実写版『美少女戦士セーラームーン』ファンブログ


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【第28回】ハードボイルドジュピター、本格始動!の巻(Act.18)


 ここんとこ更新ペースが早いのだが、理由がある。勝手な話ですみませんが、来週・再来週と、この日記は2週間の夏休みをいただきます。来週、私は地場衛のように単身ロンドンに行くのだ。これは仕事だ。海外出張である。『3週間完成 英語ヒアリング集中レッスン』というCDブックを買ってipodにも入れたが、通勤中はセーラームーンばかり聴いていて、結局聞かずじまいだ。とほほ。どうかプレゼンテーションでガイジンの方々が誰も何も質問しませんよーに。
 それから本当の休みをもらって実家に帰省して、さらに、これは我が家の恒例行事なのだが、このあいだD.Sさんとぽんたさんが会われたという千葉県は舞浜「世界一有名なネズミ」や「世界一有名なクマ」がいるテーマパーク内の「ホテルミ●コスタ」で2泊3日。渾身の家族サービスである。まあなんだかんだと行ったり来たりで、それでこの日記は2週間の休みってことなんです。その間2回にわたって再放送も観られないんですが、ロンドンやTDLまでDVDを持参して(本当か?)再び名古屋に落ち着いたらその分のレビューを書きますのでどうかご容赦を。
 不在のおわびに、日曜日の早朝もしくは午前中あたりにもう一回「留守中の期間限定特別企画」をお送りします。これは石肉さんの書き込みをヒントに思いついたものなので、石肉さんぜひ、8月6日昼までに更新される次の日記を見てやって下さい。
 というわけで、昨日と今日は、イギリス行きの準備のために休みをもらった私だが、そういうことは一向にはかどらず、Act.18の視聴レポートを書いているのである。バカだなあ。私が地場衛だったら、妻は陽菜となって私が何もしなくても荷造りなどしてくれるのだろうが、すごく怒っていて何もしてくれない。私は仕事に行くのであって、一人で海外旅行を楽しむわけではないのだが。それとも私と離ればなれになるのがつらくてあたっているのかな。まあそういうことにしておこう。そうでも思わないとやってられないよ。

1. コーワ、復活


 8月3日午前3時10分。Act.18再放送。いや疑って済まなかったコーワ。鈴木亜久里の出る『バンテリンコーワ エアロゲル』のCMありました。コーワは1週間休んだだけだったのか。それから『金ちゃんラーメン』も、AパートとBパートの間、BパートとCパートの間と、2回にもわたってCMを入れてくれた。うれしい。あと『アートネイチャー』と釈由美子の『東建ナスステンレス』。なんかけっこう普通の番組っぽくなってきたぞ。ただ9月公開の映画『ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟』の予告CMがやたらと繰り返されるのが、やっぱり「この時間にこんなの観てる人はこういうのがお好きなんでしょ」という声が聞こえるみたいで、ちょっとヤな気がしないでもないが、実際こっちはお好きなんだから仕方がない。
 一方、先週では番組終了後いきなり大写しになったピン子が、今度は本編の合間のCMに入ってきた。やっぱりCBCは私に試練を与えているのだと思う。今回は「四朗・ピン子の夫婦相談」って番組の宣伝だ。ぜんぜん知らない。ゲストは橋田壽賀子だ、なんて、そんなこと知りたくないよ。
 まあいいや、本編です。

