実写版『美少女戦士セーラームーン』ファンブログ


最新記事〕 〔過去記事〕 〔サイト説明〕 〔管理人

【第81回】最終回をどう観るか?の巻(Final Act)


 4月になった。沢井美優のために狙っていたニャンちゅうの相方の座は鴻上久美子という子に決まってしまった。お母さんがチリ人でスペイン語が話せるんだって。ちぇっ。
 やっかんで言うわけだが、何かNHKって、国際色ねらいというか、ご両親のどちらかが外国人という人のための特別採用枠があるんじゃないのか?『天才テレビくん』のウエンツ瑛士くんとかダーブロウ有紗ちゃんとか。ベッキーもけっこうNHKのドラマに出ているし。で私の言いたいのは、それならそれで、河辺千恵子をもっともっともっとヒイキにして、紅白歌合戦に出してやって欲しいということだ。
 話は変わるが、今週は月・火・水とけっこうな数の新入り諸君の前で連日ネクタイ締めてしゃべらされてへとへとになったら、木曜日に休みをもらえた。その日は新学期初日だったので、下の子と幼稚園に行って、新クラスの様子を視察してまいりました。そしたら新しい担任の先生が新任で、初々しかったです。
 先日この日記に書いて反響がゼロだったネタをしつこくムシ返すが、沢井美優さんが「短大出たての幼稚園(もしくは保育園)の新任の先生」役をやるドラマって観てみたい。あの笑顔で「おはようございまーす」と挨拶するもんだから、出勤ついでに子どもを預けに来る父親たちの絶大な支持を得て、シングルパパからは交際を申し込まれちゃったりもするのだ。奥様連中のなかには「なによあの子、若いからってお父さんたちの人気取りにいっちゃって」とか陰口をたたく陰険なのもいるが、でも沢井美優支持派のお母さんたちの方が多い。
 ま、いいや。いよいよ大詰め、Final Actです。

1. 原作・実写・アニメ、それぞれのエンディング


 前回のラスト。メタリアエンディミオンを刺すセーラームーン。ホワイトアウト。

「引き続き美少女戦士セーラームーンをお送りします」

 続いて「東建ホームメイトカップ(ゴルフ)」「金ちゃんぶっかけうどん」と、2本のCMが入り、プリンセス・ムーンのエンドタイトルへと続く。これでAct.48終了だ。次は「伊東四朗&泉ピン子の夫婦劇場(番組予告)」「渡る世間は鬼ばかり(最終回予告)」のピン子2連発。せっかくの最終回なのに、何もこんないやがらせをしなくても。そして「サンシャイン栄」「ぷっちょ(UHA味覚糖)」「2007年11月より 地デジになります」とさらに3本のCMを挟み、いよいよである。2007年3月28日(水)深夜、もしくは3月29日(木)早朝、午前3時05分、Final Act 再放送。最初の頃にはいっぱいあったコルゲンやパチスロのCMはどこへ行った?


 前回に述べたように、このFinal Actになって、実写版の物語は一気に原作の流れに戻ってくる。戻ってくるのだが、改めて観ていると、それが何となく奇妙な印象を与えるのだ。まずその辺の問題を整理しておこう。というわけで、だいぶ以前にも紹介したが、もう一度、原作漫画の「ダーク・キングダム篇」の結末をおさらいして、実写版と比較してみますね。

