実写版『美少女戦士セーラームーン』ファンブログ


最新記事〕 〔過去記事〕 〔サイト説明〕 〔管理人

【第90回】DVD第1巻:Act.2の巻(後編)


 久々の更新です。小松さん写真集発売イベントに参加されたみなさま、おつかれさまでした。みなさん、凹みきった小松さんを力一杯励ましてあげましたか?たまらさん、ぽんた師匠にお会いできて良かったですね。
 なお今回の日記の後半の記事は、たまおのために書きます。

1. 「act. やわらかい」

亜 美「まこちゃんみたいにうまくはないけど……いいよね」
古 幡「うそ、ありがとう、いただきます」
亜 美「……うふっ。やわらか〜い」

 なんて、最初からたまお入ってしまいました。すみません。えーと最初のセリフは『M14の追憶』2007年5月20日付の記事でスキャンされている、Act.44の台本にある。手作りクッキーを持ってクラウンに向かう亜美のモノローグだ。この後「いいよね。今日は揉めそうだし、なごむきっかけになれば……」と続く。
 コメント欄でこっちよ!さんが指摘されているように、クッキーの出来はいまいちだが、ここのところ前世をめぐってレイとまことがギクシャクしているクラウンの空気を、少しでもやわらげられれば、という亜美の思いやりだろう。あるいはAct.34で重箱弁当を見て「こういうのはまことにはかなわないわね」と言ったレイが念頭にあったのかも知れない。それで、時間もなかったし、作り直しもせずに、そのまま持ってきた、ということかな。できあがった作品では、一目で失敗と分かる焦げたクッキーを、無邪気な顔して元基とネフ吉に勧めているので、私は亜美の意図を邪推してしまったが、これならまあ分かる。にしても、小林靖子の意図として、これが客観的に「まずい」クッキーであるのかどうか、判断はますますむずかしくなってしまった。まあ、またそのうち考えてみましょう。
 最後のセリフはアニメ版第8話から。ルナと亜美の初対面のシーン。やわらかいのは、亜美に不思議なエナジーを感じて、試しに飛びついたルナのことだから、くれぐれも誤解しないように。

亜 美「うふっ。やわらか〜い。うちもマンションじゃなかったら、こんな可愛い猫、飼えるのに」
ル ナ「にゃ〜お」
うさぎ「ごめんね、大丈夫だった」
亜 美「あなたの猫なの?」
うさぎ「うん」
亜 美「空から降ってきたから、天使かと思っちゃった」
うさぎ「ルナが天使?」(この人なんか可愛い)

 原作漫画やアニメのほんわかした感じの亜美と、実写版の亜美の違いについては、改めて検証するまでもないだろう。私もすでに再放送の時のレビューでだいたいのところは考察したつもりだ。今回は亜美のキャラクターではなく、エピソード全体の構成について、アニメと実写版の興味深い対応関係を、ざっと書いておきたい。

