実写版『美少女戦士セーラームーン』ファンブログ


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【第106回】DVD第1巻:Act.4の巻(その1)


いきなりローカルな話題ですが、地下鉄東山線の栄駅のホームの柱で北川景子のポスターを見た。いわゆるDocomoのやつで、他の柱には長瀬君とか蒼井さんとかがいるので、別にどうってことない。でもカシオペアさんによると、いまもなお「景子といえば竹下景子」のこの名古屋で、他の「景子」がピンでポスターが貼られていること自体、レアなのだそうだ。
だから記念に写真でも撮ってブログに貼ろうとも思ったが、デジカメを持ってなかったのである。このあたり、ダーツの合間もカメラを手放さないカシオペアさんの、人生に対する取り組みに学ばなければいけないと思う。
北川さんと言えば、D.Sさんのブログで『ヒートアイランド』のHPリニューアルを知り、予告編などを観たが、これがまるで北川景子のような北川景子だった。でも前にも書いたが、私は北川さんには当分の間、もう少し清楚な、純和風の女性の役を演じて貰いたいのである。ケバい役は20年後でいい。20年後に東映が『極道の妻たち』をリメイクするとき、岩下志麻の跡目を継げるのはいまのところ北川景子しかいない。私もそれまで生きていたら観に行く。
とにかく今は清楚な和風の役だ。それと以前、こっちよ!さんが、北川さんなら『トゥーランドー』の映画化にピッタリ、なんてコメントされたのを読んでから、やはり血の匂いもしないといけないかなあ、なんて思うようになってしまった。和風で清楚で血の匂い、というと、やはり横溝正史シリーズのヒロインである。北川さんに関して言うと、私は『女王蜂』なんかいいと思う。そしてついでに『悪魔の手毬唄』のヒロインは小松彩夏がいいと思う。
『悪魔の手毬唄』の別所千恵子は、東京で「大空ゆかり」の芸名でアイドルになって、久しぶりに岡山の鬼首村に帰郷した、という設定だから、小松彩夏には一曲ぐらい歌を歌ってほしい。というか、小松彩夏はドラマや映画に出るたびに必ず最低一曲は歌を歌うことを義務づけたい。あと岡山弁の指導はぽんたさんがやればいいと思う。
何が言いたいのか自分でも分からなくなってきたところで本題だ。Act.4レビューです。