【原作】Act.12「敵 QUEEN METARIA」、Act.13「決戦 REINCARNATION」
 ヴィーナスがクイン・ベリルを倒し、残る最大の敵は、エンディミオンの身体を操るクイン・メタリアだ。
 衛の体内には幻の銀水晶のかけらがある。かつてセーラームーンがタキシード仮面を甦らせた時のものだ。あの時うさぎは、自分でもそれと気づかず、衛に銀水晶の一部を注入して、生命力を与えていたのだ。今、メタリア=エンディミオンはその力を取り込んで猛威をふるっている。衛を倒して銀水晶のかけらを奪回し、完全体に戻さなければ、メタリアは封印できない。セーラームーンは悲しみのうちに衛の身体を剣でつらぬく。
 使命をはたしたセーラームーンは、絶望のあまり、返す刃で自らを刺す。折り重なるようにして倒れた2人の身体からそれぞれ銀水晶が浮かびあがり、ひとつの巨大な結晶体に合体して2人を包み込む。これが銀水晶の完全体、メタリアを封印する力だ。ところが、プリンセスの悲しみが深すぎたために、銀水晶は浄化の力を発揮できない。すかさずメタリアは衛の身体を手放し、完全体の銀水晶を呑み込んで、ますます強大な力を得てしまう。世界中に異常気象が起こり、星は破滅に向かう。
 だが、2人はメタリアの体内で、巨大な銀水晶の結晶体のなかで、生きていた。ちょっと笑っちゃいますが、衛の心臓は、彼の胸にしまわれていた4つの石にがっちり守られて、致命傷には達していなかった。石になった四天王をフトコロにとっておいたおかげです。原作の画を見る限り、セーラームーンが衛をつらぬいた剣先は思い切り背中まで突き抜けているんだけどね。ここは進悟のように「見なかったことにしよう」と言うしかない。そしてセーラームーンが自らを突いた刃もまた、衛からもらったムーンフェイズの時計に当たって、命を奪うまでにはいたらなかったのです。2人は、メタリアが呑み込んだ銀水晶のなかで、仮死状態のまま眠っているわけだ。
 そのことを知った4人の戦士は、セーラームーンを覚醒させるために、それぞれの守護星のパワーをすべて変身アイテムに込めて、メタリアに、というか、メタリアの中に眠るうさぎに打ち込む。変身アイテムを失い、変身パワーを使いはたせばセーラー戦士たちは死んでしまうが、覚悟のうえだ。4人は最後の希望をうさぎに託し、力つきて倒れる。
 4人の祈りの声が届いて、暗闇のなかでめざめるうさぎ「ここはどこ?」かたわらにいた衛の心臓も鼓動を始める。ふところから石を取り出すと、4つの石は次々に砕け散る。四天王が最後の力で、主人に命を与えたのだ。「マスター、会えてよかった。こんどこそお二人で、平和を…」笑顔の四天王が去っていく。
 2人は力をあわせ、メタリアを滅ぼす。戦いは終わり、衛は地球を元に戻し、うさぎはヒーリングの力で、4人の仲間や、人々を甦らせる。みんなが待つ十番町に、笑顔で帰っていくセーラームーン。

【実写版】「Final Act」
<Aパート>エンディミオンを倒したセーラームーンは、絶望のあまりプリンセス・ムーンに変身し、幻の銀水晶の力を開放しようとする。「この星を、すべてを終わらせる。エンディミオンと共に」。とどろく大地。ベリルはジェダイトにかしずかれながら、崩壊するダーク・キングダムと運命を共にする。
 このままでは星が破滅する。それを防ぐためにはプリンセス・ムーン、うさぎを倒さなければならない。亜美はついに決意を固め、変身してプリンセスに立ち向かう。レイとまこともそれにしたがう。
<Bパート>それぞれの守護星に祈りを込め、タンバリンを武器にかえて戦う3人だが、圧倒的なパワーの違いはいかんともしがたい。「止められない」「前世が、繰り返されるのか」「うさぎちゃん、その向こうに、大切な人たちがいっぱいいるんだよ」それぞれの思いを胸に、3人は力つきて倒れる。宙に浮いたプリンセスの身体から光が放たれ、すべては消滅する。
<Cパート>草木も生えない砂漠と化した地球で意識を取り戻したうさぎは、自分が星を滅ぼしたことを知って泣き崩れる。そこへ衛があらわれる「まだ終わりじゃない。幻の銀水晶の力をぜんぶ開放するんだ。今度は、星を救うために」。戦士たちの声が届いて、プリンセス・ムーンのなかのうさぎの心が動き、まだ銀水晶の力を温存しておいたのだ。ただ、すべてを元に戻すために力を使い切れば、うさぎの命は尽きる「それでもいい。みんなが助かるなら」こうして2人は、自分たちの命と引き替えに最後の力ですべてをリセットする。
 世界は何もかも元の通りに戻り、みんなは以前よりもちょっとだけ幸せになっている。前と違うのは、そこにはうさぎがいなくて、みんなもうさぎのことを忘れているということだけだ。でも4人の戦士たちは、自分たちが何か忘れてる、大切な、忘れられるはずのないことを忘れている、と気づく。そして記憶の底からうさぎの笑顔が甦る「うさぎ!」
 4人の呼ぶ声が届いて、冥界の暗闇のなかでめざめるうさぎ。かたわらには衛がいる。プリンセス・ムーンが姿をあらわしてうさぎに告げる「あなたを忘れない仲間がいる限り、あなたは生きることができる。戻りなさい。幻の銀水晶は砕け散ったけど、最後にひとつ、命を残したから。やっと、前世が終わる」
 「よかったな。早く行け」という衛。そこへ四天王が、ダーク・キングダムにあった画を持ってあらわれる。石から吸い取った衛の命を封じ込めてある画だ「我々のためにも、生きてください、今を」。こうして衛も生者の世界へ戻ることが出来た、手を取り合って、再生した星へ、4人の待つ元の世界へ帰っていく2人。