2. 逆転する因果律


 実写版では、しばしば物語の因果律がアニメ版とはひっくり返る。たとえばアニメのうさぎは、タキシード仮面の正体を知り、前世の記憶を取り戻してから、初めて地場衛への恋に目ざめる。まあ、それ以前に二人が互いを意識するようなエピソードが皆無というわけではないが、でもアニメ前半の衛は火野レイとつき合っているのだ。一方、実写版のうさぎは、衛への恋を自覚し、陽菜との三角関係にさんざん悩み、傷ついた果てに、タキシード仮面の正体を知り、前世の関係を知る。そのあたりことは、この日記の第13回にも書いたが、前世からの因縁で恋に落ちたのではなく、現世で恋に落ちた結果として、前世の関係が招き寄せられる、という逆転した語り口が、実写版のうさぎと衛の恋物語に、アニメにはない魅力を与えている。
 うさぎと亜美の出会いと友情に関しても、同じことが言える。アニメ第8話『天才少女は妖魔なの!? 恐怖の洗脳塾』で、うさぎはルナを拾ってくれた亜美と友だちになり、クラウン(ゲームセンター)に誘って一緒にゲームをする。けれども亜美は、初めてのゲームなのに、とんでもない高得点を叩き出す。しかも時計に気づくと「もう塾に行かなくっちゃ!」と足早に立ち去る。そんな様子を見て、ちょっと前まで(この人なんか可愛い)という印象をもっていたうさぎは「なんか別世界の人って感じ」とつぶやく。うさぎの抱いた亜美への親近感は、ここでいったん「別世界の人」というレベルまで遠のくのだ。
 これに対して実写版では、初めて亜美と話を交わしたうさぎは、別れて塾に向かう亜美の後ろ姿を「なんか、水野さんってぜんぜんみんなが言っているような子じゃないよ。面白いし。本当は普通の子なんじゃないかなあ」とつぶやく。その時、うさぎは、亜美に美奈子の新曲が入っているMDを渡している。このMDが、亜美を妖魔から守ってくれることになる。
 ところがアニメでは、逆に亜美が、うさぎの手もとに1枚のディスクを残して行く。亜美は急ぐあまり、塾の学習用フロッピーをクラウンに忘れる。ルナはそのディスクに、ダーク・キングダムの洗脳プログラムが入っている事実に気づく。それを知ったうさぎは、IQ300とも噂されるこの天才少女が、実は敵の手先なのではないか、という疑惑をいだく。「別世界の人」から、さらに「もしかして、敵!」になってしまって、一度は友だちになりかけた亜美への感情は冷め切ってしまう。
 一方、実写版では、亜美の心がうさぎから離れていく。翌朝うさぎから「一緒に戦おう」と言われた亜美は、それが真意だったのかと、うさぎの友情に疑惑を抱き、拒絶する。
 アニメでは、真相を確認するためにゼミナールに忍び込んだうさぎとルナは、ほかの生徒が倒れているなか、ただひとり妖魔の術にかからずに立っている亜美をみつける。うさぎは「やっぱり妖魔だったのね、あんた!」と変身し、亜美を倒そうとする。逆に実写版のうさぎは、妖魔に襲われる亜美を見つけて、亜美を救うために変身する。
 アニメでは、そこで講師の姿から正体をあらわした妖魔が、亜美に襲いかかる。亜美はわけも分からないままとっさにセーラーマーキュリーに変身し、セーラームーンと共に妖魔を倒す。こうして誤解が解けてから、亜美は屋上で「うさぎちゃん、改めてよろしくね。悪い奴らを倒すために、一緒に力をあわせて戦いましょうね」と握手の手を差し出す。二人の友情はここから始まる。しかし実写版では、二人はまず手を握りあう。手すりから落ちそうになった亜美を救おうと、セーラームーンはしっかりその手をつかむ。そして「駄目だよ、嫌なのに変身しちゃ駄目だよ」というセーラームーンの言葉に誤解が氷解し、心が通じあってから、亜美は自ら進んでセーラーマーキュリーへと変身する。「嫌じゃないから」。アニメとほぼ同じプロットをたどっているのに、もう見事なくらい逆の展開で、アニメとはまったく異なる実写版のキャラクターが作り出されている。今回あらためて両者を比較して、私は感心してしまいました。

