実写版『美少女戦士セーラームーン』ファンブログ


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【第56回】なるちゃんのことを考えていたら大晦日になったの巻

1. 突然ですが『恋文日和』を観ました


 皆さんのなかには、実写版の再放送ねらいで水曜日に名古屋方面へのご出張を入れた方もいらっしゃるようですが、当然ながら私の場合は、逆に水曜だけは遠出をしないように気をつけていたわけです。けれども12月27日(水)は再放送がなかったので、26日から28日まで3日間、外回り業務を引き受けまして、今年の仕事納めとしました。そして関東地方にある私の実家にやって参りまして、こちらで年を越すんです。
 で、実家に帰った28日の夜、みんな寝静まったあと、今年は家族が順々に風邪をひいて看病に追われたり、なんだかクリスマスも何もなかったなあ、などと思いつつ、酒を飲みながらだらだらテレビを見ていたら、なんと6チャンネルで深夜1時30分より映画『恋文日和』(2004年)のオンエアが始まったのでありました。これはTBSから私へのちょっと遅いクリスマスプレゼントである。さすがCBCのキー局だ。
 何を今さらと言われそうだが、実は私、この映画を観ていなくて「それぞれ独立した内容の短編からできたオムニバス映画で、そのうちの1話に小松彩夏が主演している」ということしか知らなかったのである。正直いってそれほど期待していなかった。しかしとても良かった。小松彩夏が出ているからでもなければ、実写版Act.9でニセタキシード仮面を演じた弓削智久や玉山鉄二など、東映特撮指数の高いキャスティングだからでもない。もちろんそれらも好印象の理由ではあるが、とにかく素直に普通に、良い映画だった。しかも各エピソードが、内容はそれぞれ独立しているのに、空気はつながっている感じがして、「短編集」というよりは「連作長編」に近い味わいである。だから私はてっきり、ジム・ジャームッシュの作品や黒澤明の『夢』のように、オムニバスとはいっても全部を一人の監督が手がけた事実上の長編映画なのだろうと思いこんで観ていて、最後のクレジットで、原作が同じだけで脚本も監督もそれぞれ別人だと知ったときはちょっと驚いた。これは配列というか構成のうまさかとも思うが、あるいは原作漫画の雰囲気をどの監督も共有できたという要因によるところが大きいのかも知れない。
 そういうわけで、これはいま拙速にレビューするよりも、もう一度じっくり観て、それからすでに公表されている批評なんかもよく読んでから、重ならない範囲で書けることがあれば感想を書きたいなあと思わせる一編であった。来年あたり、『マスター・オブ・サンダー』なんかと一緒に、小松彩夏特集でも組んでやってみようかな。でも、だからといってここで何も書かないというのも愛想ないような気もするので、少しだけ。
 第2話『雪に咲く花』(脚本:佐藤善木/監督:須賀大観)。舞台は地方の高校。季節は冬で、あたり一面に雪が降り積もっているし、そこへ小松さんが出てくるので岩手のような気がするのだが、ロケ地は新潟で、つまり北陸の話だ。そしてヒロインは、そんな田舎の学校には不釣り合いなくらい洗練された美少女、宮下千雪。とにかくきれいだが、どことなく近寄りがたい、大人びた雰囲気に包まれている。その瞳はどこか投げやりで、時に自分の身を顧みない危険な行動をとる。飛ばされたマフラーを取るために平気で危険な高所に身をさらしたり、凍てついた冬の湖に飛び込んだり、ほとんど死を望んでいるかのようでさえある。そして援助交際をしているという噂もある。まあそんな謎めいた美少女がいれば、クラスの男子たちの好奇と注目の的にならないはずがない。
 で、彼女がそんなすさんだ心の持ち主になってしまったのには、それ相応の理由があって、しかしひとりの一途で純情なクラスメートの少年が、彼女をその絶望の淵から救ってやるというのが基本的な物語だ。制服姿の小松彩夏が無抵抗なまま湖畔のボートで男(田中要次!)に情事を迫られているシーンとか色々あるが、最後はけっこうピュアな恋物語として結末を迎え、後味は意外なほどさわやかでした。安座間さんお薦めのケータイ小説「恋空」を三分の一ほど読んだところで中断してしまった私でも、これならついていける。いや安座間さんについていくために「恋空」の後半も読むつもりです。がんばるぞ、おー!
 閑話休題。これまでも何度か書いてきたが、私自身は、小松彩夏という、べつだんエロ系とかコスプレとかのイメージで付加価値をつけなくても十分に通用する美少女が、どうしてしょっちゅうそういう、一種のヨゴレ役をやらされなきゃならないのか、いまだによく分からなかったりする。最もこれは小松彩夏に限った話でもないか。私は北川さんの『Dear Friends』出演にも沢井美優のビキニ写真にも抵抗があるのだから、ほとんど物わかりの悪い父親みたいな気分でいるだけなのかも知れない。しかしそれはともかく、この『恋文日和』第2話に限り、クラスの男子からは「あいつ500円でやらせてくれるらしい」と後ろ指さされる制服姿の小松彩夏は、これでいい、と思った。最初に見せるちょっと淫靡なほほえみと、最後に見せる浄らかな笑顔の対比も素晴らしければ、そのターニングポイントに置かれた吹雪の中のキスシーンも実に良かった。これ、ピュアな美少女なのに、ちょいエロなイメージも背負っている小松彩夏にしか考えられないような役だと思う。
 私は秋口に小松さんがご自身のブログで「演技を誉められたことは一度もない」と書かれていたのにちょっとショックを受けて、確かに実写版を観る限り演技力はアレだが、そんなに落ち込むことはないじゃないか、なんとか励まさなくちゃ、なんて思ってお節介なことを書いたりもした。でもこの『恋文日和』を観て思ったね。そりゃウソだ。この芝居を誉めなかったらそれは監督がおかしい。
 ホント今さらな話で申し訳ありませんが、2年も前の作品とは言え、女優小松彩夏のオーラを見せつけられて、これで幸せに年が越せる気分である。それから物語のなかで、小松彩夏と田中圭のカップルを結びつけるアイテムとして、映画タイトルの「恋文」と同じくらい重要な役割をはたすのが「マフラー」だ、と言うところもぐっときた。いま観ている再放送でうさぎが衛に渡したのは純白のマフラーだけど、こっちは女物のピンクのマフラーでね、ちょっと泣けました。とにかくありがとうTBS。できれば関東の皆さんのために実写版を再放送してやってくれ。
 という、これだけのことを書くのに2日かかってしまった。おかしいなあ。実家でいつもよりのんびりとブログに取り組めると思ったのだが、なんかいろいろやることがあって、子供の相手もしなくちゃいけないし、結局、名古屋にいるときよりも時間がないよ。というわけで更新が遅くなってすみません。実は本日はわけあって「大阪なる」のことを考えてみたかったのだが。

