実写版『美少女戦士セーラームーン』ファンブログ


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【第100回】502号室記念レビュー『マスター・オブ・サンダー』(第3回)


 今回の記事を書きながら『マスター・オブ・サンダー』の公式ホームページをながめていたら「日本のアクション映画界を代表する千葉真一、倉田保昭の本格的初競演と、木下あゆ美、椿隆之ら特撮・戦隊もので活躍するヒーロー&ヒロイン、そして小松彩夏などグラビアアイドルの豪華競演」というコピーが目に入った。そうか、私は小松彩夏を特撮ヒロイン枠からの参加だと思っていたから、木下さんや芳賀さんたちより出番が少ないことに不満だったのだ。そうではなく、グラビアアイドル組のトップとして、つまり天川美穂や福岡サヤカやメイドの皆さんの代表選手として、ただひとり主役メンバーに起用されていたのだ。芝居やアクションが控えめだったのは「グラビアの人だから」という配慮だったのだ。よかった!(本当に納得してるのか?)
 小松彩夏。脳内年齢は35歳でも身体はぴちぴち21歳(なりたて)のグラビアアイドルだ。舞台女優ですらある。

1. 人生も少しずれたら面白いのかも知れない(愛野美奈子)


 さて物語の続きだ。まだやるんです済みません。
 アユミにスカウトされ、なんとなくその気になって、金剛山桔梗院まで悪霊対治にやって来た六人だったが、三徳和尚(倉田保昭)から「1日20時間の修行を1ヶ月」と聞かされ、みんなやる気をなくしてしまう。まあそれはそうだ。1ヶ月ずーっと睡眠時間が4時間である。小松彩夏さんなんか、ふだん昼寝ばかりしていることはこちらのDVDレビューで確認ずみだしね。というわけで、義理がたいヤンキー少女のアンナ以外はさっさと山を降りる。それでもアユミは「多分すぐ戻ってくると思う」と楽観的だ。そして実際、アユミの予知どおり、みんなはすぐに戻ってくる。周囲にはすでに結界が張りめぐられていて、一度この山に入った者は出ることができないのだ。
 前回のレビューでは、この結界は悪役である松村雄基の怨霊が張ったのではないかと書いたが、ひょっとする倉田保昭が張ったのかもしれない。改めてよく観たら、オープニング近くのシーンで、倉田が山の周囲に結界を張って、松村の怨霊が外に出ないように封じている、という描写があるのだ。
 だからかも知れない。戻った五人は、山を降りられない不満をアユミにぶつける。小松さんなんか「結局は騙したってこと?私たちを」と辛辣である。それでアンナ姉さんがキレる。

アンナ「いまさら、何ガタガタ言ってんだよ。ここまで来ちまったもんはしょうがねーだろ」
ミ カ「しょうがなくない。アンナはいいの?それで」
アンナ「あたしは、一度やるって言ったことは最後までやる主義だから」
トオル「バッカじゃねーの」
アンナ「お前らさ、じゃ何でこんな所までノコノコついて来たんだよ。ちゃんとやることがあったら断ってるはずだろ。コスプレ、アニメにナンパ、お勉強にバクチって、お前ら命かけてやってるって言えんのかよ。マジでやってるって言えんのか?」
コースケ「はい(手をあげて)僕は、すごい、うれしかったんですよ、この七人のなかに入れてもらえて。こんなに話するほうじゃないんですけど、何か、すごい、みなさんと話しやすいっていうか、ちょっとこう、似てる気がして」
トオル「何でおまえと似てるんだよ」
カオリ「……何か、世の中からちょっとずれてる感じ。まわりからもちょっと浮いちゃう、みたいな」

 そういうカオリ(小松彩夏)のセリフがきっかけで、みんなのあいだにわずかながら連帯感がうまれ、しかたない、やってみるかという雰囲気になる。基本的に小松さんは「世の中からちょっとずれてる感じ」なんてセリフがよく似合います。
 翌朝、修行の一日目。とりあえずアドゴニー相手に模範演技を見せる倉田和尚。がむしゃらにつっかかるアドゴニーを流麗にさばいて関節技を極める倉田保昭に、ミカは「柔よく剛を制すってヤツですね」と感心する。倉田は「ミカ、その続き、分かるか?本当はその言葉の後に、剛よく柔を断つ、って言葉がつながる。剛も柔も、どちらがいいというもんじゃない。両方、兼ね備えるのが理想だ」と言って、七人の顔をぐるりと眺める。ボコボコにされて痛そうなアドゴニー、呆然としているナンパ野郎、おびえきったコスプレ娘、おどおどと下を向くオタク、なんだか楽しそうなアユミ、口をとがらせているミカ、そして「ふ〜ん」と感心顔のアンナ。「……まあ、お前さんらの場合は、七人あわせてバランス取るしか、ないなぁ」。
 こんな調子で、基礎体力トレーニング、技の稽古、悪霊退散の印の結び方、といった修行の日々が始まる。ところが、これがそれほど切迫した、血の汗を流すような特訓ではない。当然、めきめき強くなる、ということもない。

