実写版『美少女戦士セーラームーン』ファンブログ


最新記事〕 〔過去記事〕 〔サイト説明〕 〔管理人

【第200回】読書レビュー:白倉伸一郎『ヒーローと正義』の巻(前編)



今回の内容は地味になりそうなので、とりあえず景気づけに画像を一枚、貼っておく。
遅ればせながら、千葉県に新知事誕生、おめでとうございます。お祝いに東宝映画『惑星大戦争』(1977年、福田純監督)より。宇宙船「轟天」のパイロット森田健作(当時28歳なのに七三分け)は、拉致された恋人の浅野ゆう子(当時17歳なのにナイスバディ)を助けるため、悪い宇宙人の本拠地に乗り込む。が、逆に捕まって牢屋に放り込まれ、恐ろしい真実を目の当たりにする。宇宙人の狙いは地球の女をボンデージファッションにして美脚を観賞することだった!
この映画は1977年夏の『スター・ウォーズ』の全米大ヒットを受けて、本家の日本上陸前に公開すべく、大急ぎで製作された作品である。どのくらい大急ぎかというと、脚本が上がったのが10月、それでも12月の全国公開になんとか間に合わせたというのだからすごい。
私の理性は「こんなもん好きになってはいかん」と叫ぶのだが、身体が轟天の激しいドリルを求めてしまって、結局DVDを持っている。恥ずかしい話である。しかも現在千葉県民のM14さんにはつまらなそうな映画と一刀両断にされたうえ、賭けてもいいが、本人はそんなことを書いた事実さえすっかり忘れている。

 

というわけで本題に入りますが、正直、レビューを書くなんて言わなきゃ良かった。つくづく後悔している。
まあ最初から気は進まなかったのである。それでも、やはり実写版セーラームーンの放送もたけなわの2004年5月に刊行された本である以上、レビューを書くのは義務だ。いや礼儀かな。なんだか分からないが、いつまで経っても書く気が起こらない自分を追い込むために「書きます」と宣言してしまった。そしていま追い込まれて窮地である。

1. まずは「あとがき」から


白倉伸一郎『ヒーローと正義』(寺子屋新書002)は、「子どもの未来社」の新シリーズ「寺子屋新書」創刊ラインナップの一冊として、斉藤貴雄『教育改革と辰自由主義』および蜂須賀裕子『農業で子どもの心を耕す』と同時に、2004年5月に刊行された。腰巻きにはこんな紹介文が入っている。

正義の不在が叫ばれる現代。「仮面ライダーアギト」「美少女戦士セーラームーン」など数々の特撮番組を手がけてきた名プロデューサーが、ヒーローを素材に、わたしたちが自分自身の問題として正義を問う意味をラディカルに論じる。

察するところ、人気ヒーロー番組のプロデューサーならではの、現場の体験に裏打ちされた教育論、児童文化論に、教育関連の出版社として興味があったのだろう。それに、番組の製作ウラ話的な要素も入っているエッセイなら、それなりのセールスも期待できるしね(推定)。
でも、あとがきに綴られたところによれば、依頼を受けた白倉氏は、せっかくの機会だから「テレビ界の末席にかろうじて加えてもらっている一寸の虫でも、最低限の魂をもっているぞというところ」を見せてやろうと思ったそうだ。まあ特撮番組のプロデューサーなんて、玩具会社の顔色うかがいをしながら子供ダマシの番組を作るだけ、という認識の人も、業界はじめ世間には多いことと思うし、そんな偏見に囲まれて、バカ野郎てめえらよりよっぽど真剣に考えて番組つくってるんだ、くらいの意地はあるだろう。そこで白倉氏は「なるべく普遍的な問題をあつかいたい」「個々の作品論や、メイキング的な裏話は、なるべく排除したい」という条件とひきかえに執筆を引き受けたという。真面目だね。もっとも、最初の段階では、スタイル自体はライトなエッセイ風を考えていたみたいである。「あとがき」を読んでみよう。

とはいえ、告白すると、当初はもっと、お気軽な内容で考えていた。「五分の魂を見せる」のがゴールだったので、あくまで「余技」の範囲で書き始めた。これまで考えていたことを縷々つづる、エッセイ的な作業である。
おおむねできあがったところで、痛撃を食らった。
「羽入・折原論争」の勃発である。

