実写版『美少女戦士セーラームーン』ファンブログ


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【第346回】『謎解きはディナーのあとで』のレビューはあとで、の巻


えーと今回はですね、書き上げた記事を読み直してみたら、長くて地味なので、ところどころに、にぎやかしの画像を貼っておきますよ。そういうわけで、画像と本文との関連は薄いので、本文は飛ばしてくださってもかまいません(投げやり)。


<ヒップラインの競演>
主演の栗山千明さん自ら歌うドラマ『秘密諜報員エリカ』の主題歌「月下の肖像」のCDジャケットと、『秘密諜報員エリカ』第9話にゲスト出演された小松彩夏さんの、愛野美奈子時代のポスター。どっちがいいかと聞かれたら、みんな歯をくいしばって美奈子を選べ。


 


<第2話の符合>
『美少女戦士セーラームーン』第2話、アルトゼミナール講師(春木みさよ)と、『謎解きはディナーのあとで』第2話、若林家お手伝いの藤代雅美(春木みさよ)。歳月を経ても変わらぬ薄倖感。



<この人もよく出てくる>
『美少女戦士セーラームーン』第9話、ニセタキシード仮面(弓削智久)と、『謎解きはディナーのあとで』第7話、被害者の元カレで無職の安田孝彦(弓削智久)。『LADY』にも『パラダイス・キス』にも出ていたねこの人は。



はは、画像もけっこう地味だったね。それじゃ、さらに地味な本編だ。

1. 問題編


私の家は『中日新聞』を取っているのに、「ペリー荻野のテレビ評定所 大富豪は捜査がお好き?」というコラムはうっかり見過ごしていた。前回のコメント欄でStreamKatoさんから紹介していただき、読んでみて、あれこれ思うところがあった。まずはみなさんにも、本文をお読みいただこう。

 今シーズンのドラマでやたら目立っているのが、「大富豪の刑事」である。
 ひとりは東海―フジテレビ系「謎解きはディナーのあとで」の宝生麗子(北川景子)。東京国立署の刑事である彼女は、普段は執事の影山(櫻井翔)に世話をされ、豪邸で優雅な生活を送っている。だが、捜査の腕はまだまだで、ディナーのたびに「いったい犯人は誰なのかしら」と愚痴をこぼすと、給仕をしていた影山から鋭く言われる。「失礼ながら、お嬢様はアホでいらっしゃいますか?」なんと、影山はお嬢様をお守りするためと称して、変装しては事件現場に潜入。事件の謎をすっかり解いてしまっているのだ。
 一方、メ〜テレ―テレビ朝日系「俺の空 刑事編」は、財閥グループの御曹司安田一平(庄野崎謙)が、熱血刑事に。捜査協力のお礼にと小切手帳を取り出して五百万円も差し出す一平ちゃん。「この山のどこかに死体が埋まっている」と確信するや、グループの不動産会社を動かして、五十万坪の山を三百億円で丸ごと購入。二万人の作業員を雇って山中を掘り始めてしまった。おいおい。追い詰めた犯人に「あなた、何者なの!?」と問われれば、「ただの刑事です」…って全然ただの刑事じゃないですって!
 捜査の秘密を影山に話していいのか麗子?とか、「たかが五十億のために人を殺すな」って、どんな単位でものを考えているんだ一平?とか、突っ込みどころはいっぱいある。むしろ、突っ込み、笑うためのドラマだ。こうした浮世離れ刑事登場の背景には、最近、法医学やプロファイリングなど、シリアスで重い事件ドラマが多かった流れがある。
 彼らの先輩には、「二兆円というささやかな寄付をいたしました」とにっこりしていた「富豪刑事」(メ〜テレ―テレビ朝日系)の神戸美和子(深田恭子)もいる。どこまで行くのか、お金持ち捜査。こうなったら、ドラマだけでもパァッと景気よく。犯人逮捕ですっきりさせてもらいますか。


   「ペリー荻野のテレビ評定所 大富豪は捜査がお好き?」(2011年11月30日付夕刊)