1. メモリーズ


放送当時のことを思い出してみると、Act. 4というのは、実写版セーラームーンが、最初に曲がったコーナーというか、最初に踏んだ石というか、そういうエピソードだという気がする。
実写版の放送が始まって、あっという間にその世界に魅了された私は、他の人々の感想はどんなもんだろうか、ということが気になってきて、ネットを探索するようになった。結局、超有名な某巨大掲示板の特撮スレッドを中心に、いくつかのサイトを定期的に覗くようになったのだが、ただあそこは、アニメ至上主義者や、あるいはセラミュ命といった保守反動の人たちが、初めから厳しい眼で、手ぐすね引いて待っているような場所でもあった。なんでそんなサイトを好きこのんで、と思われるかも知れないが、実は私自身もセラミュのファンで、実写版の登場でセラミュの影が薄くなることを案じていた一人でもあったので、そのへんの方々の反応が、いちばん気になっていたのである。
で、様々な書き込みを読んでみると、はたして保守派からは「ルナはぬいぐるみかよ」「実写であのカツラはやっぱりヘン」「亜美のキャラクターが違いすぎる」などの異論が、すでに続々と飛びだしていた。でも私はまあ、そのくらいは仕方ないよな、と思った。むしろ予想したほど辛辣な意見はなくて、ほっと胸をなで下ろしたくらいだ。それはなぜかというと、やはりその真っ直ぐさに「虚を突かれた」という感じだったのではないかと思う。
そもそもセーラームーンの実写版と聞いた当初、特撮ファンはだれもが大なり小なり、ちゅうかなぱいぱいとかポワトリンとか、そういう浦沢義雄的ナンセンス・コメディ路線を予想していた。違うかな。少なくとも私はそうだった。ところが小林靖子と田崎竜太は、驚くほどストレートな直球を(「ストレートな直球」というもの変な言い方だが)、ストライクゾーンど真ん中に投げこんできたのだ。それは「この作品は、不思議少女でも月曜ドラマランドでも新春隠し芸でもない。照れもてらいもなく、本気で作りますよ」というメッセージだった。そしてそれは、一部のアニメ派やミュージカル派のかまびすしい突っ込みをねじ伏せるだけの力をもっていた。だからAct.1とAct.2が放送された段階では、さほどアニメびいきではない無党派層や原作派はもとより、アニメ原理主義者やセラミュ派の保守勢力も、まだ「けっこう真面目に作っているようだし、どういうふうになるか、もう少し様子を見ようじゃないか」という、比較的おだやかな態度をとっていたと思う。
しかし田崎監督の次に投入されたのが高丸監督だったのである。これはちょっと不運なことでした。それでもAct.3の時は、それほど演出に対する非難の声は上がらなかった。だって北川景子の登場が話題をさらっていたからね。でもAct.4はそうはいかなかった。新戦士登場というイベントもなかったので、保守派も中立派も「そろそろこのあたりで、ドラマそのものを落ち着いて吟味してみようか」という雰囲になっていたのだ。そこへあの、後半のバトルに象徴されるグダグダな高丸演出である。
こういう下手を待ちかまえていたアニメ原理主義者は「そら見たことか」と勢いづき、それまで中立的だった無党派層も「結局、Act.1とAct.2の緊張感は、そう長くは持続できないってことね」と見切りをつけた。こうして、特撮オタクな人々の間における実写版の支持率は、このAct.4を境に、安倍内閣なみに低下してしまった。
 そういう意味で、Act.4って、実写版にとってひとつの「つまずきの石」だったかなとも思う。最初の2話の路線を引き継いで、このAct.3とAct.4を盤石に固めて、名作Act.5へとつなげていれば、最初の一ヶ月で、無党派層の取り込みに成功していたのではなかろうか。そうすれば実写版セーラームーンは、今の『仮面ライダー電王』人気(かなりの人気のようですね)に匹敵するぐらいの支持率を得られたのではなかろうか。なんて、ただの妄想ですね。

2. 反省しろ!