2. 「古幡元基」と「大阪なる」


 原作、アニメ、そして実写版に共通するセーラームーンのレギュラーメンバーと言えば、(1)セーラー戦士たちとダーク・キングダムの面々および地場衛、(2)古幡元基と大阪なる、(3)うさぎの家族と担任の春菜先生、という三つのグループに分けられる。そのうち(3)は限りなく背景に近い存在で、たいした必然性はない。両親と弟といううさぎの家族構成、そして謙之、育子、進吾という名称が、原作者武内直子の実際の家族からそのまま取られていることは有名な話だが、言っては悪いけど、弟の進悟なんて、物語的には別にいてもいなくてもかまわないキャラクターである。
 ただしママは少々やっかいだ。作者の武内直子にとっては、月野育子は現実世界における自分自身の母親の投影、クイーン・セレニティは、漫画に描いた夢の世界における自分の母親、ということで別に問題も混乱もないわけだが、作中人物である月野うさぎにとっては、現世と前世に母親が二人いることになってしまう。だからアニメも実写版も、月野育子の存在を原作よりも強調して描き、前世の母親セレニティとは別に現世のママがいることの意味、あるいは必然性を補足しようとしている。アニメ版は月野育子を、怒りっぽくもあるが料理上手で、いつもおおらかな優しさでうさぎを包んでくれる理想的なママとして描き、実写版はいまいち性格がつかめないが、ともかくとてつもなく明るくてパワフル、というインパクト重視のキャラクター設定となっている。が、後の人物については、春菜先生を含めて原作もアニメも実写も大きく印象は変わらない。というか印象が薄い。パパなんか実写版には出てこないし。
 そう考えると、(2)「古幡元基と大阪なる」という二人の存在がいかに大きいかが分かってくる。この二人は、ネーミングにそれなりの意味があるという点から見ても、レギュラー以外のキャラクターのなかで最も重要な存在である。小林靖子が実写版で、この二人にだけはセーラー戦士たちの変身シーンを目の当たりに見せたのもそのためだろう。実際、原作漫画の元基は、うさぎたちが「あのセーラームーン」たちで、クラウンの地下に彼女たちの秘密基地があったことを知り、びっくり仰天しながらも変わらぬ協力を約束するのである。戦士たちの活動の拠点、基地、ベースステーションとなるクラウンの番人だから「元基」という非常に分かりやすいネーミングだ。ちなみに原作の元基はクラウンが入っているビルのオーナーの御曹司である。実写版の元基はただのバイト君に見えるが、ひょっとするとそれは世を忍ぶ仮の姿で、実は原作と同じ設定かも知れない。ただのバイトや雇われ店長に、ネフ吉のような役立たずを雇い続ける裁量があるかなあ、などと考えると、ネフ吉が食器を壊すたびにオレのバイト代から天引きだなどとぼやくこの人、隠しているけど実は意外と偉くて、将来オーナーとなるための修行をしているんじゃないかな、なんて思ってしまう。私もヒマである。
 さて分からないのが大阪なるだ。「ルナ」と「なる」。うさぎをセーラームーンに変身させ、うさぎの目を前世に向けさせる、という使命をになった黒猫に対して、現世の学校生活にうさぎを引き戻そう、という正反対のベクトルをもったクラスメート。ひっくり返った名前の意味がまずその点にあることは、まあすぐに分かる。でもそれだけか?とも思う。ルナの重要さを考えれば、なるちゃんもそれに準じて、物語の中でもっと大きな役割をはたすべきような気がしてならない。
 ということを昔から考えていたのは、何も私だけではない。原作やアニメからセーラームーンのファンだった方は「大阪なるは、本来の構想では土星の戦士のはずだった」というのをご存知であろう。

