実写版『美少女戦士セーラームーン』ファンブログ


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【第282回】DVD第2巻:Act. 7の巻(その17)


「おばあちゃんが言っていた。おれが望みさえすれば、運命は絶えずおれに味方する」
(『仮面ライダーカブト』第1話)


その通りだよアンタは!ツッコミどころ満載の受賞おめでとう!何だか笑いが止まらないや、いろんな意味で。
落選した若い作家志望の諸君は、このくらいで腐るなよ。世の中なぁ、いろいろあるんだ。簡単に2,000万円は当たらないよ(「当たる」「当たらない」って感じだよね、どうも)。
この件に関しては『黒猫亭日乗』のこちらの記事の分析に尽きる。黒猫亭さんは事態の推移を「筋書きどおり」と見ている。私自身は、本当は「こっそり執筆して応募して、受賞してから本名を明かして俳優を休業」というオーソドックスなシナリオだったのに、彼が勝手に華々しく「執筆宣言」をしちゃった、というハプニングじゃないかって思って、そうコメントしてみたんだけど、改めて考えると、黒猫亭さんのおっしゃる方が「らしい」かもね。まあどっちでもいいよなあそれは(笑)。
それから、同じ黒猫亭さんの9月のエントリー(これ)が、今となっては暗黙裏にこの事態を予測していたみたいに読めて面白いです。

1. ルナルナ


  
さて、読書界期待の新星も登場したところで(笑)読書週間だそうだから、名古屋支部からも一冊ご紹介させていただきましょうか。
四方田犬彦『「かわいい」論』(ちくま新書)。この本は、慶応大学(といえば水嶋ヒロの母校)文学部「自主応募制推薦入試・総合考査1」の課題に採用された。こういう問題だ。

2007年度の「設問2」(300字以内)ですけど、見えますか?

『セーラームーン』の「かわいさ」についての筆者の分析に対して、あなたの思うところを述べなさい。

これなら慶応も楽に合格できそうな気がするでしょ。でもこれ以外にも英作文問題がふたつも出るそうだから、水嶋ヒロみたいに帰国子女じゃない人は難しいぞ(しつこい)。
この本は私も刊行されて間もないころに読んだ。そりゃ読みますよ。なにしろ、1994年ごろ、ボローニャの駅でセーラームーンのポスターを見て驚いた、という著者の思い出話から始まるのだ。当時は、セーラームーンがイタリア国鉄の公式マスコットキャラクターになって、どの駅もセーラームーンだらけだった。それで四方田氏は、日本の漫画やアニメの登場人物、あるいはサンリオ商品とかの「かわいい」キャラクターが、グローバルに受容されつつある同時代の状況について、改めて考察してみる気になったみたいだ。
ただそういうわりに、セーラームーンに関しては、記述がかなり不正確である。それも、5人の戦士が全員同じ学校でしかもクラスメートということにされていたり(実際は、高校に入ってもレイだけはT.A女学院だった)地場衛の名前が「地球マモル」になっていたり、ものすごく基本的な部分での間違いが多い。たとえば「うさぎには思いを寄せている地球マモルくんという少年がいる。劇場版アニメの一本では、五人はマモルくんを守るために奮戦するが、次々と力尽きて倒れてしまう」なんて書いてあるが、これってどうも、劇場版『R』のことを言っているらしいのである。ちょっとひどすぎるでしょ。
まあセーラームーンオタクから細かいツッコミを入れられたところで、著者はさほど気にも留めないのだろうけど、漫画批評の分野でも一定の著作がある方なので、もう少しきっちり調べて欲しかったよな、とは思う。
いや、つまらなくはないです。たとえばセーラームーンの変身は、初潮を迎えた少女の、身体の変化のメタファーだと、はっきり言うわけね。確かにうさぎはローティーンで、月の使者(ルナ)と出会って変身(メイク・アップ)して、身体の露出度が高くなって、表情が女っぽくなって、口紅とかイヤリングとかが装着されて、総じて性的なニュアンスが強まるんだから、それはまあそうだ。あ〜あ言っちゃった、という感じの解釈だが、そういう意味ではおもしろい。でもそんな箇所でも、オタク的見地からすると、やっぱり記述のアラが目立つんだよね。

