実写版『美少女戦士セーラームーン』ファンブログ


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【第104回】DVD第1巻:Act.3の巻(その6:もしくは番外編)

1. マジでスランプ、でも読んで下さるみなさんにはそんなの関係ねぇ


 お盆休みを挟んで、ここのところブログ書きとしての私はスランプである。そうは見えないかもしれないが、それは『眠れる森の美女』神奈川公演で、ネタの宝庫のような沢井党の方々にお会いできたこと、それから、みなさんの書き込みで、コメント欄が掲示板みたいに盛り上がってくれたこと、このふたつのおかげである。毎度のことながら、ありがとうございます。
 でもその間も、けっこう時間をかけて、Act.3のDVDレビューの締めくくりの記事を書こうとしては、うまくまとまらなくて結局ボツにする、ということを繰り返していた。そうこうしているうちに北川さんのお誕生日が来てしまった。困ったね。
 問題はセーラーVとタキシード仮面にある。ご存知のように実写版のAct.1は、宝石店破りのタキシード仮面と、その前に立ちはだかるセーラーVの戦いから始まる。タキシード仮面がそういう悪いことをしているのは「幻の銀水晶」を探しているからである。つまり彼は、自分の前世を探り始めている。万が一、記憶を取り戻して、プリンセスと接近して、前世の悲劇が繰り返されることにでもなれば、大変だ。だから美奈子は、彼の前に立ちはだかる。一応そう解釈できる。それと当然、正義の味方だから泥棒を見逃すわけにはいかない、ということもあるだろう。




 ただ、セーラーVがタキシード仮面と対立する、という設定は、原作にもアニメにもなかった。原作のセーラーVは、戦士たちの前に姿を現わすまでの間、ダーク・キングダムの情報を収集しながら単独の戦いを続けていて、地場衛については特に関心を向けていなかった。セーラームーンたちの前にプリンセスとして名のりをあげた第8話(実写版で言えばAct.12)で初めて、ヴィーナスはその場に居合わせたタキシード仮面を見て、「あの男は!」とハッとするのだ。そういう意味で、Act.1のオープニングは「今までにないセーラームーンの物語が始まる」という意味ももっていたはずだ。今度のセーラームーンでは、タキシード仮面とヴィーナスが戦うんですよ。
 しかし、その後の数話で、この話の続きはほとんど進まなかった。Act.3では、セーラーVはただ夜の街を「Vちゃん走り」してルナと追いかけっこをするばかり。一方でタキシード仮面は、なぜか幻の銀水晶とはいっさい関係のないアルトゼミナールの洗脳事件や、巫女の失踪事件の最後に、とってつけたように姿をあらわす。
 Act.4では「幻の青水晶」という秘宝が、オーナーである桜木財閥の令嬢の誕生パーティーに披露される、というニュースが大々的に伝えられる。「幻の青水晶」ですよ。こんな思わせぶりなネーミングならば、戦士たちも地場衛も、それにダーク・キングダムも動き出すに違いない。それは美奈子にも予想できたはずだ。彼女が本気でタキシード仮面の活動、あるいはセーラームーンとの接触を妨害しようと思っているのなら、当然、出動すべき局面だ。にもかかわらず、美奈子はまったく動かなかった。おっかしいなあ。
 という問題については、昨年Act.7の再放送を観たときにもちょっと考えてみた(第13回)。でも私自身、納得しているわけではないので、このあたりでもういちど再考してみようと思ったのだ。しかしそのためには、まずタキシード仮面にまつわる、いくつかの不可解な疑問をクリアしなければならない。実際、タキシード仮面というのも、よくわからないキャラクターなのだ。
 それで色々と考えたり書いたりいるうちに、私はどうにもならないスランプに陥ったのである。いい歳してほかに考えることはないのか、とも思うが、お盆休みはほとんどこれで潰れてしまった。しょうがない。しょうがないので、今回の話はヴィーナスまで行かない。さしあたってタキシード仮面にテーマを絞って、問題点を整理できるところまで整理してみる。だから本日の日記には結論らしいことがない。すみません。

2. アニメのタキシード仮面は泥棒ではない


 実写版のタキシード仮面は、高価な宝石ばかりを狙う怪盗である。夢の中で繰り返し「幻の銀水晶を、お願い」と訴える謎の娘が誰であり、そもそも自分自身が何者なのかが知りたくて、夜な夜なタキシードに身を包み「幻の銀水晶」を求めて徘徊する泥棒である。つまりマスクは、犯罪者が素顔を隠すためにつけるものである。一応タテマエとしてはそういうことになっている。