3. 「Mercury as Multitude」に寄せて


 さて、実写版の水野亜美=浜千咲と言えばマルチチュードだ。なんのことやら分からない人は、石肉さんのブログ『さわいみゆうのこえのつや』のなかの「Mercury as Multitude 〜浜千咲=亜美がすごいワケ」という記事をお読みください(第1回第2回第3回)。「マルチチュード」という言葉がどういう意味かは、それを読めば分かるって言えば分かるんだが、けっこうむずかしいよ、という方のために、私なりに解説してみよう。できるかどうかはともかく。
 社会学や法哲学の方面での「群衆」(マルチチュード)とは、「国民」以前の「無秩序な民衆たち」という意味だそうである。社会契約論という考え方によれば、人間は自然の状態にとどまる限り、そういうまとまりのない「群衆」であり、みんなが個人の権利を求め、欲望のおもむくままに争い合ってつぶれてしまうらしい。だから国家を作る。国家は個人の権利を管理して、人々は「国民」となってその支配に従う。その代わり国家は、きちんとした法律を作って、国民それぞれの権利や利益を守ってやらなきゃいけない。個人と国家がそういう「契約」を結ぶことによって、社会というものができあがる。
 でもスピノザという人はちょっと違うことを考えたらしい。別に国家と契約しなくても、人はおのずと社会のルールを作って、共同で生きていける。野生動物の世界には国会も法律もないが、きちんとした共存共栄のための秩序ができている。なぜか。無制限に殺し合いや食い合いをしたら、結局みんなが滅びて、個々の権利が失われることになるからだ。だいたい、自然な状態にある人間が、個人の欲望を満たし利益を求めようとするのは、神様が人間を創ったときにそういう権利を与えたからだ。神様からの授かりものを、人間の都合で勝手にやりとりして、国家と「契約」するなんて、できるわけないではないか。だから人は「国民」なんかになって権力に服従しなくたって、てんでばらばらな群衆(マルチチュード)のままで、まとまった秩序を生み出すことができるのだ。
 こういう考え方をヒントに、イタリアのアントニオ・ネグリという思想家が「マルチチュード=群衆こそ、統治と管理に対抗する新たな社会変革の主体である」というような一種の革命論を言い出したんだそうだ。う〜ん、もう私にはこの程度が精一杯なわけだが、ともかくマルチチュードというのは、複数性をたもちながら統一されており、統一性をたもちながら個々ばらばらな複数であるという、民衆の支配的管理をめざす権力者にとっては非常にやっかいな存在である。で、石肉さんは浜千咲=水野亜美は、ひとりでそういうマルチチュードな状態を演じている、とおっしゃるのだ。
 浜千咲の演じる水野亜美が、メガネっ子だったり、ブリっ子だったり、暗い子だったり、お嬢様だったり、ダーキュリーだったり、はじけてたり、不思議ちゃんだったりするのはご存知のとおりだ。しかしそういう多彩な彼女のあり方を表現するのに、何もそんなこむずかしい現代思想のキーワードを持ち出さなくてもいいじゃないか、と思われる方もいらっしゃるかも知れない。
 まあ、石肉さんのブログって、ちょっとした知的遊戯を楽しんでいるニュアンスもあって、あえてアカデミックなタームを持ち出してそれっぽい理論を組み立てて面白がっている部分もある。あるがしかし、やはり、たとえば「多様性」とか言っただけでは収まりのつかない、何か過剰な特殊性が実写版の亜美には潜んでいる。それを表現するために、石肉さんはわざわざ「マルチチュード=複数的なもの」なんて言葉を持ち出したのだろうとも、私は思っている。
 そのことを考えるにあたって、私はもう学術用語に疲れてきたので、ここからは唐突ですがハンバーグを例にして話を続けます。本当にいきなりだな。 
 村上春樹の短編小説集『カンガルー日和』の中に「バート・バカラックはお好き?」という作品がある。冒頭の場面で、主人公は、ある女性からもらった手紙の中に、手作りハンバーグの作り方が書いてあるのを読んで、食べたくなってレストランに行く。ところがメニューには、パイナップルが乗った「ハワイ風ハンバーグ・ステーキ」や、サイズの大きい「テキサス風ハンバーグ・ステーキ」や、大根おろしがかかった「和風ハンバーグ・ステーキ」はあっても、「ただの」ハンバーグ・ステーキがない。
 主人公は、シンプルなハンバーグ・ステーキが食べたい、と訴えるが、ウェイトレスは「すみません、当店には何々風のハンバーグ・ステーキしかありません」と答える。仕方がないので主人公は「ハワイ風」をオーダーする。ウエイトレスがこっそり「ハワイ風を頼んで、パイナップルをどけちゃえばいいのよ」と教えてくれたからだ。そして主人公は、「ただのハンバーグ・ステーキ」が「パイナップルをどけたハワイ風ハンバーグ・ステーキ」というかたちでしかもたらされない不条理について思いをめぐらす、そんな話だったと思う。
 メニューにただの「ハンバーグ・ステーキ」があれば、「ハワイ風」「テキサス風」「和風」は、その様々なバリエーションとして理解できる。それらは「ハンバーグ・ステーキ」というひとつの料理に統合されるのだ。しかし「ただのハンバーグ・ステーキ」がないレストランでは、「ハワイ風ハンバーグ・ステーキ」「テキサス風ハンバーグ・ステーキ」「和風ハンバーグ・ステーキ」という個々別々な料理だけが存在して、それらを統合する「ハンバーグ・ステーキ」という概念は存在しない。ひとつのものが様々なバリエーションとして展開する「多様性」ではなく、ハンバーグのマルチチュードな複数性。にもかかわらず、我々はそのように複数的に存在する「〜風」ハンバーグから、「ハンバーグ・ステーキ」とは何かを知ることができる。なんて、私は何のためにこんなことを書いているのか?
 水野亜美のためだった。水野亜美はAct.2で、まず「メガネっ子風水野亜美」として登場する。その後も「ブリっ子風水野亜美」や「お嬢様風水野亜美」や「悪魔風水野亜美」や「不思議ちゃん風水野亜美」が次々と我々の前に現れる。でも「ただの水野亜美」は登場しない。だから浜千咲が演じる水野亜美は、ひとつの「水野亜美」には統合されない。Act.5のラストで、メガネを忘れたことに気づいて独りにっこり微笑む亜美は「ただの水野亜美」ではなく「メガネをどけたメガネっ子風水野亜美」に過ぎない。

