実写版『美少女戦士セーラームーン』ファンブログ


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【第210回】DVD第2巻:Act. 6の巻(番外編)


……パンドラの箱を開けてしまったかな、私。

1. 何はともあれお詫びと訂正


どこから手をつけるか。ともかく、例の勘違いの件からにしよう。
コメント欄まで丁寧に読んでくださっているヒマなありがたい皆様はすでに了解済みと思うが、イマジナリー・ラインに関する記述の誤りについて、まずはまとめておく。Act.5のクラウン「私はおかしいと思っていた」(レイ)のシーンである。


このシーン、私は、うさぎの顔を撮っているカメラがこっち側だとすると、レイは視線をまたいだ向こう側からのショットで、ふつうだと視線が会わないものだから、首を曲げて見ているのだ、と思った。すると黒猫亭さんから、すぐに誤りを指摘するコメントがついた。この段階ですぐに「なるほど」と分かりそうなものなのだが、ぱっと見ても、どうも呑み込めなかったんだよ、本当に。理由としては、(1)うさぎの背後にカラオケステージ、レイの背後に入り口の階段の手すりが見えるので、そんな感じがした、(2)舞原賢三のカメラワークがややこしい、(3)私はものすごい方向オンチだ(学生時代は下宿を引っ越すと数日は帰れなかった)というような諸般の事情があると思う。それで「そうですか、どうかなあ」なんて日和っていたら、黒猫亭さんが再度くわしく説明してくれた上に、階段の位置なども含めた図まで描いてくれた。

これでよ〜く分かりますね。なるほどレイを撮っているカメラはこのポジションか。だいいち、もしカメラ位置が、私の図の通りだとすると、左方向に首を曲げているレイは、うさぎではなく、鏡やキャビネットの方を見つめていることになってしまうのである。

あ、でもそれっていいかも。つまりここでレイは首を曲げて、写真がペタペタ貼ってある壁を見ているのだ。ていうか、壁に貼ってある三人の写真を見つめてセリフを言っているのだ。それからおもむろにうさぎの方を向いたのだ。
Act.5は、この写真をめぐる物語である。亜美は枕元にこの写真を置いているし、うさぎはこのクラウンのシーンの最初のカットで、曲がった壁の写真を直している。でもレイがこの写真を見つめる場面がない。と思ったら、実はここで、レイはひっそり写真を見つめていたのだ。なんてね。う〜ん。直前に、レイとうさぎが向き合っているショットがなければ、そういうふうに強弁できるんだが。残念である。
冗談はさておき、強がりついでに言わせていただけば、私も、勘違いはしていたけど、このクラウンのシーンがイマジナリー・ラインの法則を説明するのに適切な素材だと思っていたわけではない。でも「舞原監督の奇妙なカメラワーク」ってテーマを考える上では、欠かせない場面のひとつなのだ。要するに私は「舞原賢三のカメラワークって、結局のところ何が狙いで、どうしてああいう不思議な画面になるのか」という謎が解明したかったんだ。でも、そのアプローチの仕方がわからなかったので、ひとまず「イマジナリー・ライン(想定線)の無視」というわかりやすい構図上の特徴を押さえてみようとしたんだよね(言い訳)。

2. 田崎ショット



たとえば以前「田崎竜太監督の担当するエピソードにクラウンが出てくるとき、最初のカットは必ず、入り口から階段を降りた部屋の中をそっとのぞくようなアングルになっている」という話をした(Act.2, Act.7, Act.8)。
田崎監督の作品には、こういう、名刺代わりに使えそうなぐらいハッキリした構図上の特徴がいくつかあるような気がする。
『仮面ライダーキバ』の第33話(2008年9月21日放送)で、ワタル(瀬戸康史)とミオ(芳賀優里亜)はお互いに魅かれあっているんだけど、芳賀優里亜にはタイガ(山本匠馬)という婚約者がいて、これがまたワタルの知り合いで、ワタルはタイガを兄のように慕っていて、しかも実際に兄だったりとか、もうなんだか子供向け特撮番組らしからぬ三角関係の展開がある。瀬戸康史は芳賀優里亜の肩を抱くが、ぐちゃぐちゃの人間関係に出口は見つからず、やるせなく、切ない。

