実写版『美少女戦士セーラームーン』ファンブログ


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【第84回】DVD第1巻:Act.1の巻(後編)


 sakuraさんが新しいブログを始められた。三日月をあしらったキレイなデザインで、ときどき、流れ星も流れる。相変わらず選択眼というか、センスがいいですね。
 前の「青いおもちゃ箱」は、沢井さんと山下(洋輔ではない方)さん、SMAPの中居さんを応援するブログだったけど、昨年末、気がついたら閉鎖されていた。体調でもお悪いのだろうか、と気になっていたが、今回は「Princess★MIYUU」というタイトルどおり、沢井さんオンリーのファンブログとして転生したのである。
 以前ここに「ウチの娘が■Pのファンで」とか書いた途端に、アクセス数がとんでもないことになった経験がある。山下(泰裕ではない方)さんの名前と実写版セーラームーンの記事が載っているブログは、けっこうヤバイのだ。前のブログの終了は、ひょっとしたらそういうことも関係あるかも知れない。いや、つまらない詮索である。
 ともかくメインとなるネタは沢井美優で、さっそく「Bibusに写真がアップされてる」とか、貴重な情報が上がっている。今後もおそらく(誰かさんのように松下萌子や弓原七海に大きく流れもせず)沢井美優ひと筋、生一本でいくのではないかと思う。とすると今から心配になるのがネタ不足だ。sarukaさんのブログを涸渇させないためにも、沢井美優にもっともっと仕事を与えてくれ。って本末転倒だぞ。万丈。

1.アニメの作画枚数の話(なんでまた?)


 最近はデジタル化が進んでいるが、アニメというのは本来、映画のフィルムで撮影されていた。映画のフィルムは1秒につき24コマで進行する。だから1コマ撮りにすれば、つまり1秒につき24枚を作画すれば、ものすごく繊細な動きや変化を表現することができる。でも10分程度の短編ならともかく、これで上映時間1時間以上の作品を作るには、膨大な資金と人材がいる。普通はできないし、やらない。ディズニーが長編『白雪姫』を制作できたのは、ウォルト・ディズニーという普通じゃないカリスマがいて、しかも1930年代だったからだ。当時のアメリカは、1929年の世界恐慌の影響で、街に失業者があふれていた。失業率はピーク時に25%(1200万人)まで達したという。ディズニー・スタジオは、美術学校を出ても看板描きぐらいしか仕事がなかった若い才能を、安い賃金で大量に雇い入れることができたのだ。それが『白雪姫』や『ピノキオ』という、とてつもない枚数を費やした長編アニメの制作を可能にした。しかしこのときの大量雇用が、1941年の有名なディズニー・スタジオ組合闘争を生む原因ともなった。この闘争の苦い経験が、もともと政治的には保守的だったウォルト・ディズニーを、労働運動や共産党を毛嫌いするタカ派右翼に変えていく。
 という話は今はぜんぜん関係ないね。現在のディズニーアニメは基本的には2コマ撮りだ。つまり1秒につき24枚ではなくて、その半分、12枚の動画を描き、同じ画で2コマづつ撮影していく。でもこれだってけっこうな枚数になる。日本のアニメは3コマ撮り、つまり1秒につき8枚というのが基本だが、6コマ撮り(1秒につき4枚)とか8コマ(1秒につき3枚)なんてのもあるという。もちろん、ひとつの作品が常に同じ撮り方でなきゃならんということもない。細かい動きをフォローしなくてはならない場面は2コマ撮り(1秒につき12枚)、それほどでもない場面は3コマ撮り(1秒につき8枚)、そして、ガタつきのない滑らかな動きが必要ならば1コマ撮り(1秒につき24枚)と、演出のメリハリを考えてそれぞれ上手に使い分け、効率の良い仕事をするのがすぐれたアニメーション・ディレクターである。
 すみません。アニメの話となるとなかなか先へ進まないのは私の悪いクセだ。え〜と何だ、つまり、繰り返しの鑑賞に耐える品質のアニメを作ろうと思ったら、相当な枚数が要る。具体的にどのくらいか、と聞かれても正確には分からないが、テレビで放映されている30分ものの場合、たとえば宮崎駿の『未来少年コナン』は1話平均6,000枚〜7,000枚だというし、日本アニメーションの『フランダースの犬』などの世界名作劇場もそのくらい、多いときには1話で8,000枚以上を費やしているそうだ。だから本当はどんな作品でも、そのくらいの枚数が必要なのだろう。
 けれどもそんな贅沢をしているのはごく一握りの作品で、普通はスケジュール的にも予算的にも、もっとシビアな制限がある。現在、週に60本以上も放送されている国内アニメの標準的な作画枚数は、1話3,500枚くらいだという。そして東映アニメーションの場合は「3,000枚縛り」というルールがあって、つまり30分のテレビアニメ1話につき、作画枚数は3,000枚を越えてはならないことになっているそうである。やれやれようやく本題に近づいてきた。脱線ばかりですみません。