 ところが実際には、この人はもうハナからそんな自分の立場を半ば忘れている。宝石泥棒ならば、宝石店とか美術館とかを狙っていればいいのに、学習塾だとか神社だとか、およそ場違いなところに、白昼堂々あの格好で現れる(いや神社に直接でてきたわけではなかったか)。そしてしばしば、セーラームーンを助ける。初めから「主人公を陰から見守り、ピンチになると、どこからともなく現れて助けてくれる謎の人物」なのだ。ガッチャマンでいうと「レッドインパルスの隊長」みたいなものである、って何もそんな古い喩えを持ち出して話を分かりにくくしなくてもいいか。ともかくそういうわけで、だからそのコスチュームも、泥棒だから変装しているというのは言い訳で、本当はセーラームーンに正体を隠すことが目的だとしか思えない。その意味で、実写版のタキシード仮面は、原作漫画よりもむしろアニメの設定に近い。
 アニメ版では、タキシード仮面は第1話から第3話まで立て続けに登場する。そして「セーラームーンのピンチ!」→「どこからともなく一輪のバラが」→「タキシード仮面参上!」→「セーラームーンを救い、去っていく」という、ファンにはお馴染みのあの展開が繰り返される。これで「困ったときにはタキシード仮面が来てくれる」というパターンは早くも確立される。その後、第4話から第6話まではタキシード仮面は出ないが、しかし第5話 「妖魔の香り!シャネーラは愛を盗む」で、ピンチのセーラームーンが「こういう時に、タキシード仮面が助けに来てくれるのよね……うわあぁぁ、こ、来ないじゃない」とあわてているように、この段階で、もうタキシード仮面が来てくれることは、一種のお約束になっているのだ。
 要するに、アニメ版のタキシード仮面は、最初から、単に「セーラームーンをピンチを救う」だけの人である。そうすると、もともと泥棒なのに、本来の目的を忘れていやしないか、という実写版と同様の問題が生じるように思えるが、それはない。なぜか。もともと泥棒じゃないからである。
 第1話を見てみよう。アニメ版の第1話「泣き虫うさぎの華麗なる変身」の前半は、原作漫画(や実写版)とほぼ同じ展開だ。月野うさぎは遅刻した日の放課後、親友のなるに誘われ、なるのママが経営する宝石店にやって来る(実写版ではジュエリーショー会場)。そこで地場衛と初めて出会い、初対面でいきなり険悪になる。ここまでは原作と変わらない。しかしその後のパートに注意したい。原作の場合、うさぎが去った後、地場衛は、なるママの店を見上げ、ひそかに「でかい店じゃないか。ここにならあるかもな、幻の銀水晶」とつぶやく。実写版も、ジュエリーショーの準備で展示される首飾りを眺めながら「ここなら見つかるかもな、幻の銀水晶」と、ほとんど同様のセリフが入る。しかしアニメ版にはこのセリフがない。衛はただじっと、なるママの店を見つめるだけなのだ。



 もちろん原作を知っていれば、このとき地場衛は、後でタキシード仮面になって忍び込むために、下見に来ているのだろうな、と思うだろう。でもそうではない。だとしたら、彼はなぜ、なるママの店の前で、思わせぶりに立ち止まっていたのか。たぶん何かの予感というか、胸騒ぎがしただけなのだ。アニメの第19話を前提に考えると、そう解釈せざるを得ない。
 アニメ第19話「うさぎ感激!タキシード仮面の恋文(ラブレター)」は、ネフライトが、セーラームーンの正体をあぶり出すために、麻布十番じゅうの少女たちに片っ端からタキシード仮面名義でラブレターを送って誘い出そうとするという話だ。余談になるが、このエピソードには、本筋とは関係ないところで、気になる場面が次々に出てくる。たとえば亜美は、体育の授業中に「この事件、レイちゃんに相談した方が良さそうね」と思い悩むのだが、その時のスタイルが、太ももも露わなぴっちりブルマの体操服で、バレーボールを胸にぎゅっと抱いているのである。一方、レイは風邪をひいて高熱で寝込んでいて、いつもの強気はどこへやら、弱々しく潤んだ瞳をしている。そしてお見舞いに来た亜美が「あたしが看病してあげるから」と、寄り添うようにレイのおでこに手を当てる場面では、ちょっとレズっぽさが漂う。いずれも浜千咲と北川景子で実現していただきたかったシーンだ。だが今はそんなことが問題なのではない。なら書くなよ。