しかしそれにしてもなぜ高丸演出は、これほど一斉に非難を浴びたのか。それはたぶん、演出が上手いとか下手とか以前の、いわば心構えの面で、多くの反感を買ってしまったからなのだ。
この日記の第92回で触れたときにはサイトが移転中であった『失はれた週末』が、その後めでたく再公開されたので(ここ)最近ヒマをみてはぼつぼつ読んでいるのだけど、Act.4レビュー、面白いね。徹頭徹尾、高丸監督を吊し上げている。ここまで徹底しているといっそ痛快で、読後感はすがすがしい(本当か?)。ほぼリアルタイムで書かれた高丸批判の最も先鋭的な一例だ。
レビュー前半は、アクションシーン演出に対する批判が中心であり、後半は、脚本に示された少女たちの心理劇の検証と、それが一向に読めていない監督への容赦のない罵倒である。で「(高丸監督の)次のローテはAct.11、Act.12だそうな…また来るのかよ、もう二度と来なくていいのに」ときて、最後は「ああもう、縁起悪いから塩でも撒いとけ!」と結ばれている。何もそこまで。
まあしかし、ここまでこき下ろしておきながら、それで見切りをつけることもなく、黒猫亭とむざう氏は延々と実写版レビューをお続けになっているわけですけれどもね。しかも途中からどんどんペースダウンして、未だに未完。でも最近ようやくAct.48がアップされた。
ともかく、そこで指摘されているように、確かにAct.3、Act.4の演出には、ちょっと特撮番組をナメた態度がちらほら伺える。高丸監督はもともと一般ドラマの演出家だった。だから特撮ものって「ヘンなもの」、もっと言ってしまえば「真剣にドラマを作り込むような対象ではない」という見下した気持ちが、やはりどこかにあったのではないだろうか。美奈子の歌にあわせて三人で妖魔を同時攻撃するなんてアイデア、そりゃバカバカしいと言えばバカバカしいよ。でもそういう子供番組の枠組みの中で、ここで三人の息が合う、という大事なポイントをどう表現するか、そこに知恵を絞るのが演出家の役割だ。ところが高丸監督は「バッカじゃない」と言わんばかりに演出を投げている。不真面目である。
あるいはぐっと好意的に、初めて手がける児童向け特撮ものをどう撮っていいか戸惑っていたのだ、と解釈してもいいが、いずれにせよ、Act.4の後半、各戦士が変身してから後のパートの随所に、黒猫亭さんの言葉を借りれば「どう見ても変なコトしてるようにしか見えないんだが、特撮ヒーロー番組というのはそういうものなんだろう」という、監督の突き放したような、醒めた視線が感じられるのだ。しかもAct.1、Act.2の直球ストレートな田崎演出と、Act.5、Act.6の情熱的な舞原演出とに挟まっているだけに、その印象はことさら強い。高丸監督、第一印象は完全にアウトである。
アニメ原理主義者やセラミュファンが、このAct.4を機に本格的な実写版叩きに転じたのは、具体的に演出がまずかったからというよりも、まずこういう監督の基本的スタンス、傲慢さというか、特撮番組への愛情の欠如に対する反感、という部分がおおきかったように思う。そしてこの件に関しては、かなりの実写版ファンもまた同意見なのだ。たぶん本人も知らず知らずのうちに、オタク全般にケンカを売ってしまったんですね。残念なことだ。


と、あれこれ書いたが、Act.4の初放送は2003年10月25日だから、今からもう4年近くも前のことだ。そして私は、40歳を過ぎてから、加速度的に記憶力が落ちているし、しかも、思い出してもアイマイな部分は自分の主観にあわせて過去をねじ曲げる性癖もあるもんですから(まあ人間だいたいそんなものかもね)以上に述べたことが、皆さんの記憶しておられる当時の印象と合致しているかどうか、実は心もとない。どうでしょうか?

