実写版『美少女戦士セーラームーン』ファンブログ


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【第251回】火野家の問題を考えるの巻(後編)

1. ロン毛監督リターンズ

 

前々回だったか、コメント欄に「長澤奈央は見るたびに色っぽくなっていくなあ」と書いた。『仮面ライダーW』第27話・第28話にマジシャン役でゲスト出演して、ずっと網タイツのおみ足を披露していたのを見てそう思ったんだが、先週からテレビ東京系で始まった深夜特撮ドラマ『大魔神カノン』では、露出がますます大変なことになっていますね。


『大魔神カノン』は、高寺重徳(高寺成紀)プロデューサーが東映から角川へ移籍して手がけた第1作として注目を集めている。2クール全26話、この第1話と最終話は、御大・坂本太郎がご出馬されるが、残る本編のメイン監督は、どうやら鈴村展弘がつとめるらしい。実写版セーラームーンファンとしては、なによりもそのへんが見どころだ。
それにしてもスズヤン、ひさしぶりだなあ。東映特撮で、とんと名前を見なくなったと思ったら、ここんとこ舞台に専念されていたらしい。
鈴村展弘といえば、安定感のある職人芸的な技量をもった監督さんだ。石田秀範を師と仰ぐだけあってときどき妙なケレンも出て来るが、あそこまでハメを外したりはしなくて、全体として「王道」という感じがする。あまりにもストレートで照れるが、やはりAct.43の海岸のキスシーンなんか、私、大好きですね。砂浜で、変身ブーツで背伸びするセーラームーン、くちづけと同時に照明が暗転、なんてね。

あとラストの、衛が消えちゃっても、うさぎが無理して笑うシーンなんか、いま観ても条件反射的に泣けちゃうよね。ねっ。…これはまあ、沢井美優の演技の力ではあるが。

鈴村監督も1970年生まれだからそろそろ40歳。今度の『大魔神カノン』では、これまでどおり職人芸的な演出のうまさに加え、さらなる「風格」みたいなものが加わってくれるのではないか、と期待する今日この頃である。
というわけで、本日の記事は、鈴村展弘が初めて実写版セーラームーンのローテーションに参加した2話(Act.9とAct.10)のうち、Act.10の話から始めよう。

2. 空を見上げるエリカ様(日蝕ではない)



Act.10は、ゾイサイトが「プリンセスへのレクイエム」という曲を書き上げる話だ。
Act.6のエンディングに、初めてちらりと姿を見せたダーク・キングダム四天王の一人、ゾイサイトは、Act.7でショパンの「幻想即興曲」を練習し、続くAct.8で、この曲で愛野美奈子を襲う。カーステレオから突然ショパンが流れると、美奈子が苦しみ出すのである。ゾイサイトはもう、愛野美奈子にターゲットを絞っているようだ。
しかし美奈子はさっさと逃げてしまう。それで(たぶん)ゾイサイトは反省した。やっぱり、ちゃんと攻撃力のあるオリジナル曲じゃないと駄目だな。今後、ショパンはあくまで趣味として楽しむだけにしておこう。あと、自分が直接、戦いの場に出向くのも控えよう。おれがそのまま行っても、危ない美奈子ファンというか、コスプレ趣味のストーカーにしか見えないもん。

そんなわけでAct.9では、美奈子攻撃用のオリジナル曲「プリンセスへのレクイエム」を作曲し、あわせて、この曲専用の歌手である妖魔ディーバ(仮名)を創造する。この曲は「プリンセス」だけを片っ端から攻撃する、という特殊な力をもっているので、妖魔が歌い出せば、およそ「プリンセス」と名がつくものは、すべてばたばたと倒れる。たとえ美奈子がどこにいようと、確実にしとめることができる、という趣向だ。(ただ有効範囲がどのくらいかは分からない。ドラマで見る限り、妖魔が東京のどこかで歌えば23区内で効果あり、という程度の感じであるが。)これで、行方も知れず潜伏中の月のプリンセス(でも芸能活動は続行中)をあぶり出し、幻の銀水晶を奪おう、というのがゾイサイトの魂胆である。

しかし「プリンセスを片っ端から攻撃する」といっても、日本にそれほどプリンセスはいない。厳密な意味ではマサコ様とかアイコ様だけぐらいだ。まさかこの方々がお苦しみになる様子を描くわけにもいかない。そういうわけでドラマのなかでは、たまたまヨーロッパの小国、エストア国のプリンセス(オレナ・シュペレヴァ)が来日中、という設定をこしらえて、この方がナヨナヨと倒れるエピソードをはさむ。

