実写版『美少女戦士セーラームーン』ファンブログ


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【第159回】小松彩夏さまご生誕22周年記念特別企画『アンラッキー・デイズ』DVDレビューの巻


万丈。以前の記事に書いたように、2008年7月20日(日)、愛知厚生年金会館に劇団東少のファミリーミュージカル『人魚姫』がやって来たので、息子を連れて観に行って来た。別に沢井美優や松下萌子が出るわけではないんだが、万丈さんも遠方からお越しと聞いたものですから。
ちょっと都合がつくかどうか直前まで微妙だったので、前売り券は買っていなかった。でも午前の部(11:00)と午後の部(3:00)の2回公演、そして大人も子供も容赦なく全席指定一律3,800円という料金設定から考えて、当日券で十分入れるはず、と、午後公演開場の2時30分ごろ会場に向かった。ところが驚いたことに八分の入り、いやそれ以上の盛況ぶりで、取れたのはけっこう後ろの席だった。私、劇団東少をなめていた。失礼しました。前にも書いたが、愛知厚生年金会館は、名古屋におけるセラミュの聖地なので、作夏ここに沢井美優と松下萌子が来ていれば、全席指定4,000円でも満員御礼だったのではないかと思う。なぜ一色町なんかに行った、って一色町にお住まいの方すみません。

 

お話の方は、原作にかなり忠実なアンデルセンの『人魚姫』である。ディズニー・アニメ『リトル・マーメイド』のアレは論外にしても、このお話は、結末があまりにもかわいそうで、子供向けにはもう少し救いのある結末にアレンジした方がいいんじゃないかと思っていた(もともと童話なんだが)。だけど入場して、ロビーで万丈さんにお会いするなり「いやあ、昼の部でもう号泣しちゃいましたよ」である。やっぱり号泣する話なんだ。
で実際、ヒロインの本田有花さんが思いっきり可憐に、人間になって言葉をしゃべれない人魚姫を演じるのである。本田さんって第9回国民的美少女コンテスト音楽賞だそうだ。とにかく東少ファミリーミュージカルと言えば国民的美少女だ。いやそれはともかく、後ろの方の席で良かったよ。あまり前で観ていたら、私も年甲斐もなく号泣していたかも知れない。息子は海の波(ということで布が左右に張ってある)の裏側でキャストがあっちこっちに動いている影が、どうしても透けて見えてしまうのが面白いらしくて、そっちにばかり気を取られて「お、お父さんあそこにカニがしゃがんでるよ」とか、最後までそんな感じだった。まあ仕方ない。
いやしかし本日はその舞台ではなくて、もうひとつの、昨年の舞台の話題である。本当は来週の週末に向けて書いていたんだが、よく考えたら次の土曜日には、小松党は他人のブログを読むどころではない状態のはずなので、今回にした。今回のレビューを小松党のみなさんに捧げます。

1. 作品データ

今回取りあげる『アンラッキー・デイズ』は、もともとは2004年の1月24日から27日まで、劇団猫☆魂の第4回公演として、下北沢OFF・OFFシアターで『アンラッキー・デイズ 〜ナツメの妄想〜』(作・演出:西永貴文)という題で上演された作品だ。この時に鑑賞に来ていたのが堤幸彦で、堤はこれを、フジテレビの深夜番組『劇団演技者。』の第1作目に起用する。
『劇団演技者。』とは、フジテレビ系で2004年の4月から2006年の9月まで放送されていた番組で、小劇場演劇とジャニーズ事務所のコラボで、ジャニーズのメンバーが座長となって、注目の舞台劇をテレビドラマ化する、という内容らしい。その「第1回公演」として、嵐の櫻井翔を座長に迎えて2004年4月14日から5月12日まで、4回にわたって火曜深夜に放送されたのが『アンラッキー・デイズ 〜ナツメの妄想〜』である。
でも以上のふたつを私は観ていない。今回DVDで鑑賞したのは、それに続く4年ぶり、3度目の上演ということになる。上演期間は2007年9月19日(水)から27日(木)。会場は青山円形劇場。DVDに収録されたのは。9月23日の公演ということだ。この日は、関西支部ぽんたさんも客席にいらっしゃるはずなのだが、分からない。って考えたら、まだお会いしたことがなくて、お顔を存じ上げないのであった。
でもその代わり(「代わり」って何だ?)本編が始まってだいたい1:00のあたり、モロ師岡から勝手に借りだしたメガネで、千円札にびっしり書き込まれた文字を読もうとする小松彩夏のかたわらに、まるで背後霊のようにStreamKato氏の顔が浮かび上がる。これは「うしろの百太郎」ではなくて本物のStreamKato氏である(と思う)。遠近法や照明の明暗を脳内補完すれば、ある意味りっぱなツーショットだ。めでたいことである。
ということはともかく、おおざっぱなものだが、初演とジャニーズのテレビ版と今回とのキャスト比較表をまず挙げておく。