3. セーラーサターンはなぜ破滅の戦士か


 原作第1部にあたるダーク・キングダム篇、アニメ無印には、なぜか土星の戦士が登場しない。土萌ほたる=セーラーサターンの登場は、原作第3部「無限学園」篇、アニメの『S』まで待たなければならない。ちなみに冥王せつな=セーラープルートは第2部ブラック・ムーン篇、天王はるか=セーラーウラヌスと海王みちる=セーラーネプチューンは第3部の前半ですでに登場しており、土萌ほたるは、いわば最後の大物とも呼ぶべき、別格の扱いになっている。
 冥王星、天王星、海王星よりも地球に近い、したがってなじみのある土星の戦士が第1部から登場しなかったのは、確かに不思議だ。ただその理由のひとつは、日本ではわりと多く見られる間違いにあると思う。つまり我が国では、サターン(土星)という単語がサタン(悪魔)と混同されやすいのだ。実際には、サターン(Saturn)はローマ神話の農耕神サトゥルヌス(Saturnus)から来ており、「対立者」という意味の語源から生まれたサタン(Satan)つまり「悪魔」とは何の関係もない。ところが我が国では、怪しげな占星術もどきのたぐいなどで、両者が同一視される場合が少なくないという。
 これは『トンデモ超常現象99の謎』という本にも書かれていたことなのだが、私はそれを読んで「破滅の戦士、セーラーサターン」という謎めいた設定の由来が、ようやく分かった気がした。もちろん、武内直子はけっこう西洋の魔術とか占星術などに通じていて、そういった知識をセーラームーンの設定にも応用している。そんな人がこういう初歩的なミスをするのかな、という疑問もなくはないのだが、どうもそれ以外の理由は思いつかない。
 そういうわけで、原作者のなかには「土星の戦士、それは決して覚醒させてはいけない、破滅をもたらす悪魔の戦士」という構想が、わりと早い段階からあったのではないかと思う。つまりシリーズのラスボス的なキャラクターとしてとっておいたのではないか。
 こうして「土星の戦士はなぜ登場しないのか」「いつ登場するのか」というファンの期待を引っ張って引っ張って、3年目の「無限学園篇」アニメの『S』でついに土萌ほたるが登場する。ほたるは病弱そうな幼い少女であるが、セーラー戦士として覚醒すれば、間違いなくその強力な力で世界を破滅に導く呪われた存在である。そこで、いままで沈黙を守っていたウラヌス・ネプチューン・プルートの3戦士がセーラームーンたちの前に姿を現す。ほたる=サターンが前世の記憶に目ざめる前、無垢な少女でいる間に殺してしまおうというのである。一方、うさぎたちは、同じ戦士同士での殺し合いをなんとか阻止しようと説得を試みる。非常にドラマチックな展開で、クライマックスのサターン覚醒の場面は、やはりセーラームーンシリーズのピークと言ってもいいのではないか。ついでに書いておけば、このセーラーサターンの設定は、部分的に実写版のプリンセス・ムーンに引き継がれているとも思う。ということはともかく、同じセーラー戦士から命を狙われる薄幸の美少女、土萌ほたる=セーラーサターンは、その特異なキャラクターゆえにファンの間で一種カルト的な人気を博するようになった。初期の「大きいお友達」によるセーラームーンブームを牽引したのは水野亜美だったが、中期以降は土萌ほたるがその位置を占めるようになった、と言ってもいい。
 で、話を本題に戻すと、けれども原作者は当初、その「土星の戦士」の正体として、うさぎの大親友のなるちゃんを予定していたのではないか、という説が、わりと昔からファンの間でささやかれていたのである。
 これがただのファンの空想なのか、それとも原作者や編集者に近いスジから漏れ出た情報なのかは分からない。しかしただの空想であるにせよ、これはけっこういい線いってる解釈だと思うんですよね。