しかしこれだけでは「プリンセスへのレクイエム」の恐ろしさが視聴者には伝わりませんね。という事情もあって、結局、妖魔がこの曲を歌うと、実際のプリンセスだけではなく、プリンセスの衣装を着せたお人形がメラメラと燃え上がり(たぶんタカラトミーのリカちゃんとジェニー限定。バンダイもディズニーのライセンスをとって、白雪姫とかシンデレラの関連商品を沢山売っているはずだが、それらは燃えないと思う)絵本の中のお姫様の絵や、紙芝居のかぐや姫までもが燃え上がる。

これだけでもけっこう無理がある話なんだが、さらには、火川神社によく遊びに来る少女、エリカちゃんまで倒れる。どうしてかというと「エリカはかぐや姫に自分を重ねていたから」だというのだからすごい。これが本当の「エリカ様」である。気をつかうのも当然だ。あ、でもこの頃の北川さんはまだノイエ所属だったか(なんの話だよ)。
ついでで恐縮ですが、エリカちゃん役の小池彩夢さん(1995年2月生まれの16歳)におかれましては、高校ご入学おめでとうございます
話を戻す。エリカちゃんを苦しめるなんて許せない。戦士たちは立ち上がる。Act.10はそういう、オーソドックスなヒーローもののパターン(戦士が妖魔から少女を守る)と、敵役のムリヤリな設定という、アニメ版に近いテイストをそなえた作品であり、また実写版全体の流れから考えると、セーラームーンのロッドが強大な「癒しの力」を発揮して人々を救う、とか、クイン・ベリルとセーラー戦士が初めて直接対面するとか、前世の謎の一端が明らかになる、という重要なイベントが含まれている。なかなか興味深いエピソードです。
すまん脇道にそれたね。で、エリカちゃんがなぜ「かぐや姫」にあこがれ、自分をかぐや姫に同化させているかというと、エリカちゃんは幼い頃、お母さんを失って、いまお母さんは月にいる、と信じているからなのだった。
それは火野レイと同じ境遇である。だからレイは、エリカちゃんを妹みたいに可愛がっている。
火川神社の子供会で披露する「かぐや姫」の紙芝居に色を塗って仕上げているうさぎとレイ。

うさぎ「…あれ、レイちゃん、最後のシーン無くない?かぐや姫が月に帰るところ」
レ イ「ああ、描きたいって子がいるから、そこだけ任せてあるのよ」
うさぎ「あ、さっきの子、かぐや姫、好きなんだ」
  
レ イ「かぐや姫になりたいのよ。月に亡くなったお母さんがいるって思ってるから」
うさぎ「えっ?」
           *   *   *
 <回想シーン>
   
  母親がいなくなって、片付けられた病院のベッド。
   
  ベッドの上にぽつんと置かれた『かぐや姫』の絵本。
   
  それを見て、ほほえみながら窓の外の空を見上げる少女時代のレイ。
  心の声(ママは死んだんじゃなくて月に帰ったの)
            *   *   *
   
レ イ「…夢みたいな、ものだけど」

3. 捏造された記憶


これと同じ場面がAct.34で繰り返される。
前々回の記事で見た通り、原作「カサブランカ・メモリー」における火野レイと父の関係は冷えきっている。だから誕生日には、レイは抵抗することなく、父が(実際には秘書の海堂が)送ったドレスをまとい、迎えのリムジーンに乗り、高級レストランで食事を共にする。愛情も憎しみも、もう父に対するあらゆる想いを捨ててしまっているので、かえって淡々としている。
これに対して実写版のレイは、父が迎えの車をよこそうものなら烈火の如く怒って抵抗する。かたくなに会いに行こうとしない。そういう描写はAct.8にあったから、それからずっと、レイの態度は変わらなかったわけだ。
でもAct.34で変化が訪れる。きっかけは亜美との会話だった。このエピソードのなかで、亜美とレイは、お互いのうちに、それぞれ自分に無いものを見つけ合う。引っ込み思案の亜美は、親と対立しても自分の意志をはっきり伝えるレイの強さに学び、すぐ父と喧嘩してしまうレイは、まず相手を理解しようと努力する、亜美のコミュニケーションへの意志を見ならう。