2. 七人のヘタレ


 私は前回の日記で「厳しい修行を通じて七人が強くなっていくプロセスを、もっときちんと描いて欲しかった」と書いた。それから「ここで谷垣監督は、そういう熱血描写を避けることで、『酔拳』のジャッキーをパロディにしたようなちゃらんぽらん型ヒーローをやりたかったんじゃないか」とも邪推した。
 でも今回、監督自身によるDVD副音声の自作解説を聞いていたら、こんなことをおっしゃっていた「普通は(この手の映画では)修行したら達人になるんですけども、でも(この作品の場合は)達人にならない。なんか登場人物が、みんながみんな、アクションやってすぐ達人で、っていうのもアレなんでね。若手は、みんなが達人にはならない方がいいのかなあと思いましてね」。
 おそらく谷垣監督自身、修行→強くなるという王道パターンの映画をたっくさん観てきたので、ありきたりというか、いまさらやるのも恥ずかしいと言うことなのかも知れない。だからあえて「そんなに簡単に強くはなれないよ」と定石を外したのか。
 もちろんそういう展開もありである。でもその場合、普通だったら怨霊たちにとても太刀打ちできないはずの彼らに、最後のバトルでどうやって勝利を得させたらいいか?という課題がでてくる。その答えを先取りするのが、倉田保昭が修行初日につぶやくセリフ「お前さんらの場合は、七人あわせて、バランス取るしかないな」であるはずだ。それぞれの若者に、青龍の七人衆のDNAというか、運命に選ばれた戦士にふさわしい特殊な潜在能力が秘められている。修行でそれを引き出して、単独ではまだ充分な総合力をもっていないが、力をあわせて敵に勝つ、というパターンなわけですね。そういう展開の変則的な応用として、実写版セーラームーンでも、Act.40、新曲争奪戦ゲームで見せた亜美のドンケツの才能や、ルナが尻尾とりゲームですばしっこさが、最後の泥妖魔との対戦で活かされて、チームワークで勝利を収めるというのがありました。
 この映画の場合、前半で、七人の若者がそれぞれ次のような特技、もしくは潜在能力をもっていることが示される。

アユミ(木下あゆ美) かわいい娘 相手の一手先を読む予知能力がある
アンナ (永田杏奈) ヤンキー娘 喧嘩の実戦経験がいちばんある
ミカ (芳賀優里亜) メガネっ娘 知識が豊富で頭脳優秀
コースケ(平中功治)  オタク男 水鉄砲が使える
トオル (椿 隆之)  ナンパ男 自転車で走りながら可愛い子を瞬時に見分ける動体視力
カオリ (小松彩夏) コスプレ娘 メイド喫茶で働きながらアキバの平和を守る美少女戦士
アポロ(アドゴニー) ガイジン男 パワー

実はアドゴニーがパワーファイターなんて、どこにもそんな描写は出てこないのだが、アユミがそう言ってるんだから仕方がない。途中で自分に伸び悩みを感じたアユミが、アンナに打ち明けるのだ「みんなはさ、それぞれ得意分野があるでしょ。アポロはパワー、ミカは頭の良さとか、アンナはケンカ技のバリエーション。なんか、あたしには何もないなあって思って…何かどれもこれも中途半端で、特別な才能、まるでない」それでアンナはアユミに不意打ちをかまそうとして、アユミがパッと防ぐのを見て、にっこり笑う「ほら、アユミの才能。気配を読む。前、言ってたじゃん。バクチのとき相手の手が読めるって」
 さて後半、頼りだった倉田保昭をも怨霊に奪い去られ、絶望しかけた七人は、ミカの「三人寄れば文殊の智慧、七人寄ったら、何でもできる!」という言葉に元気を取り戻して、特訓を再開し、怨霊の本拠地である五重塔の戦いに向かうのである。ではそのクライマックスで、これら七人は、どのようにそれぞれの力を活かし、協力しあって勝利を収めるのだろうか。


