実写版『美少女戦士セーラームーン』ファンブログ


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【第242回】筆談ホステス本論の巻(後編)

1. ごく一部のご要望にお答えして、侍談義をもう少し



前回シンケンジャーとセーラームーンのことを書いたけど、完結編にあたる『帰ってきた侍戦隊シンケンジャー 特別幕』というDVDビデオが6月に出るらしいね。テレビシリーズDVDのリリースが全巻完結した翌月にVシネのみで発売されて、中身は本編60分、撮影の方はすでに終了……と何から何まで「Special Act」を連想せずにはいられない仕様である。やっぱりシンケンジャーとセーラームーンってなんか対応する部分が多いよ。
そういえば、シンケンジャーには腑破十臓(ふは・じゅうぞう)という、セーラームーンでいえばクンツァイトにあたる破滅型の荒涼としたキャラクターが出てくる。いちおう悪役なんだけど、本音では敵も味方もどうでもよくて、ただ「強い奴と骨の髄まで斬り合う」ことしか眼中にない。だからひたすらシンケンレッドをつけ狙い、果たし合いを挑む。クンツァイトがただマスターとの戦いだけを求めるのと似たような感じです。で、こいつとシンケンレッドが第26幕で厳流島の決闘をするんだが、そのとき、レッドはあえて肩を貫かれながら相手のふところに飛び込み、間合いを詰めて逆手で切り返し、勝利をおさめる。文字どおり、肉を斬らせて骨を断ったのである。
もちろんその時、私はAct.37のクンツァイトとなって、画面のシンケンレッドに突っ込みを入れていた。

 
クンツァイト「マスター、何度言ったら分かるんです?そういう乱暴な剣は王家にふさわしくありません。それでは、敵と刺し違えることさえもありうる」
エンディミオン「どこが悪い。敵は倒せるだろう」
クンツァイト「いえ、マスターの剣はまず、生き延びる剣でなければ」
エンディミオン「またお前の講釈か。で、お前のは俺を守るための剣か?」
クンツァイト「我らの剣は、主のために死する剣です」

  
出し遅れの証文になるが、私ほんとうは、腑破十臓が初登場する第9幕の段階で、どうもシンケンレッドは、セーラームーン基準でいくと「王家にふさわしくない」乱暴な剣をふるっているなあ、だいたい剣を肩にかつぐような構えのポーズがそもそも殿様らしくないし、おっかしいよな、と思っていたのである。そのことの意味を、それこそもう少しシンケンに考えていたら、もっと早く第44幕のオチを見破れたのになあ。やはりどこかで、同じ脚本家の書いた物語とはいえ、しょせん子供番組だから、セーラームーンとシンケンジャーで、そこまで考え方が首尾一貫しているわけではあるまい、とナメていたのだと思う。小林先生すみません。悔しいと同時に情けない。
しつこくネタばれするが、シンケンレッドは結局、殿様でもなければサムライの血筋でもなかった。良い子のみんなは、その事実をよ〜く胸に刻んで冬期オリンピックの中継でも観てください。この手のビッグなスポーツ大会って「日の丸飛行隊」とか「サムライジャパン」とか、まるで戦時中みたいな国威発揚フレーズが飛び交う。今回のオリンピックには織田信長の子孫が出場されるらしいので「サムライ魂」なんて言い出すアナウンサーが、きっと出てくるんじゃないでしょうか。
でも江戸時代に武士階級が全国民に占めた比率はだいたい6〜7%であり、84%は農民だったという。我々の大部分は、ヒャクショウ魂はもっていても、サムライ魂とは縁遠いはずなのだ。それでもついつい、スポーツ番組なんかが「サムライスピリッツ」なんて言ってしまって、国民の多くがそういう言葉にあこがれてしまう、このへんのニュアンスを子供にどう説明すべきか。
スポーツキャスターなどの方々が、特に疑問も感じずに素通りしたそこのところで、小林靖子は立ち止まって考えたのだ。確かに「侍戦隊」と言えばカッコいいし、男の子向けの番組である以上、そういうカッコよさは必要だ。でもいま、血筋のうえで「殿様」であったり「侍」であったりする人々を、そのまま何の疑問もなく「侍戦隊」としてカッコよく描いて、それでいいのか?……たぶんそういう考え方に基づいて、シンケンジャーの主人公役は、実は殿様どころか侍の家系ですらない、庶民の子に設定された。