この回の直前に、スーパー戦隊の方で逢沢りな・杉本有美・及川奈央の「G3プリンセス」が結成されて、私はそっちに魅かれていたし、そもそもキバを観るのも投げやりになっちゃっていたので、監督のクレジットにもあまり注意していなかったんだが、このシーンを観て「ああ田崎監督なんだ」と分かった。人間関係の閉塞状況や停滞感、そこから来るメランコリックな空気を、構図上におおきく空白をとって表現する、という手法は、たとえばAct.8で、パパとの関係がイキドマリフラッシュ状態になっているレイを描くときにも用いられている(M14さんのお気に入りカットのひとつ)。
というわけで、田崎竜太は、構図とか、あるいはカットのつながりによって個性を発揮するタイプの監督さんだと思う。しかもかなり論理的に画面を組み立てている。だからビデオからキャプチャした画像を何枚か並べて分析する、というやり方で、その特徴をけっこう効率よく説明できる。ところがしかし、舞原監督になると、これがものすごく難しいのである。

3. DEN-O meets PGSM


たとえば、前回のコメント欄で黒猫亭さんが指摘されていた『仮面ライダー電王』第19話(2007年6月3日)。この回と次の第20話は、2号ライダーの「仮面ライダーゼロノス」こと桜井悠斗(中村優一)とデネブ(声:大塚芳忠/中の人:伊藤慎)の「顔見せエピソード」である。そういうシリーズ的に重要な回の演出者として、あの白倉・小林コンビが、満を持して舞原賢三を監督に起用したというだけでも胸おどる話なのに、また舞原監督が、第19話のアバン・タイトルから、実写版セーラームーンAct.6のアバンをホウフツとさせる演出で期待に応えてみせたのだから、こっちは狂喜乱舞である。その大変さを、できれば『黒猫亭日常』2007年6月13日づけの途方もない長さのエントリから感じ取って欲しい(ここ)。初めの方は実写版セーラームーンと舞原監督の総括になっているので、電王に興味がなくても、私のブログまで読んでるような重症の実写版ファンなら楽しめるはずだ。
でも、たとえば黒猫亭さんが、上のエントリの中や、前回の私のブログのコメント欄で指摘していた「ミルクディッパーのシーン」の摩訶不思議なカメラワークは、観ていない人に文章だけで伝えることが難しいし、キャプチャ画像で説明しようと思っても、けっこう手間がかかるのだ。
この第2号ライダーの桜井悠斗(中村優一)は、過去の世界から、ある使命を帯びて現代にやって来た。で、彼が入っていった喫茶店ミルクディッパーを一人で切り盛りする野上愛理(松本若菜)は、悠斗の未来の婚約者である。つまり十代の少年が、タイムトラベルで自分の未来の花嫁に会いに来る。で、それがまたとってもキレイなお姉さんなんだけど、ある事故が原因で、フィアンセの彼に関する記憶はすべて喪失している、という複雑な設定なんだが、あの、私の言っていること理解できますかね。
要するに、のび太がタイムマシンで未来に飛んで、自分と結婚する前夜のしずかちゃんを見に来た。ところが歴史に改変が加えられていて、しずかちゃんはのび太の記憶を失って喫茶店を経営している。そして店には、大人になったスネ夫やジャイアンが、しずかちゃんを狙って入り浸っている。だいたいそんな感じである。違うか。
ともかく、ミルクディッパーは愛理ねらいの男性常連客で経営は順調である。悠斗が来たときも、常連客の三浦イッセーと尾崎正義が、愛理の気を惹こうと夢中だ。
が、この三浦イッセー(上野亮)をなめてはいけない。首からたくさん数珠を下げて、占いとかカウンセラーとかをやる、半端な宗教というかスピリチュアルの人だが、『Dear Friends』では自分の彼女のアパートで別な女と浮気している。そこへ彼女が踏み込んできても開き直るし、しかもその浮気相手が北川景子だというのだからすごい。