4. 千咲・美優・景子


 こういう、実写版における水野亜美の特殊性を、石肉さんは月野うさぎ=沢井美優と対比して語っている。これはすごく分かりやすい。なぜなら、沢井美優は浜千咲とは対照的に、統一への強い意志をもっているからだ。物語の中の月野うさぎは、セーラームーンであり、プリンセス・セレニティであり、プリンセス・ムーンでもある自分を、何とか「月野うさぎ」という人格のもとに統合しようと努力するが、それは沢井美優自身の女優としての姿勢と一致している。沢井美優は、「沢井美優」から「月野うさぎ」という引き出しを開けて、「月野うさぎ」という引き出しから「セーラームーン」「プリンセス・セレニティ」「プリンセス・ムーン」を出してくる。そしてそういう様々なキャラクターを演じる背後に、常にそれらを統合し管理する「沢井美優」がいる。彼女が演じるすべての人格は、ただ一人の「沢井美優」を豊かに充実させるために奉仕している。そして、この間お会いした万丈さんによれば、女優・沢井美優もまた、ただの「彼女」自身によって演出された架空の人格であるらしい。彼女は様々な引き出しを開けて我々を楽しませ、自分も楽しんでいるが、その一方で、「沢井美優」の向こうですべてを支配する、ただの「彼女」にはヴェールをかける。『MY HEART』がブログ化されないのは、日々のプライバシーを公開すると、そのヴェールがはがれ落ちてしまうからなのだそうだ。でも七海ちゃんはちがう、って熱く語っていた万丈さんは、本当に沢井党なのかどうか、書いていてやっぱり怪しくなってきたぞ。
 ということはさておく。このように女優としての沢井美優は、だんだんと階層を降りていくと「沢井美優」にたどり着くダンジョン構造になっている。しかし、喜怒哀楽の表現も豊かな演技力というトラップが随所に仕掛けられているので、我々が最後の部屋、彼女自身の素顔まで行き着いてゲームが終了することはない。そこは開かずの間になっている。これに対して浜千咲の場合、あれやこれやの水野亜美がてんでばらばらのマルチチュードで、どの「〜風」水野亜美の扉を開いても、その向こうに「浜千咲」はいない。ところが、それら勝手気ままにとっ散らかって投げだされた様々な水野亜美の「複数性」そのもののうちに、我々は浜千咲、というか「りか」自身が生々しいくらいに息づいているのを感じる。初めからゲームオーバーである。そういうふうに考えると、やはり浜千咲がセーラームーン一作で、しかも最後にリリースされたビデオ2本では、とうとう「梨華」のクレジットを残して我々の前から姿を消してしまった顛末も、必然というか、仕方がないことなのかなとも思えてくる。
 ついでに北川景子にも少しだけ触れておきたい。女優としての北川景子は、たぶん沢井美優をひっくり返したような構造になっている。まず現実の北川景子その人がいる。確固とした自分自身をもっていることは分かるが、この人は何者だろうと思ってその扉を開けると、そこには火野レイやリナやキヨハラが、それぞれ北川景子という人格の様々な側面を補足し、解説するようなかたちで存在している。そして火野レイの扉の向こうには、セーラーマーズや巫女さんやマーズれい子がいるのだと思う。
 沢井美優の場合、我々は「うさぎちゃん」に出会うことから、沢井美優への終わりのない旅を始めるが、北川景子の場合は、まず「北川景子」をくぐりぬけなければ「火野レイ」には出会えない。様々なキャラクターに覆われ、沢井美優という支配者が真の姿を隠している帝国と、ピラミッドの頂点に、常に北川景子が「私よ」と君臨している帝国。そしてそのような支配的な重層構造をもたず、表層だけで分散しながらマルチチュードを生きる浜千咲。なんか言ってることがどんどん大げさになってきたが、私はそんなふうに実感している。