【アユミとアンナ】中村浩二の悪鬼と戦う。メンバーのなかで唯一、正統派の体当たりアクションである。その意味でアンナのファイターぶりは活かされている。でも登場シーンで三節棍を操っていたのだから、何か棒術とかヌンチャクとか、道具を応用した技を見せて欲しかった。修行のシーンで倉田和尚は、悪霊たちの急所は喉で、最も有効な攻撃は喉元をポイントヒットすることだ、と指導している。これができそうなのがアンナで、実際ここでは、悪鬼の喉元を締める、という攻撃を見せたりもする。しかしその後は頭突き合戦になってしまって負ける。残念である。劣勢で、もうだめか、というところで、その辺に転がっていた棒で起死回生の一撃で悪鬼の喉を一突き、なんてのがよかったのに。
 一方のアユミは、ここまで劇中で何度も、予知能力をもっていることが強調されていたが、結局それを最後のバトルで活かすシーンは見られない。彼女の能力は、手裏剣とか空飛ぶギロチンとか、そういう飛び道具系の攻撃を間一髪でかわす、というようなかたちで活用されるべきではなかったか。


【ミカとコースケ】ヒンズーシスターズという、インドの衣装を着た二人組の美少女キョンシーと戦う。ミカは頭脳と記憶力が優秀で、肝がすわっているというキャラクターなので、悪霊が迫って来ても取り乱すことなく、真言の呪文を唱えたり印を結んだりして退散させる、といった役どころが期待される。コースケは最初に出てきたときに水鉄砲を使い、最後の戦いには、修行の合間に木の枝で作ったパチンコを持参しているので、射的系のガジェットが好きなオタクなのだろう。これを使った見せ場が欲しい。
 では実際はどうかというと、ミカの方はまあまあである。苦戦している最中に、キョンシーの動きを止めるにはお札を貼ればいい、と思いつき、機転を利かせて紙に悪霊封じの呪文を書く。で、これをコースケがパチンコでキョンシーの額に的中、という連係プレーになるかと思いきや、紙を丸めてパチンコで飛ばすのはミカなのだ。それをコースケがキャッチしてキョンシーの額に貼り付ける。このバトルでのコースケの主な役回りは、ヒンズーシスターズ二人が両側からムチ攻撃を仕掛けてきて、それが実写版セーラームーンAct.12のように縄とびになり、飛び損なって股間を強打して悶絶する、という小学生レベルのギャグをやることにある。そもそも彼が修行中に木の枝でパチンコを作っているという伏線も、それと分かるほどきちんとは張られていないので、いささか唐突である。


【カオリとトオル】小学生くらいのキッズ武闘家軍団と対戦する。リーダー格が倉田アクションクラブ児童部の子で、あとは池谷幸雄体操教室の子どもたちだそうだ。子どもなので動きがすばしっこい。だから動体視力のすぐれたトオルが相手をする、ということのようである。しかしトオルは、どちらかというと右往左往しているだけで、ちょこまか動く子どもを的確に捕獲していく、という描写はない。そして、捕まえた子どもをモロに退治してしまうと画面が殺伐とするから、後はカオリが美少女戦士風のコスチュームに変身して、ポーズを決めてお仕置きするのである。つまり小松さんのコスプレ娘という設定は、戦士としての特技とかではなく、そういう画ヅラの問題なのだ。で、そのお仕置きの内容も、子どもを捕まえておしりペンペンするというソフトなものなのだが、いくら何でも最終決戦のひとつがそれではぬるすぎる、と判断したのか、それともStreamKatoさんが前回のコメント欄でおっしゃっていたように、小松さんがどうしても子どものお尻をぴしりと叩けなかったせいなのかは分からないが、結局そのお仕置きシーンはカットされて、映画が終わった後にタイトルと共に流れるNG&未使用シーン集でワンカット見られるだけである。だからトオルとカオリが結局どうやってバトルを終えたのかは、物語内では触れられないままなのだ。