 えーとですね、Bパートで、うさぎがセーラームーンに変身する。しかし相手は四天王の一人ネフライト、難敵だ。その時、まったく別の場所にいた地場衛は「ま、まただ!あ、頭がっ!!」と、激しい頭痛におそわれ、頭を抱えてうずくまる。するとぴかーっと光が輝き、一瞬にしてタキシード仮面に変身してしまうのだ!なんと地場衛は、セーラームーンの危機が迫ったときに、身体が自動的に反応してタキシード仮面になってしまうのである。
 セーラームーンが戦っている現場に駆けつけ、例によってピンチを助けるタキシード仮面。二人は次のような会話を交わす。


  


セーラームーン「なぜいつも助けてくださるの?」


  

タキシード仮面「無性に熱くなるんだ。血が騒ぎ、助けたくなる。……セーラームーン、遠い遠い昔、私は君と何か関わりがあったような気がしてならないのだ。記憶の片隅でうずいている。だが、思い出せない」


 アニメ版の地場衛は、月夜の狼男のように、本人の意志とは関係なくタキシード仮面に変身して、わけも分からず衝動的にセーラームーンのピンチに駆けつけて、助けてしまうのである。彼が自覚的に動き出すのは、それより少し後のエピソード、第22話「月下のロマンス!うさぎの初キッス」からである。これは原作第4話、つまり実写版Act.4に相当する話だ。夢の中で謎のシルエットから「幻の銀水晶を探して」と訴えられ、うなされて目ざめた衛は「また同じ夢か。あの娘は誰なんだ。幻の銀水晶を探せば分かるというのか?」とつぶやいて、自ら進んでタキシードに身を包み、銀水晶を求めて仮面舞踏会(実写版では仮装パーティー)に忍び込むのである。
 というわけで、アニメの第1話でも、彼は別に、宝石泥棒をするために、大阪まゆみのジュエリー・ショップを眺めていたのではなかったのだと思う。ただ何かの予感がして、思わずたたずんでいただけなのである。そして後半に登場するタキシード仮面としての彼は、あくまで衝動的に変身して、セーラームーンを助けるためにやって来たのだ。したがって以降のエピソードで、宝石が絡まない話に堂々と登場し、そのたびにセーラームーンを助けても、なんの不思議もない。アニメの彼は、たぶん何ひとつ盗んでいない。

3. 原作と実写版:Act.1・Act.2・Act.3


 一方、武内直子の原作漫画『美少女戦士セーラームーン』では、タキシード仮面は泥棒ということになっている。つまり実写版と同じ。というか、実写版が原作の設定をそのまま受け継いだわけですね。とはいえ、この原作漫画の方にも、「泥棒を名乗りながら、やっていることはセーラームーンの救援活動」という実写版のタキシード仮面が抱える矛盾は、あまりはっきりとは出てこない。そうならないように工夫がされている。
 たとえば原作の第1話「Act.1 うさぎ SAILORMOON」は、なるちゃんのママが経営するジュエリーショップが舞台となるので、宝石泥棒のタキシード仮面が登場しても、不自然ではない。これについては説明不要だろう。しかし続く第2話「Act.2 亜美 SAILORMERCURY」はどうか。進学塾の生徒たちが妖魔に洗脳される話に、宝石泥棒が絡んでくる余地はない。でも原作の地場衛は高校生だ。進学校として有名な(らしい)元麻布高校の2年。しかも、この塾で開発された、成績アッププログラム(実は洗脳プログラム)が入ったディスクを持っている。なぜ持っているかの説明はきちんとされていないが、名門校の成績優秀な生徒なので、塾から勧誘をうけて、デモ版でももらったのですかね。ともかく、衛が自分のパソコンにこのディスクを入れると「われらが大いなる支配者のしもべとなれ。そして幻の銀水晶のデータをあつめよ」というサブリミナルメッセージが聞こえてくる。ダーク・キングダムの狙いは、ゼミナールの秀才たちからエナジーを吸い上げるばかりではなかった。彼らを手先に使って、幻の銀水晶の情報を収集することにあったのだ。
 幻の銀水晶が絡む話となると、これは黙っていられない。というわけで衛は、タキシード仮面となってゼミナールに侵入する。そして再び、セーラームーンを助けることになるのだ。ちゃんと彼が登場する必然性がある。これに対して、実写版はご存知の通り。アルトゼミナールと地場衛の接点は何もない。なのにラストにタキシード仮面が登場して「セーラームーンと、セーラーマーキュリーか」とつぶやく。なぜ彼がこの場で二人の戦いを見守っているのかが、まったく分からない。
 でもまあ、無理をすれば考えられないこともない。たとえば、実はフィアンセの陽菜が、当時アルトゼミナールの非常勤講師のバイトをやっていたとかね。地場衛は、彼女とのデート待ちで近所をぶらぶらしていて、ばったりうさぎと出くわしたのである。それから約束の時間になってゼミナールに行ったら、様子が変で、セーラームーンが戦っているのを目撃する。さっそくタキシード仮面に変装して駆けつけてみたら、第2の戦士が登場して、妖魔は片づいていた。だもんだから、ゼミの建物に戻って、陽菜を助けたんだけれど、陽菜は、もうこの塾は怖いから辞めるってことになって、それで大地君の家庭教師を始めた、とか。こんなことばかり考えているからスランプになるのである。
 話を戻して、次に原作第3話「Act.3 レイ SAILORMARS」は、火川神社前の停留所を通る通学バスに乗った生徒たちが、バスごと異次元空間に呑み込まれて失踪するという話だ。これも直接、幻の銀水晶が関わる話ではない。しかし原作では、地場衛もこの路線のバスを利用して通学している高校生なのである。だから失踪事件に無関心ではいられず、真相を捜査するために、ふだん泥棒行為に使っているタキシードとマスクに身を包んで捜査を開始するのだ。