このシーン、私が監督なら、あと10㎝シーツを下げる必然性について北川君とディスカッションするし、結局はリアリズムの問題ということで北川君も「監督、わかりました」と言ってくれたと思う。両沢監督にもう少しがんばって欲しかったところだが、それはともかく、未来の婚約者にそういうナンパ野郎がまとわりついていて、しかも天然ボケの愛理は、下心まるだしの男にも優しく接しているのだから、悠斗としては気に入らない。

ちょっとイラっとしている悠斗が、ふと反対方向を見上げれば、この店のシンボルである天体望遠鏡。これは、愛理と悠斗の思い出の品なのだが、愛理にとっては失ってしまった過去の記憶に属し、過去から来た悠斗にとっては「これから」思い出の品になるべきアイテムだ。

複雑な思いを胸に、そのまま憮然として、再びカウンターの方を見やる悠斗、尾崎正義は相変わらず愛理さんを口説き続ける。

足元を見おろせば、他のあまたの男性客が置いていったらしい花束とプレゼントがフロアにまとめられている。

そして「忘れ物」の札が。つまり愛理は、男性客たちが他ならぬ彼女への思いを託して置いていったプレゼントや花束を、お客さんの「忘れ物」と勘違いしているような「天然ボケ」なのである。

「ったくよ」と内心つぶやく悠斗だが、ある意味、愛理が幸せそうなのはいいことかもな、という思いがチラリとよぎる。

すると不意に背後から手が伸びてコーヒーを置く。振り返る悠斗。そこに愛理が。
以下、悠斗と愛理の会話が続くが、この辺で措いときます。とにかくカメラ位置があっちへこっちへ切り替わって、一度としておなじカメラポジションからのカットは繰り返されない。カメラ自身は動き続けているが、カットからカットへは悠斗の視線を媒介してつながっているから、連続性は保証されている。実に妙なところに手間ヒマかけるもんだが、でもそのおかげで悠斗の「どれも初めて見るものばかり」「でも未来の自分にとっては、思い出の詰まった懐かしい光景なのだ」という奇妙なとまどいと好奇心に揺れる心象が、繊細に表現されてる。
でもそれを説明しようと思うと、こんなふうに、けっこう画像の枚数を費やさざるを得ない。このあたりに「構図やカッティングで見せる田崎監督」と「カメラそれ自身の動きで見せる舞原監督」の違いというものは、ハッキリと現れている。
しかし、まだこのシーンなんか説明しやすい方なのだ。

4. ツンデレな彼氏彼女の事情


この『電王』第19話のアバン・タイトルは、実写版セーラームーンAct.6のアバンからAパートにかけての展開を連想させずにはおかない。謎のキャラクター、桜井悠斗が登場すると、あたりの樹々が風に吹かれてざわめき出す。悠斗が変身する仮面ライダーゼロノスの基本カラーはグリーン。これは「緑の戦士」が初登場する回なのだ。

続いて、実写版のアバンでは、まことが不良バスケ少年たちをひっくり返すが、電王では今をときめくタケル君がひっくりかえされてしまう。関係ない話だが、最近うちの近所のTSUTAYAでは、カブトと電王のDVDが、「キッズ」のコーナーから「イケメン俳優」のコーナーに移動されて、それはいけないと思うぞ。

さらに、クールでハードボイルドに思えた新キャラクターが、実は素顔はコミカルで、とぼけた一面も持っていることが、登場して間もなく、橋の上の一連のやりとりで、あっさり視聴者に明らかにされてしまう。