【アポロ】アドゴニーはなぜか最後の戦いの場では姿を消してしまって、何もしないまま終わるので問題外。


 これだけである。アユミとアンナのハードな肉弾戦はともかく、後の二組の対決は、あまりにも緊張感を欠きすぎるし、それぞれの特技を活かしたとか、苦しい修行の成果を全力で出して、戦いを勝ち取っていったというニュアンスは、ほとんど感じられない。監督自身、そういう演出は狙っていない。むしろ笑いを取りに行っているのだ。谷垣監督はこう言っている「コースケとミカのところは、わりとコミカルな感じで出来ればいいかな、ということと、あと、子供の方は見ているだけで可愛いじゃないですか。そういうところとかも狙いたかったし、やっぱりシリアスなアクションをね、三連発も四連発もしたら、かなりお客さんもきついと思うので」。
 メインディッシュに相当する部分で、アユミとアンナ対悪鬼、そして最後の倉田保昭対千葉真一というハードなアクションが続くから、前菜は、あまり胃にもたれないようコミカルにまとめてみました、ということだ。でもここで谷垣監督が言っている「お客さん」って何なのか。
 このへんが、一番おおきな読み違えなんじゃないかと思う。「シリアスなアクションを三連発も四連発もしたら、かなりお客さんもきつい」という場合の「お客さん」って言うのは、つまり「奇跡のタッグ実現!! 千葉真一VS倉田保昭」というコピーに胸おどらせてやって来た格闘映画マニア「ではない」お客さんという意味だ。でも、たとえばこの作品が、ジャンプやマガジン連載の人気マンガの映画化企画だったりしたら、あるいは原作がyoshiだったりしたら、あるいは同じく昨年公開された『スケバン刑事 コードネーム=麻宮サキ』と二本立てだったとしたら、そういう「お客さん」を想定する必要もあるだろうが、『マスター・オブ・サンダー』って(コミック化はされたが)もともと漫画原作でもなければ、テレビCMを打って大規模に全国公開されたわけでもない。二本立てでもない。一番の顧客はやはり「奇跡のタッグ実現」に釣られた、ちょっと年のいったアクション映画ファン(私だが)なんじゃないのかな。そういうファンは、クライマックスの千葉VS倉田の迫力ある一騎打ちに較べて、その前までの、ゆる〜く描かれた若者たちの青春ドラマやコミカルな戦いぶりをかったるく思ったはずである。
 それから、ずらりと並んだ特撮系ヒーローとアイドル目当てのオタクも重要なこの映画の「お客さん」だが(これも私だが)、この人たちは、やはり最後にはオチャラケぬきで、それぞれのヒーローやヒロインにきちんと活躍してもらいたかったはずだ。でも谷垣監督は「シリアスなアクションを三連発も四連発もしたら、かなりお客さんもきつい」だろうと、彼らの見せ場をばっさり切って、胸の熱くなるような戦いの代わりに、小松彩夏の意味不明のコスプレチェンジと決めポーズや、ゾンビアイドル天川美穂の脱力演技や、ヒンズーシスターズの縄とびで股間を強打するコースケといった、「コミカルなシーン」を入れちゃったのだ。そしてそのために、前半で描かれた七人のそれぞれの特技は、最後のバトルで満足できるようなかたちで活かされることなく終わってしまった。非常に残念である。