 要約と呼ぶにはちょっと長くなってしまってごめんなさい。とにかくこんな感じだ。ついでだ。アニメ版もざっくりいっておこうか。

【アニメ版】第45話「セーラー戦士死す!悲壮なる最終戦」、第46話「うさぎの想いは永遠に!新しき転生 」
 四天王最後のひとり、クンツァイトを倒したセーラー戦士たちは、ついにダーク・キングダムの本拠地がある北極Dポイントにたどりつく。目的はベリルに連れ去られた衛を取り戻すこと。だがそこでたちふさがる強力な敵DDガールズ。戦士たちはうさぎを守るために、それぞれ一人ずつ、DDガールズを道連れに命を落としてゆく。
 この、次々に死んでいく戦士たちの描写は、実写版を考えるうえでも非常に興味深いと思うんだが、比較した人はいるのかな。とりあえず突っ込んで真っ先に爆死するまこと、まことの死に戦意喪失するうさぎの頬を叩き、うさぎのために捨て駒になる亜美。「銀水晶を守る」という戦士の使命に忠実に殉死する美奈子、そして最後に「けんかばかりしてたけど、楽しかったわ」とうさぎに優しいことばをかけて、命を賭けて炎を燃やす最強の戦士レイ。しかし今は措いておく。
 最終回。仲間を失い、たったひとりになったセーラームーンの前に、ベリルと共に、メタリアに支配された衛が現れる。衛を攻撃できないセーラームーンだが、ベリルの「お前たちのしていたことはすべて無意味だったのだ」というひとことがきっかけで、衛にティアラを投げ、攻撃を開始する。アニメ最終回のうさぎを強くするのは「仲間の死を無駄にしない」という想いなのだ。最後に衛は銀水晶の光で正気を取り戻すが、次の瞬間セーラームーンをかばって命を落とす。メタリアは衛の身体を離れてベリルに取り憑き、ベリルは巨大化する。うさぎはセーラームーンからプリンセスの姿に変身して、死んでいった仲間や衛と想いをひとつにして、幻の銀水晶の力をすべて開放し、ベリルを滅ぼし、世界のすべてをリセットする。
 ラストシーンは第1話に戻り、うさぎも含めて5人の戦士が、戦いの日々も、お互いが仲間だったことも忘れたまま、元の平和な日常を過ごしている風景だ。すべてを記憶しているのは、以前のようにもの言わぬ猫をよそおっているルナとアルテミスだけである。

 しかしこうやって並べてみると、悲壮感あふれる盛り上がりは、アニメも実写も似たようなもんだなあ。なのにどうしてアニメ派と実写派はいがみ合うのか?
 ということはまあいい。ともかくこんなふうに原作・実写・アニメと比較すると、やはり実写版Final Actが原作漫画に非常に忠実であることが分かる。オリジナル・ストーリーに突っ走ったアニメとは対照的に、実写版は原作の要所要所を拾い集め、やや順序を入れ替えて巧妙につなげるようなかたちで構成されている。「セーラームーンがメタリア化した衛を剣でつらぬく」「衛を倒したうさぎの絶望と悲しみが、星を破滅の危機に追いやる」「セーラー戦士たちはうさぎのために命を落とす」「仲間の声が届いてうさぎは眠りからさめる」「四天王が最後にマスターに命を与える」「衛とうさぎの2人が力をあわせて、世界と人々を元に戻す」などなど。そして最後も「手を振りながら元気に帰ってくるうさぎと仲間の、笑顔の再会」という原作とまったく同じラストシーンにたどりつく。
 えらく前置きが長くなったが、というわけでまず考えられるのは、このFinal Actの脚本は、原作漫画の印象的なシーンを使用し、原作どおりのラストシーンに持っていく、という基本方針が先にあって、その結末に合わせて逆算的にストーリーが構想されたのではないか、ということだ。
 あれほどの大ブームを起こしたにもかかわらず、武内直子は、原作とは離れてしまったアニメ版セーラームーンの内容に、いろいろ不満があったという。そしてこの実写版の制作にあたっては、今度こそ原作者として納得のいくものにしようと、かなり意気込んでいたそうだ。だから、最終回はできるだけ原作を尊重するように、という注文が武内直子サイドからあったと考えても、べつだん不思議ではない。むしろ、そういう縛りがあったと想定した方が、Final Actのやたらと性急で、強引で、ご都合主義な展開も、納得がいくというものである。きっと自分の好きなように結末をつけられない小林靖子のキュウクツな想いが、そのまま台本に反映されて、それであんなふうになったのだ。
 と、私も以前は考えていたんですね。でも改めて再放送を観ていると、ここにはもうちょっと複雑な事態があるような気がしてきました。