【注意】今回の記事は、ここから後は、いわゆる「18禁」です。よいこのお友達は決して読まないでね。

5. 君は春木みさよを観たか

先 生「水野さん、この間の模試、また最高得点よ。このレベルだったら高校どころか、大学でも受験できるわよ!」
亜 美「でも、医学部志望ですから」

 前の再放送レビューの時に、ここの会話を全文引用した。エレベーターを上がりながら、興奮気味のアルトゼミナールの先生と、浮かない顔の亜美。先生が上に立って亜美の方を向いている構図とか、なんか好きである。いや、好きなんて言い出したら、このAct.2は好きなシーンだらけなのだが。何回観てもいいね。
 アルトゼミナール。この日記の第85回の最後の方でご紹介した演出4th助監督(パシリ)の鳥飼さんは、東映公式の「ダーク・キングダムの縁の下」の中で、演出部の仕事の範囲は?という趣旨の質問に対して、次のように答えている。

「うーん……。決してメインではなくても、番組に出るものは、演出部が設定してます。
2話の“ルナカラ”のカラオケ本の中味とか、亜美の塾の名前とか。
塾は、“アルトゼミナール”に決まるまでに、100個以上候補を出しました。みんな憔悴しまくった」

ふーん、つまり美奈子の2ndアルバムの曲目は、演出部が考えたものなのですね。そして「アルトゼミナール」。Altoは「高い」とか「上方」という意味だ。塾の看板には山のマークがついているから、頑張って勉強して、遙か頂点をめざせ!というようなネーミングだと思う。それを考えるまでに100個以上も候補を出したのか。大変だね。
 この鳥飼さんの発言によれば、台本にはただ「塾」としか書いていなくて、演出部が新たな名称を考案した、ということらしい。一方、原作でもアニメでも、塾の名前はクリスタルゼミナールだ。なんでクリスタルゼミナールじゃ駄目で、そこまで苦労して新しい名称を考えたのだろう。妖魔の潜伏する場所というイメージではない、ということかな。月の王国シルバーミレニアムの宮殿「クリスタル・パレス」とかぶるから、という理由は考えられるが、しかしそのネーミングは実写版では最後まで使われなかったはずだ。原作の第2部やアニメの『セーラームーンR』では、うさぎの変身のかけ声が「ムーン・プリズムパワー・メイク・アップ!」から「ムーン・クリスタルパワー・メイク・アップ!」に変わる。が、これも実写版とは関係ない。ひょっとして、この時点では『R』まで実写化する腹があったのか?それで妖魔が本拠地とする場所に「クリスタル」という名前を使用するのをためらったのかな、なんて、相変わらず妄想が過ぎますね私。
 ともかく、そのアルトゼミナール講師を演じているのが春木みさよだ。アニメ版では毎回「ゲスト被害者」というようなものが登場していたが、今回で言えば、ハニワ妖魔に取り憑かれる春木みさよがそういうものに相当する。Act.1の渡辺典子と言い、この人と言い、何というか、実に渋い人選である。
 春木さんはNHKの連ドラとかにも出ているそうなのだが、実は私、そっち方面はぜんぜん存じません。最初に印象に残っているのは、やっぱり『バカヤロー!V エッチで悪いか』ですね。
 ご存知の方も多いと思うが、「バカヤロー!」というのは、森田芳光が企画を立てて脚本を書いたオムニバス映画のシリーズである。1本が短編4話で構成されていて、どの話も、様々なシチュエーションでストレスをため込んでる人が、最後にはぷつっと切れて「バカヤロー!」と叫ぶ、という共通のパターンを踏む。各話の監督には演劇畑の渡辺えり子や岩松了とか、今をときめく堤幸彦、あるいは爆笑問題の太田光なんてのが起用されている。
 劇場用映画としては、第1作目の『バカヤロー! 私、怒ってます』(1988年)から、第4作目『バカヤロー!4 YOU! お前のことだよ』(1991年)までが公開されたが、その後ビデオ作品としても制作された。それが『バカヤロー!V エッチで悪いか』(1993年)である。タイトルからも分かるように、レンタルビデオの客をターゲットにしているせいか、シリーズで一番エッチなシーンが多い。前置きが長くなったが、その中の一編「天使たちのカタログ」というエピソードが、我らがアルトゼミナール講師、春木みさよの主演作である(脚本:森田芳光/監督:篠原哲雄/撮影:藤石修)。私はだいぶ前にテレビの深夜放送で観た。
