
という人がいるならば、はっきり言っておこう。
その考えを一刻も早く改めて映画館に行くべきだ。
さもなくば、君は後に必ず後悔することになる。


例によって無駄に力コブが入りまくっているが、これって、正しくは北川さんクラスの人がやってはいけない誉め方である。たとえば宮崎駿とか北野武とかのコメントがこういう風だったら「あの世界の巨匠がそこまで絶賛した」という売り文句になって、宣伝戦略に使えるが、今の北川さんに「後世名作として残ってゆくだろう」って保証されても、アスミックの広報担当も困ってしまうに違いない。正直「あちゃー、誉めてくださるのは嬉しいですが、そこまで言っていただかなくても……」と引いてしまったのではないだろうか。
だが我々には、彼女の気持ちがよく分かる。北川さんは、みんな「どうせ宣伝用のコメントだろ、ヤラセだろう」と思うだろうけど、そうじゃない、私は本心から賛辞を送っているんだ、と訴えているのだ。そういう真剣な思いが不器用にほとばしって、天井知らずの「おまえ何様?」ふう絶賛コメントになってしまうのである。それでこそ純情さばモグ女優、北川景子。私はちょっと泣きたくなったよ。だって「さもなくば、君は後に必ず後悔することになる」だよ。「後に」じゃなくて「後で」の方が日本語として正しいとは思うが。


北川さんについては、最近もうひとつ考えさせられたことがあるんだが……やめておこう。また本題に入れなくなってしまうしな。
というわけで、前回は白倉伸一郎著『ヒーローと正義』の内容を、私なりにまとめてみた。今回は感想を述べて、レビューを締めくくりたいと思う。って言っても、前編・中編と書き進めながら、ちょこまか感想も言ってしまっているので、あまり付け加えることもないんですが、まあそれでも、書き残した残したポイントとして、ひとつふたつ、所感を付け加えておきたいと思います。

2. きれいはきたない


本書で私がいちばん不満に思うのは、スポンサー絡みの話がまったく出てこないことだ。事情を考えると難しいのかもしれないが。
本書の「序」には次のようなことが述べられている。
永遠不変とも思われた子供向けヒーロー番組の勧善懲悪パターンは、近年に至って崩れ始めた。それは三つの事件を契機としている。地下鉄サリン事件(1995年)、神戸・須磨児童連続殺傷事件(1997年)、9.11同時多発テロ事件(2001年)である。オウム真理教は、ヒーロー番組に出てくる<悪の組織>を、荒唐無稽な絵空事ではなくしてしまった。酒鬼薔薇聖斗は、悪い加害者は大人で、子供はいつも庇護される被害者だ、という通念をあっさり覆した。そんなふうに、当たり前だった<正義>や<悪>の観念がゆらぎはじめたところへ、とどめをさしたのが同時多発テロであり、それ以降の世界情勢の流れだった。

ビン・ラディンもジョージ・ブッシュ・ジュニアも、それぞれが「マイ正義」をふりかざし、その意を受けた正義の戦士たちが、悪とは関係ない無辜の市民を殺戮していった。
はっきりとあらわれてきた構図は、正義を主張する者が加害者となり、物言わぬ者が被害者となるという図式である。<正義>を口にすることは、人を殺すのだ。そして<正義>を口にしないことは、自分自身が殺されてしまうことなのである。


こういう流れを受けて、「昔ながらの単純な<勧善懲悪>フォーマットを廃し、現代情勢にみあったヒーローを子どもたちに提供しようという意欲的な模索がつづけられている」のが、特撮ヒーロー番組の現状である。そう白倉さんは言う。単なる子供番組ではない、いや子供番組だからこそ、いまこの瞬間の時代の空気を敏感に吸い込み、変化している、それがヒーロー番組だ、と言うわけである。
確かにそういう面はあるのだろう。ただ反面、こういう言い回しの裏に、前回のコメント欄で万丈さんが言われた「後付の屁理屈」という印象がついて回ることもまた事実だ。
たとえば本書が書かれた前年(2002年)の『仮面ライダー龍騎』は、正義の味方のはずの仮面ライダーが互いに争い、潰し合うという設定で、賛否両論を呼んだ。主人公の真司は、ライダー同士の戦いを止めようとするが、次第に、各々のライダーはただむやみにつぶし合っているわけではなく、みなそれなりの戦う理由をもっていることを知る。つまりこれは「それぞれがマイ正義をふりかざす」ようになった、9.11同時多発テロ以降の世界情況にいち早くヴィヴィッドに反応した、きわめて現代的な「正義のヒーロー」物語にほかならない。本書の主張に即して解釈すれば、そういうことになる。
でも「ライダー同士のバトルロワイヤル」というコンセプトが、そういう社会への洞察からのみ出てきたとは、お人好しの私でもとうてい信じられない。どう考えたってこれ「そうした方がライダーをたくさん出せる」という下心があったに違いないのだ。
前にも書いたけど、玩具業界には「ウルトラマンの怪獣は売れるがライダーの怪人は売れない」という常識があるそうだ。確かにウルトラマンには、古くはバルタン星人やゴモラから、新しいところではボガールなんて、数々のスター怪獣がいる。近年も「大怪獣バトル」という、怪獣同士の戦いをメインにしたドラマやゲームがヒットして、関連商品が売れている。これに較べると、ライダーの怪人なんてしょぼいもんである。仮面ライダーシリーズの主力商品は、いつだってライダー自身であり、変身ベルトなどのアイテムなのだ。
だから、ライダー関連の玩具売り上げを伸ばすには、まずライダー本体の種類を増やすしかない。それで前作の『仮面ライダーアギト』はアギト・ギルス・G3という、タイプの違う三人のライダーの物語にしたんだけど、それでもバンダイは、次回作ではもっとたくさんライダーを出して、変身アイテムや武器にもバラエティをもたせて、いろんな種類の玩具が売れるような話を、と要求してきた。

