実写版『美少女戦士セーラームーン』ファンブログ


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【第95回】DVD第1巻:Act.3の巻(その2)


 地下鉄東山線の名古屋駅は、もう隅から隅まで、どこもDocomoの宣伝ポスター一色でした。こんなに大きな北川さんの笑顔をこんなに沢山タダで見放題なんて、余りにもおそれ多い話です。どこかに賽銭箱を置いてください。

1. プロファイリング

ル ナ「それでは、第1回セーラー戦士クイズ!」

 「第1回」ということは、当初はこのようなクイズコーナーを、小さいお友だち向けの番組ナビとして常設する予定もあったということなのか、それともたんなる言葉のアヤか。ともかく、対照的なうさぎと亜美。うさぎが着ている服のブランドはLOVERS HOUSE(ラヴァーズ ハウス)と読みとれる。亜美ちゃんのお嬢様ふう衣装は分からない。クイズだということで、すでに回答ボタンに手をかけてワクワクのうさぎと、冷静にかまえて微笑む亜美。
 沢井美優はすで元気印のうさぎを体得している。こういうシーンを見ているとつくづく思うのだが、沢井美優っていう人は、たとえば台本を読んで、うさぎの行動やセリフが理解できない場合も、とりあえず月野うさぎになりきってみて、うさぎの気持で動いてしゃべって、理屈ではなく身体で意味をつかむ、ということができる女優なのだと思う。とりあえず与えられた役目に飛び込んでいって、結局ものにしてしまう。だから最初にきちんと軌道に乗せてあげれば、あとはぐんぐん進化していく。そういう意味で、最初に田崎監督という、しっかりとした基本設計のできる演出家に出会えたことは、とても幸運だった。
 これと対照的なのが北川景子だ。彼女は自分が演じる役をきちんと理屈で納得してからでなければ、たとえば火野レイの屈折した心理を詳しく分析して、頭で理解したうえでなければ、役づくりに入っていかない人だ。いやそういうイメージがあるというだけの話だが、ただ言われた通りのことをやるのではなく、常に状況を把握し、自分をコントロールしたいという強い意志を感じる。だから実際のクランク・インとなったAct.3で、俳優を必要以上にいじらない高丸監督と組めたことも、これまたラッキーだったと言える。まだまだ稚拙ではあったかも知れないが、彼女は自分の頭で考え、自分で演技を管理しながら、スタートを切れたのである。
 いや、まだ北川景子は出てきていない。ここで沢井美優に対するは浜千咲であった。しかしこの人は何がなんだかわけが分からない。どんな監督ともそつなく合わせる一方で、天真爛漫にやりたい放題である。Act.2で変身したときの笑顔は、田崎監督の意図した亜美のキャラクターをはみだしてしまっていた。でもこれは「亜美ちゃんも変身したことで、それまで表に出さなかった自分を解放したのかな」と、いちおう納得できなくはない。ところがこのAct.3の冒頭では、クラウンの年間パスポートを元基に見せるときには「あのう、こんなので、本当に良いんですか?」と、いかにもおずおずと気弱な亜美ちゃん演技をしたくせに、続くクイズ大会では、最初から、ちょっと自信ありげな笑顔で、正解するたびに、内心では勝ち誇ったようなブリッ子的微笑みを浮かべる。沢井美優が、ルナの出す問題に答えたり、ハズれたり、悔しがったりしたり、田崎監督が敷いた路線に忠実な「うさぎちゃん」をしっかり演じているのとは対照的である。

2. 歴代「水野亜美」をめぐるちょっとした疑問


 それにしても、セーラームーン史に特に大きく名を残している歴代の「亜美ちゃん」たちは、なぜかどの方も、亜美ちゃんらしからぬ、ある種の「毒」を含んでいるような気がする。アニメの久川綾さんからしてそうだ。たとえばこの実写版Act.3に対応するアニメ版のエピソード(無印第10話)にはこんな会話がある。

(バス停にて)
うさぎ「あっ。亜美ちゃーん」
亜 美「ああ、うさぎちゃん、ルナ」
うさぎ「亜美ちゃん、どこ行くの」
亜 美「うん、これから塾なの」
うさぎ「え、亜美ちゃんたら、わざわざバスに乗って塾に通うの?」
亜 美「良い塾に通うためなら、飛行機にだって乗るわ。私は戦士なのよ。もっと勉強して、いろんな知識をたくわえて、早くルナの手助けができるようになりたいの」
ル ナ「えらい!亜美ちゃんはホントに偉いわ。それに較べて誰かさんは(タメ息)…」

