実写版『美少女戦士セーラームーン』ファンブログ


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【第139回】Special Actの巻(9)


リボンの騎士セーラームーンの掲載誌だった『なかよし』(講談社)が、次に出る2008年5月号から、ついに本家本元というか、元祖中の元祖というか、いや何の元祖だと言われても困るが、手塚治虫『リボンの騎士』のリメイクに挑戦するという。脚本は、最近リメイク版『ヤッターマン』の第1話と第2話を担当してリメイクづいている高橋ナツコ、漫画は『ぴちぴちピッチ』の花森ぴんく。ちなみにアニメ版『マーメイドメロディぴちぴちピッチ』のテーマソングを歌っていたのは3代目ムーン神戸みゆきだった。
それにしても、こっこれがサファイヤですか。てことは、後ろの人はフランツ王子ですね。ひょっとしてまさか、この絵柄で春からアニメ化でもするつもりなのだろうか。まあ、そうなったらそうなったで私も観ますが。

1. Lunar Park


さあ黒木ミオの登場だ。いちおう口もとのアップで「さてこの人は誰でしょう?」的な演出だが、大きなお口とお鼻を見れば、ほぼ一目瞭然だ。ここで画面は暗転し、テレビならAパート終了でコマーシャル。
次の場面は深夜、すでに閉鎖した遊園地「ピエロの王国」である。

「ちょっと狭いけど、新しいダークキングダムができるまでは仕方ないか。ねぇチャッピー」

セーラームーンで夜の遊園地というと「ルナパーク」なんてことばを連想する。月夜の遊園地。
1991年、後楽園ゆうえんちは「ルナパーク」と称して夜間の営業を行った。もともと一夏だけの限定企画のつもりだったようだが、これが好評を博し、翌年以降も続けられて、以降ルナパークは、後楽園の新たな夏の夜の風物詩となった。みなさんの中にも、デートスポットとして利用されたなんて方、いらっしゃいませんか。ただ、施設全体との絡みで正式名称が「東京ドームシティアトラクションズ」に変更された2003年からは、行なわれていないらしい。で、その2003年の秋、うさぎとレイとまことは、古幡元基と衛とカメ愛好家仲間の高井君と共に東京ドームシティでトリプル・デートをしているわけだ。
という話はこの際、関係ないか。ともかく、深夜の「ピエロの王国」も、まさしく「夜の遊園地」であって、そういうのが日本では明治のころから「ルナパーク」と呼ばれているのである。

ふうらりふらりと出て来るは
ルナアパークの道化もの、
服は白茶のだぶだぶと戯(おど)け澄ました身のまわり、
あつち向いちやふうらふら、
こつち向いちやふうらふら、
緋房(ひぶさ)のついた尖がり帽子がしをらしや。

   (北原白秋「東京景物詩」明治四十四年)

閉園して久しい真夜中の遊園地に、ふいに明かりが灯り、ミオが指を弾けば、極彩色の道化師たちが目を覚まして踊り出す。決して本当に息を吹き返したわけではない。ミオが手にしているのが、生きているぬいぐるみネコのルナではなく、捨てられて動かない犬チャッピイであるように、すべてがフェイクで、本物ではない。でも、このちょっとおかしな悪夢のような、けばけばしい情景は、派手づくりなミオには妙に似合っていて、美しい。
また話が外れちゃうんですが、ここで少し「ルナパーク」の話をさせてください。