これ、いったい何のことか分かります?ちゃんと話していると長くなるので、うんと簡単に紹介する。
2002年9月、羽入辰郎という大学教授が『マックス・ヴェーバーの犯罪』という本を出した。ウェーバーといえば19世紀のドイツの社会学者である。権威というか古典というか、ガチンコのストロングスタイル、学者の世界のカール・ゴッチみたいな人ですね。たとえば、学者はとことん厳格であるべきだ、論文で文献を引用するときに孫引きなんかするような奴には、学問をする資格なんかない、とか言い切っちゃっているわけだ。
ところが羽入先生の本は、そのウェーバーが、自分の論文で聖書関係の記述を使用する際には、元の資料にあたらず孫引きしていることを論証して「あんた、自分でやってるじゃん」とウェーバーの「不誠実さ」を批判したのだ。羽入辰郎はこの本で2003年の第12回山本七平賞を受賞した。微妙な賞である。
さてこれに怒ったのが折原浩・東大名誉教授だ。2003年の12月に『ヴェーバー学のすすめ』を出版して、羽入本の批判が、木の葉を見て森を見失った、枝葉末節への言いがかりであることを詳細に論証した。そして、そういう些末な記述を針小棒大に「ウェーバーの犯罪」とあげつらい、スキャンダルに仕立てようとする羽入の下世話さを批判し、こんなのは「学術書ならぬキワモノ本」だと切り捨てた。
まあ私自身は、ウェーバーって言っても、なんかガンコ親父の説教みたいで、確かに傾聴すべき点は多々あるが、飽きる、という感想しか浮かんでこない。なのでこの論争に対してもあまり興味はもてず、どっちに軍配を上げるべきか、確固たる意見もない。これは私世代(現在40代ど真ん中)の感じ方として、そんなに特殊じゃないと思う。「マックス・ヴェーバーの犯罪」というタイトルにセンセーションを感じるのは、ウェーバー的な学問観を打倒すべき対象と見なしてきた、かつての全共闘世代あたりではないだろうか。私はかれらとは二回りほど歳が違うので、そういう世代感覚とはすっぱり切れている。
ところが私よりちょっと歳下の白倉伸一郎氏は、この論争にものすごく反応するのだ。それで「私(白倉)は学者じゃないから、まあエッセイ程度の本でいいや」と思っていた態度を改めたという。

自分は学者ではないから、誠実である必要はないなどという甘えが、同じ「言論の公共空間」において許されるはずもない。
テレビ番組製作という本業には、全身全霊をこめて誠実にとりくむけど、執筆は余技……などという錯誤は、払拭せざるをえなくなった。
それまでの原稿を、すべてふりだしに戻し、一から書きなおしはじめた。

それで締め切りに間に合わなくなって、担当を泣かせつつ、誠実に真摯に、あらためて「ヒーローと正義」というテーマに取り組んで書きあがったのが、この本なんだそうです。分かりましたか?私は分かんないんだ。白倉さんが、ウェーバーをめぐる羽入−折原論争にそれほど震撼した理由が。

2. なぜ?の嵐(はスケバン刑事の主題歌)


ともかくそういうわけで、完成した本書は確かに、ヒーローとは何か、怪獣や怪人とは何か、そして正義とは何か、という大きくて普遍的なテーマを、全編にわたって真面目に論じている。
しかし一方では、原則として封印したはずの番組ウラ話的トピックも、意外とあっちこっちに出て来る。さすがプロデューサー、ちゃんとライダーファンの購買意欲もそそるネタで商品価値をもたせているなあ、と感心した。そして読後のホンネを言えば、真面目で体系的な議論の部分よりも、間に挟まれる断片的なメイキング裏話の方が、読み物としては遙かに面白い。いや面白いというか、言っていることが分かりやすい。試しに二つほど読んでみてください(最初の引用は長いので、オリジナルのテキストをところどころで勝手に中略してしまいました)。

「足を踏まれた者の痛みは、踏んだ者にはわからない」
よく言われる言葉である。


とくに公共性の高いテレビ番組は、あらゆる階層・あらゆる立場の人の人権に配慮しなければならない。その配慮は<踏まれた痛み>原則によって行わなければならない。
満員電車に乗るときは、ハイヒールを履くべきではない。さまざまな人の<足>がどこにあるかを知らなければならない。