2. ケンコー演出の「距離感」


 前回の長〜いアヴァン・タイトルとは打ってかわって、今回はマーズとヴィーナスの対立からさっさと主題歌に入る。演出は前回に続き佐藤健光監督。
 そういえば前回Act.17の冒頭について、大事なことを言うのを忘れていた。手作りクッキーを渡そうと衛のマンションを訪れたうさぎが、親しげに腕を組む衛と陽菜を目撃して茫然と立ちつくす、というシーンが、鈴村監督が担当したAct.16の最後と佐藤健光監督のAct.17冒頭に繰り返される。陽菜がいる手前、衛はうさぎに声をかけることもせず、そのまま去って行く。Act.16では、すたすた歩き去って小さくなっていく衛と陽菜を見送ってから、うさぎが反対方向に歩き出すのだが、Act.17では、去りかかったところで衛と陽菜がいったんうさぎを振り返る、そこでうさぎが背を向ける、という違う演出になっている。
 両者を較べると、Act.16ではうさぎと衛と陽菜の髪、それから街路樹の木立、すべてがひっきりなしに吹く風になぶられ、なびいている。一方Act.17の冒頭シーンはまったくの無風状態。だからロケ日は違うのだと思う。Act.17では、その後、陽菜が衛のバイクの後ろに乗って、タンデムの二人がうさぎの前を通り過ぎていく、というカットがある。衛が自分用以外のヘルメットをもうひとつもっていた理由が、ようやく分かる。元基を乗せるためではなかったのだ(当たり前だ)。この場面を撮るために、もう一度Act.16のラストシーンと同じ場所でロケして、そのとき佐藤監督は、うさぎが陽菜を目撃するシーンから改めて撮り直した、ということなのだろう。前の回のラストと次の回の冒頭が重なっていても、同じ映像を使い回ししないで撮り直す場合もあるということが、確か東映公式かどこかに書いてあったような記憶もある。
 ロケ日の風が強かったという悪条件を逆利用して、木枯らしに乱れるうさぎの長い髪に、彼女の心の動揺を重ねたAct.16ラストの鈴村演出も悪くないが、どちらか一方と言われれば、私はAct.17の佐藤演出を採る。途中で立ち止まって振り返る衛と陽菜、そして背を向けるうさぎ、このときの両者の距離感とひとつひとつの動きによって、うさぎの淋しさをくっきりとあらわしています。余談ですがやっぱり石肉さんはそういう印象的なショットをしっかり押さえておられます(ここ)。
 なぜ改めてこのシーンに触れたかというと、こういう空間的な演出力、もう少しはっきり言うと「距離と動き」で人物の心理的関係を表現する能力に、佐藤監督は長けているのだなということを、今回になってようやく実感したからである。前回はどうしても後半が、マーズとヴィーナスの力一杯のセリフのぶつけ合い、しかもジェダイト登場、さらに舞台は、ちょっとでも油断するとただの体育館に見えてしまう教会、というシビアな条件だったこともあって「これは高校の演劇部の練習じゃないぞ」と自分に言い聞かせるのに夢中でその辺まで気づかなかったのです。
 ダークキングダムのシーンなんか、そういう佐藤監督の長所がよく出ていますね。復活ジェダイト&ネフライトとクンツァイト、そしてクイン・ベリルの位置関係、そしてそれぞれの振る舞いが、各キャラクターの思惑が錯綜する様子を的確に表現している。だから、カメラワークは回り込みやズームを多用してけっこう動くのに、画面は非常に安定感がある。

3. 小松彩夏バスツァー記念、Act.17リローデッド


 Act.17の、教会でレイと美奈子が捨て犬を介抱しながら会話するシーンもそうだ。この回は小松彩夏学校の道中バスで上映されたという話なので、記念にもう一度あのシーンを、今度はレイの立ち位置と動きに重点を置いて振り返ってみたい。参加されたみなさんはカレーやピンポンのことなんかも想い出しながら読んで下さい(そんなことできるか?)。
 最初レイは、画面から見て美奈子の左側に腰を降ろして、一緒に犬の背を撫でている。次に「公園で焼き芋を食べるうさぎと鳩にポップコーンをやるまこと」のシーンを挟んでまた教会に戻ると、こんどはレイは美奈子の右側、そこで立ち上がって、マガジンラックにある雑誌を取り上げ、美奈子の写っている表紙を示し、画面右から左に回り込んで、ちょっと親しげなそぶりでまた美奈子の右側に腰を降ろす。で「クラウンで歌ううさぎ」のシーンが入って、三たび教会に戻ると、今度は画面左手から、窓の外を眺めるように何歩か歩いたレイが、美奈子の左側、やや後ろにしゃがみこんで、孤独で寂しげな美奈子を背後から見つめる。そして犬のお腹がグーと鳴って、美奈子がのど飴を出す、という展開である。
 ぐったりした犬を離れず、ずっと背をなで続けている美奈子を固定しておいて、それに対するレイの立ち位置と動きに細かく変化をつけることで、微妙に近づいたり離れたりする二人の心理がよく描かれているのだ。北川景子が動物アレルギーで、長時間犬に寄り添い続けることができなかった、という現実的な理由もあったとは聞いているが、それをこういうかたちで活かしたのは演出家の技量である。演出サイドのサポートがあってこそ、北川景子と小松彩夏の名演技も可能になったのだ。
 逆にAct.18の「ドッグフードの戦い」では、二人の位置関係は変わらず、距離は伸びも縮みもしない。もうそういう柔らかな関係ではなくて、一触即発、ピンと張りつめて、それ以上近づけばゆるむし、離れれば切れるという感じなのである。