4. ジュピター問題について


 テレビ番組、特にアニメの人気なんて、どれもフタを空けてみなければ分からない。あのアニメ版セーラームーンだって、前評判は決して良いものではなかった。前例のない変身コスチュームから、業界では「キャバクラアニメ」なんて呼ばれて、ワンクールも持たずに打ち切りと予想する人だってけっこういたそうだし、ブームの火付け役となった雑誌『アニメージュ』だって、ヒットを予想して特集を組んだわけでは決してない。むしろ作品のファンになった編集者たちが、なんとか番組が存続するように願って次々に企画を立てたというのが実情のようだ。『アニメージュ』は読者から「月に代わってお仕置きよ!」以外の戦士たちの決めゼリフを公募して、そこからマーキュリーの「水でもかぶって反省しなさい!」、マーズの「火星に代わってせっかんよ!」などという、アニメオリジナルのフレーズが生まれた。が、そういう話はまたこの次ということにして、とにかく制作状況は決して見通しの明るいものではなかった。後に「アニメ冬の時代」と呼ばれるような時代の話なのである。確かにテレビ放映開始と併せて『なかよし』で「美少女戦士セーラームーン」、『るんるん』で「コードネームはセーラーV」の連載が並行して始まったというのは凄いことだが、それは「鳴り物入りで登場」というより、むしろ宣伝のための話題作りというニュアンスが強かったのだと思う。ある意味、斬新すぎて誰にも結果が予想ができなかった作品だったのだ。
 まあアニメ初期にまつわるあれこれの話は、また機会を改めてということにしますが、だから第1シーズン、いわゆる無印は、いまから見返すと、いつ打ち切りが決まっても対処できるような体制で作られていることがわかる。たとえば「セーラージュピター問題」と私は勝手に呼んでいるが、コレ前にも書いたっけ。つまりジュピター初登場のタイミングのことだ。
 原作漫画では連載第1回、第2回、第3回でセーラームーン、マーキュリー、マーズが順々に登場する。つまり原作で3戦士が揃ったのは、連載第3回が載った『なかよし』1992年4月号(実際は3月発売)であり、アニメ版はその直後、1992年3月7日に放送がスタートしている。一方、原作に木野まことが初登場するのは、連載第5回目、つまりアニメ放送開始以来ほぼ二ヶ月後に発売された『なかよし』6月号(1992年5月発売)である。
 えーとこれじゃ私が何がいいたいのかさっぱり分からない人がほとんどだと思うので、結論を言うと、つまりアニメ版は、もし不評だったらセーラームーンは2クールで打ち切る、でその場合はセーラージュピターは登場せず、この物語は不本意ながらセーラームーン、マーキュリー、マーズの三人の戦士の話として最終回を迎える予定になっていたのだと思う。いやホント、そういうことが可能な作りになっているのだ。実際、アニメ第1シーズン(無印)の前半2クール(第1話〜第26話)のオープニング、つまり主題歌のバックに映るタイトルアニメには、セーラームーン、マーキュリー、マーズの三人しか出てこない。ちなみにアニメでまこと=ジュピターが初めて登場するのは2クール目のほとんど終わり近く、第25話である。
 もちろんセーラーVは第1話に出てくるので、これは最終回に登場することになるだろう。つまりこのアニメ打ち切りバージョン(予想)の場合、最終回(第26話)では、セーラーVが三人の前に初めて姿を現し、四人で四天王をひとりずつ倒すか何かして「真の戦いはこれからよ」とか言って「See You Again」というか、だいたいそんな感じで終わっていたと思うのだ。
 上に記したように、『なかよし』の原作は、アニメ放送開始前に掲載された最初の3回でセーラームーン、マーキュリー、マーズをぽんぽんと出しておきながら、ジュピター登場まで1回休みを入れている。これは「様子見」だと思うのだ。つまりアニメの最初の1ヶ月ぶんの視聴率で、2クール(26話)打ち切りか1年継続か、どちらかの方針が決まる。不幸にして前者だった場合、アニメはジュピターを登場させずに話をまとめる方向に進み、原作もそれに従う。そして後者の場合は、3クール目からめでたく木野まことを投入という運びになる。この見極めをつける期間が、1992年3月から4月までの期間だった。だから4月初日発売の連載第4回目で、レイは簡単に戦士の仲間に入らずにごねて、まことの登場を一ヶ月引き延ばしたのである。そして小林靖子は、原作のそのブランク部分に、三戦士だけが活躍する珠玉のエピソードAct.5をぶつけてきた。
 という「ジュピター問題」の話は、例によってぜ〜んぶ私の想像ですけどね(笑)。でもまあそれなりのデータ的根拠は、上に出した程度にはあるわけです。で、ここから先は、もうほとんどデータも裏付けもない、私の妄想というか空想に近い話になってまいりますが(これもいつもの話だ)、つまり第1シーズンの段階では、(1)不評により半年で打ち切りの場合には三戦士の話(最終回にヴィーナス登場)、(2)予定どおり1年間続いた場合には五戦士の話、(3)さらに予想を越えた好評で続編が決定した時には、第六の「破滅を呼ぶ土星の戦士」を登場させてもう1年、という構想ではなかったのかなあと思っているわけです。そして大阪なるは、(3)の展開になった場合の、続編に登場する土星の戦士に、決定していたわけではないが「候補」の一人ではなかったか、と私は思うんですね。
 最も私の場合、戦いのない平和なうさぎの日常を象徴する大阪なるというキャラクターが、実はこの世界に破滅をもたらす使者であった、というコントラストの鮮やかさに魅力を感じているだけで、根拠らしい根拠はそんなにありません。「オリジナル設定ではなるちゃんは土星の戦士」説を支持する方々は、確かもう少しきちんとした理由をあげていらっしゃったはずですし、ネットで検索すればそういうのも見つかるかも知れません。私も捜してみて、また将来、再考してみたいとは思いますが、いずれにしても、現実の続編となった『R』(ブラック・ムーン編)で投入された新キャラクターはちびうさとセーラープルートであり、その次の『S』で、ウラヌス、ネプチューンという外部太陽系戦士が加わり、土萌ほたる登場、という展開になって、ひょっとするとサターンだったかも知れない大阪なるは、どんどん影が薄くなっていったのでありました(推定)。