スポーツ番組などで使われる「サムライ」という言葉には、「血筋としての侍」と「生き方としての侍」という二つの意味が曖昧に混在している。血統的な話をあまり前面に出すと、それはそれで問題になるが、選ばれし高貴な者たち、みたいなイメージもそれなりに残しておきたい、といったところだろうが、小林靖子の認識はもっとクリアでもっと知的だ。
「サムライってコトバにあこがれるのはいいけれど、でもシンケンジャーが侍戦隊なのは、先祖代々侍だったからなんじゃなくて、本人の生き方が侍ってことなんだ。たとえ武士の血筋に生まれていなくても、正しくて勇気のある生き方ができる人こそ本当の侍だし、本当に高貴な人なんだって、シンケンレッドやシンケンゴールドを見てくれたみんななら分かるよね。だから君が立派なお家のお坊ちゃんでも、貧しく名もない家の子でも、そんなことは君じしんの値打ちになんにも関係ない。君が侍になれるかなれないかは、君のこころがけと努力が決めるんだ」彼女はそんなふうに、視聴者の男の子たちに語りかけていると思う。私はシンケンジャーを観ていて、なぜ小林靖子が、セーラームーンの大事な要素であったはずの「月のプリンセスと地球の王子」とか「前世以来の運命で結ばれた恋物語」というロマンティックな側面をあれほど否定的に扱ったのか、その理由がだいぶ理解できた気がする。
ははは。なんかまだシンケンジャー熱が冷めていないみたいだね。そろそろ本題に入ります。

2. 聞こえれば理解できるというものではない


さて『筆談ホステス』だ。どこまで行ったっけ。
せっかく洋服店「Jack Pot」でバイトを始め、毎日が充実してきた里恵だったが、一年もたたないうちに不況のあおりで店が閉店。閉店告知のビラを貼った店の前で茫然とたたずむ里恵に、声をかけた女の子がいる。「里恵、久しぶり」誰かと思えば、高校時代の同級生、というか遊び仲間の朋子(折山みゆ)である。

この子は、たぶん里恵といちばん仲良しで、いちばん気性の激しい子だ。クラブで里恵にちょっかいを出した男子たちには「ちょっとこの子耳聞こえないんだからやめてよ」と食ってかかったけど、翌日は、騒ぎを起こした里恵に冷たく、黒板に「里恵は神様に耳を取られた」なんてでっかく書いたりもした。それで里恵が、あと少しで卒業というところで退学してしまって、彼女もやはり罪悪感を感じていたんだろう。昼休みで職場を出た所で姿を見かけて、思わず駆け寄った、という感じだ。