  
亜 美「私ね、レイちゃんには信じられないかも知れないけど、今までママと喧嘩したこともないし、逆らったこともないんだ。ママが好きだし、頑張れば喜んでくれて嬉しかったし……。だからね、今、どうやってママと話していいか分からなくて。……怒られるのか、嫌われるのか」
レ イ「そうやって、ちゃんと話そうとするの、偉いと思うわ」
亜 美「えっ?レイちゃんがそうしてたから」
レ イ「私のは、ただぶつけてるだけ」

これまでは父の秘書たちがやって来ても、話も聞かず追い返していたレイだが、この会話がきっかけで、ちゃんと父と話さなくてはいけない、父の言い分にも真剣に耳を傾けなければ、と考えが変わる。
亜美と別れた帰り道、黒塗りの車が行く手を遮り、パパの秘書たちがぞろぞろと降りて来る。

  
西 崎「お嬢さま、たいへん申し訳ありませんが……不本意ではありますが、先生のご命令ですので」
レ イ「会うわ、ただし、場所はレストランじゃなくて……」

レイは母の遺体が眠る教会を、待ち合わせの場所に指定した。母を、いわば見殺しにした父への、一種の当てつけみたいなものである。それでも父は、二つ返事でその提案をのむ。
教会へ向かう車中。別に食事をすることを合意したわけでもないのに、秘書の西崎(菊地均也)はすっかり大喜びである。

  
西 崎「先生も、もう向かわれたそうですよ。いやー助かりましたぁ、首がつながりましたよ、よかった、よかった」
レ イ「話すだけよ」
西 崎「十分ですよ。先生は、お嬢さまと会う口実が欲しいだけなんですから。ここだけの話、なんとかお嬢さまとうまく話したくて、いろいろ考えたみたいですよ。世論調査だとか、雑誌の取材だとか……」

まさか、と愕然とするレイ(そんなこと……だったらどうして……)ここでレイの脳裏に、幼い頃、母を失ったときの光景がフラッシュバックする。眠り続けるママの前で「ママ、ママ」と泣くレイ。
このシーンは、Act.10とは明らかに異なっている。

  
  

 

  
  

(1)Act.10(右側)の少女時代のレイ役が水黒遥日(みずぐろ・はるひ)だったのに対して、Act.34(左側)では田中明(たなか・めい)が演じている。(2)Act.34の回想シーンには『かぐや姫』の絵本が影もかたちもない。(3)Act.34の回想シーンでは、ぐじゃぐじゃに泣き崩れている少女時代のレイの横顔に、今でも泣き出しそうな現在のレイの横顔がモンタージュされるが、Act.10の方では、少女時代のレイは気丈にも表情をくずさず、現在のレイは微笑みを浮かべている。
この違いは何なのか。結論から言ってしまえば、Act.34、つまり左側のタテ一列こそが、事実としてのレイの過去だ。Act.10、右側のは、気の強いレイの無意識が「ママが死んだ時、幼い自分はわんわん泣いた」という事実を認めたくなくて、後からデッチあげたニセの記憶だ。それもそんなに古くからのものではなくて、エリカちゃんと出会ってから作られた記憶だろう。
エリカちゃんは『かぐや姫』の話が大好きで、亡くなったママはかぐや姫のように月へ行き、今も月から自分を見守ってくれている、と信じている。そう思うことで、母親を失った辛さに気丈に耐えている。レイはその姿を見て(私も確かそうだった、エリカと同じように、ママは月にいる、と夢みて、きっと悲しみに耐えたんだ)と、無意識のうちに自らに思い込ませ、大泣きした過去の記憶を隠蔽したのである。
なぜそこまでして、過去の記憶を封印する必要があったのか。その理由が明かされるのが、Act.34のクライマックス、教会の、ママの墓の前でのパパとの面会のシーンである。

   
   
レ イ「どうして、どうしてあの日、病院に来なかったの?」
 (回想:病床のママの前で泣いているレイ)
   
隆 司「しつこいなお前は、何か理由があれば許せるのか?」
   
レ イ「理由によるわ」
隆 司「仕事だ。本当に忙しかった。お前を預けなければならなかった理由も、ほかに無い」
レ イ「じゃあ…」
隆 司「分かれとは言わん」
 (どちらからとも無く、母の墓に視線をやる二人。レイはそのまま立ち去ろうとする)
   