ちょっとその要約は違うぞ。「影山はお嬢様をお守りするためと称して、変装しては事件現場に潜入。事件の謎をすっかり解いてしまっているのだ」って、それでは、ディナーが始まる前に、影山はすでに独自の捜査で謎を解決してしまっているみたいではないか。そうではなくて、推理の材料となるデータは基本的にお嬢様と同じ。なのにお嬢様は真相が分からないのに、影山にはお見通し。だから「お嬢様はアホでいらっしゃいますか?」というセリフが出てくるのである。
ただ、ペリー荻野さんが、そのへんを混同しそうな書き方をされているのも、多少は仕方がないかなと思う。ドラマ版は原作よりも影山がアクティブだからね。


筒井康隆の『富豪刑事』は、我が国でお馴染みとなった「推理小説のなかの刑事」像に対する一種のアンチ・テーゼであった。昭和30年代に松本清張の社会派推理小説ブームが起こって以降、日本の推理小説における刑事といえば、粘り強さをたよりに、来る日も来る日も、靴底すり減らしてこつこつ聞き込み捜査を重ね、事件の真相に迫っていく努力型の人というイメージが強かった、夜遅く自宅に帰れば、家族の寝静まる中、台所で冷や飯と漬け物でお茶漬けをかき込む、とか。
筒井康隆が『富豪刑事』で試みたのは、そういうステレオタイプの刑事像とは正反対の、高級外国車を乗り回して現場に駆けつけ、美食家で、捜査に必要とあればポケットマネーを湯水のようにつぎ込む刑事を主人公に据えることだった(中身はわりとオーソドックスなミステリである)。この基本コンセプトは、主人公の刑事役を男性から女性に置き換えたドラマ版においても変わりはない。だから『富豪刑事』をそういう方向性で語ることは、別に問題ない。『俺の空 刑事編』というドラマについては、私はまったく観ていないのでさっぱり分からないが、上の記事の要約を信じる限り、刑事の設定については『富豪刑事」と同じ路線のドラマのようである。
一方、『謎解きはディナーのあとで』の宝生麗子は、刑事であるときには、自分が大富豪のお嬢様まであることを隠している。(ドラマ版ではそういう描写はまだ出てこなかったと思うが)彼女が捜査中に身につけているのは、すべて超高級ブランドのメガネでありスーツであり靴なのだが、上司の風祭警部には「ユニクロで買った」で通している。風祭は、ブルーマウンテンとインスタントコーヒーの味の区別も分からないくらい「見る目のない男」なので、麗子のコーディネートはユニクロだと信じている。



そういう意味では『謎解きはディナーのあとで』と『俺の空 刑事編』『富豪刑事』を、「大富豪の刑事」あるいは「お金持ち捜査」ドラマとして一つにくくってしまう見方は、非常に見当外れなわけだ。『謎解きはディナーのあとで』の麗子が大富豪のお嬢様なのは、影山というドS執事の存在を際だたせるための装置にすぎない。原作では。
ところがドラマ版の方は、麗子が富豪のお嬢様だという要素に、原作よりもスポットライトを当てて、これをドラマの本筋のなかにも組み込もうとしている。そして全体として「世間の苦労もしらず、蝶よ花よと育てられたお嬢様が、それまで知らなかった人間の醜い面を学習していく」という成長物語にしているわけですね。刑事となったことで彼女は、愛憎のもつれやつまらないプライド、(彼女にとっては)ささやかな金のために、人は人の命を奪ってしまうことだってある、という真実を知って傷つき悩む。



ドラマ版には、そういうアレンジがあれこれ加わっているので、『富豪刑事』とはまったく違う原作のバックグラウンドが見えてこないのである。だから上のコラムのような誤解をしないためには、まずミステリ小説としての原作の立ち位置を理解しておく必要がある。