2. 止め絵の美しいポーズを生身の美少女モデルが演ずるのである


 こういう、制限の厳しい日本のテレビアニメ界では「止め絵」「口パク」「バンク」などといった技法が発達した。画を動かさずに紙芝居のような静止画像で見せる「止め絵」、人物はそのまま、口の動きだけで会話を表現する「口パク」、変身やロボットの合体といったお馴染みの場面では、同じ映像を繰り返し使用する「バンク」、これらは、とにかく作画枚数を抑えなければならないという実際的な必要性から生まれた技法だったが、次第に洗練されたものとなり、日本製アニメの特徴として、場合によっては肯定的な評価を生むようになっていく。印象的な名場面を、美しい「止め絵」で強調してみせる出崎統とか。
 さて、しつこく作画枚数の話をしたのは、アニメのセーラームーンがいかに少ない枚数で制作されたかという話をするためだ。さっきも書いたように東映には、テレビアニメ1話につき上限3,000枚というルールがあるそうだ。しかしセーラームーンが始まった1992年ごろは、業界もやや凋落傾向にあったし、ドラゴンボールのような、すでに原作が大ヒットしている作品はともかく、まだ海のものとも山のものともつかない少女漫画には、おそらく実質「3,000枚縛り」よりもさらに厳しい制約がかけられたに違いない。実際、初期のセーラームーンの中には、1話の作画枚数が、たった1,800枚程度のものもあるという。1,800枚 !すごい数字ですね。でも無印のエピソードを観ると、それも誇張じゃないことが分かる。とにかく初期のセーラームーンは、素人目にも枚数が少ないのがまる分かりだ。ストーリーはバンクフィルムを有効に使うためにパターン化され、バトルの場面では、現在の『プリキュア』みたいな、きちんと組み合う格闘は一切ない。セーラー戦士たちがバンクでいつもの技を出すだけだし、相手の攻撃を受けて逃げるシーンはしばしば止め絵で表現される。そして最後はお決まりの、タキシード仮面がバラの花を投げて「今だ、セーラームーン!」「ムーンヒーリングエスカレーション」である。正直、私は最初「何てしょぼいアニメなんだ」と思った。とりわけ、変身を終えたセーラームーンが、毎回ぴたりと静止したまま口パクだけで長々と口上を述べ「月に代わっておしおきよ!」と決める場面には、枚数減らしの時間稼ぎもここに極まれりだなあ、と呆れてもいた。
 ところがである。世間はこれに呆れなかったのだ。というか、大いに受けた。戦士たちそれぞれの決めセリフや見得を、ファンは楽しみに待ったのである。そして毎週繰り返される同じ変身バンクに、飽きもせず見入ったのだ。
 もちろん、アニメ版セーラームーンが人々を引きつけた根本的な要因は、技術的な制約を越えて全編にあふれる独特の熱気、はからずも新しいジャンルの扉を開いてしまった作品ならではの、混沌として初々しい熱気にあった。その上で、決めポーズや変身シーンの楽しさがあったのではあるが、今はそのことについては措いておく。とにかく一般に浸透したイメージでは、セーラームーンといえば、敵との戦いよりもむしろその前の変身シーンがポイントであり、制服よりも一段と短いスカートの美少女たちが、おみ足もあらわにポーズを決める、スタイル画のような止め絵が見どころである、ということになった。枚数制限の結果とられた苦肉の策が、作品の魅力とみなされ、爆発的な人気を呼んだのだ。
 そして、実はこの点において、実写版はしっかりアニメ版の方向性を継承している。そのことはもう少しきちんと評価しなくてはいけないように思う。アニメ版セーラームーンは、予算・スケジュール的に、キャラクターをいろいろと動かして、演技させるだけの余裕がなかった。そこを逆手にとって、動きのない、格好いい決めポーズのシーンなどに工夫をこらして、人気を呼んだ。実写版セーラームーンもまた、制作準備期間が短く、オーディションに時間をかけて、劇団の子役出身者あたりから、演技力のあるキャストをじっくり選んでいく余裕もなかったので、基本的には少女雑誌のモデルのなかからセーラー戦士を選んだ。さしあたってはルックスや、「おしおきよ」でどれだけ美しくポーズを決めることができるか、という点を重視したのである。それは圧倒的に正しい。セーラームーンをセーラームーンたらしめているのは、変身後の決めポーズだ。たとえ芝居の達者な女の子を連れてきても、ポーズが決まらなければダメである。
 というわけで私は、アニメ版無印の「アニメなのにあんまり動かない」とか「動いたら動いたでデッサン崩れがおこる」とかの問題点と、実写版の初めの頃の小松彩夏のアンドロイドなセリフ回しや安座間美優のハードボイルドな演技は、対応する関係にある、と考えている。そういう側面において、実写版はアニメ版の伝統を継承しているのである。にもかかわらず、アニメ版のファンは実写版に冷たいんだが。