4. 裏の名場面


 なんかもうあと1センチずれると「違う」というくらいの緻密さで、人物の空間的な距離が、キャラクターの心理的な距離感をぴたりと表現する。だから動きがそのまま心理描写と連動する。そういう手法が一番はまるのが、木野まことというキャラクター、あるいは安座間美優という女優だと思う。だから前回のうさぎ・まこと・亜美のパートでも、まことが最も印象的だったのだ。そして今回Act.18もやはりまことの回だ。
 Act.18の表の主役が美奈子であり、美奈子を加えた戦士全員の揃い踏み&決めポーズが「表の最大の見所」であるとすれば、裏の主役はまこと=ジュピターで、主題歌終了後のAパート冒頭が「裏の最大の見所」だと私は思うのである。というわけで少々長くなるが、そのAct.18、Aパート冒頭を再現してみたい。

 十番中学校
 先生「月野さん、これじゃマフラーじゃなくてハンカチよ」
うさぎ「はぃ…」
 とぼとぼ席に戻るうさぎに、なるが心配そうに声をかける。
 なる「どうしたの。地場君にあげるんでしょ」
うさぎ「ううん、それはない。あの人、彼女いるし」
 なる「うそ、そうなの!」
うさぎ、心の中で(やだ、もう)
 場面変わってクラウン。しょんぼり椅子に座るうさぎと、それを見守る亜美とまこと。
 亜美「そっか、うさぎちゃん、あの人のことを……それで編めなかったんだ」
うさぎ「この毛糸買ったときさ、本当は心のなかで、タキシード仮面じゃなくて、地場衛に合わせてたんだよね。だから、編もうとするとどうしても気になって、編めなくて……」
まこと「まったく、意外すぎだよ。嫌ってると思ってた」
うさぎ「私だってそう思ってたの。でも、気がついたら……」
まこと「気がついたら、彼女がいたわけか……で、あきらめんの?」
うさぎ「え?」
まこと「地場衛のこと、あきらめるわけ?」
うさぎ「だって、彼女、すごい可愛いし、優しそうだし……」
まこと「そんなの関係ない。タキシード仮面好きになるより、よっぽどいいよ。彼女だって、どの程度つき合っているか分からないんだし。よし、じゃあ私が情報集めてあげる」
うさぎ「そんな、いいよ私……」
まこと「うさぎ。こういうことは、やれるとこまでやっとかないと、後悔するよ」

 いや素晴らしいなあ。前々回でも述べたとおり、陽菜の登場をきっかけに、うさぎの恋を見守る役目は、なるからまことにバトンタッチされたわけだが、その意味がここに鮮やかに示されている。
 親友が恋の悩みでものすごくへこんでいるとき(A)「積極的にかかわり、話相手になる」のと(B)「離れたところからそっと見守る」のとでは、どっちがいいか?家庭科の授業のシーンで佐藤監督は「画面の手前でうさぎに話しかけるなる」と「その二人の会話をかなり後方から見つめる亜美」という構図の対照によって、視聴者にそう問いかける。
 うさぎに寄り添っているなるの方が、一歩引いた位置から控え目に見守る亜美よりも、親友の態度としてはより「正しい」ようにも見える。けれどもなるが、マフラーをぜんぜん編めていないうさぎに「どうしたの。地場君にあげるんでしょ」と尋ねたせいで、うさぎはうっかり「あの人、彼女いるし」と答えて、心のなかではそう言ってしまった自分に対して(やだ、もう)と叫んでいる。なるは親身になり過ぎて、まだ生々しいうさぎの心の傷口に触れてしまい、なぐさめるつもりがかえって苦しめている。なかなかむずかしいもんです。
 直後に場面はクラウンに切り替わり「そっか、うさぎちゃん、あの人のことを……」という亜美のセリフがかぶる。もちろん亜美だって、なるに負けないくらいうさぎのことが心配なんですね。でもすごくデリケートな問題なので、学校のような場所であえて問いかけはしなかった。
 そういう距離を置いた視線に見守られ、うさぎもようやく少し落ち着いて、客観的にいまの自分の心境を語り出す。かといって、じゃあどうしたらいいか、それは亜美には分からない。
 というわけでまことの出番だ。