2. データ編



ミステリファンには、いまさらくどくど説明するまでもないことだが、現場に赴かず、伝聞の情報のみに基づいて真相を推理する探偵を「安楽椅子探偵」(アームチェア・ディティクティブ)と呼ぶ。ほとんど探偵小説の歴史と共に始まったような古いジャンルだ。探偵小説の祖とされるポー『モルグ街の怪事件』で、探偵オーギュスト・デュパンは、新聞記事に出た情報に基づいて推理を組み立てたうえで、現場でちょっとだけ裏付けをとっている。やり方がほとんど影山と一緒である。
そんなふうに歴史の長い「安楽椅子探偵」ものの諸作品のなかでも、『謎解きはディナーのあとで』の設定に直接ヒントを与えた作品は、たぶんアイザック・アシモフの『黒後家蜘蛛の会』シリーズ、ジェームズ・ヤッフェの短編連作『ママは何でも知っている』、そしてヤッフェを意識して書かれた都筑道夫の『退職刑事』シリーズといったあたりだと思う。
このなかで私がいちばん好きなのは、ジェームズ・ヤッフェの短編連作『ママは何でも知っている』です。大学を出たばかりのニューヨークの殺人課刑事デイヴィッドが、毎週末、ブロンクスで独り暮らしをしている母親を訪ねて、元気なのを確認してママの手料理を楽しむ。で、このママが料理と同じくらいゴシップが好きで、息子がいま手がけている殺人事件の話を根掘り葉掘り聞く。しかも、とんでもない名探偵で、毎回、夕食が終わるころには、息子から聞いた捜査の話だけに基づいて、まだ未解決の事件の真相を言い当ててしまうのである。言ってみれば「謎解きはディナーとともに」みたいな感じ。

ただ、ミステリとしての『謎解きはディナーのあとで』は、こっちよりはむしろ、これを意識して我が国の都筑道夫が生み出した『退職刑事』シリーズの方の直系の子孫と言える。
『退職刑事』は文字どおり、現役を引退した初老の元刑事が探偵役だ。彼は自分と同じ職についた息子夫妻のアパートにしょっちゅうやって来ては、現職刑事の息子が手がけている事件の話をあれこれ聞く。そして、そこから得られる情報だけを手がかりに、事件を解決する。
『ママは何でも知っている』と『退職刑事』の基本的な違いは、謎の設定にある。『ママは何でも知っている』で取り上げられる事件は、一見すると平凡で、最初から容疑者が一人しかいなくて、ほとんど解決しちゃっているように見える殺人であるとか、あるいは殺人ではなく事故のようだとか、自殺のようだとか、そんなのばっかり。だから息子の刑事も、ママから「あなたがいま担当している事件の話を聞かせて」と言われても「もう、ほとんど解決済みの、つまんない事件ですよ」なんて感じで語り出す。ところがママは、現場状況の不可解な細部や、関係者の証言にひそむ、取るに足りないような矛盾を手がかりに、平凡に見えた事件の背後にひそむ意外な真相とその犯人を指摘してみせるのである。最初は、どうってことない平凡な事件に見えるところがポイントである。
『退職刑事』が違うのはこの部分だ。都筑道夫は、冒頭に思いっきり不可解な謎をもってくることで、自作をヤッフェの「ママ」シリーズと差別化した。たとえば、若い女性の死体が、アパートの一室で「全裸に男物のブリーフ1枚だけはいている」という奇妙な状況で発見される。あるいは、警察が尾行していた男が、公衆電話ボックスで会話中に倒れる。調べてみると射殺だが、しかし電話ボックスのガラスにはヒビひとつない。
こういう奇抜なシチュエーションを示して「どうしてこんな殺害状況が生じたのか」という興味で読者を引っ張っていく。そして、退職した老刑事が、息子の現職刑事の話だけを手がかりに、それを解決してしまう。しかも、真相が明らかにされると、犯人は決して、わざと奇抜な謎を作り出して捜査を攪乱させようとか、そういう意図をもっていなかったことが分かる。むしろ偶発的に殺人を犯してしまった犯人が、その場を切り抜けるために、そうする以外に選択肢のないような行動をとった結果、偶然にも、不可解な死体発見状況が生まれてしまうのである。探偵役は「どういう必然性があって、このような状況が生まれたのだろう」という着眼点から事件を解決する。こう紹介すれば、『謎解きはディナーのあとで』が『退職刑事』の直系の子孫であると言った私の意図はご理解いただけると思う。

