実写版『美少女戦士セーラームーン』ファンブログ


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【第93回】セーラームーンあれこれ話から七つの海へ、の巻


今日はゲキレンジャーも電王もプリキュア5もお休み。実写版の天敵であったゴルフ中継が入った。父の日の本番なのに。父の日なら、お父さんが子どもと喜ぶメレちゃんとかハナとかナオミとかピュアアクアとか出さなきゃダメだろう。まったく、ゴルフ中継なんて。

1. 千恵子は東京には仕事がないといふ/ほんとの歌がうたいたいといふ


 これから名古屋で毎月やってくれるのだろうか、なんて夢を見てしまうぐらい、先月に続いて楽しい夜だった。例によって名古屋市瑞穂区のダーツ・バー「HIBIKI=EN」での、弓原七海ミニ・ライブの話である。弓原七海はティアラをつけていたよ。下町のプリンセスという風情であった。彼女の弾き語りに耳を傾けるオーディエンスは、もちろん全国から駆けつけたお馴染みのみなさん。
 私は、最初はライブだけ聴いたらダーツはパスしてそーっと帰る予定で、カウンターでちびちび呑んでおりました。しかし事務所の社長さんが出てきて「次はダーツ大会で、それが終わったらできたての新曲CDを先行販売します」なんて言うもんだから、帰るに帰れなくなっちゃった。そうこうするうちに、店の常連のお客さんが次々とやってくる。実はこの日は店のマスターの誕生日だそうで、みなさんお祝いの声をかけている。七海さんも「ハッピー・バースデー」を歌ってらっしゃいました。まあ、そんなこんなで大にぎわい。
 あ、ついでですがD.Sさんもお誕生日おめでとうございます。私は昨夜、万丈さんから「友だちの友だちはD.Sさん」という格言を教えていただきました。ネットで、実写版関係の新しい知り合いが出来たと思っても、結局みんな、D.Sさん経由でとっくにつながっている、という意味だそうです。偉大です。

 ダーツ大会決勝では、またしても万丈さんが弓原七海さんに勝った。今後もライバルとして七海さんの前に立ちふさがるつもりらしい。途中デッドヒートを繰り返しながら最後は勝つ、という試合パターンも確立されている。その意味で万丈さんはお強いのだが、でも他の人たちも凄かった。たとえば、後ろから離れて見ていたので間違っていたらすみませんが、カシオペアさんとか、ダーツをやってる間も、ずっとカメラを首に下げていらしゃいませんでしたか?そんな重石を首に下げて、自らハンデを背負って競技する人って、普通いませんよ。
 でも近くに七海さんがいるのである。というか、このダーツ大会は、七海さんを囲んでの一種の交流会みたいなものなので、いつ何時どんなシャッターチャンスが訪れるか分からない。だから常にカメラを下げているというのは理論的に正しい。正しいのだが、やっぱり不思議な光景ではある。
 私はその様子をしっかり見届けてから、新曲CDを買って、ブロマイドにサインを貰って、七海さんと握手して帰ったんだけど、その隣で万丈さんが「ふふふ、これでLeoさんも……」みたいなことを囁くんです。う〜ん、困ったなあ。河辺千恵子さんの新曲がもう一年以上出ていないという状況のなかで、私はこんな呑気なことをしていて良いのか。
 河辺さんがアシスタントをやっている『TokyoOchimasatoRADIO 』のこの間の回は小倉優子インタビューだった。こりん星の面積はサイパンと同じなんだそうだ。ええい、そんなインタビューをやらせているヒマがあったら、早く2ndアルバムの制作を始めなさい、と私は事務所に向かって強く訴えたい。

2. 決めゼリフあれこれ


 さて、前回の最後の方で紹介させていただいた 小黒祐一郎氏のコラムに書かれているとおり、アニメではおなじみの、セーラーマーキュリーの「水でもかぶって反省しなさい!」やセーラーマーズの「火星に代わってせっかんよ!」というフレーズは、もともと『アニメージュ』誌の企画から生まれたものである。うさぎの「月に代わってお仕置きよ!」に匹敵するフレーズを、ということで読者から募集したんだそうだ。じゃあヴィーナスやジュピターの決めゼリフはどうなんだろうね。やっぱり読者公募なのかな。