 まあ火川神社の鳥居の陰で、タキシード仮面の姿でこっそりあたりの様子をうかがう地場衛は、こっそりどころか、よけい目立つんじゃないかとは思うが、いちおう変装の理由ははっきりしている。でも実写版のAct.3は、通学バスの生徒ではなく、火川神社の歴代の巫女さんがピンポイントで妖魔にさらわれる話に変わっているので、地場衛が事件に絡む必然性がなくなってしまった。だから出てこない、と思ったら、何の前置きもなく最後の最後に、倒したはずの敵の触手にひきずられるセーラームーンを助けるために、突如として現れるのである。意味不明である。
 いや、これも考えられないことはないか。この日、衛は陽菜に「神前結婚もいいわね。式場とか見てみない」と誘われて、万寿閣に来ていたのである。そこで二人で庭園をそぞろ歩きしていて、途中で衛は、陽菜と離れてトイレを探していたところで、偶然レイが「悪霊退散」のお札を投げつけて、もう一人の巫女(実はうさぎ)と謎の空間に吸い込まれる場面を見てしまった。それで不審に思って後を追っていくと……やっぱり無理があるな。どうやってあの異空間に入ったのかが分からない。
 先日の『眠れる森の美女』公演の出待ちで、とってもきれいなナマの松下萌子さんを間近に見てしまった後遺症で、ロクでもない妄想がふくらむばかりなのであるが、ともかくこのように、原作漫画のお話は、タキシード仮面が出てこなければならない必然性について、わりときちんと考えてあるのに、実写版はことごとく、それをないがしろにする方向でアレンジしているのだ。