3. 推理編


このジャンルの推理小説は、なにぶん基本的に会話のみで話が進んでいくから、起伏に乏しくて、長編は難しい。だいたいが短編連作である。しかも、同じ探偵が活躍する短編を七つなり八つなりまとめて単行本にしようと思ったら、人物の基本設定も限られてしまう。
まず「刑事」とか「私立探偵」とか「新聞記者」といった人物を一人。つまり毎回、事件についての情報を安定的に供給できる人物。そして一方に、その人の情報をもとに事件を解決する真の「名探偵」。レギュラーとしてはこの二人がいれば成り立つ。まあ情報提供者の設定は刑事にしてしまうのがいちばん楽だ。扱う事件の内容を、最も詳細に知りうる立場ですからね。だから『謎解きはディナーのあとで』の宝生麗子も刑事だ。
問題は探偵役である。刑事であろうと私立探偵であろうと新聞記者であろうと、情報ソースに関する守秘義務があるから、みだりに第三者にあれこれしゃべってしまうわけにはいかない。まして捜査中で犯人が明らかになっていない殺人事件の情報なんて、うかつな相手に漏らせない。
そうすると、やはり身内というのが、いちばん説得力がある。『ママは何でも知っている』の場合、事件自体は一見、とても平凡で、ほとんど解決済みのものだから、息子もママに催促されて、つい詳しいところまでしゃべっちゃう。『退職刑事』の場合は、父親は元刑事なんだけど、まだ刑事魂が抜けていないらしく、息子の現職刑事にあれこれ聞く。息子も、元刑事のお父さんなら、口は硬いし、何かヒントをくれるかも知れないと、現在手がけている謎めいた事件について、相談半分で詳細を打ち明けるのである。

鮎川哲也に三番館シリーズという連作がある。元刑事の私立探偵が、手がけている事件の捜査に行き詰まると、会員制バー「三番館」にふらりと立ち寄って、バイオレットフィズを頼む。変わった酒だが、アルコール度が低いので、まだ仕事にけりがつかないうちは、これで我慢するのである。そうするとバーテンが事情を察して「お困りのようですね」とかなんとか水を向ける。探偵が事件の内容を話すと、このバーテンがグラスを磨きながら、その場ですらすら謎解きをして犯人を指摘してしまう、という趣向である。事件解決の祝杯は、オーダーがバイオレットフィズからギムレットに変わる。
何者かもよく分からないようなバーテンに捜査中の事件の内容を漏らすなんて、私立探偵失格だと思うが、でも会員制の特別なバーだし、手詰まりなところに軽くお酒が入って、ちょっと口が滑らかになる、というようなことも考えると、こういう探偵の設定も十分ありだ。
こういった作品と較べると、アシモフの『黒後家蜘蛛の会』連作は、有名な人気シリーズのわりに、実はけっこう基本設定が安定していない。