 でも、ヴィーナスの「愛の天罰、落とさせていただきます!」は記憶している人も多いと思うが、ジュピターの「しびれるくらい後悔させるよ!」になると、どうかな。この二人については、別バージョンもある。ヴィーナスの方は『セーラームーンS』の最終回近く、第123話で、他の戦士がいつもどおりのセリフを決めるなか、ヴィーナスだけが「愛と美貌で救ってみせるわ、この星を!」と見得を切る。「愛と美貌で救ってみせるわ」なんて、ちょっと小松彩夏に言わせてみたいと思いませんか。
 それからジュピターにも「木星に代わってヤキ入れてやるよ!」というスゴイのがあるそうだが、これなんか、どこで使われたんだか、私にはさっぱり憶えがない。これもちょっと安座間バージョンで聞きたいね。あの抑揚のないハードボイルドなセリフ回しで「ヤキ入れてやるよ!」なんてやられたら、けっこう怖そうだ。
 それはともかく、原作漫画はこれらのセリフを採用しなかった。もちろん原作にも、多少はアニメ版を連想させる言い回しもあった。たとえば『コードネームはセーラーV』第11話で、セーラーVが「愛のクレッセント・シャワー、ふらせていただきます」と叫んだりするのは、ちょっとアニメ版っぽい。でも基本的には、他の戦士たちが言うセリフも、だいたいセーラームーンの「お仕置きよ!」のバリエーションだった。1回しか使われなかったけど、セーラーマーズの「ハイヒールでお仕置きよ!」なんて、けっこう有名ですね。様々な妄想のふくらむ名フレーズだと思う。
 原作者がアニメ版のセリフを使わなかった理由は分からないが、やはりどれもイマイチだったからなんじゃないかと思う。そのくらい「月に代わってお仕置きよ!」というフレーズはインパクトがあって完成度が高かった。これに較べれば「水でもかぶって」だの「せっかん」だのというのは、やはりいかにも理が勝ちすぎというか、後から苦労して考えましたという感じがする。それで武内先生にはあんまりピンとこなかったのではないか。

 という私の想像が当たっているかどうかはともかく、実際問題として、アニメ版から生まれた戦士の決めゼリフは、原作漫画ではとうとう最後まで使われることがなかった。その一方、セラミュはアニメの路線を継承して、亜美ちゃんたちは「水でもかぶって反省しなさい!」とか言い続けたわけである。
 ご存知のとおり実写版は「原作原理主義」という旗印のもと、アニメ版の決めゼリフを廃した。当然のこと、あまり事情を知らないファンの間からは、どうしてマーキュリーは「水でもかぶって反省しなさい」って言わないの?「水星に代わってお仕置きよ」って言うの?という疑問が起こった。そして一部のアニメファンは、だから実写版はダメなんだよと批判した。つまり「アニメ版よりも原作をベースにしているから実写版はダメだ」という理屈だ。アニメ版セーラームーンのファンの一部には、アンチ原作派が存在するのである。

3. 「原作」と「テレビ版」



 私は【第47回】の日記で、セーラームーンには「アンチ原作派」アニメファンという「奇妙な存在」がいる、と書いた。そしてその理由について近く考えてみよう、と言いながら、ずっと放ったらかしにしていた。あまり楽しい話題でもないので、なんとなく気が進まなかったんだが、この機会に、そのことをちょっと書いておきたい。
 たとえば『ルパン三世』という作品は、原作とアニメ(特に第2シーズン以降)ではかなり味わいが違う。モンキー・パンチのメカの描写は実にいい加減で、実在する銃器や自動車がリアルに描かれることは決してない。拳銃なんか、リボルバーかオートマチックかの見分けもつかないくらいだ。それに原作のルパンは、けっこう不二子と寝ちゃったりもする。一方、アニメの方は当初から、ルパンの愛車はベンツSSKだとか、次元のガンはスミス&ウエッソンM19だとか、実在のメカを忠実に再現するという、当時のテレビアニメとしては画期的な作画方法がとられている。また、初期の作品にはエロティックな描写も多かったが、だんだん少なくなっていって、ルパンと不二子の間柄はなんだかプラトニックになってしまった。かなり違う印象の作品なのだが、でもアニメ版のファンの人が原作を「こんなのはルパンじゃない」と批判した、という話はあまり聞かない。