『セーラームーン』が興味深いのは、主人公の五人の少女が変身の後にいかなる活躍を見せるかではなく、悪を眼前にした彼女たちの変身にこそ語りの上で大きな力点が置かれていることにある。うさぎが神秘の呪文を唱え、右手で十字を切ると、たちどころにして現前の風景は消滅し、超自然的な光と氾濫する原色に囲まれた宇宙が出現する。色彩という色彩、形状という形状が激しく回転し、変容していくなかで、彼女は普段の服装から開放され、一瞬ではあるが全裸のシルエットとなった後、新たに美少女戦士としてのセーラー服を着た存在へと変身する。(四方田犬彦『「かわいい」論』)

う〜む。「うさぎが神秘の呪文を唱え、右手で十字を切ると」かぁ……。どこの場面を見て「右手で十字を切る」なんて勘違いをしちゃったのかなぁ。

そういえば昔々ニューアカデミズム華やかなりし1980年代、この人は浅田彰や伊藤俊治と『GS』という雑誌を出して、その創刊号に、抜群に面白い「『ガリヴァー旅行記』論」を書いていた。私はこれ一発でファンになって、『クリティック』なんかも買って、近く単行本にされると予告されていたガリヴァー旅行記論を鶴首して待っていたのだけれど、なかなか出なくて、結局まだ読んでいない。はたしてちゃんと出版されたのであろうか。
というわけで、本日はいよいようさぎの変身シーンです。

2. ♪メイクアップしようよ♪


高井君(妖魔)にエナジーを吸われてしまって身動きできないレイは、それでも必死にテレティアSで仲間を呼ぶ。うさぎを差し置いて、先にまことに連絡をとるところがポイントだ。

  
まこと「ええっ」
  
うさぎ「分かった、すぐ行くね」

レイは行き当たりばったりでは行動しない人だ。まことの方が力もあるし、長いこと孤独に耐えて生きてきた精神的な強さもある。先にどっちに連絡するかと言われれば、そりゃまあこっちだよな。
しかし実際のまことは、レイの目からすれば、意外とうさぎのやることを何でも大目に見ちゃう「甘ちゃん」だった。Act.6の終わり、シーバンスで「もう男に惑わされるのも終わりね」と釘をさしたのに、性懲りもなく、うさぎとタキシード仮面との色恋沙汰に入れ込んでいる様子を見て、失望と怒りを感じる。それがラストの対立の要因となっていくのだ。
一方のうさぎは、あたりに衛の姿が見えないので「もういいや、あんな奴」
ここはちょっと台本の弱いところである。うさぎは、不注意で元基とはぐれてしまったうえ、衛に手を強く握られて、ドキドキしてしおらしくなっているところだ。なのに、この場面で早くも衛と離ればなれになっている理由が分からない。変身している姿を鏡の間で衛に見られる、というアイデアが秀逸なだけに、このシチュエーションにもっていくための、あと一工夫が欲しかったかな、と思う。あるいは、台本には書いてあるけど省略されたのか。とにかく、変身だ。いちおう、周囲に人がいないか確認してから「ムーンプリズムパワー・メイク・アップ!」でもしっかりと見られていた。

変身。Act.5とAct.6では、セーラームーンの姿になってから登場していたので。久しぶりの変身バンクである。そういえば、いままでマーキュリーとジュピターの変身バンクのアニメ版との比較はやったけれども、セーラームーンとマーズはやっていなかったな。これ、一カ所にまとめてやっておいた方が便利だな。じゃあ次回は、戦士それぞれのメイクアップのシーンを、実写版とアニメ版の比較でお届けしようと思います。ということで今回は変身バンクは省略。
「まさか、あいつが!」


なーんか私、このシーンが大好きなので、力入っちゃってます。

3. 虚々実々



前にも書いたが、この「鏡の間」というシチュエーションは、映画史的には『上海から来た女』(1947年)を嚆矢とする、ということになっている。オーソン・ウェルズ制作・脚本・監督・出演(当時の奥さんリタ・ヘイワースとの唯一の共演作)の犯罪サスペンスである。話の筋はよくわからない(キッパリ)。ディレクターズ・カット版はたっぷり2時間半あったのに、公開にあたって切られて切られて90分たらずになっちゃったというから、そのせいかも知れないし、違うかも知れない。とにかくオーソン・ウェルズが何かの陰謀に巻き込まれて、その真相と、陰謀を仕組んだ犯人を捜し求めて、最後に遊園地のびっくり小屋の鏡の間で撃ち合いがある。適当な紹介ですみませんね。