               初演版    T V 版    再演版
ミ キ(ヒロイン)     長田 奈麻  平山 あや  小松 彩夏
カントク(ヒロインの元彼) 宮崎 陽介  櫻井  翔  上山 竜司
クニオ(人気漫画家)    佐々木光弘  半海 一晃  秋枝 直樹
サナダ(漫画雑誌編集者)  井澤 崇行  小山慶一郎  井澤 崇行
イガラシ(銀行員)     村木宏太郎  山崎  一  大熊 啓誉
アマノ(銀行強盗)     福田 英和  小村裕次郎  佐々木光弘
ナリタ(銀行強盗)     堺沢 隆史  山崎 樹範  落合 孝裕
ノムラ(強盗を追う刑事)         清水  宏  宮野 真守
サクラ(借金取り立て屋)  西永 貴文  皆川 猿時  堺沢 隆史
ナツメ(死んだ漫画家)   牧野 直英  ケ   ラ  モロ 師岡

カントクの兄、ノムラ刑事を初演で演じたのはだれかが、分からなかった。誰か教えてください。初演でヒロインのミキを演じた長田奈麻は、今回の新バージョンでは、彼女のために新たに書き下ろされた(んじゃないかと思う)ミキの姉、アヤの役をやっている。今回はある意味、小松彩夏と長田奈麻のダブルヒロインと見なすこともできる。長田奈麻はテレビ版にも出ている。ほかにも、ここに載せなかった役まで入れれば、初演と再演とテレビと、ぜんぶ出ている方もけっこういる。

