実写版『美少女戦士セーラームーン』ファンブログ


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【第209回】DVD第2巻:Act. 6の巻(その5)



始まりましたね、マスター主演の連続ドラマ『俺たちは天使だ! NO ANGEL NO LUCK』。
水曜深夜といえば、かつて中部地区限定で実写版セーラームーンの再放送をやっていた時間帯だ。社会人にとって、水曜の深夜に起きてなきゃなんないというのは、つらいぞ。
もっとも『俺たちは天使だ!』の場合、1時30分スタートというのだから、たいしたことはないか。実写版の再放送なんか、初回からワンクールの間は2時45分始まりで、Act.14からしばらくは番組改編期の谷間で、一時的に2時15分まで早まったものの、すぐに3時10分放送開始に後退して、その後はずっと3時台の放送だったように記憶している。思えば私もDVDを全巻持っているのに、よく一年通して観たもんである。そればかりか、こんなブログまで始めちゃってさ。
話が脇道にそれた。今回の『俺たちは天使だ』には気になることがひとつあって、つまり、何となく「高丸雅隆」という名前が浮かんできませんか?いや高丸監督(もしくはプロデューサー)がこの番組に絡むという話は一切ない。ないのだがしかし「テレビ東京の深夜ドラマ」「脱力系アクション」「主演は東映特撮のイケメン」「脚本は浦沢義雄」とカードを並べていくと、どうもタカマルな気分になって、不安になっちゃうんだよね(不安って……)。

もうひとつ、30年前のオリジナル『俺たちは天使だ!』のヒロインは「多岐川由美多岐川裕美」だったので、それにちなんで娘のハナコさんが出てくるかも知れない、という問題もあるんだが、まあそっちは私の担当じゃないからいいや。実を言うと、どっちみちこの番組、名古屋では放送されていないみたいなのだ。ひろみんみんむしさんのブログに探りを入れてみたところ、やっぱり関東限定の放送のようである。それでもテレビ東京は、サイトでドラマをまるごとストリーミング配信してくれるので、助かる。
本題に入りましょう。

1. 前回まで進んだところから、ちょっと戻る


謎の転校生、木野まこと。「聞いた?あの子、前の学校で喧嘩して、ケガ人出しちゃったらしいよ。それで転校してきたんだって」前回はこれ、木村桃子のセリフとしたけれど、よく聞いてみたらたぶん香奈美の声である。どっちかと言えば、のっぽの桃子よりも、香奈美の方がゴシップ好きかな。う〜ん、前回に続き、Act.2の試験結果発表の場面で再確認してみよう。

な る「それよりまた一番だよほら、うちのクラスの天才」
うさぎ「ああ、水野さんね。すっごいよねぇ。でも全然嬉しそうじゃないけど」
香奈美「そりゃあそうだよ。一年の時からずっとだもん」
桃 子「勉強ばっかしてるし、あのアルトゼミナールにも通ってるんでしょう。超有名な塾」
香奈美「ほかに興味ないんじゃないかなぁ。友達いないし」
うさぎ「でもあの人達は?」
香奈美「あれは、水野さんのお母さんが有名なお医者さんだから、そっち系狙っている人が近づいてんの」
桃 子「普通はちょっとねー。とっつきにくいもん」
な る「お嬢様なんじゃない?」
うさぎ「やめなよ聞こえるって……でもまぁ、こんなに頭いいと別世界の人だけどね」

どちらかといえば香奈美の方が情報通だが、まあ、どっちもどっちか。なるちゃんは自分もお嬢様のくせに、そういうことを言ってはいけないね。
周囲で囁かれる噂をよそに、独り屋上に上がるまこと。そこで昼食中の亜美と初対面である。

前回、Act.5のラストシーンではメガネを忘れていた亜美であったが、今回は掛けている。長年の習慣、一朝一夕ですべてが一気に変わってしまうわけではないのだ。こういう細部のリアリズムがたまりませんね。なんにせよ、コンビニおにぎりをほおばっているのがレイじゃなくて本当に良かった。
結局、転校一日目が終わるまで、誰一人、まことに話しかけるクラスメートはいなかった。うさぎを除いては。

