実写版『美少女戦士セーラームーン』ファンブログ


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【第99回】502号室記念レビュー『マスター・オブ・サンダー』(第2回)


(前回から続く)
 姫の誕生日を祝うために書き始めたレビューであったが、先の土曜日に「前編」をアップした後も勢いが止まらなくなって、引き続き、思いついたシーンから順不同で記事を書き続けた。そして日曜日の晩には、もう前・後編2回でも収まらない分量になってしまったのだが、いまだに姫の話題はほとんど出てこないのだ。今夜が誕生日なのに。
 もう一度言うが、映画『マスター・オブ・サンダー』は、小松彩夏「だけ」が目的という方には、ちょっとお薦めすることをためらう作品である。はっきり言って出番は少ない。しかもエンドタイトルにNG集が流れて、ここに、本編には使われなかった小松さんの出演シーンが出てくるので、ファンとしては「なぜカットしたか」と悔しい思いをされるに違いない。他方、もしあなたが「千葉真一VS倉田保昭」と聞いただけで胸おどる世代で、しかも最近の特撮ヒーローものもマメに観ていて、ついでに実写版セーラームーンのファンでもあるならば、とりあえずレンタルしてご覧になることをお薦めする。しかしそんな奇特な方、世の中にどの程度いらっしゃるのだろうか。よく分からないので、どうしても弱気になってしまうが、乗りかかった舟だ。今回もレビューを続ける。

1. オープニング


 映画はまず、昭和45(1970)年戌年の夜、青龍の七人衆によって封印されたはずの小野篁(おののたかむら)の怨霊(松村雄基)が、金剛山桔梗院の若き修行僧、源流と三徳の前に姿をあらわす、短いプロローグから始まる。前回にも書いたとおり、若き日の源流と三徳は、それぞれ岡田秀樹と竹財輝之助が演じている。怨霊はそこに居合わせた、源流の妹で倉田の妻、美央(長谷部瞳)の命を奪い、いずれ完全復活することを暗示して、ひとまず消えていく。
 そして現代、2006年。妹を死なせた禍根から世捨て人となった源流(千葉真一)の姿はすでに桔梗院にはなく、和尚となった三徳(倉田保昭)が一人で住職を継いでいる。2006年は戌年、12年に一度、力を盛り返してくる篁の怨霊を、山奥の五重塔に改めて封じ込めるための「鬼封じ」の法を行う年だ。倉田はその準備のために、大勢の弟子を五重塔に送り込む。だが松村雄基の怨霊は、すでに黄泉の国から強力な悪鬼を送り込んで来ていた。
 悪鬼は、五重塔に向かって山道をやってくる僧侶たちに襲いかかる。僧侶たちは数は多いが、しょせんは倉田アクションクラブの若衆、対する悪鬼は倉田プロの師範代と言ってもいい中村浩二である。かなうわけがない。中村浩二は若い連中をちぎっては投げちぎっては投げ、もう圧倒的な強さだ。
 このオープニングのバトルがちょっとした見せ場になっている。吉川晃司のナンバー「TOKYO CIRCUS」がかかる中、僧侶たちは中村浩二の悪鬼に右から左から挑むが次々に倒されていく。その様子を手持ちカメラはカットを割らずに捉える。画面では「木下あゆ美」以下メインキャストの名前が次々に紹介されていく。その間もカメラは、中村浩二が僧侶たちを端から片づけていく様子をノーカットで追い続ける。最後の一人が投げ飛ばされると「監督・動作設計 谷垣健治」のクレジットが出て、燃える炎を背景にタイトル「マスター・オブ・サンダー」がどーんと出る。DVDで計測したら、ここまでだいたい4分30秒、まるまるワンシーン・ワンカットだ。その日のうちに11テイクを重ねて、ようやく撮れたんだそうで、さすがに途中、息切れして段取りめいて見える箇所もないではないが、やはりインパクトは十分である。しかも、アクションを早く見せるためにコマ落としの早回し映像になっているので、実際の撮影時間は7分ぐらいかかっている。
 アクション・シーンをコマ落としでスピーディーに見せるのは、香港映画では常套手段だ。ただ、かつてのフィルム時代ならともかく、ビデオでそれをやると、慣れていない方には、なんかビデオデッキが勝手に早回し再生をはじめてしまったような異和感が残るかも知れない。私もドニー・イェンのテレビ版『精武門』とか見たときには、ほとんど昔のサイレント映画みたいだったのでたまげた。逆にこの映画くらいだったらぜんぜん気にならない。
 また、桔梗院に引き取られて育った娘、アユミ(エプロン姿)が、この凄絶な争いに遭遇して、倒れた僧を介抱する様子を「たまたま映り込んだ」というニュアンスで画面に収めているあたりもちゃんとしている。いいぞ谷垣健治監督、脚本、および動作設計 。動作設計って何だ?
 しかし『マスター・オブ・サンダー』が軽快なB級映画のノリで進むのは、ここまでだ。ここから先はちょっと不満もある。あらかじめ言っておくが、私は谷垣監督には将来、アジアのアクション映画界の一翼を担うような存在になってもらいたいと真剣に願っている。批判めいたことも書くが、そういう期待をこめてのことであるとご了解下さい。