 でも内容については「なんか恋人に献身的なソープランド嬢の話」くらいで、あとは忘れた。その代わり、やたらと多かった濡れ場については細かく憶えているあたりが、私の人品をあらわしている。恋人とのかなり激しい絡みを始め、サディスティックな警官とか、ねちっこい病気持ちとか、そういうお客さん相手にソープ嬢として様々なプレイで奉仕するのである。春木みさよは1974年生まれだから、この映画の時はまだ19歳、今の沢井美優と同じである。それがもう、脱ぎまくりのやりまくりですよ。我々も安穏としてはいられない。ちなみにこの作品以降、春木みさよは森田芳光監督作品としては『<39> [刑法第三十九条] 』(1999年)に出演している。篠原哲雄監督に関しは『命』(2002年)に出演されているが、私はどちらも観ていない。ついでながら北川景子さんにおかれましては、2作連続で森田作品に起用されましたこと、この場を借りてお慶び申しあげます。
 その翌年、1994年には『棒の哀しみ』が公開される。これは北方謙三の原作を、神代辰巳が映画化した作品で、劇場公開作品としては神代監督の遺作となった。これはすごいよ。春木みさよは、もう奥田瑛二に吸われたり揉まれたり、やりたい放題されまくったううえに、シャブ中になる。しかも奥田瑛二の愛人の永嶋暎子にまで、いろいろとナメられて、レズのよろこびを憶えこまされてしまうのである。永嶋暎子が奥田瑛二にこんなセリフを言う「よろこばせてやったのよ。あんたがよろこばせたよりずっと深く。女の方が男より、ずっと凄いことができるの。初めは酔っぱらいながら狂い、次はシラフで狂い、シャブを打たれて狂った」ね、凄い映画ですね。
 後にテレビドラマ『相棒』第3シーズン第10話『ゴースト 殺意のワイン』(2005年1月12日放送、脚本:東多江子/監督:長谷部安春)で、春木さんは、人気作家である筒井真理子さんのゴーストライターを演じておられます。アルトゼミナール講師と亜美ママの夢の共演なんですが、石肉さんがこの記事で書かれているように、2人の関係がちょっと「百合」っぽいんです。そして私はもちろん「ああ、春木さんは10年も前にレズの味をおぼえちゃったもんなあ」なんて思っていた。馬鹿ですね。しかしとにかく神代辰巳という人は、最後までブレのない、実に上手い監督でした。
 春木みさよは、後はあの怖い怖い黒沢清の『CURE』にも出ているが、わりと早めにバッテン印に切り裂かれて死んでしまう犠牲者の役で、あんまり記憶にないな。ほかに私の気に入っている作品としては「たけし軍団」のダンカンの原案・主演で、北野武の助監督をやっていた清水浩が監督した『生きない』(1998年)という映画がある。タイトルはもちろん黒澤明の『生きる』のもじりで、ダンカンが、借金返済に苦しむ人たちを集めて、保険金目当ての自殺志願者バスツアーのコンダクターをやるという話だ。春木みさよは運転手と愛人関係にあるバスガイドの役。これ、結果的にはけっこうおいしい役だったと思う。
 まあそんな感じで、春木みさよというのは、なかなか通好みの人選なのだが、ちょっと気になることがある。私の確認した範囲では、実写版の女優さんで激しい濡れ場を演じているのは「剥き海老転がし」(『花と蛇2』)の杉本彩様と春木さん、この二人だけのはずだ。が、しかし、それに続いて「第3の女」になりそうな人がいますよね。
 これまで書いたように、春木みさよが演じた役は「薄幸」「風俗」「エロ」といったキーワードでくくれる。こういう言葉が似合う人は、若くして映画やビデオのなかで「ラブシーンの絡み要員」として起用されがちなわけだが、まさにそんなイメージの美少女が、戦士の中に一人、いますよねえ。そのことを考えると、私は夜も眠れない。