 アニメの亜美ちゃんは、しょっちゅうこういうイヤミな(としか私には思えない)ことを平然と言う。それを語る久川さんの声が、またイヤミなほどに優等生なのだ。でもご存知のように、初期のアニメ版の人気を引っ張っていたのは亜美ちゃんであり、久川綾だった。
 それからミュージカルの森野文子と河辺千恵子。以前、河辺千恵子が『決戦/トランシルバニアの森』で「冗談じゃないよ!」とブチ切れて歌う「Drive me the Mercury」を、ダークなマーキュリーのオリジナルだと書いたところ、初代の森野文子の「いい子はやめた」があるじゃないか、というご指摘をいただいた。それで、買ったまま放置していたミュージカル『SuperS 夢戦士・愛・永遠に…<改訂版>』(1996年春公演)のDVDを鑑賞したのですが、「気安く呼ばないでよ」なんて言いながら黒いジャンパーをはおる亜美ちゃんは、なるほど確かにダークマーキュリーの遙かな原型とも呼びうる迫力があった。歌も踊りもびしっと一本スジが通っていて、なんか、いまでも森野文子こそ最高のマーキュリーと讃える方がが多いのもうなずけるなあ、と改めて感心してしまいました。
 でも原作の水野亜美は、優等生のイメージとは裏腹に、素顔はほんわかした感じの優しい子だ。だから戦士の中でただ一人うさぎのことを「うさぎちゃん」と呼ぶ。一方でちょっとアンニュイな暗さもあって、それはいつも強く自己主張できない自分への、ちょっとした自己嫌悪から来ているように見える。
 『The J-GUIDE 』の最近の記事で指摘されているように、こういう亜美のキャラクターは、セーラームーンの2年ほど前に武内直子が描いた短編「ミス・レイン」の主人公、倉満れながひとつの原型になっている。倉満れなは、目の利く男子からは「わが校のかくれたアイドル」と言われる美少女で、高級ブランド「ミス・レイン」の服が似合うお嬢様なのだが、反面、彼女が行くところなぜか雨が降るという雨オンナで、生徒会長に片思いをして生徒会役員をやっていて、でも自分の気持ちを打ち明けられない地味で内気な子でもある。ここから恋愛要素を抜き取って水のイメージとアンニュイな雰囲気だけを残し、生徒会役員という「良い子」の記号を「成績優秀」というかたちで発展させると、漫画版の、普段はいつも夢見ているような表情の水野亜美になる。それがマーキュリーに変身すると、ちょっとキリッとした感じになるところがいいのだ。
 原作も『るんるん』に掲載された番外編なんかだと、高校受験が近づいて、亜美は仲間の戦士を集めて勉強会を開いたりもする。けれども、まことがみんなのために、おいしいお弁当をたくさん作って来るので、結局まったりとなごんでしまって、みんなはおかんむりの亜美ちゃんに叱られるのだ。というように、後になると活発な亜美の一面も描かれるようになるが、でもこれはアニメ版にあわせた変更だろう。ともかく、原作本来の水野亜美には、暗い気弱な感じはあっても、ダークな毒性はほとんど感じられない。なのに久川綾も森野文子も河辺千恵子も、歴代のエポックメイキングな「水野亜美」は、必ずどこかに亜美ちゃんらしくない刺激性のスパイスを隠し持っていて、しかもそれが「亜美ちゃん」役としての人気の原因だったりするのだ。どうしてなのか、ちょっと不思議だ。スイカに塩をふると甘みが増すようなものか。もうすぐ夏ですね。
 まあそういう見方からすれば、浜千咲が時おり垣間見せる「黒い」一面こそ、実は彼女が「水野亜美」の正統な後継者たるにふさわしいことを、なによりも物語っているのではないか、と私は思うのだ。

3. DVDで鑑賞すると、放送より亜美のブラウスが透けて見える(推定)

うさぎ「彼女も仲間ってこと?」
ル ナ「う〜ん」
亜 美「もしかして、プリンセス?」
ル ナ「分からない、これから彼女を追って調べてみるつもり」

 というわけで、冒頭のクイズ大会が亜美の圧勝で終わると、ルナはセーラーVを調査をするために、このエピソードからは退場する。そしてルナが不在となることで、今回の事件にはうさぎと亜美が二人きりで関わることになり、そのおかげで、亜美の心理をさらに深く掘り下げることが可能になった、というような話は再放送レビューの時にも書いた。
 しかし改めて観ていても、このあたりの脚本家の構成力には感心させられますね。たとえば、流れては淀み、淀んではまたさらさら流れだす、起伏に富んだ亜美の心理。それはシーンごとにパタパタと「嬉しさ」と「戸惑い」の間を行ったり来たりして、物語の展開に緩急のメリハリをつけている。