2.日本に渡ったルナパーク


もともとルナパーク(Lunar Park)とは、ニューヨークのコニーアイランドに作られた遊園地の名前だった。今世紀初頭、ブルックリン南端の半島コニーアイランドにはいくつかの巨大な遊園地がつくられた。いわゆる都市近郊型リゾートの先駆けである。そのひとつが「ルナパーク」だ。1903年に開園し、40年ほど営業を続けたが、最後の数年には火災が重なって、1945年に閉園になっている。
月世界旅行ルナパーク誕生のきっかけとなったのは、1901年にニューヨーク州バッファローで開催された「パン・アメリカン博覧会」である。この博覧会で大人気を呼んだ施設に「月世界旅行」(A Trip to the Moon)というアトラクションがあった。お客さんが「ルナ」という宇宙船に乗ると、窓の外には、地球を後にして月への旅に出る光景が映し出される。宇宙船が揺れたりして、まるで本当に月旅行をしているかのようだ。上映時間はだいたい20分。ディズニーランドの「スターツアーズ」とか、現在もいろいろあるシミュレーションライドのハシリだ。
ちょっと面白いのは、翌1902年に、特撮映画のルーツのひとつ、ジョルジュ・メリエスのサイレント映画「月世界旅行」(英語タイトルがまさしく「A Trip to the Moon」)が公開されていることだ。SF映画の資料本などには、メリエスの映画はヴェルヌとウェルズの小説がベースになっているとしか書いてないけれども、ひょっとしてこのアトラクションにもインスパイアされたりしていないか、と個人的には思う。
それはともかく、この「月世界旅行」のアトラクションはたいへん好評だったので、興行主は、場所を代えてこれを公開し続けることにした。移転先は1895年に作られたコニーアイランドの大型遊園地「シーライオンパーク」(Sea Lion Park)。これをまるごと買い取り、月世界旅行をそのメインアトラクションとして、それにちなんで名称を「ルナパーク」と改めてオープンしたのが1903年である。
このコニーアイランドのルナパークの評判は、海を渡って明治のわが国にも聞こえてきた。そして、別に正式な名称権を得たわけでもないのだろうが、明治43年(1910年)浅草六区に「浅草ルナパーク」がオープンする。
浅草ルナパーク当時すでに浅草五区には「浅草花屋敷」(現「花やしき」)があった。もとは四季の草花や盆栽を見せる広大な庭園として幕末に開園した花屋敷だが、経営者が代わるにつれて菊人形や珍獣などの見せ物も増えていって、明治30年代には曲芸、西洋あやつり人形のような出し物あり、ブランコ、すべり台などの遊具ありの、ちょっとしたアミューズメントパークとなっていた。
そこへ競合するかたちで登場したルナパークは、それとはまったく違うモダンな遊園地だった。およそ1200坪(4,000平方メートル)の敷地の中央には、高さ15メートルの人口の山が作られて、滝が流れている。その周囲には「南極旅行館」「海底旅行館」「天女館」「自動機械館」といったアトラクションが並ぶ。回転飛行機やメリーゴーラウンドもある。一番人気は「汽車活動写真館」で、これは汽車型の乗り物に乗ると、窓の外には東海道線沿線の景色を撮ったフィルムが流れて、乗り物はリズミカルに揺れて、汽車の旅の気分を楽しめるという、つまり「月世界旅行」と同趣向の鉄道シミュレーションライドだ。浅草ルナパークを経営していた吉沢商店は、アメリカから映画を輸入して、映写機を製造して、映画館を建てて興行を行ない、さらには日本初の映画撮影所を設立して、後にいくつかの会社と合併して後の「日活」になっていく、日本映画の生みの親みたいな会社だったから、活動写真の技術に関しては日本一だった。
しかし東海道ライドである。宇宙船「ルナ」に乗っての月旅行ではない。なのにどこが「ルナパーク」か。
夜のルナパークそれは夜間照明だった。実はコニーアイランドの本家ルナパークも、暗くなるとすべての建物が数々のネオンで飾られていた。使われた電球の個数は億単位に及んだという。そのために、訪れる人々はいつしか、月世界旅行のみならず、「夜に輝く遊園地」という意味合いも「ルナパーク」という名称に重ねるようになっていった。浅草ルナパークは、むしろこちらのイメージを本家から借りてきて、夜間も様々な電飾を施し、幻想的な「光と影の遊園地」を演出したのである。

3.ルナパーク大阪編


残念ながら、浅草ルナパークは、開園翌年の明治44年(1911年)に漏電のために全焼してしまい、その後も復興されることなく短命に終わった。しかしその翌年、明治45年(1912年)に、今度は大阪の天王寺公園にまた別の「ルナパーク」が登場する。こっちは、大正12年(1923年)に閉園するまで10年ほど続いたこともあり、また、いま通天閣(二代目通天閣)に安置されているモダンな幸福の神(なんですかね)ビリケンが、もともと安置されていた場所ということもあって、けっこう有名である。そのへんのことは、通天閣オフィシャルホームページの「ビリケン広場」に書かれているので、興味のある向きはご確認ください。
大阪のルナパークは、第5回内国勧業博覧会の跡地に作られたという。どうも、万博の後にエキスポランドができたみたいに、勧業博覧会の呼び物だったアトラクションがベースとなっていたらしい。この時ルナパークと一緒に建てられたのが初代の通天閣で、両者は「新世界」の象徴となった。
この大阪のルナパークには「埃及館」「不思議館」「美人探検館」なんかがあったそうだ。ちなみに埃及館は「エジプト館」と読む。「不思議館」では「豊公の再生」というカラクリ劇をやっていたという。現代に甦った秀吉が、女子学生に出会い、豊臣家の滅亡から江戸時代、そして文明開化にいたる話を聞かされ、世の栄枯盛衰に涙するという物語だ。「美人探検館」は、美人の演技と映像を組み合わせた舞台を見せたという。よくわからないが、なんだか観たい。ほかにも音楽堂や屋外大演劇場、動植物園などがあったという。
通天閣パークのシンボルは「白塔(ホワイトタワー)」と名づけられた高さ約40mの塔で、展望台は初代通天閣と索道飛行船(ロープーウェイ)で結ばれていて、行き来して空中散歩を楽しめた。浅草の鉄道シミュレーションに対して「ウチらのはホンマに空を飛んでまっせ」ということかも知れないが、しかしこれも別に月旅行と結びつけられていたわけではない。この新世界のルナパークは「月の園」とも称されていて、やはりイメージ的には「夜の遊園地」なのだ。実際、あたりが暗くなったころ、ホワイトタワーから南を見上げれば、初代通天閣の「ライオン歯磨」の電飾文字が輝いて、ロープウェイがそちらへむかって宙を泳いでいた。んだと思う。
まあともかくそんなわけで、わが国において「ルナパーク」という言葉は「月夜の遊園地」というような意味で定着したわけですね。