2. 戦士を集めるのはUFOキャッチャーよりは楽だ

 
 桔梗院の若い僧たちで、ボロボロながらもなんとか生還したのは、アユミにとっては前からちょっと気になる存在だったイサム(杉原勇武)ひとり。あとは討ち死にだ。これでは「鬼封じ」の法が行えない。小野篁の怨霊の復活は時間の問題である。そこでアユミが、伝説の「青龍の七人衆」を継ぐ若者たちを探して街に出る、というあたりまで、前回は書いた。なお前回のコメント欄でStreamKatoさんがご指摘されたとおり、桔梗院ではスリムなジーパンにエプロンというキュートな姿だった木下あゆ美さんは、街に出るとき、ものすごく短いジーンズ地のスカート姿になられていて、その状態でかがみ込んで散らばったゴミ袋を拾ったり、うんと頭を下げてお辞儀したり、ファンのために色々として下さっています。
 で、まずは地図を頼りにかつての七人衆が住んでいるというあたりを訪ねるのだが、そこでいきなり、七人衆の孫で友だち同士のミカとアンナに出くわす。ミカ(芳賀優里亜)は通りでチンピラに因縁つけられても顔色ひとつ変えない、肝のすわったガリ勉メガネ少女で、アンナ(永田杏奈)はそのミカを助けに入ってチンピラを蹴散らすファイターだ。遠巻きに二人を観察し、これはイケると踏んだアユミはさっそくヘッドハントする。アンナは「面白そうじゃん」と乗り気だが、ミカは受験勉強を理由にしぶる。
 その晩、アユミたち三人は、さらに新たな仲間を捜すために、なぜか夜の盛り場に乗り込み、バーのテーブルでカード遊びをしていた変な黒人のアポロ(アドゴニー)と会う。アユミはかまをかけ、彼からオイチョカブで24万円の軍資金を巻き上げる。実はアユミは、相手の一歩先を読む予知能力をもっていて、バクチなんかお手の物なのだ。その事実を知ったミカは、アユミから予知能力を学んで入試問題予想に役立てようと、怨霊退治への参加を決める。
 ついでにアユミは、負けた金を取り返しに来たアポロもスカウトしてしまう。実は彼は、アフリカに渡った七人衆の長兄、海道の弟子だったのだ。借金で首が回らないアポロは、アユミから五重塔にお宝があると吹き込まれて、喜んで参加を申し出る。
 翌日、アユミは残る候補者のカオリ(小松彩夏)をマークして秋葉原まで潜入し、変身コスプレで街のケンカを成敗し、アキバの平和を守っているカオリを見て意を決し、声をかける。カオリは「悪霊たちにお仕置きか。いいかも」とあっさり参加を承諾。ついでに、メイド喫茶でカオリの追っかけをやっていた、カオリのいとこのコースケ(平中功治)まで拾ってしまう。
 同じ時、アンナとミカはナンパ少年のトオル(椿隆之)を追跡していた。トオルは歩道をマウンテンバイクでびゅんびゅん飛ばしながら、通行人にかすりもせず、かつ、美少女ばかりを瞬時に選んではその前に止まってナンパをかけている。つまり非常に動体視力がすぐれていて、これは使い物になりそうだと誘ってみると、そりゃー小松彩夏と芳賀優里亜と永田杏奈と木下あゆ美が一緒なんだよ。ナンパの彼にとってはフルコースみたいなもんでしょう。もちろんOKである。これで6人。さらにアユミ自身を加えて7人。この時点で、アユミはまだ桔梗院に引き取られて育った娘というだけで、きちんと修行している弟子でもなさそうなのだが、すでに頭数に入ってしまっている。というわけで、山を下りて一泊二日で、アユミはあっさり「新・青龍の七人衆」を結成してしまう。
 こういうご都合主義をどうこう言うのは、上映時間にも限りのあるこの手の娯楽映画に対してヤボというものだろう。特にアユミとアンナとミカが出会うシークエンスは、アユミがトラックに跳ね飛ばされたり、アンナが不良相手にいきなり三節混を振り回したり、ミカがシャーペンを不良の頭に突き刺したり、むちゃくちゃと言えばむちゃくちゃなのだが、私は大好きです。個人的には冒頭の長回しアクションよりこっちが好きかも知れない。木下あゆ美が軽トラに思いっきり跳ねられて、しかもケロッとしているのは、SPEEDの主演映画『アンドロメディア』(1997年、三池崇史)で、島袋寛子が猛スピードのトラックに豪快に跳ねられるシーンを越えたと思う。何がどう越えたのかと尋ねられても困るが。
 しかし七人が山へ登ってからがちょっと問題だ。初めは定番どおりの展開で、これはいい。集めた六人があっけらかんと並ぶ前で、呆れ顔の倉田保昭のアップがあって、次のシーンは早くも下山する若者たち。みんな、山寺の修行生活がいかに厳しいかを倉田保昭から聞いて、すっかりやる気をなくして街に戻ることにしたのである。が、下り道の途中にはすでに目に見えない壁が張られていて、それ以上は降りられない。篁の怨霊が、獲物を逃すまいと結界を張ったのであろうか。仕方なく桔梗院に戻り、修行を始める七人。