5. これが私の生きる道


 この場面の構図は、画面の左手前で、編みかけのマフラーを手にしょんぼり座っているうさぎ、その奥で心配そうに、でも為すすべもなく突っ立っている亜美、そしてその亜美の隣でスツールに腰をかけているまこと、という感じである。このまことのポーズが肝心だ。
 カウンターにもたれるように座っているので、まことの頭は亜美と同じ高さにある。これが最初から立っていると、長身のまことの方が亜美より目立つから、なると同様、初めから亜美よりもうさぎに近いところで話を聞いている印象を与えてしまう。そうすると結局まことは、これまでうさぎの恋の相談役だったなるの代役に過ぎない。
 でも実際には腰かけていることで、最初はまことも、亜美と同じ距離感でうさぎを見守っていることが分かる。そうやって、うさぎが自分の心を整理して、衛への想いを素直に語り出せるようになるまで待っている。しかし亜美のようにただ突っ立っているわけでもない。軽く腰かけているということは、つまりいつでもすくっと立ち上がれる、次のアクションに移れるという意味だ。実際、うさぎの告白を聴き終わった時点で「で、あきらめんの?地場衛のこと、あきらめるわけ?」と言いながらまことは立ちあがって、うさぎに近寄る。
 初めからうさぎの気持ちに飛び込んでその感情に同調してしまうなるとも違う。心配そうに見つめるだけで、それ以上距離を詰められない亜美とも違う。うさぎの独白を淡々と聞きながら、いざとなったら立ち上がる。立ち上がると言ったって、カツンと紅いハイヒールを鳴らして、自己啓発セミナーの講師のように亜美に説教したもう一人の戦士とも違う。「タキシード仮面好きになるより、よっぽどいいよ」と、まずはうさぎの気持ちを全面的に肯定したうえで「よし、じゃあ私が情報集めてあげる」と、あくまで行動によってサポートする。演出もこのセリフまでは、受けるうさぎの顔をゆるやかなズームでとらえるだけで、まことの表情なんか映さない。ごちゃごちゃした感情表現は要らない。気持ちは行動で示すのだ。ハードボイルド・ジュピターの真骨頂である。
 もちろんクールなばかりじゃない。「こういうのは、やれることはやっとかないと、後悔するよ」と言うセリフで、ようやくカメラは切り返してうさぎに語りかけるまことの顔をとらえる。その表情には、いまこそ私がこの子に恩返しをするときだ、という熱い熱い男気(?)があふれている。
 転校したばかりのとき、片思いの先輩によく似たバスケ少年とデートできると思って、まんまとだまされて笑い者にされたけど、でも「ガラじゃないっつーの」なんていじけたあたしの手を握って、この子は一生懸命「まこちゃん女の子だよ」って励ましてくれた。だからあたしは、もうあのことを後悔してはいない。恋をしたら、やれるとこまでやるってことが大事だと改めて教えてくれたのはこの子なんだ。今度はあたしがお礼をする番だ。確かにあの二人は恋人っぽく見えたけど、中途半端にあきらめて一生後悔するなんてことは、絶対させない。あたしはできるだけのことをするよ。
 で「やれることはやっとかないと、後悔するよ」と言うが早いか、まことはもう動き始めている。でも次のショットはうさぎのアップで、カメラはうさぎの視線の動きでまことがクラウンを飛び出していったことを示している。出てゆくまことがどんな顔をしているか、それは画面に映らない。その行動が気持ちなのだから、いちいち表情まで追わなくてもいい。繰り返すがこれがハードボイルド・ジュピターなのである。
 けれども残念ながら、元基に聞き込み調査したところでは、やっぱり陽菜はみんなが認める衛の恋人だった。というか婚約者だ。とはいえ、後先考えず行動して、結果「参ったなあ」となるのは、いかにもまことらしい。そしてこの後も、まことはうさぎの恋を、あくまで行動によってサポートし続ける。森林公園でひかりちゃんと大地くんのデートにつき合ううさぎと衛を探偵のように尾行し、地場衛がタキシード仮面であることを知ったまことは、二つの顔で結果的にうさぎを苦しめた彼を思いきりぶん殴る。と同時に、初めはうさぎの恋をバックアップするための、まあ手段として接近しただけの元基との関係が、本人も予想していなかった方向に展開する。
 というように、戦士たちのなかでこれまで最もドラマ性の薄かった木野まことが、ようやく存在感を増してゆく、その最初のきっかけとなったのが、このAct.18のシーンだと思うのだ。ケンコー監督の的確な演出サポートで、ハードボイルド・ジュピターの物語が始動したのである。以上のような理由から、名古屋支部ではこの場面を、今回のエピソードの「裏の最大の見所」と認定しますので、ひとつよろしく。