2. 劇場および舞台装置


劇場には、おおざっぱにプロセニアム・ステージとオープン・ステージの二種類がある。客席と舞台とが一直線で区切られていて、緞帳がするする上がると、その向こうに舞台空間があるのがプロセニアム・ステージだ。この形態はルネサンス期ヨーロッパにおいて登場し、オペラの流行と共に浸透して、今日もっともポピュラーな様式となっている。
プロセニアムというのは、舞台と客席の間に設けられたアーチのことで、このアーチで舞台空間は、客席からはっきり隔離されている。そういう構造を、もう少し変えてみようという試みがあらわれたのが、19世紀ごろからで、たとえばバイロイト劇場は、階段座席が舞台を扇状にとり囲むかたちにして、しかもオーケストラピットにフタをして隠すことで、客席から舞台への空間的な連続性を強調した。あるいはラインハルトのベルリン大劇場は、中央に張り出した舞台を客席が三方から囲むという、日本の能舞台に近い構造をもっている。とにかくこういう風潮が、やがて現代のオープン・ステージというコンセプトになる。
1985年にできた青山円形劇場は「日本初の円形劇場」という触れ込みだそうである。つまり、ぐるり360度を完全に客席に囲まれた、アリーナ・タイプのオープン・ステージである。しかし『アンラッキー・デイズ』の場合は、一面のみ、六角形のパネルを並べた背景らしき壁が組まれている。したがって360度ぐるりではなく、背景以外の三方を客に囲まれた「張り出し型」(スラスト・ステージあるいはスリーサイド・ステージ)に近い構造になっている。
オープン・ステージの場合、劇の途中で人物が出入りするルートは、客席の合間の通路しかない。しかし小劇場の場合、これではどうしても注意が散漫になる。だって役者さんが、自分の席の近くの通路を通って入場したり退場したりするんだからね。たとえば、小松彩夏が去り際に通路の途中で立ち止まりでもしようものなら、このブログをお読みのみなさんは、舞台の上で進行中の芝居には目もくれず、通路のこまっちゃんだけを観つづけるはずだ。
そういう効果もオープン・ステージの愉しさではあるが、しかし演出家としては、いつもそういうことでは困るのだ。適度に客の目線を、中央の舞台で進行するドラマに釘付けにしておきたい。
それからこの戯曲は、漫画家の仕事場で編集者がトイレから出てきたり、コンビニに飛び込んできた客がトイレに入ったり、とにかく「トイレに入る」「出てくる」という動作が何度も繰り返される。これはふつうだと、舞台のソデを使った演出になるが、円形劇場で、そのたびに通路を使って出たり入ったりするのは、ちょっと間が悪い。というわけで一方に「背景」のパネルを置き、その裏側に入ったり出たりして、トイレに行ったことにしているわけだ。
ともかくそういうわけで、舞台の背景は組んである。しかし何しろ、ただのパネルが一枚なので、その後ろに大がかりな仕掛けを隠しておけるほどのスペースはないし、幕間ごとにセットを入れ替える余裕もない。したがってセットは至ってシンプルだ。
具体的に言うと、円形の舞台の真ん中に、バウムクーヘンを半分に割ったようなかたちの、移動可能なセットがひとつ置かれていて、大道具としてはこれだけである。それを、向きを変えたりバラしたりして、あるときはソファ、あるときはコンビニのカウンター、あるときは漫画家の作業机、そしてあるときは銀行の窓口に見立てて俳優たちが演技している。
で、この「見立て」を補強するために、ところどころで堤幸彦が監督した映像作品が併用される。客席の背後の一角に大型スクリーンが設置されていて、幕間になるとそこに、コマ落とし風の映像が流れるのだ。たとえば舞台上で小松彩夏がコンビニを出て照明が暗転すると、スクリーンには、舞台と同じ衣装の小松彩夏が、実際にam.pmを出て交差点を渡るロケ映像が映される。あるいは、二人組の銀行強盗が刑事に追われて逃げ出すと、スクリーンに、彼らが刑事ドラマみたいに追跡劇を繰り広げている様子が、やはり街頭のロケ映像で映るのである。ラストの方で、ラッキーなんだかアンラッキーなんだか分からない小松彩夏が、天気雨に降られてしまう場面があるのだが、もちろん劇場に雨は降らない。その代わり舞台が暗転して、雨に降られて本物の街を歩く小松彩夏のロケ映像を観る、とか、そういう感じね。
この堤幸彦の担当した映像パートは、コマ落とし風なので、ビデオと言うよりも、写真を連写したものをつなげた感じに近いが、そういう演出になると、さすがに小松彩夏の美しさは他の出演者を寄せつけませんね。さすがグラビアアイドルのキャリアはダテではない。