以上、単なる想像だが、『仮面ライダー龍騎』の「13人ライダーの生き残りバトル」「変身やパワーアップにはカードデッキを使用」という基本設定の背景には、そういうスポンサーの意向もあったに違いない、と、素人考えでもそう思えるのだ。
別にそのことを非難するつもりはない。むしろ、バンダイから「もっとライダーを出せ」という要請があったとして、それをライダー同士のバトルロワイヤルという大胆な着想に結びつけたスタッフの冒険心に感心しているのだ。私が本書でほんとうに読みたかったのは、そういうところの経緯である。一方では東映の一社員として、会社の上層部やスポンサーから様々な制約を受けつつ、そのなかでいかに、子供たちに、現代における「正義」とは何かというメッセージを送り続けるか。いわば、カネがらみの大人の汚い話を、子供のためのヒーロー物語にロンダリングしていく、その戦略や戦術を読みたかったのである。でも本書からはそういう部分が、すっぽり抜けている。
まあ、なにぶんスポンサーが絡んでくると、本には書けない話というのも多かろう。だけど本書だけを読んでいると、まるでヒーロー番組って、スポンサーとは関係なく、スタッフの良心と思索、そして視聴者から寄せられる意見によって作られているように見えてしまう。そんなわけあるはずない。制作費を出すスポンサーっていうのが、やっぱり一番大きな存在だし、そこから強要されるシステムのなかでいかに戦うかっていうのが、本当の「正義をめぐる戦い」である。
というこれは、別に思いつきで言っているのではない。石ノ森章太郎は、『サイボーグ009』や『仮面ライダー』で育った世代が社会人になり始めた1986年に、『マンガ日本経済入門』というシリーズを始めて小学館漫画賞を受賞した。かつて少年たちに「正義」を伝えた漫画家が、その少年たちの多くがサラリーマンになったとき「正義のために戦うには、まず、この国を動かしている経済システムを理解して、サバイバルしなければいけない」というメッセージを伝え始めたのだ。
だから白倉さんにも、よりリアルな現場事情というか、この資本主義社会のなかで、スポンサーからの商業的要請をこなしながら、いかに「ヒーローと正義」の物語を紡ぎ続けているか、っていうドキュメントを、もっと語って欲しかったですね。

3. それはたぶん誤解だ


次に、高寺プロデューサー、っていうか、『仮面ライダークウガ』に関して。
本書ではときおり、何というか、現代的なヒーローものの典型的サンプルとして『仮面ライダークウガ』のエピソードが取り上げられている。ところが、どうもその内容紹介の仕方に問題がある。そのため一部のクウガファンは、けっこう怒り心頭で、かなり辛辣な批判的レビューを書いているブログもある。
読んでいない方のために具体例をあげよう。たとえば、クウガのEPISODE 25「彷徨」は、栃木の小学生6年生の男の子が、夏休みにプチ家出をして、一人でふらりと上京する、という物語だ。それを東京にいる雄介(オダギリジョー)が探し出すのだが、このエピソードを本書はつぎのように紹介する。

ここに表出されているのは、「小学六年生の少年が、担任教師に断りも入れず、保護者の同伴もなく、ひとりで東京に遊びに出る」という行為は、ヒーローの出動が要請されるほど「とんでもないこと」だという感覚である。
もはや少年たちは、物語の中ですら、家出どころか自由行動も許されない。