(1)年間パスポートを見せる時は「これでいいの?」とためらいがち。
(2)でもクイズに正解した時は、嬉しそうで、ちょっと得意げな笑顔。
(3)学校では、うさぎたちとお弁当を食べられない引っ込み思案な子。
(4)でも放課後の調査は活動的で、事件の真相にすばやくたどり着く。
(5)でもうさぎちゃんのママのテンションの高さには、引いてしまう。

 こういう心情の行ったり来たりを、ほとんどカンだけで演じ分けている(ように見える)浜千咲も見事だ。でも、前回「これからも高丸さんを誉める」と書いちゃった手前アレだが、監督がもっと計算の行き届いた人だったら、いっそう珠玉の作品になったのになあ、と惜しまれる。さっき書いた(2)のクイズ正解時の「笑顔が亜美ちゃんらしくない」というのもそのひとつであるが、これはまあいい。最も残念なのは(5)の月野家の夜だ。ここは台本と完成作品の違いを確認してみたいシーンである。
 ご存知のように映像では、お行儀良くしている亜美(放送時は気づかなかったが、DVDだとブラウスがそこはかとなく透けて見える)に、うさぎが「亜美ちゃん、そんなにちゃんと座らなくても良いよ」なんて声をかけていると、「特製カフェオレ」を持ってきたママが、いきなりベッドのうさぎに襲いかかって「亜美ちゃんも、早く!」と参加を促すという、わけの分からない展開になっている。しかしおそらく台本では「部屋に入ってきたママと楽しげに話しているうさぎと、それを黙って見ている亜美」みたいな感じのことが書かれているのではないだろうか、と思う。
 このAct.3は、Act.33、Act.34のための伏線回なのだと思う。今回レイは 、同じ学校の女生徒から「あんたの霊感は不吉だって前から言われてたもんね」と言われて激しく取り乱す。なぜか。前に再放送レビューで書いたように、レイは「自分は霊感少女だからパパに見捨てられた」と思っている(「パパはね、私の持っている力が嫌いなの。だから神社に預けたのよ」Act.8)。だから問題はパパなのだ、というのが、このAct.3のメインテーマである。他方、亜美は今回、うさぎの家で、まるで友だちみたいにママとじゃれあっているうさぎを見て、自分がそんなふうにママとコミュニケーションをとれていないことを、淋しく思う。つまり亜美にとって、問題はママなのだ。
 レイとパパ、亜美とママ、Act.33&Act.34でようやく語られるこの二組の物語のために、その伏線として、このAct.3では、「亜美の物語」と「レイの物語」それぞれの序章が並行して描かれるはずだったのである。ところが前半の「亜美の物語:プロローグ」の締めくくり部分を、つまり「楽しそうにじゃれる月野母娘と、それをさびしそうに微笑みながら見守る亜美」という肝心の画を、高丸監督は、プロレスまがいの技で盛り上がるうさぎとママ、それをドン引きして見守る亜美の、魚眼レンズによるアップ、というコメディ演出で処理してしまったのである。いくら高丸びいきの私でも、これについては弁護しきれないな。あえて言うなら、Act.33とAct.34への伏線を、半年以上も前のAct.3で張っておくなんて(しかも子供番組なのに)そんな非人道的に気の長い行為が許されるのか、という脚本家への非難ぐらいだが、そういうところが良くてこっちはレビューをやってるんだもんね。


 う〜ん朝だ。今日はここまで。続いて、火野レイが護摩の炎に異変を感じる、そして次のシーンで、たぶん火川神社参道かその近辺を歩いていた女の子が、異空間から現れたジャバラ妖魔に捕らわれてしまう、という展開になるわけだが、その先はまた次回に。ドラマの中では最初の犠牲者になるちょっとコギャル(死語)ふうの美少女は、ご存知の向きもあるかと思うが小林沙弥さんである。昔パブロンのCMで竹下景子の子役をやって人気を集めた方で、写真集なんかも出ている。
 次回は、初期エピソードにおけるタキシード仮面とセーラーVの関係をめぐる考察か。なんかもう、最近はユルユルの展開と牛歩の歩みで、申し訳ありません。でも1回あたりの文字数が減ったので読みやすくなったのではないでしょうか(開き直り)。


P.S. ちっ!ゴルフでゲキレンジャーは休み。でも『電王』と『プリキュア5』があるからいいか。ぜんぜん関係ないが、本日より中日新聞でさくらももこ「ちびまる子ちゃん」の連載が始まります。「平成のサザエさん」とか言われた作品ですが、新聞の4コマ漫画という、ついに本当にサザエさんの領域に迫ってまいりました。私もこれにこたえて、そのうちサザエさんとちびまる子ちゃんと武内直子のセーラームーンという三題噺で、記事を書きますね(謎)。