 あるいは『デビルマン』や『ゲッターロボ』といったダイナミック・プロの作品も、原作とそのテレビアニメ化では、天と地ほども話が違っているが、原作支持派とアニメ支持派の対立闘争があったなどという話は、聞いたことがない。個人的にどっちが好きということはあっても、原作あってのアニメであり、アニメのヒットがあったからこそ原作も書き継がれた、というふうに、互いを尊重し合うのがマナーというものである。でもセーラームーンに限っては、なぜか原作派とアニメ派の仁義なき戦いがあったのだ。漫画の不動明が「デ〜ビ〜ル」と叫んで変身しなくても、特に反撥されたりはしなかったのに、漫画の亜美ちゃんが「水でもかぶって反省しなさい!」と言わないことに、アニメ版のファンは文句をつけた。なぜだろうか。
 セーラームーンは、かつての石森章太郎(石ノ森章太郎)原作の特撮物や、永井豪あるいはダイナミック・プロ原作のアニメと同様のタイアップ企画である。『仮面ライダー』は、石森章太郎の『スカルマン』という中編漫画を読んだ東映の平山亨プロデューサーが「これをもう少し子ども向けのヒーローものにアレンジできないか」と石森氏に依頼したことから新たに構想された。また『デビルマン』もやはり東映側が、永井豪の漫画『魔王ダンテ』を、もう少しアニメ向けの企画として練り直せないか、と原作者に持ちかけたことから実現している。つまり、いちおう発想の原点となる漫画はあるものの、『仮面ライダー』なり『デビルマン』なりという作品そのものは、ある意味で漫画家と東映側との「合作」によって作られている。
 当時、東映で多くの脚本を手がけていた辻真先氏などが最近あちこちで語っているが、これらのケースでは、最初に原作者とテレビ版スタッフがミーティングを重ねて、主要キャラクターや基本設定を話し合って決めるけれども、後はそれぞれやりたいように、という感じでやっていたそうだ。だから『仮面ライダー』も『デビルマン』も、雑誌連載とテレビ放映とは、話が進めば進むほどぜんぜん違う内容になっていった。石森章太郎氏自身の描く本郷猛は、ショッカーに無理やり改造人間にされてしまった悲哀と苦悩をずっと背負っていたが、テレビ版は回を重ねるほどに脳天気な変身ヒーローアクションになり、最後には原作にない「変身」ポーズまで登場した。しかし、そういうテレビ版がヒットしたからこそ、子どもにとってはかなり陰気な原作本が、ちゃんと売れたということも事実だ。関連商品による収入だって相当なものだったろう。だから石森氏は「テレビはテレビ」と割り切って考え、藤岡弘が撮影中の事故で出演できなくなれば、原作の方にもちゃんと一文字隼人の2号ライダーを出す、という程度に、ゆるやかにテレビ版と歩調を合わせながら、あえて東映にはつべこべ口出しせず、黙々と自分の『仮面ライダー』を描いていたのだ。

4. セーラームーンの場合


 『美少女戦士セーラームーン』は、武内直子の漫画『コードネームはセーラーV』から生まれた。それをアレンジして、セーラームーンとセーラー戦士たちという構想を生み出したのは誰か。「五人の戦士・ダークキングダム・四天王などという構想をこちらで立て、原作者武内直子に提示して、キャラクターを考えてもらった」と東映サイドは言うし、「月のプリンセスと戦士たちという基本アイデアは自分が考えた」と武内直子は言う。どっちが本当かは分からないし、詮索する気もない。要するにこれもまた『仮面ライダー』や『デビルマン』などと同様、もととなる漫画をベースに、原作者と東映側が話し合って設定を練った、一種の合作と考えるべきだろう。
 そしておそらく東映側としては、石森章太郎や永井豪のころからの伝統として、基本設定が決まったら、あとは最低限の歩調を合わせつつ、アニメはアニメとして好きなようにやらせてもらうし、原作漫画は「武内直子」の個人名義で自由にやってもらう、必要以上の互いの口出しは無用、という暗黙の了解も成立したと思っていたのではないだろうか。
 ところが、武内直子はそう思っていなかった。「原作者」である以上、映像化にあたっても、自分の意向を反映させる権利があると、たぶん考えたのだ。だから神秘的なクール・ビューティーのはずだった火野レイが、うさぎと低レベルの喧嘩をするボケキャラになっていったことに対して、アニメ版のスタッフに苦言を呈したというし、第1シーズンの好評を受けて『セーラームーンR』の劇場版制作が決定したときには、当初は自らがストーリー案を書いたという。ところがそれはアニメ版スタッフによって不採用とされてしまう。
 完成した劇場版『R』は、アニメ版独自の魅力の担い手であった幾原邦彦のカラーが前面に出た作品で、非常に高い評価を受けた。しかしそのことは、武内直子にいっそう不満を感じさせたに違いない。彼女は、次の劇場版『セーラームーンS かぐや姫の恋人』では、自分の書いたプロットにこだわり、これを押し通した。そのせいでアニメ版スタッフとの間に相当な軋轢が生じたらしいことは、原作漫画『かぐや姫の恋人』(旧版コミック第11巻に収録)の「あと書き」を読めば容易に想像できる。