4.終わってしまった遊園地


脱線が長すぎました。話を戻します。
さて唐突ですが、「浪速のモーツァルト」キダ・タローが作曲したCMソングの代表曲を選べと言われたら、関西の方々は「とれとれ、ぴちぴち」の「かに道楽」を選び、関東育ちの人間は「おやま、あれま」の「小山ゆうえんち」を選ぶんじゃないかと思いますが、どうでしょうか。どうでしょうかというのも何だが、ともかくその栃木県小山市の小山ゆうえんちがこの「ピエロの王国」のロケ地である。
ご存じのようにこの遊園地は、Act.41でも使われている。児童館で行方不明になったショウタくんを捜して、うさぎとなるが遊園地に行くと、そこで二人は泥妖魔に襲われる。うさぎは、なるの身を守るためになるの前で変身せざるを得なくなる(その頃、まことは古幡の前で変身せざるを得なくなる)。うさぎがセーラームーンになったとたん、例によってあたりはいきなり夜になる(笑)。この妖魔とのバトルシーン、回転木馬前でのクルクルひらひらがあったり、「V字花びらアタック」(たまらさん命名)があったり、短いながらも充実していて、私は好きだ。最後は、なるちゃんを巻き添えにした妖魔に怒り心頭のうさぎが、プリンセス・ムーンとなって、五芒星アタックであたりを焼き尽くす。
バックに五芒星を暗示する観覧車のネオンあり、移動カメラあり、派手な爆発と炎上シーンあり、ロケ地の全面協力があって撮れたような映像なんだが、実はこの頃の小山ゆうえんちって、客が来なくてほとんど末期的だったみたいなんですね。おそらく、ドラマのロケに使われたのは、実写版セーラームーンが最後だったのだろう。それでスタッフも、火薬の仕掛けなんかも、けっこうやりたい放題やらせてもらえたのではないかと思う。ひょっとして遊園地側も、これで少しは話題になるとか、他番組からもロケ地のお呼びがかかるとか、何かしら刺激にならないかな、くらいのことは考えたかも知れない。
がしかし、翌2005年初頭には遊園地事業からの全面撤退が決定し、小山ゆうえんちは3月に閉園となった。そしてその跡地に大型商業施設「おやまゆうえんハーヴェストウォーク」が開業したのが昨年、2007年7月。当初は残される予定だった観覧車も、老朽化がひどすぎて解体されることになり、結局、遊園地時代の面影を残すものといえば、ベンチにリフォームされた回転木馬とコーヒーカップだけである。
この小山ゆうえんちの歴史(1960年〜2005年)は、奈良ドリームランド(1961年〜2006年)、横浜ドリームランド(1964年〜2002年)、伏見桃山城キャッスルランド(1964年〜2003年)などと同様、戦後日本の遊園地がたどった、ひとつの典型的パターンと言える。いずれも昭和30年代後半に誕生して、高度成長期に家族向けレジャーとして発展したけれど、1984年の東京ディズニーランド開園、その後の第三セクターによるテーマパーク乱立、そしてバブル崩壊というプロセスのアオリを受けて、1990年代にはガタガタになり、今世紀に入って間もなく終焉を迎えたわけだ。私にとっては年代的にモロに自分の人生と重なる。
まあそれはともかく、だから『Special Act』は、在りし日の小山ゆうえんちを記録した最後の映像作品ということになり、深夜の「ピエロの王国」のさびれ具合は、実はリアリズムなのである。というのも、なんだか切ない話ですね。しかし今日は、遊園地からなかなか話題が離れないなあ。