2. 冒頭:ベリルのセリフ


 さっき書いたように、Final Actには、原作漫画の印象的なシーンが随所に散りばめられていて、だから原作を読んでからFinal Actを観ると、すごく原作に忠実に作られた作品であるかのような錯覚を起こす。でも今みたいに文章で物語をあらすじだけを追うだけだと「どこが原作そっくりだよ」と思われた方もいるかも知れない。なぜかというと、確かにFinal Actには原作を彷彿とされる名場面があれこれ出てくるが、それらをパッチワークのように織り込んで進んでいく物語の本筋そのものは、原作とはだいぶかけ離れたものだからである。
 最も大きな違いはメタリアだ。原作ではうさぎが衛を倒し、その直後に今度は自らを刺して、ロミオとジュリエットのように折り重なって倒れ、幻の銀水晶の完全体に包まれると、いよいよメタリアがその実体をあらわにする。実体と言ったって、黒い霧のような、不定型なもやもやなのだが、ちゃんと目も口もついているし、銀水晶の力に「おお、この月の輝き!これだ、わたしのもとめていた強大なパワー!!」とかなんとか、けっこうぺらぺらセリフも言う。そして眉間に星のようなマークがついていて、ここが弱点で、セーラームーンとエンディミオンは最後にこの部分を攻撃してメタリアを倒すのだ。要するに、はっきりとしたキャラクターになっている。「ラスボス」なのだ。
 実写版のメタリアは、そんな形では出てこない。実写版ではAct.41あたりから、メタリアのエネルギー体が取り憑いた妖魔、いわゆる「M妖魔」が登場する。そしてセーラー戦士にやられそうになると、メタリアは妖魔の身体から飛びだしてダーク・キングダムのメタリアの間に戻り、今度はそこへ飛び込んだ衛の身体に取り憑く。メタリアそのものが、原作のようにそのまま実体化して現れることはない。口にするセリフだって「星のハメツ」だけだ。しかもそのメタリアは、Final Actの段階ではすでに滅んでしまっていて、出てこないのである。えーとここから話がややこしくなるのだ。私がいま考えていることを、うまく説明できるかどうか。ともかく、冒頭シーンのセリフを手がかりに考えてみたい。
 

 Final Act冒頭シーン。自らの手で倒したエンディミオンを抱き、抜け殻のようになったセーラームーン。前回の戦いで変身を解かれ、普通の姿になった亜美・レイ・まことがやって来て、その様子を気づかわしげに眺める。そこへ現れるベリル。とっさにセーラームーンをかばおうとする3人。だがベリルにはもはや戦う意志はなく、ただ沈痛な表情で、もの言わぬ人となったエンディミオンを見つめる。

ベリル「エンディミオン……クイン・メタリアも消えたか。プリンセス、なぜお前は、わらわから何もかも奪おうとするのだ。前世の昔から、エンディミオンも、富も権力も、そして今度は、クイン・メタリアまで……。お前こそ災いをなす者、大いなる悪だ!」
まこと「違う!うさぎは、あんたやメタリアからこの星を守ったんだ」
ベリル「…エンディミオンを殺してな…」
セーラームーン「エンディミオンを、殺した。私が、エンディミオンを、殺した」
亜 美「うさぎちゃん、駄目!」
セーラームーン「エンディミオンが、死んだ」
レイ「うさぎ!」
セーラームーン「エンディミオン!」