3. あらすじ


ミキ(小松彩夏)は、自分は何をやってもツイてない、と思いこんでいる自称アンラッキーな女の子。それでも昔、バンドを組んで歌っていたころは、人生悪くないかな、なんてちょっぴり思ったこともあった。だから気分がヘコむと、つい当時つき合っていたギター担当の元カレ(ニックネームは「カントク」)に電話してしまう。でも返ってきた返事は「おかけになった番号は現在使われておりません」。ついてない。
腹いせに、わざわざその元カレがバイトしているコンビニまで押しかけて行って、「ガリガリ君」を買う。ガリガリ君って分かりますよね。アイスです。そんなことをするのは、彼への未練というより、ラッキーだった(ように思えた)あの頃に帰りたいという、せつない気持のあらわれだ。ガリガリ君の「当たりもう一本」バーが出れば、今日の私はガリガリ君一本ぶん、ラッキーだったことになるんだけどな。でもそれどころか、借金の取り立てに追われる元カレを見かねて、3万円貸すハメになってしまう。まったくついてない。
ミキの現在のバイトは、出会い系サイトの客引き用のサクラとして、毎日決まった時間、男たちとエッチなメールのやりとりをすること。もちろんただのお仕事なので、盛り上がるだけ盛り上がって、実際に会うことはない。そんな、顔も知らないお相手のうち、特に最近ミキに対してご執心なのが、アキバ系オタクのイガラシさん(大熊啓誉)。ところがこのイガラシ、銀行員だったのだが、自分が窓口業務を担当していたときに強盗に襲われ、多額の現金を奪われて、そのせいで銀行をクビになってしまう。ついてない。
けれどもその二人組の強盗アマノ(佐々木光弘)とナリタ(落合孝裕)が、これまた不運なのだ。人気漫画家フランケンシュタイナーの作品に描かれていた手口を手本に、まんまと銀行強盗に成功し、金は奪ったのだが、ほんのわずかな間、コンビニのトイレに隠している間に、その金がカバンごときれいさっぱり消失してしまったのである。強盗には成功したが金は無し。ついてない。
この強盗事件を担当しているのは、やさ男ふうの不思議な刑事ノムラ(宮野真守)。彼は、この事件とよく似たエピソードが、人気漫画に出ていたことを思い出し、確認しようと思って、その漫画を全巻そろえている弟のところにやって来る。ところが弟の部屋で、現ナマのぎっしり詰まったカバンを発見してしまう。ノムラ刑事は、漫画を読んだ弟が、自分で強盗を決行したのではないかと感違いしてしまう。
実はノムラ刑事の弟は、コンビニでバイトをしていて、トイレに隠された強奪金を見つけて、ネコババしてしまった張本人である。その弟ノムラカツヤ(上山竜司)、通称「カントク」こそミキの元カレなのだ。だから強盗が強奪金の中継場所に使ったコンビニは、冒頭でミキがガリガリ君を買ったコンビニでもある。
というふうに、次から次へと登場する人物がアンラッキーにリンクする。他にも、「カントク」の勤めるコンビニの支店長ヤマザキ(村木宏太郎)が、常連のOLアヤ(長田奈麻)にひそかに想いを寄せていて、そのアヤがミキの姉だとか、しかしアヤはケン(加治将樹)というホストに貢いでいるとか、ミキの元カレに借金返済を迫る取り立て人サクラ(堺沢隆史)とか、そのサクラがあこがれるアイドルのオオイシリサ(大石里沙)とか、あれやこれやの人間関係が二重三重に絡んでいるのだが、舞台もDVDもご覧になっていない方は、ここまで読んで、すでに何が何やら、分からなくなっていらっしゃるに違いない。
私の要約の仕方がまずいと言われればそうなのだが、しっかり釈明させていただくと、舞台の上では、いま述べた、ミキの物語や銀行強盗の物語やノムラ刑事の物語などなど、各エピソードが、交互に、そして均等に語られていくのだ。いちばん大きな事件らしい事件は、やはり銀行強盗なのだが、だからといってこれがメインで、あとはサブの話という関係でもない。そういうニュアンスを忠実に再現しようとすると、どうしても、どこにも話の焦点を絞れない散漫な要約にならざるを得ないんです。
要するにこれは群像劇なのだ。だから主要登場人物も、全員ほぼ同じ重みをもって語られる。特定の人物だけ描写に比重がかけられることはない。確かに、プロローグとモノローグは、ミキの独り語りで始まって終わるし、ミキの口ぐせ「ついてない」が、舞台全体のキーワードとなってもいる。そういう意味でいちおう「ヒロイン」は小松彩夏の演ずるミキだ。
でもやはり、ミキを中心に語られる物語も、あくまで、つながってコロコロ並走して行く幾つものエピソードのひとつで、ミキは複数いる主人公のひとりなのだ。そういう意味では「主演:小松彩夏」という宣伝上の扱いは、アミューズに対する一種の接待である、ぐらいの心づもりで観た方が良いと思う。