3. ドレスをまとわないプリンセス


放送当時の状況の話はそのくらいにして、Act.4って、作品そのものをとっても、実写版の「最初の曲がり角」となったエピソードではないかと、改めて思う。まず形式的な面から言うと、ここで初めて、前のエピソードから話が続いて、前後編で完結、というスタイルがとられる。セーラームーンでも、仮面ライダーでおなじみの二話構成の手法を採用することが、視聴者に示されたのである。
また内容的には、はじめて原作への積極的な挑戦が試みられた回である。もちろん、Act.1、Act.2、そしてAct.3と、実写版は少しずつ原作のプロットにアレンジを加えて、次第に独自の世界を築いてきた。しかしこのAct.4に至って、いよいよ小林靖子は原作のテーマに対する、ある意味でアンチテーゼを出してきたのである。このことについては、すでに再放送レビューに書いたが、もう一度触れておきたい。
原作漫画第4話は、来日中の「ダイヤモンド王国」の王女プリンセス・ダイヤモンドと、彼女が日本に持って来た王国の秘宝をめぐる冒険物語だ。この秘宝が幻の銀水晶ではないか、ということで、セーラー戦士も地場衛もネフライトも、大使館で開催される晩餐会(仮面舞踏会)に潜り込む。アニメ無印第第22話「月下のロマンス!うさぎの初キッス」も、ほとんど原作どおりの話である。
ここで原作が「外国の王女が主催する晩餐会」という場面を設定したのは、その晩餐会(仮面舞踏会)に潜入するためにフォーマルな衣裳にドレスアップした月野うさぎと、タキシード仮面に扮した地場衛(というのも、これまた変な言い方だね)がばったり出会い、お互いの姿を見て、互いが月のプリンセスであり、地球の王子であった前世の記憶をぼんやりと呼び醒まされる、という展開のためであった。
しかし実写版は、これを「桜木財閥の令嬢、桜木由加の誕生を祝う誕生パーティーの席上で、この家の秘宝である幻の青水晶が公開される」という設定に置きかえた。これはまあ、予算の都合とかの事情もあったのだろう。
そのパーティーに潜入するにあたって、うさぎはテレティアで、どんな衣裳で潜り込むか、あれこれ着替えを楽しむのだが、それがどれも、いかにも晩餐会に出席するセレブのようなドレスなのである。けれども結局、彼女はクマの着ぐるみを選ぶ。で、パーティー会場でうさぎはタキシード仮面に出会い、抱きつくが、ドレスならともかく、クマでは原作やアニメのようなロマンスの生まれようもない。結局タキシード仮面に邪険に扱われる。
なぜスタッフはわざわざ、ここで寄り道をして、うさぎが次々に豪華なドレスを着る場面を入れてから、クマの着ぐるみに話を進めたのか。もちろんひとつには、メインターゲットである児童女子を楽しませるため、ということがあるだろう。それからもうひとつの推測として、これはスタッフの「本当は原作どおり、こういう衣装でうさぎがタキシード仮面と踊る舞踏会のシーンが撮りたかったんだ。でも予算とか色々あって無理だったんだ」というメッセージなのではないか、ということがある。でもそう考えると、だからといっていきなりクマの着ぐるみというのも、ちょっと自暴自棄なのではないだろうか、という気もする。以前の再放送レビューには、だいたいそんなふうに書いた。
で、今回あらためてこのシーンを観ていると、これはどうも「このドラマではうさぎちゃんのお姫様ドレスの姿はそんなに見られません。だからここで大放出しておきますよ」という意味かな、と思ったのである。いやスタッフがそう意図しているかどうかは分からない。というか、たぶんスタッフはそこまで考えていない。いないのだが、結果的に、このシーンはその後の実写版の路線を予告しているのだ。実際、うさぎはAct.1でジュエリーショーに忍び込むために大人っぽいドレスをまとい、このAct.4で、あれこれのゴージャスなドレスを試し、それを最後に、ほとんど「プリンセス」らしいドレスを身にまとっていないと思う。
アニメのセーラームーンは、シリーズごとの最終回とか、決めどころでプリンセスのドレス姿になって戦っていた。特に、あらためて言うまでもないだろうけど『劇場版セーラームーンR』のクライマックスなんてすごくよかった。BGMに「ムーン・リベンジ」が流れると、うさぎはプリンセス、衛はエンディミオンの姿になってさあ。あ、なんか私、泣いてる(バカ)。
でも実写版セーラームーンは「うさぎが前世のプリンセス・セレニティの姿にはならない」物語だ。回想シーン以外でそういう姿になるのは、わずかに「エンディミオーン!」と叫んだAct.24のラストから、Act.25の冒頭にかけて。あとはFinal Actでほんのワンシーン。それだけ。しかもほとんどやっつけ仕事みたいなドレスだった。現世のうさぎと衛がプリンセスとエンディミオンの姿になるツーショットも、Final Actのワンシーンだけだ。衛はタキシード仮面の衣裳を捨ててからは、Act.32やAct.35やAct.39やAct.43などでエンディミオンの姿で闘うのに、その傍らに、プリンセスがドレス姿で寄り添う姿はとうとう拝めない。
うさぎがプリンセスのドレス姿にならないということは、つまり「前世からの運命にしたがって結ばれる恋人同士」という少女漫画的ロマンスを捨てるということだ。原作のうさぎにとって前世とは、優雅な舞踏会や、楽しかった遠い日々のおぼろげな記憶であり、時に彼女はそのなかにまどろむ。でも実写版のうさぎは、そんなふうに、前世のプリンセスとして甘い追想に身をゆだねることを許されていない。実写版のうさぎにとって、前世とは暴走するプリンセス・ムーンだ。荒涼たる過去の亡霊である。それは、いまを生きる女の子として新しい運命を切り開こうとする彼女の前に立ちはだかる障害でしかない。
舞踏会と豪華なドレスで「前世からの恋」というテーマをロマンチックに盛り上げた原作第4話を脚色するにあたって、小林靖子は、あえてうさぎに色々とドレスを着せてから、最終的にそれを捨てさせて、あろうことか「クマの着ぐるみ」を着せた。それは実写版を、原作のような「予定調和の」プリンセス・ストーリーにはしない、という挑戦状だ。そんなのはつまらない。だからラストでうさぎは「C'est la vie」を口ずさんだのだ。これから始まる実写版の恋の物語は、原作とは「少しズレ」てて「面白い」よ、という宣言である。ひとまずそういうふうに考えておきます。
「クマ」であることまで台本に指定があったかどうかは分からないが「うさぎが着ぐるみを着る」というアイデア自体は小林靖子のものだろう。『M14の追憶』に紹介されたAct.41台本にも、児童館でうさぎや亜美やなるが着ぐるみを着ることはちゃんと書かれている。あ、でもあの回は、まことが「新種の亀」になるところがポイントだから当然と言えば当然か。しかし最近の『電王』でもイマジンが着ぐるみを着る回があったし、基本的に小林靖子は着ぐるみ好きなんだと思う。