実際(以前にも言及したが)アニメ版の色彩設定を担当したスタッフは、「原作者であらせられる武内女史が映画用の原作をわざわざ書き下ろしてくださった、のだが、これがまた、まったくもっておもしろくもない代物で、ほとほと苦労した」と、かなりロコツな皮肉をおっしゃっている。
 「原作者」のたび重なるアニメ版への要望や介入に、アニメの現場は当惑と不満をいだき、それはしばしばグチとなって外部に漏れ、アニメ版のファンにも知られるところとなった。さらには、当時の武内直子の行状についても、いろいろと噂が出回った。クンツァイトとかネフライトとかいうネーミングからも分かるように、この人はもともと、石とか玉が好きでコレクションしているらしいのだが、その手の店に現れて、高額な光り物をケースごとまとめて大人買いしたとか、そんな話はけっこうある。真偽のほどはともかく、とにかくアニメのヒットによって武内先生の私生活がそうとう豊かに潤ったのは事実なわけで、にも関わらずアニメにケチをつけるとは何事だ、というようなことも、原作者への反感を募らせる要因となった。
 要するに、石森章太郎や永井豪は東映側と「大人のつきあい」ができたが、武内直子はそれができなかった。両者の間には不協和音が生じ、それがファンの耳に届いたことが「アンチ原作派」ファンという勢力を生み出してしまった原因なのだと思う。
 私はこの項、かなり客観的に書いたつもりだが、本当は、心情的にはやや武内先生寄りである。いくら原作とテレビは別物だって言ったって、原作者の側には、やはり「あれは自分の作品だ」という思いが残るはずだ。石森章太郎だって「原作使用料は原作無視料」と皮肉めいたことを言っている。たとえば漫画『仮面ライダー』で最後に明らかになる敵の正体は、日本政府だ。悪の組織ショッカーを背後で操っていたのは、国民総番号制をたくらむ保守党政権だった。だからショッカーの首領は、最後に仮面ライダーに向かって「本当に悪を撲滅したいなら、お前は現政権を(ひいてはそれを選んだ国民自身を)倒さなければならない」というようなことを言う。




まあ、石森漫画としては典型的なパターンだが、テレビ版でこういう苦い結末がそのまま採用されることはほとんどなかった。石森先生だって、ひとつぐらい原作に忠実な映像化があってもいいじゃないか、くらいのことは考えたろうと思う。
 それに、武内直子がアニメのスタッフに自分の要望を出したのは事実だろうが、だからといって一方的に自分の意向をおしつけただけとは、私は思っていない。それは原作を読めば分かる。きちんと読めば、漫画とアニメの間で小さなお友だちが混乱しないよう、できるだけ戦士たちのキャラクターをアニメ版に合わせようと、かなり努力した跡が、原作のあちこちにうかがえる。おそらく、三石琴乃をはじめとする声優たちと、プライベートでつき合いがあったという事実も関係していると思う。だから武内先生自身の気持ちとしては「私だってアニメに合わせてこれだけ譲歩したんだから、アニメの方ももう少しくらい原作をリスペクトして欲しい」という感じだったんではないかと推測している。
 実写版の制作発表で、白倉プロデューサーがどういう狙いで「原作主義」をうたったかは分からない。ただ少なくともこの段階で、すでに「アンチ原作派」のアニメファンを刺激したことは確かだ。放送開始時点で、すでに敵に包囲されていたとも言える。そしてここから、(1)「アンチ原作派」が「原作主義だから」という理由で実写版攻撃の口火を切る、(2)そこへ他のアニメ版主義者も、セラミュ派をオルグしながら合流する、(3)さらには対立していたはずの「原作派」の一部の勢力さえ「ぜんぜん原作に忠実じゃないじゃん」と実写版批判に転じる、という四面楚歌な状況が生まれていったのである。それを説明することが主な目的で、そのための「アンチ原作派とは何か」という話題だったのだが、だんだん気分がめいってきたので、もうその後の話は、やらない。すみません、やっぱり「アンチ原作派」のことを書こうとすると、心が乱れる。