4. mcguffin


後半に入ると、いくつもの並列するエピソードは、一枚の真っ黒い千円札を中心に、それなりに収束していく。この千円札は、もともと「フランケンシュタイナー」のものだった。フランケンシュタイナーとは「藤子不二雄」や「ドゥルーズ・ガタリ」と同じようなコンビのペンネームだったのだが、一人は世を去り、今は残ったクニオひとりが「クニオ・シュタイナー」として漫画を描き続けている。彼の仕事机の奥に、この千円札はしまわれていた。
それはフランケンシュタイナーが初めて漫画で新人賞を取ったときの記念の賞金だった。その一枚にナツメはなぜか「ナツメの妄想」というキーワードから始まるコンピュータ・プログラムを書き込んだのだ。ちょっとやばいプログラムだ。だからクニオはそれを外に出さないようにしていた。
ところが、アイデアが涸渇してスランプ気味のクニオがトイレに引きこもっている間、窃盗癖のある担当編集者のサナダがこれを見つけて、小遣い銭にと持ち出してしまった。サナダは銀行で両替して、この千円札はアキバ系銀行員イガラシの手に渡る。続いてその銀行に強盗が入り、千円札は二人組の強盗のものとなる。強盗はコンビニに入り、トイレを利用する口実にちょっと小さな買い物をして、レジ打ちのカントクに真っ黒な千円札を払う。そこへミキがやって来て、1万円で「ガリガリ君」を買って、元カレのカントクからお釣りをもらうと、そのなかに真っ黒い千円札がある。こういうふうに流れ流れて、問題の千円が小松さんの手もとに届くわけです。
ミキは出会い系サイトの経営者から勝手に借用した、ものすごく度の強いメガネで、千円札にびっしり書き込まれた文字を読み解く。それは「世界を操ることのできる」プログラムだった。自分の思い通りに世界を操ることができるなら、ついてないアンラッキーな日々も、ちょっと変わるかも知れない。ミキは小躍りしていたずらを思いつく。そして出会い系の交際相手である、アキバ系でパソコン関係も得意な元銀行員のイガラシさんに連絡して、このプログラムを組み、ネット上に走らせてもらうように依頼する。
でも銀行をクビになったことで、世の中を憎悪していたイガラシさんは、このプログラムにちょっとした細工を施して、HP「エンセン」をネット上に公開する。すると、このサイトにアクセスし、このサイトから届いたメールを開いた人々が、次々に通り魔となって誰かを襲いだすという事件が続出するのだ。サイトの掲示板にぞくぞくと書き込まれる殺人予告に愕然とするミキ。早くイガラシさんを止めなくちゃ。一方、クニオ・シュタイナーもまた、一連の通り魔事件と、自分の机から持ち出された千円札との関わりにいちはやく気づき、それをネコババした担当編集者のサナダに、千円札を取り返してくるように命ずる。
という話で、後半は恐怖の洗脳プログラム「ナツメの妄想」をめぐるサスペンスとしてそれなりに盛り上がっていくのだが、それでも、この舞台の眼目は、物語への興味で客をぐいぐい引っ張っていく、というところにはないと思う。手違いで奪った金を失った強盗が、警察に追われながら金を捜すというドタバタも、ほんのイタズラ心でネットに公開された洗脳プログラムから、大きなパニックが引き起こされるという電脳サスペンスも、プロットしてはさほど新味があるものではない。そもそも、何だって漫画家のナツメに、そんな「世界を操ることのできる」プログラムが書けたのか、そして「世界を操る」って具体的にどのような内容なのか、それは最後まで説明されない。つまりこれ、マクガフィンだ。
サスペンス映画の巨匠ヒッチコックは、登場人物たちの行動の動機となり、物語にスリルとサスペンスを生み出す鍵となる小道具のことを「マクガフィン」と呼んでいる。たとえばスパイ映画で、ジェームズ・ボンドが敵国の暗号解読器を奪うように命令される。この場合の「暗号解読器」がマクガフィンだ。だからそれは、別に暗号解読器でなくても、最新型ミサイルの設計図でも、敵の秘密基地の情報でもいい。何であっても話は成立するし、「それ」が具体的にどういうものなのか、画面の中で最後まで詳しい説明がなくたって困らない。

「それはいったい何なのか。そんなことはどうでもいいんだよ。わたしたちは映画をつくるんだからね。プロットのための口実が大きくリアルになりすぎると、シナリオとしてはおもしろくても、映画としてはややこしくてわかりにくくなってしまう。映画としておもしろくするためには、すべてをできるだけ単純にしなければならない」(山田宏一・蓮實重彦訳『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』晶文社、1981年)

別にヒッチコックを意識したというわけではないだろうが、『アンラッキー・デイズ』の作者のスタンスは、これに近いんじゃないかと思う。「ナツメの妄想」は「世界を操るプログラム」で、だからみんなが大騒ぎする。ドラマの装置としては、それ以上の具体的な説明はいいよ、そんなドライな作者の目線を感じるのだ。そしてそう感じたあたりで、私はこの舞台の楽しみ方がようやく分かってきたような気がする。これは個々のキャラクターに感情移入して観るような芝居ではなくて、ストーリーと技巧を楽しみながら、幾つものエピソードが軽快なタイミングで切り替わりながら進行していく、そのテンポの良さに身を浸せばいい作品なのである。私の守備範囲とは、少々ずれたタイプの芝居だったので、最初のうちは少しとまどってしまった。いやどちらかというと私、ファミリーミュージカルとかそういうのがタイプなんで(笑)。おそらく初演を観た堤幸彦がこの作品を気に入ったポイントも、その辺にあるのではないだろうか。