3. ひょっとするとこれは「二本立て」なのかも


 1970年生まれの谷垣健治は、小学生のとき『トラック野郎・熱風5000キロ』(1979年)を観に行って、そうしたら同時上映作品がジャッキー・チェンの『ドランクモンキー 酔拳』で、これで香港アクションの虜になったそうである。それから、ジャッキー映画を劇場で追い求めるようになったのだが、今度は逆に、たとえば1982年に日本公開された『蛇鶴八拳』に行ったら、一緒に上映されていた、真田広之香港映画進出作品『龍の忍者』がけっこう面白かったり、翌年の『カンニングモンキー天中拳』の時も、黒崎輝の『伊賀野カバ丸』がなかなかだったりした、という思い出を語っている。
 トラック野郎と言えば鈴木則文監督だ。『伊賀野カバ丸』もそう。鈴木監督は、1970年代前半には『温泉みみず芸者』(1971年)や『徳川セックス禁止令 色情大名』(1972年)や『エロ将軍と二十一人の愛妾』(1972年)といったすごいタイトルの作品を手がけていたが、1975年から1979年まで続いた『トラック野郎』シリーズを経て、1980年代前半には、JAC青春アクションものの専属監督みたいな感じでがんばっていた。
 若い人にはちょっと想像がつかないかもしれないが、当時、真田広之はちょっとしたアイドルで、二番手として黒崎輝がプッシュされていて、千葉真一ひきいるJAC(ジャパン・アクション・クラブ)はジャニーズみたいだったのだ。というのは言い過ぎかな。鈴木則文はかれらの身体能力を活かしたB級アクションを次々に撮ったが、しかし基本的に面白けりゃ何でもありの人だったので、出来た作品はアイドル映画のフォーマットに、アクションと意味不明なギャグが詰め込まれた奇々怪々なものばかりだった。
 『忍者武芸帖 百地三太夫』(1980年)では、真田広之は脈絡もなくトラボルタのように踊りだし、丹波哲郎からジャッキー・チェンばりの修行を受け、そのあちこちで彼自身の歌う主題歌(作詞:野際陽子)が流れていた。志穂美悦子のダブルヌンチャクは格好よかったです。『吼えろ鉄拳』(1981年)はシリアスな真田広之の復讐もののはずなのだが、真田広之はブラジャーを拾って痴漢に間違われてアブドーラ・ザ・ブッチャー演ずる用心棒に追われたり、スパゲッティを何皿も食べたり、走ってくる車に対して蹴りを出したり、至近距離をナパーム爆発されながら馬に乗って疾走したりしていた。千葉真一は謎のシルクハットのマジシャン、実は秘密麻薬捜査官というわけの分からない役だった。『伊賀野カバ丸』(1983年)は黒崎輝主演。真田広之は全編メイクのナルシストで、クライマックスは金玉学院と王玉学園のライバル校対決だった。武田久美子はこのころはまだ清純可憐なヒロインだった。そして『コータローまかりとおる!』(1984年)。もう解説はいいや。ご存じない方にも、だいたいどんな作品群かお分かりいただけたでしょうか。
 しかもですね、こういった作品はどれも二本立てであった。『吼えろ鉄拳』は松田聖子の初主演作『野菊の墓』とのカップリングだったし、『伊賀野カバ丸』はさっきも書いたようにジャッキー主演の香港映画との同時上映、『コータローまかりとおる』の併映もジャッキーやサモハンの『五福星』だった。そしてどれも公開は8月上旬だった。夏休みもまっ盛り、アクション物が好きな男子や、真田広之めあての女子や、あるいは、聖子ちゃんのおでこが観たかった人がどういう人かは分からないが、とにかく様々な少年少女で映画館はごった返していた。そしてそれ以上に上映される鈴木則文の映画は混沌としていた。10代前半の谷垣監督はそういう空気を吸って育ったわけだ。
 谷垣監督は、たぶんそんな夏休み映画として『マスター・オブ・サンダー』を撮ったのだと思う。そう考えると、コメディのパートが小学生なみのギャグであることもよく分かる。少なくとも鈴木則文監督へのオマージュであることは、最後に登場する千葉真一の衣装が『少林寺拳法』(1975年)の宗道臣のときと同じであることから明らかだ。そしてこの映画が「七人の若者を主人公にしたアクション風味の青春アイドルコメディ」と「格闘映画界の両巨頭によるシリアスドラマのハードアクション」という二つのパートにはっきり割れているのも、ひょっとすると、青春物とカンフー映画の二本立てプログラムを一本でやりたい、ということだったのかも知れない。
 しかし、若者パートの脱力ギャグは、脱力はするが、笑えない。そもそもこういう風に、若者たちはコメディ担当、本格アクションは両巨頭の担当と振り分けたところに問題があるんじゃないかとも思う。鈴木則文のJAC映画だって、下品なコメディとハードなアクションが坩堝のようなぐしゃぐしゃ状態で暴走していくところに魅力があった。あるいは最近の「おバカなアクションコメディ」系の面白い作品、たとえば『劇場版クレヨンしんちゃん』シリーズや『少林サッカー』を観ても、感動的な熱血ドラマと、ほとんどマンガのバカバカしいギャグは(しんちゃんの場合は本当にマンガだが)区別のしようもなく渾然一体となっているではないか。そしてこの映画でも、いちばんいいのは、シリアスとコメディを往ったり来たりしてふたつの世界をつなげている、倉田保昭と木下あゆ美の二人なのである。
 この映画に集まった若者たちは、コメディとシリアスとアクションと、色々な要素を詰め込んだ特撮ヒーローもので一年間がんばった人たちが多いのだ。だからやりようによっては、七人のパートを笑いから熱血へ、そしてきっちりしたアクションへと盛り上げていって、最後に御大二人の模範試合につなぐ、という作品にもできはしなかったか、と惜しまれるのだ。
 まあともかく、谷垣健治、劇場公開作としては第1回監督作品だ。本人としても、やりたいことをやり尽くしたというわけではないはずである。笑って感動して手に汗握るような娯楽作品をめざして、これからも頑張っていただきたいです。がんばれ谷垣監督・動作設計。だから動作設計って何なんだよ。


次回、週末の更新でこの映画のレビューをなんとか終わりにしますので、「いつになったら実写版の話に戻るんだよう」とお思いの方、どうか来月までお待ちください。