3. ようやく本題のわりに大したことない考察


 えーとですね、前回の最後にも書いたとおり、今回の記事は、アニメ版と実写版の変身シーンについて比較しようと思っていたのだ。きっかけは万丈さんのコメントである。で、そのためには、まず両者のスタンスの違いを明らかにしなければいけない。アニメ版の変身バンクには、1話の作画枚数を減らして時間稼ぎをする、という目的がある。だから毎回、お約束のように使われる。一方、実写版の変身バンクは、手間ヒマかかる映像なのでまず初回に作っておいて、あとはいつでも繰り返し流せるようにしておく、という趣旨のものだ。だから必ずしも毎回使わなくてもいい。実際、ドラマが密度を増してゆくにつれて台本も長くなり、できる限り台本を活かすためには、変身シーンなんか極力カットせざるを得なくなって、次第にフルバージョンでは、ほとんど出てこなくなっていく。せっかくの特撮バンクを活用しないなんて、ある意味では非常に贅沢な番組作りである。そういう違いのことをまず書きたかったのだ。
 で、アニメには作画3,000枚という縛りがあったとか、1話1,800枚のこともあったとか、そういう話を紹介しようとしたら、でもアニメファンでもない人にいきなり作画枚数の話をしてもピンと来ないかな、と思って、そもそもアニメの作画枚数とは、なんてところまで遡ってしまったために、ディズニーは出てくるし、何が言いたいのか分からない話になってしまってゴメンナサイ。今回の日記は迷走モードである。
 さて本題に戻って、実写版における、各戦士の変身所要時間のベンチマークテストはM14さんが行っている(前回の日記の最後の方にリンクを貼ったのでご参照ください)。これによるとセーラームーンが29秒、他の戦士たちもだいたいそれに近い。いちばん短いのがマーキュリーの26秒で、いちばん長いのがもちろんヴィーナス(とセーラールナ)で32秒だ。でも思ったほど長くはない。なのにヴィーナスの変身が長く感じられるのはなぜか、ということについては、M14さんの分析をお読みください。
 要するに実写版は、セーラームーンも他の戦士も変身にかかる時間は、わずか数秒の誤差がある程度でほぼ同じなのである。これをアニメ版と較べるとちょっと面白い。アニメ版のセーラームーンの変身バンクはほぼ40秒、あとの戦士たちは一律20秒程度と、はっきり差がつけられているのだ。
 どういうことか。アニメ版の戦闘シーンは、まず最初にセーラームーンの変身と口上があって、最後はやはりセーラームーンの決め技で敵を倒すという、あくまで主役を前面に立てたフォーマットがある。だからセーラームーンの変身シーンだけが特別に長い。で、あとの4人の変身も、実写版みたいに分割画面でいっぺんに扱われることは少なくて、一人一人個別に変身する場合が多い。これには今までしつこく書いた、時間稼ぎという意味がある。しかしいくら時間稼ぎと言ったって、たとえば一人につき30秒を費やすとすると、4人あわせて2分かかることになり、それにセーラームーンの変身所要時間40秒と、さらに「愛と正義の(中略)おしおきよ」のバンクが13秒あるから、要するに「全員変身はじめ!」から「戦闘態勢終了」までほとんど3分もかかってしまうことになる。いくらなんでも毎週それをやっていては、見え見えの手抜きというか、やりすぎだ。セーラームーン40秒、後の戦士20秒だと、全員の変身できっちり2分。プラス「おしおきよ」13秒で、まあ許容範囲だ。だいたいそういうことではないだろうか。
 アニメの方の事情はそういうことにしておいて、こう考えると、実写版の変身時間が、5人ともほぼ一緒で、しかもヴィーナスにいたってはセーラームーンよりやや長いというのは、やはり興味深い。まあヴィーナスの場合は、ひとりだけ変身バンクが違うプロダクションに発注されたというような現実的な問題もあるのだろうが、要するに決してひとりセーラームーンだけが主役の物語ではないのだ、という制作者の姿勢が、こういうところにも現れているように思う。それから、セーラームーン、マーキュリー、マーズ、ジュピターの所要時間がほぼ揃っているので、この4人の変身シーンについては、画面を分割していっぺんに見せることが簡単にできる。アニメのようにセーラームーンだけが長いとそうはいかない。編集が必要だ。
 複数の戦士の変身を分割画面で見せる、という手法が初めてとられるのは、Act.9のジュピターとマーキュリーである。このエピソードは鈴村展弘監督が初めて手がけた回で、次のAct.10でも、鈴村監督は朝のオムレツのことでケンカするうさぎとママを、二人を分割画面に配して演出している。だから私は、これは鈴村監督のアイデアで、それを見た他の監督も同じことをするようになったのかな、と思っていた。けれどもそもそも4人の変身バンクが意図的に長さを揃えて編集されているとすると、これは初めからそういう演出を予想していたことになる。まあ戦隊ものでも以前からよく見かけていたから、別に驚くようなことではないですけどね。