朋子「気になってたんだ里恵のこと。駅前の信金にいるの。真由はOL、ひかりは、保育士の学校へ行ってる。結局普通になっちゃった。里恵も頑張ってね!」

いちおう笑顔で朋子と分かれた里恵だが、また途方にくれた顔に戻る。

悟志のN「里恵にとって、やっと開きかけた扉が、また閉じたように感じたに違いなかった」


またふさぎ込みがちになった里恵に、なんとか元気を取り戻してもらおうと、お兄ちゃんは「人口内耳手術」を勧める。
内耳の蝸牛に電極を埋め込む手術だ。

と知ったふうなことを書いたが、実は何も知らない。人間が音を聴く仕組みは(1)音声で鼓膜が振動して、(2)その振動が中耳を通って内耳に届き、(3)内耳の蝸牛で電気信号に変換され、(4)蝸牛から神経を通って大脳に伝わる、という段階を踏む(らしい)。でもこの手術をすれば、耳掛けマイクから集音した情報を、特殊なプロセッサで電気信号に変えて蝸牛に埋め込んだ電極に伝えるので、(1)(2)(3)が機能しない人でも外界の音声情報を脳に伝えられるようになるわけだ(と思う。間違っていたらすみません)。
で、この手術の結果が成功なんだか失敗なんだか、ドラマでは医師が微妙な説明をしている。「里恵さんの場合、耳が聴こえなくなったのが、言葉を獲得する前だったため、言葉を聴き取るのが難しいでしょう。今の医学でしたら、子どもの頃手術をしていれば、治っていたんですが、残念です」
この言い回しと前後の描写からすると、手術自体が失敗したというわけではないようですね。でも里恵は、2歳未満から17歳までという大事な時期を「まったく音が無い世界」で過ごしてきていた。つまり大脳の側に、音を音として知覚して処理する機能ができていなかった。専門的にいうと、前頭葉の中の、本来だったら聴覚をつかさどるべき皮質が「音」というものを知らないで育ってしまったために、脳に届く話し言葉を「言語」として理解できないらしいんだ。生まれつき聴覚障害で、成人してから人工内耳手術を受けた人の場合、そういう理由で外してしまう人も少なくないらしい。
そういう意味では、手術が失敗したというよりは、効果がなかった(適合しなかった)ので、自主的にリハビリをストップして治療を断念した、という方が正しいのだろう(本人にとっては、どっちでも似たようなものだろうが)。ただドラマとしては、「せっかく仕事を見つけたのに店が閉店」「せっかく手術を受けたのにうまくいかない」と、ここは不幸を重ねてヒロインを落とすところまで落としておきたいのだろう。かなり「手術そのものが失敗」的なニュアンスの演出になっていて、北川景子もここぞとばかりに得意の号泣である。

 

3. お水の花道


というわけで、つかみかけた夢も希望もぜんぶ消えちゃって、凹みまくって街を歩く里恵は、いろいろな思いに心を奪われているうえ、耳も聞こえないので、つい不注意で車に轢かれそうになる。

 衛 「馬鹿、赤だろ!」
うさぎ「馬鹿って何よ!」


えーとごめん、ちょっと画像を間違えてしまいました。しばらくお待ちください。


車を避けて転倒した里恵に「大丈夫?」と駆け寄ったのは、落ち着いた感じのきれいな女性。これが、かつては銀座で仕事をしていたこともあるという、クラブのママ永井杏子と里恵との出会いであった。演じているのは『ブザー・ビート』で北川景子の母親役だった手塚理美。
で、転んだ拍子に膝に軽い擦り傷を負った里恵は、近くにある杏子ママの店「ダイアナ」へ連れて行かれて、簡単な手当を受ける。その時、店内に貼ってあったチラシが、彼女の人生の次の扉を開く。

傷口にオキシフルか何かを塗ってくれた杏子ママが、奥に絆創膏を取りに行っている間、壁の店員募集チラシに見入る里恵。「経験不問」の四文字が、彼女を引きつけて離さない。
「お待たせ」と戻ってきたママは、チラシに釘付けの里恵を見て、ちょっとおかしそうに「よかったら、お友達を紹介して」と、テーブルに置いてあった同じチラシを手渡す。ところが里恵は、自分がホステスをやってみたいと言い出すのだった。

これには杏子ママもちょっと面食らった感じ。
ここまで観ていると分かるが、このドラマ、かなりステレオタイプな演出である。北川さんは北川さんで、ホステス募集のチラシを見るなり、最初から「これだ!これこそが私がずっと求めていた仕事だ!」という濃い表情になり「もう私の人生はお水の花道を歩むこと、それ以外考えられませんっ」的な思い詰めた表情で手塚さんに迫る。それに応えて手塚さんもまた「そうね、障害者差別はよくないし、雇用の機会はみんなに平等でなくちゃ」みたいなマジメな表情で、詰め寄る北川さんを受ける。全体的にこのシーンは「今まさに里恵の人生の一大転機が訪れました」と大声で語っているような演出だ。それとも北川さんの芝居が全体の空気をそうさせるのか。
でも、この場面は、もっと抑えたトーンで演出できるし、私個人としてはその方が好みだ。里恵は、今は定職もないし、ダメもとだと思って、試しに「ホステスって耳が聞こえないとできないんですか」と訊ねてみる。そう申し出たのは、怪我の手当てをしてくれたママが優しかったことと、初めて入ったクラブという場所のゴージャスさに心を惹かれたこと以外、実は深い理由はなかった。ママはママで、最初はびっくりしたが、改めて見ればこの子すごい美人だし、黙っているだけでも案外いけるかも、と思って店で働かせてみることにした。最初のきっかけはこんなふうに、お互い偶然と気まぐれみたいなものだったんだけど、後から思えばそれが、里恵の人生最大の転機になった、という感じね。
まあしかし、劇場用映画ならともかく、やたらCMの入るゴールデンタイムの2時間スペシャルドラマで、しかも実在の人物の半生を取り上げたセミドキュメントもの、という条件を考えるならば、このくらいのメリハリをつけておかないと視聴者に届かないかもね。そういう意味では正解なんだろう。
ともかくこうして里恵はホステスとしてデビューする。ここから先は、シーンごとにケバい衣装を取っ替え引っ替えする北川さんが楽しめて、ファンにはたまりません。でもやっぱり赤が似合うか。