「仮面ライダー本郷猛は、改造人間である」
とは、初代『仮面ライダー』のナレーションだが、現在ではこうした設定が許されないのはいうまでもない。
仮面ライダーが悪の組織によって、とりかえしのつかない手術を受けて悩むという設定は、手術をこれから受ける子どもや、術後の子どもたちをいたずらに苦しめる。また執刀医を悪の手先として描くことは、職業差別につながるという批判をまぬかれない。
「ライダーキック」にも問題がある。
強化された脚力によって敵を蹴り倒すのを、必殺技として誇ることは、脚力の重要性を必要以上に強調し、足の不自由な子どもの心を傷つけるおそれがあるからだ。


『仮面ライダー龍騎』(二〇〇二)を担当していたとき、視聴者のかたから「十三人もヒーローが出るなら、車椅子のヒーローも出して」という要望が一再ならず寄せられた。そうした設定もいったん検討はされたものの、どう工夫を凝らしたとしても、かならずだれかの足を踏むことは避けられそうになかった。
「こっちに来て」という声があっても、だれかの足を踏みそうな場所に踏み出すことは許されない。「足を踏まれた者の痛みは、踏んだ者にはわからない」のだから。
<踏まれた痛み>原則のゴールは、差別のない世界をきずくことだろう。
すくなくともテレビ番組の劇中世界では、それは達成されつつあるといえる。なにしろ被差別者がすべて排除されている世界なのだから、いっさいの差別が発生しようはずがない。(第3章 世界の境界)

『仮面ライダーアギト』(二〇〇三)を手がけたさい、視聴者から苦情が殺到したことがあった。主人公が過去の記憶を失っているという設定なのだが、「記憶喪失で運転免許がとれるはずがない。子ども番組のヒーローが無免許運転をするとは!」と抗議する電話や手紙が押し寄せたのである。
もちろん運転免許の取得条件と、記憶の有無は関係ない。一種の偏見にもとづく思い込みにすぎない。しかし、苦情が増加の一途をたどるのに音をあげた方面からの要請で、主人公が運転免許証を(視聴者に向かって)見せるシーンを劇中に盛り込まざるをえなくなった。
苦情自体は誤解かも知れないが、鮮烈に感じたのは、人を助けるために駆けつける仮面ライダーに対して「まず免許の有無を問う」という志向性である。人の生死より、交通法規の遵守のほうをたいせつに思うということなのだろうか。(第4章 勧善と懲悪/都市社会の秩序)

どちらも、多少の誇張はあるかも知れないが、わりとリアルな制作上の体験談で、なるほどねえ、視聴者からはいろんな意見が寄せられるし、それに答える立場も大変だよなあ、と感心するエピソードである。加えて、たとえば実写版セーラームーンで、なぜ美奈子の具体的な病名が明らかにされないか、という疑問に対する答えにもなっている。
こういう短いエッセイの羅列でも、十分良かったと思うのだ。でも白倉さんはそれを反古にして、最初から書き直した。
その結果「ヒーローと正義」というテーマに、原理的に、真っ向から取り組んだ本書が完成したわけだが、う〜ん、これが難しいのだ。とりあえず全6章からなるその内容を要約しなくちゃいかんのだが、まとめながら「なぜ」「どうして」と再三ならず疑問が湧いて来るのである。

3. これはやばい



というあたりで今回はこれまで。まずいよ。一回の記事で片付けるつもりだったんだけど、このペースだと前編(今回)、中篇(内容紹介)、後編(感想)の三回ぐらいは費やしそうだ。参ったなあ。連休もガチャガチャ忙しいしさ。
ま、よろしかったらおつきあいください。


P.S. 5月2日(土)、息子と一緒に、中日劇場の『ウルトラマンプレミアステージ3』初日に行ってきました。今回は弓原七海さんはいませんでしたが、平田弥里さんの元気なお姿を拝見できたのがなによりでした。コノミ役じゃなかったのがちょっとだけ残念でしたが、白衣の女医さんもなかなか素敵でした。役名は小森杏由(こもり・あんぬ)。もちろん「アンヌ」という名前を聞いたとたん、モロボシ・ダン(森次晃嗣)は「つい条件反射で」ウルトラセブン最終回のセリフをしゃべり出します。楽しいステージでした。
平田さんは、秋に映画が公開されるといいます。どんなタイトルの映画か、そして主役なのか準主役なのか通行人なのかはまだ不明ですが、復帰おめでとう。