6. 彩夏に忍び寄る影


 さっき書いた『棒の哀しみ』の奥田瑛二だが、この人は望月六郎監督と組んだ作品に秀作が多い。で、奥田・望月コンビの、たぶん代表作ということになるのが、花村萬月の小説を映画化した『皆月』(1999年)です。奥田瑛二は真面目でしょぼくれた勤め人で、妻に逃げられてしまう。で、その逃げた妻の弟が、新宿を縄張りにしているチンピラで、なんだか分からないが義兄に対する面倒見がいい。で、奥田瑛二は、そのチンピラの義弟を介して知り合ったソープ嬢のヒモになって、だんだんはぐれ者になっていくのである。
 この奥田瑛二の義弟を演じているのが北村一輝だ。実に素晴らしい芝居だった。素晴らしいだけではなく、奥田瑛二の愛人になったソープランド嬢を、当の奥田瑛二の目の前で激しく犯すシーンなんてすごかった。ソープ嬢は吉本多香美である。ハヤタ(黒部進)の娘というか、『ウルトラマンティガ』のレナ隊員と言うべきか。その吉本多香美を、北村一輝はやっちゃうのである。しかもバックから。しかもマンションのキッチンで、サラダ油をローション代わりにびしゃびしゃ振りかけながら。
 余談であるが、吉本多香美はこの作品の直後、ティガの完結編『ウルトラマンティガ THE FINAL ODYSSEY』(2000年、脚本:長谷川圭一/監督:村石宏實)に出演している。すでにGUTSの隊員を辞め、前からやりたかったイルカの調教師の仕事をしながら、ティガことダイゴ(長野博)との結婚を間近に控えている、という設定であった。鴨川シーワールドで、セクシーな赤いビキニで登場したときなんか、私は『皆月』のソープ嬢を思い出して真剣にドキドキしちゃったぞ。
 という話はさておき、つまり私がみなさんに訴えたいのは「北村一輝は特撮ヒロインをバックからワイルドに犯した前科がある」ということだ。現在、北村一輝は『バンビーノ』というテレビドラマに出演していて、バッカナーレというイタリア料理店のウエイターを演じている。で、ここには皆川こずえというシェフ志望の美少女が、ウェイトレスとして務めている。彼女は薄幸で風俗っぽくてエロ系の写真集を出している元特撮ヒロインである。非常にあぶない。というか、もう絶対、北村一輝は狙っていると思う。吉本多香美をマンションのキッチンでやっちゃったときみたいに、深夜のバッカナーレの厨房で、オリーブ油なんかかけて、皆川こずえをバックからやるつもりでいるのである。残念ながら私は最近、帰りが遅くて『バンビーノ』をきちんと観られない。みなさんはぜひ監視の目をおこたらず、北村一輝が変なことをやりださないよう、皆川こずえを守っていただきたい。特に昨日のサイン会に出席したみなさん、たのむ。
 なんて馬鹿なことを書いているうちに、またムダに字数と時間を費やしてしまった。明日は幼稚園の「父の日」イベントがあるので今日はここまで。日ごろ運動不足のお父さんに、子どもたちと身体を動かして貰おうという趣旨で、片手で子どもをぶら下げて50メートル走るとか、お父さんたちがブリッジでトンネルを作って、子どもたちがその中をくぐり抜けるとか、筋肉痛必至のメニューが各種用意されている。そんな健全なイベントを控えて、深夜まで品もなくエロいブログを綴る情けない父を、許せ我が子よ。
 ともかく、みなさんの小松さん写真集イベントのご報告、楽しみに読ませて頂きます。