5. 俳優たち


小松さんのお芝居については、すでにナマで舞台を観に行った方々が異口同音に述べておられる感想とほとんど変わりません。失礼な言い方になりますが、予想以上に良くて、ちょっとびっくりした。そして、なかなかのハマリ役だったと思う。
ふつう舞台のヒロインと言ったら、美しく孤独なお姫様とか、明るく愛くるしい料理番の娘とか、恋に身を焦がす悲劇の人魚姫とか、そんなのだ(何かジャンルが限定されていないか?)。要するに舞台ではキャラクターがくっきり立っていた方がいいよね。でもこの芝居のミキは、その辺がわりと曖昧なのである。
ミキにはアヤという姉がいる。OLというよりは「事務員」と呼びたくなる銀ブチ眼鏡に黒い腕カバーで、見るからに地味、そして口先だけのホストに引っかかって、結婚の約束をウソと知りつつ貢いでしまうような根っからの不幸体質。そのアヤを演じるのは、2004年の初演時にミキを演じた長田奈麻だ。ナイロン100℃の主力選手の一人だけあって、芝居は上手いし、薄幸な感じが良く出ているし、しかも魅力的で、胸だって小松彩夏よりも大きい。本当はこういう人の方が、舞台上ではヒロインに見えてくるんですね。私が最初にダブルヒロインと書いたのは、そういう意味だ。
アヤの左の小指は動かない。子供のころ、彫刻刀で小指を傷つけて神経が麻痺してから、アヤの人生はけちのつき通しだ。そしてミキは、その怪我は自分のせいで起こった、だから自分はお姉ちゃんより幸せになってはいけないのだと思い込んでいる。つまりミキは、本当に不運な少女と言うよりも、姉に対する負い目から、わざとアンラッキーな方向に自分自身を転がしている。それでいて「どうせ私はお姉ちゃんの小指」とすねたりもする。どうにも思い切りの悪い女の子だ。
それからもう一人、この物語にはオオイシリサというアイドルが登場する。演じているのは大石里沙で、なぜこの人だけ、そのままの名前でキャスティングされているのかは分からない。ともかくリサは、アイドルとはいえ、テレビ番組で「突撃となりのミュージシャン」というコーナーのレポーターを担当しているのだから、けっこうマイナーだ。ヨネスケ師匠から伝授されたという大型シャモジを手に、ストリートミュージシャンに突撃取材する。アポなし取材なので、鼻っ柱の強いミュージシャン達に邪険に扱われることもある。でもつねに前向きに仕事に取り組んでいる。固定ファンもいて、ちょっとキモい人たちばかりだが、いまだに昔の写真集を大事に保存してくれていたりする。明るい頑張り屋という、これもヒロイン属性の人である。だからコンビニで、「ガリガリ君」の「もう100本当たりバー」なんていうマイナーな幸運を引き当てる。アイス100本ぶんのラッキー。
自分の不幸体質と心中覚悟でホストに入れ込む姉のアヤと、仕事に恵まれないマイナーな境遇でも、生きていればきっと良いことあるさと常にポジティブなオオイシリサ。対照的な二人は、それぞれの生をしっかり生きている。でも小松彩夏のミキは、その間で、とことん不幸に堕ちることもせず、かといって前向きにもなれない、甘えん坊で中途半端な女の子として、ただ「ついてない」とぼやきながら物語を浮遊する。
この浮遊感が小松彩夏にうまく合っているのだ。前提となる説明が長くなってしまったが、小松彩夏ファンの目から見た場合、ここがこのお芝居の最大の魅力である。
舞台に姿を現わせばその美しさで観客の目を惹きつけるし、セリフも思った以上にきちんとしゃべれているのだけれど、いわゆる小劇場演劇のヒロインみたいに力強く存在するのではなく、頼りなく舞台をただよい続ける所在のなさ。小松彩夏のためにあるような役だ。というか作・演出の西永貴文さんは、そういう小松彩夏の持ち味をいかすために、今回の再演でアヤとオオイシリサの二人を配置したのかも知れない。
そしてそこにモロ師岡が絡む。かつてクニオ・シュタイナーとコンビを組んで漫画家としてデビューし、新人賞の賞金の千円札に、世界を操るプログラム「ナツメの妄想」を書き込み、そして死んでしまった男、ナツメ。要するに亡霊だ。
亡霊なんだが、それを演じるモロ師岡は、さすがというか、全キャスト中、その存在感は群を抜いている。この亡霊なのに圧倒的な生命力にあふれたナツメと、生きているのに存在感が希薄な美少女ミキがリンクして、そこからドラマは動き出す。結局、暴走したコンピューター・プログラムで壊れかかった生者の世界を修復するのも、「生きている気がしない」なんてうそぶくミキに、生きることの充実感を教えるのも、亡霊のナツメなのだ。しかし一応ネタバレになるので、物語の鍵を握るナツメのキャラクターについて詳しくは書かない。もうだいぶ書いちゃったけど。観ていない人はネルケプランニングのホームページでDVDを買おうね(ここ)。
ただ、だからと言ってこの芝居は「生とは何か、死とは何か」というテーマを掘り下げたりとか、そういう風にはならないんだよね。むしろモロ師岡と小松彩夏のコントラストをどう面白く見せるか、という発想が元にあって、そこから芝居の構成が組み立てられている感じがする。これは先の長田奈麻や大石里沙や、ときおり自分を「新世界の神だ」と口走るおかしな刑事ノムラを演じた宮野真守や、要するに全配役に通じて言えることだと思う。初めにテーマありきではなく、俳優たちのベストなアンサンブルを模索しながら、台本や演出を組み立てていったのではなかろうか。
まあしかし、ふだんの猫☆魂のレギュラー公演を観ていない私が、一本観ただけでそこまで踏み込んで言うのもどうかと思うし、だいぶ長くなったので今回はこのへんで。