6. うさぎのシゾフレニー


 というように、ケンコー演出はまことのキャラクターにハマっていて、まことは前回に続いて今回もなかなか光っている。駆けつけた教会で、手をつないで倒れている衛と陽菜を見て動揺するセーラームーン。とっさに攻撃の遅れる彼女をかばい、まず先兵としてフラワーハリケーンを出すジュピター。四人のうち唯一、Act.12でヴィーナスを目撃していなくて、今回はじめてプリンセス=ヴィーナスを目の当たりにする、そのときの瑞々しい驚きの表情、などなど、とにかくまこと=ジュピターが印象的なのである。前にご指摘いただいたので注意して見てみると、カツラも確かに改良されていますね。
 一方、うさぎの物語も、今回がけっこう大きな転機となる。ポイントはふたつ。ひとつはやはり教会(体育館)のバトルシーンで、逃げるプリンセス、それを追う妖魔とマーズが礼拝堂へ去った後の、セーラームーン・マーキュリー・ジュピターVSネフライト&ジェダイト戦である。
 マーキュリーとジュピターは、すでにAct.9でネフライト戦を経験ずみで、息もぴったり合っている。あの時は挟み撃ち攻撃でネフライトのバリアを破れなかったので、今回は一方から同時に集中攻撃を加えよう。攻撃する場所は胸だ、なんて口に出さずとも、あうんの呼吸で互いに了解しあえている。ところが、セーラームーンだけは大ボケ。かけ声とともに、マーキュリーとジュピターの二人とはぜんぜん別の箇所(頭)を狙ってムーントワイライトを放ってしまい「あれ」となる。アニメと違って戦闘シーンでのギャグが少なめな実写版としては、珍しいコメディ調である。戦士セーラームーンというキャラクターのなかに、いつものおっちょこちょいの「月野うさぎ」が紛れ込んでいる。
 第2のポイントは最後の編み物のシーン。地場衛には恋人がいることを知りながら、うさぎはそれでも彼のためにマフラーを編もうと思う。そんな彼女をはげますのは「人を好きになるって、いいことなんだよね」というセーラームーンの声だ。
 ネフライト&ジェダイトが「まあいい、エナジーは集めた」と撤退した後、セーラームーンは、祭壇(というか…)のかたわらに手をつないで倒れている衛と陽菜を見て「人を好きになるって、いいことなんだよね」とつぶやき、ごく自然にヒーリングの力を発揮する。驚くマーキュリーとジュピター。その後、礼拝堂で倒れていた人たちも全員目ざめたのだから、これは相当セーラームーンの力が覚醒したということである。なにしろダークキングダムが吸い取ったエナジーを奪い返すのではなく、ヒーリングでみんなが失ったエナジーを再補填してやったのだから。
 で、その「人を好きになるって、いいことなんだよね」という言葉に背中を押されて、うさぎは自分の気持ちに正直に、衛のためにマフラーを編もうという気持ちになる。セーラームーンに月野うさぎが励まされるのだ。
 つまりですね、セーラームーンのバトルシーンにひょっこり「月野うさぎ」のキャラクターが顔を出す。一方、月野うさぎは「セーラームーン」の言葉に励まされてマフラーを編む、というふうに、二つの人格が互いに干渉し合い、同時に統合されつつあるのだ。