要するにここでの「鏡の間」は、主人公の心象風景なわけです。どれがホントでどれがウソ、誰が信頼すべき人物で誰が犯人か、乱反射する虚像と実像に幻惑されっぱなし。そんなオーソン・ウェルズの惑乱が頂点に達したとき、バーンと銃声が響いて鏡という鏡にヒビが入り、虚像が打ち砕かれ、真相が明らかになる。そして映画はエンドマークを迎える。
で、この鏡の間の場面っていうのが、ブルース・リーの『燃えよドラゴン』(監督:ロバート・クローズ/1973年)とか、ロジャー・ムーアの『007 黄金銃を持つ男』(監督:ガイ・ハミルトン/1974年)とか、最近(でもないか)ではウディ・アレンの『マンハッタン殺人ミステリー』(1993年)に「引用」されているってことで有名なんだが、やはり(世代的なこともあって)私にとって最も印象的だったのは『燃えよドラゴン』だ。
映画の冒頭あたりで、リーは師匠から「本当の敵は外にいない。お前自身がお前の最大の敵だ」みたいな教えを受けるわけですよ。で、最後の戦いで、敵の組織の首領ハンが、鏡の間に逃げ込む。リーは、合わせ鏡のあいだで無数に現れる相手と自分の虚像に惑わされてハンを見失う。そのとき、師匠の教えがよみがえるんですね。「本当の敵は自分自身だ」
それで「アチョー」って、鏡に映ったニセの自分という自分を叩き割って、本物のハンにたどり着くんです。
というように、この手の作品ではふつう、鏡に映る姿は、リアルな実像と対置され、否定されるべき虚像として扱われる。しかしAct.7の場合は逆だ。少なくとも地場衛にとっては、ふだんのうさぎが虚像で、鏡ごしに目撃したセーラームーンこそ、月野うさぎの「本当の姿」になる。それで「あいつが、セーラームーン」と絶句するのである。
つまり地場衛のなかでは虚像と実像がひっくり返っている。記憶喪失の彼は、現実社会に存在しているはずの「地場衛」にリアリティを感じられず、逆に、夜な夜な銀水晶を探し求める「タキシード仮面」という虚構の存在でいる時に、自身の存在理由を実感している。鏡に映る虚像の方が本物なのだ。鏡の前の衛は、そんなふうに「どちらが本当の俺なんだ」と胸のうちで自問自答している。だからこそ、鏡のなかのうさぎが、一瞬にしてセーラームーンに変わったときのショックは、普通に目の前で変身される以上におおきかったと思う。同時に、地場衛のアイデンティティ・クライシスは救済される。地場衛とタキシード仮面、どっちが本当の自分だ、という悩みは「うさぎがセーラームーンだった」という事実によって、だったらオレも地場衛でありタキシード仮面、表裏一体の存在だ、というかたちで、ひとまず解決されたのだと思う。

では、一方のうさぎにとって、この鏡の間での変身はどういう意味をもっていたか。こっちのほうは、そんな小難しい理屈も悩みもない。ある意味で、これまででいちばん、自然体で変身できたのではなかろうか。だってセーラー戦士の変身は、本当は変身ではなく「メイク・アップ」なのである。そもそもメイク・アップは鏡の前でするものなのだ。
だから無数の鏡に映った無数の自分自身に囲まれての変身は、セーラー戦士の変身が本来メイク・アップであることの楽しさを堪能できる、うってつけのシチュエーションなのであり、戦いへ向かう緊張感はあっても、その表情はけっこう快楽に満ちている。
もっとも、だからといって何も考えずこの状況を楽しんでいるばかりではない。「鏡の前に映っている相手の姿は虚像だ」という事実をここで学んだセーラームーンは、無意識に一昨日の夜の戦い(このエピソードのAパート冒頭シーン)を反芻している。あのとき、目の前にいた伊賀妖魔は虚像で、本当の妖魔は自分の背後にいた。この鏡の間と同じだ。そう思ったからこそ、この直後の戦いで、ジュピターが正面の敵に向かってまっすぐシュープリーム・サンダーを放ったとき、セーラームーンはそれを鏡の像に見立てて、反対方向の背後に向かって、ムーン・トワイライト・フラッシュを撃ったのである。

「私だって学習するんだから」
というわけで、今回はこんなところで終わります。次回は、5戦士の変身シーンをアニメ版と比較するビジュアル企画ってことで。ではまた。