6. DVD


小松さんのお誕生日祝い記事のネタにでもと思ってこのDVDのパッケージを開いた時、でも舞台をDVDで観てレビューを書くなんて邪道だよなあ、という後ろめたい気持がちょっとあった。芝居というのは生で観ないと語る資格がない、というのがやはり本筋であろう。
そう言うわりにはえんえんと書いてしまったわけだが、この『アンラッキー・デイズ』は、上演時にはスクリーンに映された堤幸彦演出の映像が随所で挿入されているし、円形劇場という環境でマルチアングルに展開された舞台をまんべんなく見せる必要からか、ふつうの演劇ビデオより編集が多い。これがけっこうテンポは良いし凝っているし、小松彩夏の魅力あるショットも少なくない。ビデオスタッフもがんばっている。そういう意味では、DVDはDVDとして、舞台とはまたひと味違った内容になっている(と思う)ので、まあそのレビューってことで、ご容赦いただきたい。とにかく小松彩夏ファンは「買い」であるので、もう一度言うが、まだの方はネルケプランニングのホームページでDVDを買おうね
というわけでおしまい。最後に北川景子さん。本当に長いブログとはこういうブログを言うのだ。安心してもっと長いのを書いてください。


小松彩夏さん、今年もお誕生日おめでとうございます。


【作品データ】『アンラッキー・デイズ』2007年9月23日 青山円形劇場における舞台
主催:ネルケプランニング<舞台スタッフ>プロデューサー:松田誠/脚本・演出:西永貴文/舞台監督:西廣奏/美術:袴田長武・鴉屋/照明:関口裕二/音響:佐藤こうじ<映像バートスタッフ>演出:堤幸彦/撮影:齋藤清貴/編集:二宮崇<ビデオスタッフ>プロデューサー:吉田麻子(シアター・テレビジョン)/撮影:大野明里・中島純・望月浩一郎・宮島俊道/編集:是永智大/音響:渡部秀明

<キャスト>ミキ:小松彩香/アヤ:長田奈麻(ナイロン100℃)/ナツメ:モロ師岡/カントク:上山竜司(RUN&GUN)/ケン:加治将樹(D-BOYS)/ノムラ:宮野真守/オオイシ・リサ:大石里沙/サクラ:堺沢隆史(猫☆魂)/クニオ・シュタイナー:秋枝直樹(猫☆魂)/サナダ:井澤崇行(猫☆魂)/アマノ:佐々木光弘(猫☆魂)/ナリタ:落合孝裕/ヤマザキ:村木宏太郎(猫☆魂)/イガラシ大熊啓誉(シャカ)/唄ひ手:松本恵理・岡崎保憲(Spanish Gauguin)