 うさぎはこれまで「月野うさぎ」と「セーラームーン」の二人三脚を、けっこう楽しみながらやってきた。そのバランス役をはたしたのは、たぶん衛だ。月野うさぎは地場衛をむかつく奴だと思い、セーラームーンはタキシード仮面にあこがれていたのだけれど、それは正反対に見えても「ほんとうの恋愛以前」の、気になる異性に対する態度としては、だいたい同じ意味をもつ。だから一方に地場衛、もう一方にタキシード仮面をおいたヤジロベエのような状態で、うさぎの精神的な均衡は保たれていたのだと思う。
 ところがそのバランスが次第に崩れてくる。地場衛が、うさぎにとって次第にリアルな恋愛の対象になってしまうのだ。そしてうさぎは、初めて恋の悩ましさとか、羞恥とか嫉妬とか、そういう今まで経験しなかった生々しい感情を知り、同時にタキシード仮面の存在がどんどん小さくなっていく。無邪気な少女から恋を知った女の子へと変化して、初めて月野うさぎであることとセーラームーンであることとの両立を、むずかしいと感じるのである。うさぎとして真剣に恋に悩んでいるときに、変身して戦うなんてできっこないよ、というのが前回までのお話。
 今回はそのバランス立て直しの話である。片思いの相手が恋人と手をつないで倒れているのを見て、うさぎは悩みながらも、それでもこの人が好きだ、好きだから守るために戦おう、と決意する。そしてその戦いを通して、失恋でぐちゃぐちゃしていたうさぎのなかに、片思いでもいいや、とにかくマフラーを編もう、という前向きな気持ちが芽生える。恋する女の子の気持ちが、戦士として戦う動機となり、戦士の強さが、恋する少女のくじけそうな心を支える、というかたちで、ひとまずうさぎとセーラームーンという人格が統合される。
 これからのうさぎの物語は、そうやってうさぎとセーラームーンというキャラクターを統合できたかと思うと、プリンセスという別人格があらわれる、そしてプリンセス=セーラームーン=うさぎのバランスがとれたかなと思うころには、プリンセスの破壊的なもうひとつの姿、プリンセス・ムーンが覚醒する、といった具合に、なんだか多重人格というか、人格分裂を起こす自分との闘い、という側面が強くなっていく。その端緒となっている、という意味でも「恋するうさぎと戦士セーラームーンの人格統一」というテーマをもつ今回のエピソードは重要だと思うのである。


 というわけで、やっぱり書き過ぎてしまった。このくらいにしておきます。本当は亜美の問題があるのだけれど、それは要するに、Act.21のダーキュリー誕生にいたる伏線として、今回もう少し亜美の心理を掘り下げておかなければならなかったはずだ、舞原監督ならばそうしたろうけどね、ということですので、以降Act.19とAct.20と観ながら改めて考えることにしたいと思います。
 まあしかし今回も教会=体育館をはじめ、ただのコンクリの壁にしか見えない町の掲示板、そしてそこから教会へ駆けつけるときに、レイはどうして自転車に乗ってこなかったのか、などなど、色々と目をつぶらなければならない点は多かった。つっこみどころ満載という点でも見応えのあるエピソードという気はします。


 なおルナとアルテミス、ぜんぜんCGなし。ルナにいたってはレイの自転車に引っかかっていただけで、動いてすらいなかったように思える。


(放送データ「Act.18」2004年2月7日初放送 脚本:小林靖子/監督:佐藤健光/撮影:上赤寿一)