4. スーパーマンではなくバットマン


 さらに言えば、タキシード仮面が「変身」なのか「変装」なのかという問題についても、実写版はわりと大ざっぱに扱っている。アニメの彼が、特殊な「変身」であることについてはもう述べた。原作ではどうか。原作漫画も、後半になると、タキシードの別名「スモーキング・ジャケット」にひっかけて「タキシード・ラ・スモーキング・ボンバー」などという意味不明の攻撃技を出してスーパーヒーロー化して行くことになるが(「ラ」って何だ?)、初期のタキシード仮面は、普通の人間である。いや普通でもないか。でもとにかく、特殊な変身能力をもったヒーローではなく、生身の人間の変装であって、セーラー戦士たちとは違う。
 これは原作初期(ダーク・キングダム篇)のわりと重要なポイントだ。というのも、タキシード仮面は常に「やるなら今だぞ、セーラームーン」とか「今だ、けりあげろ」とか「すぐ目の前に敵がいるんだ、気をつけろ」とか「君ならできる、セーラームーン」とか、要するに必ずアドバイスのかたちでセーラームーンを助けるのである。実写版のように、自分の身を挺して、妖魔の攻撃からセーラームーンを守ったりしない。生身の人間である彼にはそういう力はない。だから彼はうさぎに言う「わたしはどうしても幻の銀水晶がほしい。だがわたしにはなんの情報もなくて、きみのような力もない。変身するんだ、セーラームーンに。きみだけだ、みんなをすくえるのは」。セーラームーンには力があるが、タキシード仮面のアドバイスが必要だ。タキシード仮面は、単体では妖魔を倒す力をもたないただの人だが、セーラームーンを励まして、その能力を引き出すことができる。だからふたりは結ばれる。そういう関係になっているのである。
 実写版はどうか。Act.1やAct.4のタキシード仮面は、ジェダイトやネフライトの前に立ってセーラームーンを守り、果敢に戦う。Act.3では異次元空間に飛び込んできて脱出の手助けをする。明らかに原作よりも一歩進んで、妖魔や四天王とも戦える力をもっているように描かれている。
 しかしAct.7で、その力は「人間並み」に後退する。なにしろタキシードの衣装を元基の母親に繕ってもらったりするのである。そして妖魔やジェダイトの攻撃を身をもって防ぐものの、わりと簡単に負傷して、セーラームーンにハンカチで傷の手当てをしてもらうのだ。この路線の延長がAct.9である。ここでは、四天王よりもはるかに扱いやすいはずの警官隊にセーラームーンが追われているのに、自分から助けには入らず「変身するんだ」とどこからともなく助言する。で、一緒に夜まで逃げ回ったあげく、原作同様に「おれには、お前たちみたいな力がないから」と言いわけする。
 ところがその後、Act.11でゾイサイト、Act.13でクンツァイトと対峙するあたりから、前世の記憶を刺激されて、ふたたび「特殊な人」になっていく。この点に関しても、実写版のタキシード仮面の描き方には、どうも一貫性がないように感じられるのだ。

5. 揚げ足取りがしたかったわけじゃないんです


 タキシード仮面に関しては、あと二、三点、疑問に感じるところがあるのだが、ちょっと力尽きてきた。そろそろ終わりにするけれど、たぶん皆さん、何で私がAct.1、Act.2、Act.3のタキシード仮面とセーラーVについて、こんな揚げ足取りみたいな細かい比較をしているか、よくお分かりいただけないかも知れないので、少し説明しておく。
 初めに述べたように、実写版セーラームーンは、セーラーVとタキシード仮面の対決という、それまで原作でもアニメでも観たことのなかった鮮やかなシーンで幕を開ける。しかしそこで暗示される、セーラーヴィーナスとタキシード仮面、そしてセーラームーンをめぐる実写版オリジナルのドラマは、すぐには始まらない。



 それはどこから始まるか。普通に考えればAct.7だ。Act.7で、セーラーVはセーラームーンに忠告する「彼に近づいてはナメ、絶対に。危険なのよ、彼は敵だと思いなさい」ここでようやく、Act.1のアヴァンで示された、セーラーVとタキシード仮面の対立ポイントが、具体的に語られ始めるのである。同時に、遊園地の鏡の間で、地場衛に手を握られたうさぎは初めての恋のときめきを感じ、一方、衛はセーラームーンの正体が月野うさぎであることを知り、次第にこの少女に心ひかれてゆく。そのときからタキシード仮面のコスチュームは、実写版だけの独特の意味をもってくる。以前の日記に書いたように、それは衛が、陽菜という婚約者がいながらうさぎを助けようとする自分に対して「いま自分は、陽菜の婚約者である地場衛ではなく、セーラームーンを助けるタキシード仮面なのだ」と言い訳けするための隠れ蓑の役割となる。
 そういう意味で、うさぎを挟んで展開する美奈子と地場衛の対立の物語は、確かにAct.7から始まる。でも私は、そのためのプロローグとして、Act.4も重要だと思う。
 そんなこと言っても、Act.4に美奈子は出てないじゃん、という声も聞こえてきそうだ。確かにそうです。でも、唐突ですがAct.35のこんなセリフを思い出してみて下さい。


  


うさぎ「あの、私、ずっと美奈子ちゃんにお礼言いたかったんだよね」
美奈子「え?お礼?」


  