5. ゲームバージンの私


 うーん、というわけで勝手ですが、ちょっと最後は明るい話題にしよう。
 石肉さんの『さわいみゆうのこえのつや』が更新されたので読んだら「最近、特撮を考察する上での参考までにと、555、ブレイド、カブトのゲームを買ってみました」なんて書いてあって、さらに「実写版せらむんにもゲームがあればどんなに嬉しかっただろう…と思ってしまうのは、わたしがガキだからなのでしょうか」と結ばれていた。

 実写版のゲームがないのは、たぶんタレントの版権が絡んでいるからじゃないのか、と思うのだが、それはともかくとして、アニメ版に関しては、色々とゲームが出た。スーパーファミコンとか、PCエンジンとか、そしてゲームボーイやプレイステーションとか。
 ただし断っておくが私はひとつもやっていない。昔、知人が「面白いから」と借してくれて、初めてパソコンゲームというものをやったとき、すっかハマってしまった。たまたま5月の連休でヒマだったということもあるが、もう文字どおり寝食を忘れて、何日間もただパソコンの前で過ごすハメになってしまった。そしてクリアした後の徒労感のなかで「だめだ、こんな覚醒剤のようなものに手を出したら、私は廃人になる」と思って、以降は絶対にゲームに近寄らないことにした。ちなみにそのゲームは、起動ディスクとプログラムディスクの5インチフロッピー2枚のゲームでした。時代がわかるでしょ。
 そんな私がセーラームーンのゲームに興味をもったきっかけは、バンプレストから出たという「デジタルコミック」なる形式のPCエンジン版RPGゲーム『美少女戦士セーラームーン』(1994年)の存在を知ってからだ。
 このゲームでは、まず無印の敵だった四天王が、『R』のラスボス、デスファントムの力で復活する。そしてセーラー戦士を攻撃する、というのがメインの話らしいんだけど、ただ四天王には、自分たちはエンディミオンの護衛戦士だったという前世の記憶が甦ってきて、色々と悩んだりするそうである。
 ご存知のように、アニメの四天王はもともとベリルに使える悪役であり、前世ではエンディミオンのしもべだったという原作の設定は「なかったこと」にされてしまっている。このゲームは、その設定を復活させたうえで、第1部「ダーク・キングダム篇」と第2部「ブラック・ムーン篇」(アニメの『R』)をつなぐ外伝的内容になっているのだ。非常に興味深い、と思ったら、武内直子が監修にあたっている。つまり武内先生、アニメ版への欲求不満を、ゲームのシナリオにぶつけて解消していたらしいのだ。
 ということは、ひょっとすると、他にも武内先生がいろいろ口出しをして憂さ晴らしをしていたセーラームーンゲームというものが(笑)あるかも知れない。そう思って、折りをみてはネット上で、誰か古いセーラームーンゲームで遊んだ感想なんかを挙げていてくれていないかな、と捜したりもしているんですが、なかなか面白いものが見つかりません。たんにキャラクターだけを借りてきただけ、みたいなゲームも多いみたいだし。