4. セーラー服を脱がさないで


 というわけで、能書きが長かったわりに大した分析にもならない変身シーンの考察でしたが、変身に関して、あとひとつ書いておきたいことがある。うさぎと衛の初対面のシーンだ。
 なると一緒に、ジュエリーショーのモデルに目を輝かせていたうさぎは、その後、控え室の廊下に吊ってある衣装を手に取り、鏡の前でポーズをとって合わせてみたりする。でもふと、おしゃれなドレスと、自分のセーラー服を見比べて、はぁっ、とため息をついて、ドナルド・ダックの口になる。それから服を戻そうとして、うっかり地場衛にぶつかると、その場を、モデルを捜しながらジェダイト増尾が通り過ぎる。ふと衛の視線に気づいたうさぎは、ちょっとあせって「私違います、モデルじゃないです」。しかし衛はあきれたように「誰もそう思わないから安心しろ」。でカメラは衛の視線になって、いかにもあか抜けないうさぎのセーラー服姿をまじまじと見つめるのだ。「何よ」と憤慨するうさぎ。
 この一連の演出が強調するのは、おぼこいと言うか、まだ純朴な少女としてのうさぎであり、そういううさぎを象徴するものとしての中学校の制服、セーラー服だ。うさぎは、ショーのモデルたちが華麗なドレスを着こなす姿にあこがれ、自分もいつか、そういう大人の女性たちの仲間入りをしたいと夢みている。でもこの物語は、少女が一気にセーラー服を脱ぎ捨てて大人になる話ではない。確かにうさぎはこれから、今までの子どもっぽくはしゃいでいた世界から一歩足を踏み出して、友情に悩み、恋愛に傷つく思春期へと入っていく。けれどもその過程で大事なのは、子どもっぽい純真さを捨てることではない。それを大切に守りながら、大人の女性になっていくことだ。戦士のコスチュームが奇妙に大人びたセーラー服なのは、そういう意味だ。モデルのドレスと見比べて自分のセーラー服姿にため息をついていたうさぎは、セーラームーンの姿に変身したときには「なんかこれって、凄くない」とつぶやき、嬉しそうに微笑む。