 その瞬間、セーラームーンのは光に包まれ、プリンセス・ムーンが出現する「この星を、すべてを終わらせる。エンディミオンと共に」エンディミオンの身体は光り輝きながら消える。冷ややかにベリルを見やるプリンセスの額で月のしるしが輝き、星の破滅が始まる「たかが小娘と思っていたが」。
 で、最初のベリルのセリフだ。「クイン・メタリアも消えたか」。メタリアは消えたのだ。衛は目的どおり、メタリアを呑み込んだまま、自分をうさぎに倒させ、自分の命を犠牲にして、メタリアを道連れにすることに成功しているのである。だから原作のように、メタリアが最後の敵となるわけがない。もういないんだもん。そしてベリル自身も、この時点で戦意喪失している。とすると、最後に倒すべき最大の敵、最大の悪とは何なのか。それを示すために、ベリルはセーラームーンに向かって言う「お前こそ災いをなす者、大いなる悪だ!」
 お前がいなければメタリアも復活しなかった。お前が幻の銀水晶をもつ者として現世に再び生まれたからこそ、永い時間を眠っていたメタリアもまた、その力を求めて目ざめたのだ。そして強大なパワーは、それを所有したいという欲望で人々を突き動かし、振り回し、最後にはすべてを滅ぼす。わらわもその一人だ。メタリアを我がものにすれば、今度こそすべてを支配できるという妄想に踊らされ、むなしい女王様ごっこに興じ、そして結局、何もかも失った。わらわこそあわれな道化、すべての元凶はお前、お前こそ災いをなす者ではないか、たぶんベリルはそう言いたいのだ。
 ただドラマとしてのセオリーからすれば、こういうセリフって普通、主人公のリアクションがなければ成り立たない。最近の例で言うと、ちょっと状況は違うが、このあいだ終わった『ウルトラマンメビウス』の第1話。新人ウルトラマンで、まだ戦い方を心得ていないメビウスは、その辺のビルを盾にして怪獣の攻撃をかわしながら、最後に勝利を収める。でも一部始終を見ていたアイハラ・リュウ隊員に「馬鹿野郎!なんも守ってないじゃないか」と罵倒される。言われてみれば、あたりはガレキの山だ。いい気になって正義の味方ヅラしていたけれど、怪獣と一緒になって街を破壊しただけだった。愕然とするメビウス。いや愕然って、もちろんウルトラマンの表情は変わりませんけどね。
 ともかく「お前こそ災い。大いなる悪をなす者だ」というベリルのセリフもそれと同じだと思う。つまり、その言葉を投げかけられたうさぎが激しく動揺し、愛と正義の美少女戦士として戦ってきたつもりだったけど、結局、諸悪の根源は私だったんだ、と愕然として、初めてインパクトをもつセリフである。ところがここでのセーラームーンはすでに「私が、エンディミオンを、殺した」という事実だけに心を奪われている、正義も悪も、そんなことはもうどうでもよくなっている。だからベリルの言葉もむなしい。
 だからこれは、登場人物たちの心にドラマや葛藤を生み出すためのセリフではなくて、視聴者に対してテーマを明示する説明的なセリフなのではないかと思う。悪が正義か正義が悪か、視聴者のみなさん。セーラームーンは正義の味方だったのでしょうか。彼女が幻の銀水晶という強大な力をもっていたからこそ、すべては始まった。ならば諸悪の元凶は、実は彼女ではなかったのでしょうか、なんてね。そしてこういうオチというか、展開への伏線として、Act.37ラストの「プリンセスこそこの星に、災いを呼ぶ存在なのだ」というベリルのセリフや「私が、星を滅ぼした」というプリンセスのつぶやき、そしてAct.46の「つまり、うさぎちゃんがメタリアにもなれるってこと」という亜美のセリフがあったわけだ。
 でも亜美の「うさぎちゃんがメタリアにもなれる」というのは、明らかに言い過ぎだ。このセリフを聞いたとき我々は、ひょっとして最後にプリンセス・ムーンがメタリアと同化するという意味なのか?なんて考えてしまった。しかもそれに先立つAct.43では、確かにプリンセス・ムーンの登場とハープの音がメタリアの活動に力を与えることが描かれていた。これらのセリフや描写は、プリンセス・ムーンとメタリアが、非常に深い関係にあることを暗示している。以上の伏線から考えられる結末は、衛の死で心が折れてしまったうさぎの心が、メタリアと同化して暗黒面に転じ、星を滅ぼす方向へむかう、というものだ。
 でも実際に我々の観たFinal Actでは、星を滅ぼすプリンセスとメタリアの間には、直接の関係はない。衛の死を哀しみ絶望するうさぎのこころがメタリアに取り込まれたわけではない。もちろん衛の死を引き起こした元凶はメタリアなんだが、衛はメタリアを道連れにして果てた。メタリアはFinal Actの時には消えてしまっている。銀水晶のパワーをネガティブな方向に導く勢力は、すでに存在しないのだ。それでも結局、エンディミオンを失ったプリンセスは星を滅ぼすのである。
 あ〜もう面倒くさくなってきた。ここから先、私が何をどう考えたかというプロセスの説明はやめておく。お互いに混乱するだけだし。考えた末の結論だけ申しあげます。つまり白倉伸一郎だ。
 突然ですみません。最終回問題を考えるにあたっての鍵となる人物は白倉プロデューサーだと思うのである。白倉プロデューサーが「正義と思っていたセーラームーンが悪」「プリンセス・ムーンはメタリアと同化して星を滅ぼす」「原作の結末を活かした終わり方にする」という方向性を打ち出した。一方、小林靖子は、本当は「うさぎとプリンセス・ムーンの人格が最後にどこかで和解して、それでヒーリングの力を発揮して世界を救済する」という結末と、さらに「原作はスケールが大きいが整合性は足りないので、もっとていねいに伏線をたたみ、すべてがきちんと収まるべきところに収まるような終わり方にする」という方向を考えていた。白倉伸一郎と小林靖子、この二人の信頼関係と緊張関係、さらにはプロデューサーと脚本家という立場上の関係が「メタリアとプリンセス・ムーンの関係が、考えれば考えるほど分からなくなる」終盤の流れを生んでいったのではないか、Final Actを観終えた後に残る奇妙な感じの正体は、白倉プロと小林靖子の微妙な相克なのではないか、私はそう考えているのだ。