この要約の仕方は、確かにちょっと違う。物語の中では、この年、東京で怪人(未確認生命体)が出没して、多数の被害者が出ている。だから担任の先生は、危険だから今年の夏休みは東京へ行くな、と児童たちに呼びかけたのだ。にもかかわらず、このエピソードの主人公は、いろいろ思い悩むところがあり、誰にも何も言わずにひとりでふらりと上京してしまう。それで先生は、東京にいるかつての教え子、オダギリジョーに相談して、少年の身柄を保護してもらう。そういう話である。少年が東京に遊びに出たことが、ただそれだけで問題視されているわけでもなければ、「ヒーロー」としてのオダギリジョーに出動要請があったわけでもない。
あるいは、EPISODE 35「愛憎」。少年怪人ゴ・ジャラジ・ダが、緑川学園高校の2年生をターゲットに人間狩りを楽しむ。雄介はそれを止めることができず、結果的には2年生全91名中、90名が殺されてしまい、残る1名は自殺。すげぇ話だ。だから、ラストのクウガは、怪人への怒りを抑えることができず、もうボコボコのギタギタにやっつける。それを本書は次のように要約する。

この怪人に対し、クウガはあらんかぎりの力でパンチの連打を浴びせかける。怪人がぐったりしたところを、べつの場所に運び、さらに剣でめった斬りにする。地面に倒れ伏した怪人に、馬乗りになって剣を突き立て、ようやくとどめを刺す。
義憤というには感情的すぎるほどの、怒りの奔流をほとばしらせるかれは、少年犯罪について議論沸騰する社会に対して、明確なメッセージを送っていたといえよう。
「最近の子どもたちはわからない。けれども、人を殺すようなヤツは、少年だろうがなんだろうが、怒りの鉄槌をくだすべきだ!」と。


たしかにゴ・ジャラジ・ダは少年怪人なんだけどね、クウガの暴走が「少年犯罪も厳正に罰するべきだ」という社会的メッセージを伝えているかというと、これもちょっと違うように思う。このシーンはむしろ、残虐な人狩りを阻止することができず、大量の犠牲者を出してしまった悔しさに、クウガが自分自身を抑制できず、プリンセス・ムーンふうに暴走してしまう、というところがポイントだ。
まあそんなわけで、本書は『クウガ』ファンからは総スカンを食らっているようだ。
クウガのプロデューサーは高寺成紀(現:高寺重徳)氏である。ファンの方はご存じの通り、白倉伸一郎とは、いわく因縁のある仲だ。もともと白倉氏は、スケジュールや予算の管理という面でしばしば問題を起こしていた高寺氏をサポートするために、『クウガ』の後半からプロデューサー補としてスタッフに加わった。そして次の『アギト』では高寺氏が外れ、白倉氏がプロデューサーに昇格したのである。
また、後に高寺プロデューサーの『変身忍者嵐』リメイクの企画が『仮面ライダー響鬼』に形をかえて実現した時も、結局、高寺さんは上層部やスポンサーとの折り合いが悪く、第30話で降板して、後半20話と劇場版は、白倉プロデューサーが井上敏樹を脚本に起用して切り抜けている。この時は、30話を境に作品の雰囲気がガラリと変わってしまい、大いに話題になったのでご存じの方も多いだろう。
そういう妙な縁がある高寺氏の作品を、本書は何度か取り上げて、しかも上に見たような、妙に歪んだ紹介の仕方をしているものだから、クウガファンは「どうも白倉は、何か高寺プロに含むところがあって、それでこの本で意図的に『クウガ』の評価を下げるような印象操作をしている」と怒っているようなのだ。そういう趣旨のブログを私もいくつか目にした。
でもそれはたぶん買いかぶりだと思いますね。白倉さんはそこまで考えていない。確かにこの本の『クウガ』の内容紹介はおかしい。でもそれはクウガに限ったことではないのだ。本書では他にもウルトラマンなど、いくつかの作品の内容紹介があるけれど、どれもほぼ同じくらいおかしい。ただ本書では、クウガとかカーレンジャーとか、高寺プロデューサーの作品がわりと多く引用されるから、高寺プロだけ妙に貶されているかのような印象があるのだ。でもそれは、たんに、自作解説はやりづらいし、他社作品や大先輩の作品も俎上に載せにくいし、手近で取り上げやすいところで、つい高寺作品をサンプルにしてしまった、という以上の意味はないと思う。
先の引用のクウガは、実際の番組から受ける印象とは異なり、ほとんど「法の番人」みたいだった。それは白倉氏が「今のヒーローは、社会的ルールを守ることを何よりも求められている」と考えていて、それを引証するために『クウガ』のエピソードを出してきたから、そうなっちゃったのである。自分の主張に都合の良いようにデータを改竄するのだから、これはもちろん良くないことだが、べつだん高寺氏に対する他意があってそうしているわけではない。東大卒という経歴に油断してしまいがちだが、この人はとんでもなく、いろんなテキストが「読めない」人なのである。
だからまあ、許してやってください。って、どうして私が偉そうに弁護しているんだか。