全くの想像だが、舞原監督は、久々に小林靖子作品に取り組むにあたって、台本を一読するなり「あ、このイントロの展開って、構造的にセーラームーンのAct.6にそっくりじゃん」とか思ったのではないだろうか。そこでいささかの遊び心を込めて、風に吹かれる木の映像など、両者のファンだけに分かる要素をちりばめながら、電王第19話のアバンを撮ったのだ。
両作品の冒頭部が相似したフォルムをもつことは、以上、静止画像をならべることで、多少は伝えられたかも知れない。でも実際には、電王第19話は、Act.6のリメイクじゃない(当たり前だけど)。基本的にはカメラ位置が固定されているAct.6に対して、電王第19話の冒頭では、手持ちカメラが何とも説明しがたいムーブメントを示すのだ。その浮遊感覚は、これはご覧いただかかない限り、言葉では説明できないし、静止画像でも紹介しきれない。
要するに私は、こういう舞原監督の映像手法が、どういう理念から生まれてくるものか、できればそれを分かりやすく図式化して、読んでくださるみなさんと理解を共有しながら、解明してみたい、というゼイタクなことを考えていたのだ。で、思いついたのが、前回の場合は「イマジナリー・ライン(想定線)の法則」という図式で整理してみたらどうか、ということだった。

5. 言っておくが結論はないよ


でも黒猫亭さんは、あの「ひこえもん劇場」(失はれた週末)の人だけあって、もうすでに、舞原監督が、なぜこういう不思議なカメラワークをするのかという点について、一定の考えをお持ちだった。本当は、最初に挙げた誤りの指摘より、こっちの方が私には重要な示唆だったんですけどね。
黒猫亭さんの指摘を私なり要約すると、舞原演出におけるカメラは、ドラマを観客(視聴者)に「見せる」ことよりも、むしろカメラ自らがドラマを「見る」ために機能している。特に「画面の奥行き方向のベクトル」を好む傾向があって、時には、構図や配置を分かりやすく示すという義務を捨てても、カメラはひとつの視線となって、物語の奥深くに入っていこうとする。そういう主観的な視線の運動性へのこだわりが、しばしばイマジナリー・ライン等々の「見せる」ためのルールを無視した、舞原監督独特のカメラワークを生む。だいたいそういう趣旨だと思う。

そう言われてみれば、その通りですね。たとえば前回取り上げたAct.6の、学校の屋上で亜美とまことが初めて対面するシーンで、カメラがイマジナリー・ライン(想定線)をまたいでいるのは、ここでは、亜美がまことを見つめる視線が主になっているからだ。亜美の正面からのショットは、この視線がどこからまことを見つめているのかを説明するために挿入されているのであって、双方が見つめ合っていることを示す意図は弱い。だから結果的に、イマジナリー・ラインの法則は考慮されていないのだ。さっきの、悠斗の視線を仲介してつないだミルクディッパーの描写もそうだ。

もちろん、移動するカメラが常に特定のキャラクターの視線と同化しているわけではない。たとえばAct.5のAパート冒頭、クラウンにぽつねんと座る亜美を、カメラはなぜか天井から捉えて、それからゆっくりと降りていく。誰かが見ているという描写ではないのに、カメラは明らかに、亜美を見つめながら近づいている。つまり非人称の視線である。
なるほどなあ、これは舞原監督の特徴を考える手がかりだなあ、と感心したものの、しかしどういうやり方で分析・考察していけば分かりやすく読みやすい記事になるか、まだ腹が定まらなくて(こんなブログだって、いちおう分かりやすさと読みやすさについては、努力しているのである。信じられない方もいらっしゃるだろうが)、あれこれ悩んでいるうちに一週間が過ぎてしまった。
う〜ん。というわけで、今回はそういう楽屋事情を羅列するだけにとどめておきます。
次回からはまたAct.6レビューを先へ進めながら。あらためて舞原演出へのアプローチ方法を考えてみたいと思います。今回はこれまで。


【今週のおまけ】
7月13日から始まった例の新ドラマだが、第1話放送翌日にさっそく北川ブログが記事をアップ。美奈子とマーズれい子のツーショット入りである。ところが記事のタイトルが「ビザー・ビート」に!

やっちまったな景子さん。そういうスキだらけなところも魅力だ。
もちろん、現在の北川ブログは訂正済みである。記念に貼っておく。