3. その名は白倉伸一郎

 
 白倉プロデューサーは、全話の脚本を書いた小林靖子をのぞけば、おそらくただ一人、一年間の長丁場にわたるシリーズ全体のストーリー展開、各話のプロット出し、そういった過程にぜんぶ関わっているはずだ。というか、そもそも秋からの新番組という変則的なタイミングで、急遽セーラームーンの実写版を作るという企画を立てたのも、脚本に小林靖子を起用したのも、作品の土台作りといえる初回2話(パイロット版)を田崎竜太に任せたのも、舞原監督をはじめとする監督の起用も、最終的にはこの人の判断によっている。番組のあらゆる局面に関する最高権限はプロデューサーのものである。その意味では、実写版をトータルな作品と見なす場合、その「作者」は小林靖子というよりも、むしろ白倉伸一郎だ。
 にもかかわらず、私が今までこの人にほとんど触れなかった理由は、要するにどこにどう白倉さんの個性が反映されているのか、よく分からないからです。プロデューサーというのは、実際に脚本を執筆するわけでも、演技するわけでも、演出するわけでも、撮影したり編集したりするわけでもない、でもそのあちこちで口を出してはいるんだろうな、という、いわば影の存在である。私はこの日記で脚本家や演出家の個性を指摘しているが、それだって、M14さんの台本比較というお手本があるから、なんとなく分かったようなことを書いているだけで、確信はないのだ。ましてプロデューサーの意見が反映された箇所なんて、分かるわけがない。
 それから、白倉プロデューサーは、具体的な作品づくりについてはけっこう自由にスタッフに任せているらしい、ということもある。 よく引き合いに出される高寺プロとの比較で言うと、高寺成紀プロデューサーは、自らセットやロケ地選びにこだわり、ストーリー面でも脚本家に書き直しを命じたりして、予算はかさむわ、スケジュールは超過するわ、現場はもう火の車だったという。で、そういうときの後始末にかつぎ出されるのが白倉プロで、『仮面ライダークウガ』でも後半には補佐役として入ったし、『響鬼』の時は有名なシリーズ途中のプロデューサー交替という事件にまで発展した(このあたりWikipedia調べ。あそこの特撮関係は気合いが入っていていろいろ参考になる)。
 高寺プロのそういう芸術家肌なところはオダギリジョーや細川茂樹に高く評価されており、一方、脚本家を初めとするスタッフサイドからは白倉プロへの好意的な声が聞かれる。つまり白倉プロという人には、予算とスケジュールをしっかり管理しながら、同時にスタッフが気持ちよく仕事のできる環境を整える、という能力があるのだろう。プロデューサーとしては非常に正しいあり方だ。だから実写版の場合も、金とヒマのかかる特撮シーンを節約するとか、子供向けキャラクターとしてのセーラールナを出さなければいけないとか、そういう面では干渉しただろうけど、物語作りに関しては、小林靖子を初めとするスタッフの意向を尊重して、少なくともいったん上がった脚本を書き直しさせるなんてことは、なかったはずだ。
 とは言うものの、各話のあらすじを決める段階までは口出ししたはずで、やはりプロデューサーが作品の世界を左右する鍵を握っていることも事実だ。だからここで、おくればせながら白倉プロの「特徴」とか「作風」を考えてみたい、と思うのだが、これがさっきも書いたように推定に推定を重ねるような話だ。でもこれまでも推定や憶測ばかりで書いてきたようなもんだから、まあいいや。わずかなヒントを元に、妄想力を膨らませてみよう。まず第一の手がかりは、例の制作発表の時の「原作原理主義」という言葉だ。
 だいたいこの白倉さんって人、制作発表の場でかなりでかい口をたたく。たとえば先日の『仮面ライダー電王』プレスリリースでは「仮面ライダーシリーズにとって革命的な作品。娯楽番組の歴史が『電王』によって変わる」なんて言っていました。まあそういうのも宣伝の一環なのだろうけど。