5. 来年もよろしくお願いします


 年末の慌ただしい時期に、きちっとテーマも決めずに少しずつ書きためていたら、結局4日もかかって、話題が迷走して、何が言いたいんだかよく分からない話になってしまいました(再放送レビュー以外の回にはよくある話ですが)。実は「本当はなるちゃんがセーラーサターンだったかも知れない」という話はマクラでありまして、本題はですね、私、昨年の今ごろはこんな風にブログにコメントをくださるお仲間もおらず、孤独に戦っていたという話を、ちょっとしようかと思っていたんです。
 何を相手に戦っていたかというと、去年「スキウタ」ってあったの憶えてますか?紅白歌合戦に出場してもらいたい歌手をインターネットやハガキでNHKに投票するとか、そんな企画。ハガキによる組織票は可能だったんで、私は個人組織票でカワベチエコを紅白で歌わせる算段をしていたんですけどね、まあ色々あって、当然のことながら挫折しました。「ショッピングモールの天使」とかキャッチフレーズも考えていたんですが。NHKじゃ具体的な店名入れられませんからね。
 で今年こそは河辺さんを紅白に、それが駄目でもせめてスキウタのトップに名前を出したい、と早くから色々陰謀を練っていたんですが、今年はスキウタ、やらないんだそうですね。で、今年も河辺さんは紅白に出ない。河辺さんの出ない紅白はあまり観る気がしないので、来年こそは、という話題で今年をシメようと思っていたんです。
 でもまあ、どうでも良くなりました。いやそんな話をするのがどうでもよくなったというだけで、河辺千恵子さんがどうでもよくなったっていうんじゃないですよ、もちろん。来年あたりはセカンドアルバムをリリースして、紅白にも出て欲しい。かつて森口博子が毎年出ていた枠があるだろうに。そうすれば私も何十年ぶりかで真剣に紅白を観るのになあ。べっち組のみなさんの努力に期待したいところである。
 そんなわけで、みなさま今年はお世話になりました。年明けは元日の更新を考えていたんですが、実家にいると驚くほど時間が少ないということが判明して、現在すでに大晦日、年賀状もまだ書き終わっていないし、ちょっと無理ですね。
 新年一発目のネタは、どこぞを見習って、やはり火野レイの話題で行きたいと考えております。いろいろお世話になったりご迷惑をおかけしたり、ありがとうございました。来年もよろしくお願いします。