5. 群馬のヨーロッパ


本日の記事は、もう話を進めるのが無理みたいなので、最後にロックハート城についてまとめておきたい。「ピエロの王国」で、黒木ミオが新生ダーク・キングダムの拠点と定めるのは、観覧車の向こうに見える西洋風の城だが、これは小山ゆうえんちではなく、群馬にある「大理石村ロックハート城」を合成したものだ。特撮ファンには『魔法戦隊マジレンジャー』のエンディングに出てきたお城、と言うのがいちばん分かりやすいかも。しかしこのお城もなかなかどうして、バブル経済の遺産である。
ロックハートっていうのは、そもそも中世スコットランド独立の英雄、ロバート・ブルース王の家臣だった人の名前ということだ。彼は戦死した王の心臓(ハート)を、鍵(ロック)をかけた箱に入れて祖国に持ち帰るという大役を成し遂げ、それで一族は「ロックハート」の苗字をもらったんだと。そういうロックハートの血を引く男爵によって、イギリスはエジンバラ郊外に城が建てられたのが1829年。
それから150年近くの時を経て、1980年代なかば、なぜか俳優の津川雅彦氏が、廃墟となっていたロックハート城を買い取る。津川さんってサンタのコレクターで、北海道に「おもちゃの国」だか「サンタの国」とかいうテーマパークを作ろうと思ったんだそうだ。そういう発想もさることながら、そのために中世ヨーロッパの城をまるごと買っちゃうあたりが80年代の発想だ。
ただこの北海道おもちゃの国のプランは途中で頓挫してしまい、津川さんは友人の平井良昭さんという方に城の権利を売った。で、この平井さんが考えたのが、群馬の高山村に「日本初!甦るヨーロッパの古城」というテーマパークを作ろう、ということだったんだそうです。時に1988年。
お城はもちろん、そのまま移動できないので、4,000個の石のブロックに分解しまして、計6,000トンのその石を、ゴルバチョフの許可を得てシベリア鉄道で輸送して、3年間、延べ人数15,000人の手を掛けて組み立てたとか、すごいんだかすごくないんだか分からないエピソードもあるんだが、まあいいや。
問題は、解体と運搬と再構築の作業が終わって、高山村に「大理石村ロックハート城」がオープンした1993年には、もうバブルなんかすっかりはじけとんでいたってことですよね。敷地内には城を中心に、バンジージャンプの設備と、テディベアの家と、津川雅彦名誉城主の「サンタクロースミュージアム」と、ストーンショップとかの土産物屋と、地ビール工場。土産物屋には、中世のお城なのに「ハートの絵馬」が売っている。「ロックハート城」にひっかけて「あなたのハートにロックオン」という意味だそうである。うう、さ、寒い。なんかもう、このうえなく典型的にバブリーである。あと「中世のお城で結婚式はいかがですか」というのがある。これはまあ、そこそこ利用されているらしい。
というわけで、経営的には色々と厳しい課題を抱えておられるであろうこのロックハート城が、サバイバルのためのひとつのアイデアとして力を入れている(と思われる)のが「フィルムコミッション」、つまりテレビ番組へのロケ地提供である。最近だと『有閑倶楽部』(2007年)で「聖プレジデント学園」として使われたり、『相棒IV』第1話「閣下の城」(2005年)に使われたりしたのが、かなり大きな扱いだった。ていうか、『相棒』のエピソードはゲストが津川雅彦なんだが(笑)。それとさっきも書いた、『マジレンジャー』のエンディング主題歌だ。あれもヒットしましたね。
その他、どういう番組に使われたかは、ロックハート城オフィシャルサイトのなかにある「練馬ICより90分で中世のヨーロッパ!!本物の城だからできる日帰り海外ロケ」というイカしたタイトルのページで確認できるんだが、しかしこの記載の仕方、お読みいただければ分かるが、妙に特撮番組に冷たくてけしからんね。
他の番組だと「来場された出演者」の項目に、たとえば『有閑倶楽部』のロケでは赤西仁くんが来たとか、一昨年の『鏡は横にひび割れて』では岸惠子とはしのえみと水前寺清子が来たとか(なんかすごい組み合わせだね。でも番組のタイトルは正確に書こうね。正しくは『火曜ドラマゴールド 大女優殺人事件 〜アガサ・クリスティー原作「鏡は横にひび割れて」より〜』だよ。長いね。)いろいろ書いてある。でも仮面ライダーや戦隊ものになると、ロケがあったってことしか書いていなくて、誰が来たかぜんぜん分からない。まあ単に「知らない」だけなんだろうけどさ。でも平成6年のテレビ朝日『忍者戦隊カクレンジャー』で、ケイン・コスギさんが来ていることは書いてある。ケインは知ってたんだね。それから変なのが平成11年のTBS『ウルトラマンガイア』で高山我夢さんが来ている。って違うよ。高山我夢はドラマで吉岡毅志が演じた主人公の役名だろう。こんな調子だから、このSpecial Actについても「平成16年、テレビ朝日、美少女戦士セーラームーン」とだけ書いてある。でもテレビ朝日じゃないし、TBSもSpecial Actは放送していない。
というわけで、折りをみては実写版のロケ地に「聖地巡礼」されているみなさん、みなさんはもう「大理石村ロックハート城」は訪問されましたか?レビューの方は、またまた話が進まないまま次回へ。もう半ばあきらめモードです。