2. Imaginary Line


ところで、映画好きな皆さんなら、イマジナリー・ラインという言葉をご存じだろう。もともと英語にそういう表現があるのかどうか知らないが「イメージ上の線」あるいは「想像上の線」という意味で、「想定線」とも呼ばれているらしい。これは何かというと、映画やビデオを撮るとき、原則としてカメラが踏み越えてはいけない線のことである。その代表例は、二人の人物が向き合っている場合の、お互いを見つめ合う視線だ。


まず、いちばん分かりやすいサンプルとして、Act.4の、レイと亜美の会話のシーンを観てみたい。桜木財閥のお嬢様が主催するバースデイ仮装パーティーで、うさぎがクマの着ぐるみでタキシード仮面に抱きついたりなんかしている間に、亜美はひとり捜査に乗り出し、ばったりレイと出くわす。それで提案するのだ「仲間ってことじゃなくて、戦士同士として協力しない?妖魔には、人数多い方がいいと思うし」。それはまあ確かにその通りなので、レイが受け入れると、亜美はそっと付け加える「レイさん……もしかして、仲間が怖い?ごめんなさい。ちょっと、分かるような気がしたから」ここからAct.5を経てAct.16に至るレイと亜美の友情のドラマが始まるわけね。
私はこのシーンの北川景子の、巧拙を越えたマジメな芝居ぶりが大好きで、そのことはだいぶ前の再放送レビューに書いたんだが、いまはその話じゃないや。このシーンの画面構成は、二人の人物が対話をしている場合の、ひとつの典型といえる。つまりレイと亜美と中間にカメラを据えておいて、だいたい等距離から、それぞれの顔をクローズアップで撮る、というやり方だ。


一方、最初の頃の地場衛とうさぎの会話になると、基本的に会えば口げんかをするものだから、カメラはかなり鋭角的に二人の表情を切り返す。
たとえばAct.2、学習塾に行こうとしていたうさぎが、地場衛にばったり出くわす場面。ママの書いたメモの行く先は、アルトゼミナールではなくて「よい子の学習塾」だった。それで、Act.1に続いてまた衛にバカにされ、うさぎちゃんはムカつく。
ここでは、さっきのように、カメラは対話する二人の中間地点にあるわけではない。田崎監督は、会えば何かにつけて言い争いばかりする衛とうさぎの関係を象徴するかのように、互いが互いを射るような視線でにらみ合う位置にカメラを構える。衛を撮るカメラは、うさぎの背後に据えられていて、うさぎを撮るカメラは、衛の背後にある。
という二例をあげたが、ともかくここで言いたいのは、二人の人物が対話をしているシーンを撮る場合には、カメラは原則として、その二人の視線(イマジナリー・ライン)を踏んで、あっちへ行ったりこっちへ来たりしてはいけない、ということである。カメラはこちら側(Bエリア)に据えられていて、向こう側(Aエリア)には行かない。これがイマジナリー・ラインの法則だ。


ではこの法則をやぶるとどういうことになるのか。日本映画界には、イマジナリー・ラインの法則を無視しまくっていることで世界的に有名な巨匠がいる。言わずと知れた松竹の小津安二郎監督だ。参考に観てみましょう。
『麥秋』(1951年)のクライマックス。杉村春子が原節子に、あなたが自分の息子の嫁になってくれれば、と夢のようなことを語ったら、不意に原節子がそれを了承してしまう、という超有名なシーンだ。この場合、カメラはさっきの衛とうさぎの対話シーンのように、それぞれの人物の背後に据えられている。ところが、杉村春子を捉えている方のカメラが「こちら側」(Bエリア)にあるとすれば、原節子を撮っている方のカメラは、二人の視線をまたぎ越えて「向こう側」(Aエリア)に行ってしまっている。その結果、杉村春子と原節子の二人の視線は、画面上ではいずれも方角を向いてしまって、二人が向かい合って話をしているという感じがしなくなってしまう。これがイマジナリー・ラインの法則の「無視」である。
小津安二郎がなぜ、こういう撮影方法を確信犯的にやるようになっていったのか、それについては世界中の研究家があれこれ言っているので、ここでは扱わない。ともかく、そういう変わり者の天才でもない限り、普通は二人の会話の切り返しで、視線(イマジナリー・ライン)をまたぎ越えてはいけない、というのが基本ルールだ。それが破られている場合には、監督やカメラマンの、特別な演出上の意図がはたらいているはずなんだ。

