実写版『美少女戦士セーラームーン』ファンブログ


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【第347回】とうとう完全に腰砕けの巻


  


風 祭「ん?……ショウレイさん?なんと!こんな所で貴女に出会えるとは!」


  


風 祭「強すぎるそして太すぎる。僕たちの赤い糸は」


  


松五郎「レイちゃん知り合い?」
レ イ「ええ、まあ」


  


風 祭「レイちゃん?」


  


レ イ「ああ、松五郎先輩とは学生時代からの知り合いで」


  


風 祭「僕も呼んでもいいですか“レイちゃん”って」


  


レ イ「はぁ……」


なんか嬉しいよね「レイちゃん」って。ドレスも赤いし。

1. 控えめな承前



1976年の『犬神家の一族』で石坂浩二が演じる以前の「映画の中の金田一耕助」は、ああいう原作そのまんまの格好だったことはほとんどなかった。
1947年東横映画『三本指の男』(『本陣殺人事件』)の片岡千恵蔵から1961年東映『悪魔の手毬歌』の高倉健に至るまでの金田一耕助は、ぱりっとしたスーツで拳銃を携行していて、美人の秘書がいた。獄門島とかに出張するときも、美人秘書はついてきていた。『三本指の男』のときの秘書は、かの原節子さまが演じていた。メガネである。原節子のメガネっ子というのも、珍しいのではないか。



それから1970年に日本テレビ系の「火曜日の女」シリーズで『犬神家の一族』が全5話のドラマになったときには、タイトルは『蒼いけものたち』で、舞台は終戦後の那須から70年代の東京へ置き換えられ、出征して顔に火傷を負ったマスクの男は、ベトナムだかカンボジア内戦だかで負傷した戦場カメラマンという設定に換えられ、金田一耕助はとうとう出てこなかった。でも歴代「犬神家」のヒロインから一人選べといわれれば、私だったら島田陽子よりも本作の酒井和歌子だよな。


 


1975年にATGで『本陣殺人事件』が映画化されたときには、最初は原作と同じ昭和12年(1937年)の話にして金田一(中尾彬)も原作どおりの格好で登場するはずだったのだが、制作費が足りなくて、金田一はサングラスにジーパンのフーテン風になった。



で、その翌年に石坂浩二の『犬神家の一族』が出て、テレビ版の古谷一行ともども、原作どおりの金田一耕助のイメージが定着していった、というように記憶している。



日本テレビ系の「火曜サスペンス劇場」では、津村秀介の代表的シリーズ、ルポライター浦上伸介ものが多数ドラマ化されたが、探偵役の浦上伸介はついに登場しなかった。複雑なアリバイトリックを解決するのは弁護士、高林鮎子(眞野あずさ)と助手の竹森慎平(橋爪功)で、シリーズ名は「弁護士・高林鮎子」だった。
東野圭吾の『探偵ガリレオ』は、もともと俳優の佐野史郎をイメージして作られた探偵で、文庫本の解説も、作者の指名を受けて佐野史郎が書いていた。
しかしテレビシリーズ『ガリレオ』は福山雅治の主演であった。加えて、片岡千恵蔵の金田一みたいに、原作には出てこない美人の相方がついた。内海薫刑事(柴咲コウ)である。
それでもテレビが人気を呼び、映画『容疑者Xの献身』までけっこうなヒット作となると、原作の方が福山バージョンに歩み寄るようになっていった。2008年に刊行された短編シリーズ3冊目の『ガリレオの苦悩』や長編2冊目『聖女の救済』に至っては、テレビ版オリジナルだった柴咲コウの内海刑事が原作にも顔を出すようになり、テレビ版のガリレオの名セリフを、原作のガリレオも言うようになった。1作目の短編集では、彼は「実に面白い」なんて言わなかったんじゃなかったっけ。


(資料画像)『容疑者Xの献身』出演中の小松彩夏様


ミステリの映画版やドラマ版が原作を逸脱する場合って、ふつうはキャラクター設定の部分で、原作にはない探偵役の特徴や決めゼリフが考案されるとか、探偵に美人の助手を付けるとか、そういうところだと思う。だから一見すると大いに変化したように見える作品でも、トリックやプロットといった、ミステリとしての骨組みの部分は、案外そっくりそのまま原作から頂いていたりする。下手にいじるとツジツマが合わなくなってしまうからね。