5. それは沢井美優から始まった(推定)


 前回の日記にも書いたように、アニメ版の第1回のタイトルは「泣き虫うさぎの華麗なる変身」となっている。「泣き虫」というのがキーワードで、原作もアニメも、冒頭は次のようなモノローグから始まる。

(原 作)「あたし、月野うさぎ、14才、中2。自分でも思うケド、ちょっと泣き虫」
(アニメ)「あたし、月野うさぎ、14才、中2。性格は、ちょっとおっちょこちょいで、泣き虫かな」

 そしてセーラームーンとなってからの攻撃属性にも、このキャラクターが反映されている。セーラームーンの髪の、左右のおだんごについているピンクの円いパレッタは、音波を増幅する装置である。原作およびアニメでは、夜、自分の部屋に入ってきたルナに言われるままに「ムーン・プリズムパワー・メイク・アップ」と口にしたうさぎは、いきなりセーラームーンに変身して、呆然とする。とそこに、ママの姿をした妖魔に襲われたなるちゃんの、助けを呼ぶ声が聞こえてくるのだ。おだんごについたパレッタが、普通ならば聞こえない、遙か遠くのなるの叫びをキャッチしたのである。そこでルナと共に救出に向かうセーラームーンだが、まだ戦い方も分からず、逆に妖魔に攻撃されて、泣き虫のうさぎちゃんらしく、えんえん泣き出してしまう。しかしその泣き声を、パレッタが超音波の振動に変えて、それが妖魔への反撃の武器となるのである。きっかけをつかんだセーラームーンは、ルナの指示どおり、ティアラを投げつけて、初勝利を収める。
 一方、実写版には「泣き虫うさぎ」という設定はいっさい出てこない。そればかりか、なるを助けに行くのだって、セーラームーンに変身して、特殊な能力でなるの危機をキャッチしたからなのではない。これは前に書いたことだが、実写版のうさぎは、うさぎのままで、なるの危機を察知して、単身、助けに乗り込もうとするのである「だって、だって、何かわかんないけど、なるちゃんが危ないって分かったんだもん。何でか分かんないけど」
 ルナもまた、原作やアニメとは違っている。実写版のルナは、話を聞いても「夢だ夢」と信じようとしないうさぎに、一度は失望する「あたしだって、本当はあなたみたいに普通すぎる女の子が戦士だなんて信じられないわよ。でも、額の三日月は、あなただって言ってる」。しかし翌日、自らなるを助けに来たうさぎを見て、「あなたが戦士である理由が、ちょっと分かった気がする」と納得するのだ。だから実写版のルナは、原作やアニメのように、いちいち変身の合い言葉を教えたり、攻撃の方法を指図したりはしない。ただ「うさぎちゃん、今よ」と変身をうながし、「大丈夫、落ち着いて。戦い方は分かっているはずよ、あなたは選ばれた戦士なんだから」とアドバイスするだけなのだ。そしてセーラームーンは自らの力で妖魔を倒す。
 弱虫で泣き虫だったうさぎが、ルナの導きで戦士の使命を与えられる、という原作およびアニメ第1話の設定は、実写版ではこのように、自立した少女が、自ら旅立ちの一歩を踏み出す物語に書きかえられた。これはスタッフおよび脚本家の当初からの案だったのでしょうか。実際どうであったかはもちろん分からないけれど、私としては、沢井美優がうさぎ役に選ばれ、衣装あわせで凛としたセーラームーン姿を披露したとき、小林靖子はじめスタッフの念頭から「泣き虫うさぎ」という原作の設定が自然と消滅していったのではないかと、そのように思いたい。


 今回でAct.1レビューを終える予定だったのですが、あとルナCGのシーンを数えるとか、そういうデータ的な作業がまだ残っているので、次回はAct.1の資料編でもやろうかなと思います。