4. いちばん大事な話


最後に、本書が執筆されたタイミングの重要性。実写版ファンとしては、これがいちばん重要なのだ。
前回、前々回にも書いたとおり、「あとがき」によれば、白倉氏は、折原浩『ヴェーバー学のすすめ』を読んだのがきっかけで、おおむね完成していた本書の「それまでの原稿を、すべてふりだしに戻し、一から書きなおしはじめた」という。『ヴェーバー学のすすめ』は2003年12月に刊行されていて、本書が刊行されたのは2004年6月。ということは、本書が集中的に執筆されたのは、2004年の正月から春の連休明けくらいまでの間、と見て良いだろう。このことが実写版セーラームーンに与えた影響は大きい。いや影響を与えたと言っても、本書の内容ではないんだけどね。つまり私はだいたい、次のような事情を想像しているのだ。


2003年の白倉氏は、前年の『仮面ライダー龍騎』に引き続いて、年頭から『仮面ライダー555』のプロデューサーを担当していた。さらに同年5月ごろ立ち上げられた実写版セーラームーンの企画も任されるが、さすがに掛け持ちはキツイし、夏には『555』劇場版もあったし、直ちにセーラームーンに全力投球というわけにはいかなかった。その結果、初めのころのセーラームーンは、とくにその物語の展開において、脚本家の裁量に委ねられる部分が大きくなった。2003年放送分のAct.1からAct.13までの第1クールに、どっちかというと白倉プロデューサーよりも脚本家の小林靖子のカラーが強いのは、このような事情による(推定。っていうか、ここから後の記述は何もかも推定)。この年の後半、白倉氏は『ヒーローと正義』の執筆依頼を受けるが、これをそれほど深刻に考えてはおらず、軽い気持ちで仕事の合間にエッセイを書きためていた。
年が明けて2004年、『555』の仕事はあらかた片付いたし、続く『仮面ライダー剣』は日笠プロデューサーに任せたし、白倉伸一郎はいよいよ、今年はセーラームーン一本に打ち込むぞ、と燃える。がしかし、そんな折も折、羽入−折原論争なるものを読んだ白倉は、何を思ったか、片手間に書き上げかけていた『ヒーローと正義』の原稿を反古にして、もういちど最初から本腰を入れて書き直し始めるのである。

その結果、小林靖子は、本の執筆と締切りに気を取られているプロデューサーの目を盗んで、第2クール以降もわりと好きなように実写版の話を転がすことが出来た。Act.21(2004年2月28日放送)からAct.28(4月24日放送)までのダークマーキュリー編なんか、かなりノって書いている。
そういう状態が2004年5月の連休明けぐらいまで続き、エピソードで言えばAct.33(5月29日放送)、Act.34(6月5日放送)あたりまで制作が進んだところで、ようやく『ヒーローと正義』を脱稿した白倉氏が、さあ後はセーラームーンに全力投球だ、という状況になった。でも残されたのはほとんど1クールちょっと。
ここまで来たら、いまさら別のライターも立てられない。小林靖子で行くしかない。しかし、この後どう物語を決着させるかについては、プロデューサーとしてきっちり落とし前をつけよう。ちょうど書き上げた本のなかで、正義と悪の境界線を惑乱するような渾沌こそ、これからのヒーロー像にふさわしい、という結論も出したことだし。
ということで白倉氏は、これまでプロデューサーでありながら、諸般の事情で物語に深く介入できなかったぶん、最終ターンで思いっきり自分のカラーを打ち出していく。こうしてAct.36(6月19日放送)には、ナパームの爆発も華々しく、新キャラクター、プリンセス・ムーンが登場するのである。


以上、どうにもシャキッとしないレビューになっちゃったけど、これで終わる。
それにしても、がんばって書いたことは認めるけど、この人は本当に、本なんか書いたりするのに向いていないね。スピルバーグの映画に対する評言など、ところどころにハッとするような考察がばらまかれているが、全体を通して本書が言わんとしていることはイマイチ不鮮明で、たぶん本書だけでは分からない。やはりこの人が製作した作品を見なくちゃね。セーラームーンに関して言えば、最後の10話ぐらいを、本書と比較しながらもう一度チェックする必要があるなあ、ということは痛感したが、いまはもう疲れたので、またそのうちに、ぼちぼちやってみたいと思います。