3. 『静かなるドン』の倉田保昭はいい


 この映画の問題点はここからだ。常識的には、最初はやる気がなかった寄せ集めのメンバーが、倉田和尚の指導で、だんだんと戦士の使命と自覚に目ざめ、強くなっていく過程が必要である。でもそのプロセスの描写があまりにも弱い。もちろん、少しずつ倉田和尚と打ち解けて、修行に前向きになっていく姿とか、敵である小野篁の悲劇的な運命を知って、それぞれもの思いに耽ったりとか、後半には師匠の倉田和尚を拉致されてしまって、取り返そうと心をひとつにするとか、一人一人が人間的にも身体的にも成長していく過程が、いちおう定番どおりの段取りでこなされる。が、それも、何だか普通の運動部の強化合宿に毛が生えた程度のレベルなのだ。これだけで、曲がりなりにも黄泉の国からこの世を支配しようとたくらむ怨霊と対決しようというのは、いかにも無理がある。
 あるいは谷垣監督は、ジャッキー・チェンの『酔拳』みたいなセンを狙っていたのかも知れない。確かにジャッキー映画の中では、それまでサボってばかりいたジャッキーが、何かのきっかけで気を入れて修行を始めたとたん、めきめき強くなっていくし、我々はそれを描写不足だと思わない。しかしそれはジャッキーの稀有な身体的才能が「まさかそんな短期間で」とか「理不尽な」という疑問や理屈をねじ伏せてしまう説得力をもっているからである。まあそんなことは谷垣監督も分かっていたはずで、ジャッキーのパロディぐらいの感じなのかな。でもそもそもジャッキー映画が「修行もの」の一種のパロディなのだから、それをもうひとつなぞるというのはいかがなものか。
 倉田和尚にも問題がある。終始ギンギンに血が沸騰しているような千葉真一とは対照的に、倉田保昭は、ラストの壮絶なバトル以外は渋めの抑えた演技で、ほとんど好々爺と言いたくなるくらいの、とぼけて枯れた味わいを出している。木下あゆ美や若者たちとのジェネレーション・ギャップに戸惑いながら、なんとか若者の気持ちを理解しようと努力し、共感できる部分を見つけていく理解のあるおじいちゃん、といったところである。かつてアジアの映画界で悪役としてならしたスターは、1990年代の前半、ビデオ『静かなるドン』の猪首硬四郎役で、こういうテイストを見せるようになった。
 『静かなるドン』の主人公、新鮮組三代目総長近藤静也(香川照之)は、もともと堅気の世界で生きるつもりだったこともあって、争いごとは極力避けようとする性格である。自分のタマを取りに来て失敗した敵の組のヒットマンにさえ、行き場がないならオレの組に来い、などと言って引き取ってしまう。そういう組長のことを「若い奴の考えることはわからねえ」などとグチりつつも忠誠を誓う、義理がたい幹部が猪首である。全10巻を越える『静かなるドン』ビデオシリーズ前半の見どころのひとつは、そんな猪首が、年の離れた静也と、世代の差を超えて心を通わせ絆を深めていく過程であると、私は思う。やくざものだから出入りのシーンはあるし、猪首は武闘派という設定だが、いわゆる倉田アクションは前面に出ない。この作品で見ることができるのは、円熟した俳優、倉田保昭である。
 そういう、実はかなり幅の広い役者なので、この『マスター・オブ・サンダー』でも、倉田保昭の方が、若い連中の未熟な芝居を、わりと上手に受けてしまうのである。これがもう少し「若いお前らこそ、こっちに芝居を合わせろよ」というガンコじじいであったら、木下あゆ美たちも、どんなふうに和尚との心の交流を表現するか色々と頭をひねっただろうし、谷垣監督も演出方法を模索したんじゃないかと思う。そしてそういう努力が、倉田和尚の厳しい修行に、彼女たちが少しずつ鍛えられていくプロセスとダブるかたちで、画面を通して伝わってきたのではないだろうか。
 でも監督も若い俳優たちも、倉田保昭の受けの上手さに甘えてしまった。というか、倉田さんは、たぶん谷垣監督が、千葉真一という強烈な個性に振り回されながらいっぱいいっぱいで頑張っているのを見て、和尚と若者のパートについては少しばかり助け船を出してやったんだと思いますね。その結果、倉田和尚と弟子の若者との関係は全体的に甘くなってしまったが、でも倉田和尚が受けを放棄してガンコじじいに徹していたら、この映画はもっとまとまりのないものになっていたかも知れない。


(まだ続く。何回続くかはもう私にも分からん)


P.S. ちょっと時間が過ぎてしまいましたが、小松彩夏さんお誕生おめでとうございます。そして舞台初主演おめでとうございます。