3. 越境する舞原賢三



で、舞原賢三である。
もちろん小津安二郎のように、しょっちゅうイマジナリー・ラインの法則を無視しているわけではない。普通はセオリーどおりのカメラ位置で撮っている。しかし、今回じっくりAct.5、Act.6と観つづけて気がついたことには、ときおり、何か妙に複雑な構図で、複雑な場所にカメラを置くのである。

たとえばAct.5、「本当の友達になれる本」を読んだ翌朝の登校シーン。すっかりテンパって、いっちゃった目で「う、うさぎ、お早う!」と叫ぶ亜美と、しゃがんで上履きを出しながらそれを見上げるうさぎの視線は、よく観れば同方向を向いている。つまりイマジナリーラインをまたがって、うさぎはAのエリアにあるカメラ、亜美はBに据えられたカメラで撮られている。
それから、亜美がパジャマパーティーでがんばりすぎて倒れちゃった翌朝、すっかりへこんだうさぎに、例が「私はおかしいと思っていた」と言うクラウンのシーン。
ただ厳密には、ここはイマジナリー・ラインを云々するべき場面ではないのかな、とも思う。つまり、うさぎとレイは、クラウンのテーブルをはさんで向き合っているのではない。横並びに並んで座っていて、だから二人の視線は、本当なら交錯せず、同じ方向を向いているはずなのだ。
ところがレイは首を曲げてうさぎの方を向き「うさぎはさ、ホント、名前の通り、駆け足だね、なんでも。そんな急には変わらないって」と言う。ここでイマジナリー・ラインが成立して、カメラはその線をまたがって配置されることになる。でもそのセリフを言い終わった後、レイはまた前を向いて、二人は同じ方向を向くのだ。
(【追記】すみません。この記述は間違っていた。正しくは次回の冒頭をご参照ください。まあ下の黒猫亭さんのコメントを読んでいただければそれで済む話ではあるが)


こういうシーンを観ていると、舞原監督がなぜこういう撮り方をするのか、ちょっとその意味が分かるような気がする。少女たちは向き合って対話しているのではない。みんなそれぞれ問題を抱えていて、それぞれの出口を求めている。もちろん、時には向き合って悩みを打ち明けあったり、励まし合ったり、ぶつかり合ったりすることはあるけれど、基本的には、みんなで力を合わせて、不安や期待に満ちた未来に向かおうとしている。だから彼女たちの目線も、お互いを見つめあうのではなく、同じ方向を向く。だいたいそんなところかなあ。


いやぁ、夜通し画像をキャプチャしたり、カメラ位置を図に描いたりしていたら、すっかり時間がかかってしまったよ。もういいかげん、更新しなくちゃいけないので、今日はここまで。
いやちょっと待てよ、なぜイマジナリー・ラインの話を始めたかというと、Act.6の昼休みの屋上の、まことと亜美の目線が合ってないというか、ここでもイマジナリー・ラインが無視されているという話がしたかっただけなんだ。
この場合、まことと亜美の視線がこの画面でまともに交錯すると、単にでかい女がベンチに座った亜美を見下しているだけの構図になっちゃうので、ちょっとカメラ位置を変えてみたのかな。まあよく分からんが。


あれっ?前回は、うさぎとまことの下校の時の会話まで進んだはずなのに、今回は昼休みの屋上のシーンまで後退してしまった。一体どうなっているんだ。