隆 司「レイ、取材があるんだ。親子で食事をする。出席しなさい」

「取材」というのは、パパが自分と会いたくて、なんとか見つけた口実だ。そういう秘書・西崎の言葉を聞いた今、レイは、相変わらず不器用な父の、頭ごなしの命令にも、また別の思いを抱いている。
ママが逝った時、なぜ病院に来てくれなかったのか。そういうレイの問いに、パパはいつも、仕事で忙しかったから、と言った。そんなの言い訳にすらなっていない。どうせなら、せめてもう少しもっともらしい理由を考えつかないものか。結局、ママも私も、パパにとってはその程度の存在だったのか。
そう考えたからこそ、パパが許せなかった。でも今は、ひょっとすると、余計な言い訳をしないことこそが、パパの誠実な性格の現れなのかもしれない、とレイは思い始めている。私を神社に預けたのも、本当に忙しかったからだけで、私の不思議な霊感を気持ち悪がったわけではないのかも知れない。
そういうふうに考えた時に、レイの本当の記憶が甦る。

「パパ、パパ」

そうだ、私はあの時、本当は『かぐや姫』の絵本を支えに、気丈にこらえていたのではなかった。『かぐや姫』の絵本なんて無かった。私はママを失ってしまって、どうしようもなく泣きながら、大好きなパパの名前を呼び続けていたのだ。
私はパパを愛していたし、助けにきて欲しかった。でもパパは来てくれなかった。それは堪えがたい記憶で、意識の底に封印でもしない限り、生きていくことさえ出来そうにないほど深い心の傷だった。だから、パパは私を嫌いだったし、私もパパなんか大嫌いで、ママが死んだ時も、私はパパなんかに救いを求めず、独りで耐えていた……そういうことにしたんだ。
レイはそのようにして、このニセの記憶に自ら騙されて、母が死んでからの8年間を生きてきたのである。そして今、過去を直視して、封印していた記憶を解放したとき、父親に対するレイの態度にも、根本的な変化の兆しがおとずれる。
そうはいっても、ゴールデンに放送されるような安直なドラマとは違うから、父娘の和解は、本当に「兆し」だけで示される。

   
隆 司「レイ、取材があるんだ。親子で食事をする。出席しなさい」
レ イ「たぶん、もう少し時間が経ったら…」
   
隆 司「…そうか」
   

ほんのちょっとだけ和らいだ表情で見つめあう二人。名場面ですね。

4. こればっかりはわからん


というふうに、Act.10とAct.33およびAct.34に出て来る回想シーンの違い、という問題は、わりときれいに解けると、私は思うのである。しかし前にも書いたように、Act.34には、先行エピソードに対する、もうひとつのおおきな矛盾点がある。それは墓の場所だ。Act.17に出てくる火野リサ(ママ)の墓(左)と、さっきのAct.34に出てくる火野リサの墓(右)が、ぜんぜん違うロケーション。っていうか、教会自体が別の場所にあるという問題だ。

     
     

第237回】の最後にこの問題を取り上げたとき、私は、「カトリックでは一人の故人に対して二つの墓を建てて良い、という教義でもあるのか?あるわけないと思う。ということは、Act.17のオンエア(2004年1月31日)からAct.34の放送(2004年6月5日)までの半年足らずの間に、墓を移動したっていうことかな。何かせっぱ詰った事情でもあったのだろうか」と書いたが、未だにそれ以上の考えはない。まったく分からない。唯一、その時のコメント欄に、こっちよ!研究員が「出入り口の近くにこんなデカイ石の十字架が並んでたら、緊急車両が入れないから」消防署の指導で墓を作り替えたんだ、と書き込んでくださったが、そんな仮説にさえすがりたいほど、説明がつきません。
台本に何かあるかと思ったが、ト書きには「教会・墓地」としか書かれていない(『M14の追憶』2005年月21日)。引き続き斬新な解釈を募集します。


というわけで、あいだに清浦夏実ライブレポートなんかも挟みましたが、 火野父娘の謎解きごっこ、今回はこれまで。


ところで、なぜAct.10のうさぎは「プリンセスへのレクイエム」攻撃に倒れなかったのだろうか。火川神社に妖魔の攻撃を防ぐ結界が張ってあった、と考えたいところだが、エリカちゃんが倒れている以上、それはありえない。ということは、たんにプリンセスの自覚に欠けていたから、あるいは前世の記憶が甦っていなかったから、と考えるべきなのかなぁ。