4. 火野レイとしての高丸雅隆


さてそれでは話を戻して、Act.4の高丸演出の問題点はいったいどの辺にあるのか、具体的にDVDをチェックしてみよう……と思ったが、もうだいぶ字数を費やしたので、それは来週の課題としたい(すっかり週一回更新体制が身についてしまった)。
というわけで、次回は『失はれた週末』ほどではないにせよ、少々きびしく高丸監督を追求することになるかと思う。しかし私は、というか、このブログは、そんな初期高丸監督作品にさえ救いの手を差し伸べる博愛精神を売り物にしている(そうだったのか?)。そこであらかじめ言わせていただくが、みなさんAct.4の高丸演出がヘタレだからって、そう安易に責めてもらっては困る。それはAct.3で、うさぎたちの仲間に入らなかった火野レイを「こいつ自己チュー」と責めるのと同じことである。そう、レイの登場と共に実写版の世界に入ってきた高丸監督は、実は火野レイそのものなのだ。
最初は、監督ローテーションに加わりはしたが、一般ドラマのフリー演出家として「特撮は嫌い」「私、あなたたちの仲間になったつもりはないの」と突っ張っていた高丸雅隆。しかし東映スタッフと一緒に仕事をしているうちに、その真摯な姿勢に動かされ、少しずつ心を開いてゆく。そして「前世なんか無視すればいいのに」とうそぶいて、東映特撮アクションの伝統的手法をないがしろにしていた初期の不遜な態度も、それがスーパー戦隊やライダーなどの長年の蓄積に裏打ちされた、必然性のあるしっかりしたメソッドであることを学習するにつれ、だんだんと改められていく。でも実写版セーラームーンは、ルーティンを漫然と再生産するだけの戦いではなかった。長い歴史の中で確立された東映特撮ドラマの枠組みを、内側からどれだけ乗りこえられるかという、「前世の使命を果たして、使命を終わらせるため」の戦いであったのだ。こうして高丸雅隆は戦士の力に目ざめていく。第2クールが終わったあたりから。ね、まさしく火野レイと同じ軌跡をたどっているではないか。
しかしこんな私のフォローの甲斐もなく、この人は今年に入って「特撮ヒーロー番組なんてこんなもんでしょ」というコンセプトを地でいくような『美少女戦麗舞パンシャーヌ 奥様はスーパーヒロイン!』を撮ってしまったのである。まったく私の気苦労をどうしてくれるのか高丸雅隆。