うさぎ「その、実は好きな人がいて、ぜんぜんうまくいかなくって、もうダメかなあって思うときもあったんだけど、そういうとき、美奈子ちゃんの歌で励まされたっていうか。美奈子ちゃんの歌うたっていると、元気でたし頑張れたんだよね」


  


うさぎ「今、すごいうまくいってるのって、美奈子ちゃんのおかげだと思う。ほんとに、歌ってくれてありがとう。あー、言えて良かった。いただきます!」


 この時うさぎの脳裏にあるのは、たぶんAct.4の「C'est la vie」と、Act.26の「C'est la vie」の間にある、これまでの喜びや悲しみの、すべての思い出だ。きっとそうなんじゃないでしょうか。
 Act.4で、ビルの屋上から落ちかかったとき、セーラームーンとタキシード仮面は不思議な光の球体に包まれた。そしてこの二人だけの小さな世界で、セーラームーンは思わず「C'est la vie」を歌った。これまでクラウンでなるやカナミやモモコと美奈子を歌っていたときの元気印のうさぎちゃんとは違う、初めての感情に対するときめきや温かさのこもった歌声だった。その時はじめて、セーラームーンとタキシード仮面は、言葉らしい言葉を交わしたのだ。けれども直後にルナから「あなたも幻の銀水晶を探しているの?あなた、いったい何者?」と訊ねられたタキシード仮面は「さあな。同じものを探しているなら、敵かもな」と冷たく言い、去っていった。それが二人の「ぜんぜんうまくいかなくって、もうダメかなあって思うときもあった」恋の、ほんとうの始まりだったと思う。
 そしてAct.26で、衛は、うさぎへの想いをカムフラージュするためにまとっていたタキシードを捨て、陽菜とも別れて、一人ロンドンに発つ。タキシード仮面はそこで終わり、うさぎは、飛び去る飛行機を背に「C'est la vie」を歌い、哀しみをこらえて自分を励ましていた。



 そんなふうに、二人の恋を、嬉しいときもつらいときも支えてくれたのが他ならぬ美奈子の歌であることを、Act.35でうさぎは美奈子本人に伝えたのだった。美奈子は、ゾイサイトのオルゴールでうさぎの記憶を消そうとしたけれど、うさぎは消え去りかかった記憶に向かって、涙声で「C'est la vie」を歌う。それを聞いて、過ちをさとった美奈子は、最後にセーラームーンとエンディミオンに、チケットぴあの封筒に入った自分のコンサートのペア券を渡して、これまで二人の仲を引き裂こうとしたことを謝罪したのである。というように、私は実写版独自のうさぎと衛と美奈子のストーリーは、Act.4から始まり、Act.35でひとまず決着をみる、と考えているわけです。



 で、そうするとそれ以前の、Act.1、Act.2、Act.3というのは何なのか。ありていに言って、この段階では美奈子はまだ出番もほとんどないし、タキシード仮面も、ただ各エピソードのラスト近くに登場して、アニメ版と同じお助けマンを演じるだけである。もちろん、放送当初この番組はあくまで「あの(アニメの)セーラームーンの実写化」として注目を集めていたわけだし、メインの客層は小さいお友だちなんだから、そういうアニメ版のシンプルな要素を残す必要はあったのだろう。それでも、その後の展開のなかで、実写版独特のタキシード仮面のキャラクターを組み立てて行くためには、原作どおりの宝石泥棒という、複雑な内面もキープしておきたかった。結果として、最初の3話におけるタキシード仮面は、原作とアニメ版の、あまり上手ではない寄せ木細工のようなものになってしまった。物語が滑走路に乗るまでの、そういう小林靖子先生の苦労の跡を、最初の3話におけるタキシード仮面の矛盾点の総括というかたちで、多少なりとも確認しておきたかった、というだけの話です。別に揚げ足を取りたかったわけじゃないです。


 やっぱり、スランプで書いた記事をいくら整理しても、字数は多いがこんなもんにしかならないなあ。次回は気分を変えて、おくればせながら北川さんのバースデーを祝うような記事にしたいと思います。がまだ内容は未定。加藤実秋の『モップガール』レビューなんかどうかとも思うが、2006年8月号から2007年4月号まで、小学館の文芸誌『きらら』に連載されて未完のまま終了した作品で、まだ単行本化もされていないという。困ったね。どうなんでしょう。ともかく、ドラマの方は、きっちり完結して「未完に終わった『トゥルー・コーリング』を越えた!」なんて評価を勝ち取ってください。がんばれ。