 じゃあ実写版セーラームーン制作発表のときの「原作原理主義」という言葉は何だったんだと言えば、ひとつにはあれだけ評判を呼んだアニメ版のファン、あるいは「原作を越えたアニメ版」を自負する東映アニメ部を、あえて挑発してやろうというイタズラ心があったのではないでしょうか。今度のセーラームーンは、アニメとはぜんぜん違うよ、なんて感じ。まあ確かにある意味でその反響は大きかったわけで、アニメ版のファンからは総スカンをくらった。まったく火に油を注ぐような真似をしてくれたもんだ。
 しかし、ただそれだけの意味で「原作原理主義」とうたったわけでもないだろう。さっきも書いたように、私は白倉プロデューサーの作風をはっきり指摘できるほどの材料をもっていないが、ともかくこの人、そういう大口をたたくばかりでなく、作風も、あまり後のことを考えず、どんどん大風呂敷を広げる展開が多いような気がする。で、たたむのは脚本家まかせである。だから井上敏樹のような、やはり伏線をばらまくだけばらまいて盛り上げるのが得意、後始末はやや苦手というタイプの脚本家と組むと、ほとんどヤリ逃げのような最終回になってしまうことすらある。アギトとか。
 しかしそういうところが、実は原作のイメージとよく重なると思うのだ。先ほど紹介した原作の最後を思い出していただきたい。最愛の恋人を自らの手で殺すという古典悲劇的展開、悪役が最後に改心して善に転ずるという善悪ノーサイドのドラマ性、世界を破滅に導くクイン・メタリアという闇の力と、それを滅ぼす銀水晶の聖なる光という黙示録的ヴィジョン、ひとつひとつの要素はそれほど斬新でもなく、ストーリーの整合性もとれていないのだが、とにかく勢いとスケールだけはやたらと大きく広がっていくのである。私は原作のそういうところが、白倉プロデューサーの感覚にフィットしたのではないかと思う。つまり、最終回を原作と同じ結末にもっていくという主張は、原作者がねじ込んだというよりも、むしろ白倉プロの意向であったのではないかな、と想像しているわけです。

4. プリンセス・ムーンをめぐって


 どこかで読んだあやふやな記憶だが、実写版の企画が動き出したのは2003年の7月からだったという。放送開始日がその3ヶ月後の2003年10月4日だから、かなり急な企画だ。しかも白倉プロデューサーは当時『仮面ライダー555』(2003年1月〜2004年1月)も手がけていた。だいたい『555』の放送が折り返し点を過ぎたあたりで実写版セーラームーンが始まったことになる。だから前半の物語には、さすがに白倉プロデューサーも、それほど深く関与できなかったのではないかと思う。つまり私は、前半の「戦う学園もの」路線は、小林靖子のカラーがかなり強く出たものなんだろうと想定している。
 『555』の最終回は2004年1月18日(日)、その翌週の2004年1月24日(土)に実写版のAct.16が放送されている。大阪なるへの嫉妬に苦しむ亜美の物語にひと区切りがつき、同時に学園ものとしての実写版の世界にもひと区切りがつく。白倉プロが実写版の世界に深く介入し始めたのはこのへんからだ、と思う。具体的に言うと、次のAct.17で「実は美奈子は深刻な病気にかかっているようだ」という設定が唐突に持ち込まれる。それ以前の回で美奈子がメインだったAct.11やAct.12では、そんな設定を予想させるような描写はなかったはずだ。美奈子の病気、および最後に美奈子が死ぬという展開は、小林靖子が考えたものではなく、白倉プロがつけ加えた設定だと思う。
 以降、陽菜の登場、レイと美奈子の対立、ダークマーキュリー、セーラールナ、黒木ミオ、そしてプリンセス・ムーンと、「原作原理主義」と言っているわりにはいろんな新ネタが次々に出てくる、しかしどれが白倉プロのアイデアかなんて、そりゃ分かりません。小林先生、白倉さん、スタッフが侃々諤々、議論しているうちにプロットが決まっていったんでしょうしね。そういった個々の問題についてはまた改めて考えることにして、今はただ、プリンセス・ムーンについてだけ考えてみたい。