 

4. 第1話「筆談ホステス誕生」


まことに失礼ながら、私は原作を読んでいないので、実際の斉藤里恵さんがどういうふうに筆談による接待を始めたのか知らない。が、子どもの頃から耳の聞こえない人なら、ある程度は相手の唇が読めるだろうし、携帯の画面を使ってのコミュニケーションという手段もこれまでドラマの中で示されていたし、まあいろんな方法を試しつつ、自然と筆談という形式に落ち着いていったのだろうな、とは思う。
 だからドラマとしても、仰々しい演出が苦手な監督なら、ここは短いショットの積み重ねで、単純に必要に迫られてやっていた里恵の「筆談」が、次第に彼女の「特技」として評判になり、指名客もついてきて、「筆談ホステス」が看板というかトレードマークになっていく過程を、淡々とした流れで描いただろう。
でもさっきも書いたようにこのドラマ、「ここがポイント」的なところは、通俗的な演出でも良いからきちんと強調してメリハリをつける作りになっている。そういう趣旨から言えば、タイトルにある「筆談ホステス」がいつ誕生したのか、ということは、これはもう、特撮ものにおけるヒーロー初変身のシーンぐらい、きちんとドーンと描かなければいけない。
というわけで、「筆談ホステス」里恵の誕生をうながし、その場に立ち会ったのは、特撮の世界では重鎮の一人とも言えるこの人であった。この人がコースターの裏に「今いくつ?」と書いて語りかけ、ひょいっと里恵に万年筆を渡した瞬間「筆談ホステス」が誕生したのである。「何だろう、このアイテム。これが私を<筆談ホステス>に変えてくれる変身ペンかも」という表情で万年筆を見つめる里恵。このへんはホント、戦隊ものの第1話でも観ているようなノリでした。

春田純一。JAC出身で、初代『仮面ライダー』のショッカー戦闘員や『人造人間キカイダー』のダークロボットなどを経て、徐々に千葉真一の時代アクションや特撮ものに顔出し出演するようになり、1982年の『大戦隊ゴーグルファイブ』翌1983年の『科学戦隊ダイナマン』と、2年連続でレギュラーになって、2年連続でブラックを演じたという、スーパー戦隊の歴史の中では空前絶後の人である。しかも1990年代に入った頃からは、アクションや特撮系から一般ドラマの方へ仕事のフィールドをシフトし、サスペンスものを中心にコンスタントにテレビに顔を出す一方、つかこうへいの舞台の常連にもなっちゃったんだから凄い。最近では『炎神戦隊ゴーオンジャー BUNBUN!BANBAN!劇場BANG!!』という、にぎやかなタイトルの劇場版に出演していらっしゃいました。

そういやウメコこと菊地美香さんも年末に結婚されたんですよね。遅くなりましたがおめでとうございます。
と、そろそろ世があけて『ゴセイジャー』第1回の時間も近づいてきたので、今回はこの辺にしておく(でも今年はもちろん栗山緑=山田隆司の手がけるプリキュアの方が要チェックである)。
う〜ん、こんな調子でまったり進んでいては、いつまでたってもレビューが終わらないな。もう少しネジを巻いていこう。今回が「後編」なら次回は「完結編」その次は「さらば筆談ホステス」。2月中には終わることを、誰よりも書いている私が望んでいます。
じゃあまた。下のコメント欄では引き続き本記事と関係なく『古代少女ドグちゃん』祭り開催中(違うか?)。