 ちょっと面白いなと思ったのは、スーパーファミコンやゲームボーイで出ていたという『美少女戦士セーラームーン』(1993年)。バンダイの子会社、エンジェルから発売されたアクションゲームで、5人の戦士の中から1人を選んで、横スクロールで次々に現れる敵のヒットポイントを取っていくスタイル、と書いてる私にもよく分かりませんが、ほとんど『ファイナル・ファイト』のパチもんみたいな内容だそうです。だからとりたててどうこう言うもんじゃなさそうですが、興味を惹かれたのは各戦士の特徴づけ。セーラームーンはもちろん標準タイプですが、セーラーマーキュリーは敏捷さにすぐれ、セーラーマーズは高いジャンプ力をもち、セーラージュピターは腕力があり、セーラーヴィーナスは特にリーチが長い、という区別があるらしい。
 マーキュリーが敏捷というのは、実写版で初めて出てくる設定だ。アニメにも原作漫画にも出てこない。でも武内先生の原案では、マーキュリーは加速装置をもつサイボーグだった。つまりその設定が反映されているのである。ということは、他の戦士の特性についても、原作者のアイデアが活かされているのかも知れない。

ヴィーナスのリーチが長いのは、ラブミーチェーンからの連想だろう。ジュピターの怪力については説明不要。で、問題はマーズだ。誰よりも高くジャンプできるというのは、面白いね。まあそれだけなんですけれど。
 あとはプレイステーションの『美少女戦士セーラームーンSuperS 真・主役争奪戦』(1996年)も、説明を読む限りとてもおかしなゲームだ。このゲームには敵が出てこなくて、タイトルどおり、プレイヤーはセーラー戦士のうち誰か一人を主役にするために、他の戦士をボコボコにやっつけるんだそうだ。で、攻撃力とか防御力とかと一緒に「おちゃめ」という項目があって、ここのポイントが溜まると、戦闘中にキメポーズをとる回数が増えるんだそうだ。なんだかよく分からない。
 と言うわけで、いまのところ私のセーラームーンゲームソフトの調査状況は芳しくない。やはりゲーマーでもないのにそんなことをやろうとするところに無理があるのか。もし皆さんのなかで、面白いソフトをご存知の方がいらっしゃったら、ぜひご紹介下さい。

6. おまけ



 さて最後に弓原七海ライブの話に戻る。曲の合間のトークに、やたらと食べ物の話題が多いのは、いつものことなのか、それとも名古屋だけのことなのか。実際、名古屋には変わった食べ物や変わった食べ方が少なくないわけだが、今回のMCでは「寿がきや」のスプーンというのが話題に上がった。
 寿がきやは名古屋では非常にポピュラーなラーメンのチェーン店である。ユニーとかアピタに行くとほとんど必ずある。いやアピタとかユニーというのがそもそもローカルなのかな。ともかく、そこのラーメンには、いわゆるレンゲの代わりに、先っぽに小さなフォークがついたスプーンがつくのである。でも実際やってみたけれど、これで麺を食べるのはかなりむずかしいんじゃないか、というのが七海さんの見解であった。
 実は私も名古屋に来たとき、初めて寿がきやラーメンの店に入って、同じ疑問を感じたのだ。この小さなフォーク部分でラーメンを食べるのはむずかしい、いったい何に使えというのだろう。
 と思っていたら、となりの席の、かなりご年配の男性客が、おおむねラーメンを食べ終えた後、箸を置いて、次はこのフォーク付きスプーンで、スープの中で泳いでいる、残りわずかな麺を器用に引っかけて、スープごと啜っているのである。それがなかなかに完成された優雅な仕草で、非常に感心した。そうかこのスプーンはこういう風に使うものなのか。
 というわけで私は最後に七海さんと握手しながら、寿がきやラーメンのスプーンの正しい使い方についてレクチャーしたのである。まったく、ほかに話題はないのだろうか。
 が、しかし、よく考えたらそれって、たまたま私がそういう人を見かけて、それが正しい寿がきやスプーンの使い方だと思いこんでいただけかも知れない。不安になって今朝、調べてみると、その使い方については実に様々な意見があることを知った。名古屋在住の方ではないが、この方の意見なんか「なるほど」と感心した。ともかく、わりと自信たっぷりに七海さんに説明したわりには、私の説明が名古屋市民の総意というわけでは、ないらしい。弓原七海さんには、実に済まないことをした。今度あやまりますので、また名古屋に来てください。
 次回はDVDレビューAct.3に入りたいと思います。更新は週末です。