4. 解決編



「黒後家蜘蛛の会」というのは、弁護士とか科学者とか数学者といった、職業もさまざまな六人の男たちのサロンで、彼らは月に一回、ニューヨークの高級レストランで夕食会を行う。その際に毎回、メンバーが持ち回りでゲストを呼んでくる。ゲストは会の話題提供者として、自分が過去に経験したなかで印象的だった話、いまだにすっきりと解決できていない、謎めいた話を紹介する。たとえば「劣等生だった同級生が博士号をとった、何かカンニングの手を使ったに決まっているが、その方法がどうしても分からない」「予知能力者を自称する女の子がいて、実際、遠くで起こった出来事を言い当てている、どういうトリックを使ったのか?」「絶対持ち出されるはずのない密室状況のなかから、秘伝のマフィンのレシピが盗まれた」、ときには司法関係者が「以前に扱った事件に不明な点があって、真相をどうしても知りたい」という話をしたりすることもある。メンバーは夕食を楽しみながら、ああだこうだとゲストに質問を浴びせて情報を収集しては、推理を競い合う。
この場合、刑事や探偵がレギュラーメンバーではないので、当然ながら殺人事件などはそんなに多くは扱われない。また、呼ばれるゲストにしても、食事の間の一種の余興として話題を提供し、しかもそれについてメンバーから根掘り葉掘り質問を受けるのだから、やはり打ち明けることのできる内容におのずと限度がある(質問に対して、ゲストはできるだけ正直に答えなければならない、というのが会のルールである)。結果としてミステリとしてはネタがかなり小粒になってしまう。面白いな、面白いんだけど、どれも小粒すぎるなぁ、というのが私の感想です。
にもかかわらず「黒後家蜘蛛の会」が根強い人気をほこる理由は、たぶん三つある。第一に、いま言った「小粒」さである。私は文句をつけたが、実はこれがこのシリーズのむしろ長所で、そこに魅力を感じる人も多いはずだ。おそらく作者も初めから、あまり血なまぐさい殺人事件ではなく、もっと日常に転がっている謎を解くようなミステリを書こうとして、このシリーズを始めたのだろうし、寝る前に、後に尾を引かない短編をひとつ、とか、そんなに乗車時間が長くない通勤電車でちょっと読書、とかいう目的には最適である。アシモフの作品だから、ところどころ雑学も出てきて、ちょっと賢くなったような気にもさせられるし。私みたいにこれを「小粒だ」というのは、ほんとうは見当違いな文句のつけかたなのです。
「黒後家蜘蛛の会」の第二の魅力は、第一巻の文庫本の帯に小野不由美が寄せた惹句を借りれば、「思考することは、それ自体が無上の極楽だ」というところにある。ゲストが話を終えると、六人のメンバーはゲストに質問を浴びせて補足情報を引き出しながら、それぞれ自分の推理を組み立て、謎解きを競い合う。これが読んでいて楽しいんですね。
真相解明もさることながら、そこに至るまで様々な仮説を立てては失敗し、ふたたび積んでは崩しするプロセスそのものもミステリの醍醐味である。大御所で言えばエラリー・クイーンとかコリン・デクスターのモース警部シリーズとか。このシリーズは当然そこまでダイナミックにはいかないで小粒だが(まだ言うか)六人の推理が並行して展開されるのが、やはり愉しい。
そして第三の魅力は、もちろん給仕係のヘンリーだ。ゲストの話と、それをめぐるメンバーの推理も出尽くして、ディナーも終わる頃合いなると、メンバーは必ず、それまで目立たないながら、完璧なサーヴィスを続けていたレストランの老給仕、ヘンリーに「ヘンリー、今の聞いていてどう思う?」などと聞く。すると、ヘンリーは「ひと言よろしゅうございますか皆さま。わたくし、思いますに……」とか慇懃に語り出しながら、結局は見事に真相を喝破してしまい、全員が脱帽する。これが毎回の締めくくりである。ヘンリーについて分かっていることは少ないが、この人はシェークスピアを隅から隅まで暗記していて、シャーロック・ホームズを崇拝しているから、イギリス人ではないだろうか。
学歴も社会的地位もある名士たちが束になって知恵を絞っても、結局はこの高級レストラン「ミラノ」の、ほとんど経歴不明の老ウェイターにかなわない、という痛快さと、このヘンリーという人物の正体不明ぶりが、シリーズの魅力の中心を支えているわけです。
と、こう書けば、この「黒後家蜘蛛の会」シリーズが、どのような点で『謎解きはディナーのあとに』に影響を与えたかは分かるだろう。「黒後家蜘蛛の会」の魅力のひとつは、事件の説明からただちに名探偵の名推理に話が進むのではなく、その間で、メンバーが補足情報を集めながら推理を競い合うところにある。結局どれも間違っているんだけど、真相以外にもいくつかの仮説が示されるところが楽しいのである。『謎解きはディナーのあとに』でも、捜査の過程において、風祭刑事が、かなりむちゃくちゃ、かついきあたりばったりだが推理を披露する。それに麗子がツッコミを入れてまた推理が修正される。さらには、麗子自身も推理する。影山も立場上、お嬢様を立てなくてはいけないので、少しずつヒントを与えてお嬢様の推理が正しい方向に向かうように補佐するんだけど、それでもダメな場合は「お嬢様はアホでございますか」と見限り、自分の推理を披露する。こういうふうに、いくつかの珍推理、迷推理を並べて、最後に真打ち登場、という構成は、『謎解きはディナーのあとに』の作者が「黒後家蜘蛛の会」から影響を受けた部分だと思う。それからヘンリーと影山の類似性。これについてはごちゃごちゃ言う必要はないだろう。影山のキャラクターには、鮎川哲也の「三番館」シリーズのバーテンもちょっと入っているように思う。



ということで、原作の成立の背景についてはこのくらいにして、そろそろドラマ版の話を……と思ったところで時間も力も尽きた。今回はこれまでだ。(いつものことなので、もう言い訳をする気もない。)



経験的に言って、ぎっくり腰と両腕はあまり関係ないと思うのだが、なぜ腕が下がらなくなってしまったのか不明である。