ところが『謎解きはディナーのあとで』の場合、逆である。これまで当ブログで観察してきたように、このドラマは、第1話はかなり原作に忠実だったが、回を重ねるごとに離れてきて、最近の第7話や第8話に至っては、分量に換算すれば半分以下、3分の1くらいしか原作を使っていない。それもプロットにかかわる部分、つまりミステリとしての心臓部に大がかりな改造手術を施しているのだ。極端に言えば、事件の発端と、被害者と容疑者たちの名前とおおまかな人間関係だけを原作から借りて、以降の展開は、真犯人と犯行動機の設定、解決にいたる推理のプロセス、すべての面で大胆に脚色してしまっている。もちろん原作にはない伏線が張られていたりして、結果的に(ここが重要なのだが)原作よりミステリとしてもだいぶ面白くなっている。
逆に、毎回エピソードの前半に連発される(寒い)ギャグとか、影山のお嬢様に対する鬼畜な発言とか、お嬢様の「クビよ」発言とか、そういうセリフの一字一句は、原作に忠実である。
たとば第8話の冒頭。招待状を受け取ったレセプション会場に到着、エントランスでリムジンを降りたとたん、激しく転ける麗子。




すぐさま何ごともなかったかのように立ち上がり会場に入るが、見られたくなかった学生時代の仲間にしっかり見られていた。駆け寄るクラスメートたち。


麻 衣「大丈夫?」


  


雛 子「麗子さん、足首90度ぐらい曲がってましたけど」


  


麗 子「大丈夫よ。90度は曲がるわけないから」


このあたりの話の流れと会話のいちいちは、ほとんどそのまま原作に見つけ出せるわけだ。でもそれ以外の場面設定は、ドラマ版独自の仕様に仕切り直してある。不思議だなあ。ちょっと類例を見ないタイプの原作つき推理ドラマじゃないか、とすら思う。

2. タイムアウト


先ほど触れた、片岡千恵蔵主演の金田一耕助シリーズは、『三本指の男』(1947年)から『三つ首塔』(1956年)まで6作品が制作されたが、脚本の比佐芳武は毎回、原作とは違う犯人を設定した。でも、そもそも横溝正史作品はそれ自身、犯行動機に説得力を欠いていたりする(『本陣殺人事件』とか『獄門島』とか)。だいたい意外性を重視すると、そういうことになりがちなのだが、映画版ではそれをさらにひとひねりするわけだ。だから、ますますとんでもないことになったり、あるいは、ひねったものを逆にひねって凡庸すぎる結果になったりして、観ている方は目が点になること請けあいである。
『謎解きはディナーのあとで』にも同じようなところがある。ドラマ版第2話における犯人の設定は、映画化もされたクリスティの超有名作と同じなので、むしろ原作のままの方が少しはオリジナリティがあるか、という気がしたし(だからこの回、影山は被害者の書斎でクリスティの初版本を手にして、視聴者にヒントを与えている)、また第3話や第5話は、原作とは違うシチュエーション、あるいは犯人を設定したことで、原作よりはるかにトンデモな真相になっている。でもこのような変更は、毎回ラストで描かれる宝生麗子の成長と、それを見守る影山の眼差しにより厚みをもたせるために取られた処置なのである。したがって、ミステリとしてはますますバカっぽくなるかわりに、ドラマとしては充実する、という奇妙な事態になってしまった。



それが第7話、第8話と来て、ほとんど「原作と似たようなシチュエーションからはじまる別の話」と言っても良いくらい脚本がオリジナルな内容になってきた。そうしたら従来のバカっぽさ、トンデモなさも薄れてきて、あんがい、犯行動機なんかもそれなりに説得力が出てきている。でバカっぽいところは、さっきも書いたように原作をそのまま使った会話シーンだったりするのだ。ホント、これはちょっと不思議な番組である。
(追補:風祭警部の馬鹿さ加減は、原作に忠実どころか、原作よりターボがかかっているが、これがスタッフの計算なのかはちょっと分からない。演出の思惑を越えて椎名桔平が暴走しているようにも見える。)


えーとですね、ここまで書いている間にパソコンの電源が3回落ちた。前々回に書いた自宅メインマシンの不調はまだ尾を引いていたのである。



本当は、前回のブログの内容があまりにも尻切れトンボだったので、もう少し補足するような内容のことを書いて、それからAct.8のレビューを再開するつもりだったのだが、パソコンはすぐに落ちるし、再起動させるたび、復元可能なところから書き直しているうちに、また無意味にダラダラと長くなった(別に電源が落ちなくてもダラダラになっていたか)。
もう私は心を決めた。本日はここでヤメにして、これからは土曜・日曜とかけて、ハードディスクの全面消去と再構築に入ります。その間、サブマシンを使うので、コメントへのレスはできると思うが、前にも紹介したように、このサブの奴は、ちょっと手の込んだ画像や動画の処理をすると、これまた「あっもうダメ」と果ててしまう、通称「イキまくり絶頂マシン」なので、オマケ画像等の追加はしばらくできません。


『謎解きはディナーのあとで』は今後も全力で応援しますが、詳細なレビューはもうあまりしないでおきます。ミステリのレビューってストレスが溜まりますね。今後は、年内に残された数回で、なんとか今年中にAct.8およびDVD第2巻のレビューを完結できるよう努力する所存です。なにAct.8はもう、ほとんど終わったようなもんだから大丈夫だ。いやホント。