 最終クールにプリンセス・ムーンを登場させるというアイデアそのものが、小林靖子のものなのか、白倉プロのものなのか、みんなで意見を出し合っているなかで決まったものなのか、それは分からない。分からないがしかし、実際の執筆者である小林靖子も、プロデューサー白倉伸一郎も、この設定には大いに乗り気だったのだと思う。ただ、その存在を最終的にどういう方向で解釈するか、という点をめぐっては、双方の見解におおきな食い違いがあり、それがFinal Actではっきり表面化した。私はそういうことを考えている。
 ダークマーキュリーが、決してクンツァイトの術によって作り出された、亜美自身のあずかりしならいキャラクターではなく、亜美自身の人格と結びついた「もう一人の亜美」であるように、プリンセス・ムーンもまた、うさぎ=セーラームーンの人格の一部である。だから物語の結末は、うさぎが仲間の呼びかける声に支えられ、前世の呪縛であるプリンセス・ムーンというもうひとつの自我を淘汰して、かつてプリンセスが星を滅ぼすために使った銀水晶の力を、今度は癒しと再生のために開放する、というかたちでもたらされなければならない。これが小林靖子のプランだった。けれども白倉プロデューサーのモチーフは、プリンセス・ムーンという存在を通して、古典的な善と悪の対立という図式を壊し、善悪二元論を越えた運命的な悲劇としておとずれる、世界の崩壊を描くことにあった。だから原作のハルマゲドン的なイメージを借りてきて、その破局をもたらす存在として、最後の敵であるメタリアの代わりに、プリンセス・ムーンをもってきた。そして、善と正義の象徴である銀水晶が、悪の象徴メタリアに力を与える根源でもあり、したがって破滅の元凶でもあるという構想にこだわった。そして小林靖子は、自分のこだわりと、プロデューサーの意向に、なかば無理やり折り合いをつけるようなかたちで、この最終回を書いた。そんなふうに思えるのだ。
 今年、小林靖子をメインライターとして始まった『仮面ライダー電王』は、良太郎というヘタレで善良な若者がプラットフォームとなって、そこにモモタロスだとかウラタロスだとかキンタロスだとか言われる「イマジン」の人格が憑依して、様々なタイプの強力な仮面ライダーに変身するという、つまりプリンセス・ムーンと同じ多重人格テーマの発展型である。しかもすでに先々週あたりのエピソードで、良太郎は、まだ誰にも憑依されていない状態で、空手の猛者を吹っ飛ばすという馬鹿力を発揮している。今後、モモタロスだとかウラタロスだとかは、良太郎に力を与えているというよりも、実は一見ヘタレな少年に過ぎない良太郎に潜む潜在能力を引き出す触媒のような存在なのだ、という方向で話が進むのではないだろうか。それはプリンセス・ムーンとはうさぎがパワーを開放するための触媒であり、その力を操れるのはうさぎの自意識なのだ、という、実写版セーラームーンで十分に描ききれなかったテーマへの再挑戦であるようにも思える。『電王』の今後の展開に期待したい。ただこれも白倉プロデューサーなので、結局どこまでが小林靖子のモチーフでどこからが白倉プロデューサーのアイデアなのか、分からなくなっちゃうかも知れないんですけどね。それに、明日の朝に放送される回は、小林脚本じゃないみたいだし。

5. piatoさんからのメール


 前回と今回はいつにも増してとりとめのないレビューになった。すみませんでした。ところで唐突ですが、前回の日記をUPした後、piatoさんからメールをいただいた。
 Act.48、泣きながら、メタリア化した衛を倒す決意をしたセーラームーンに向かって、亜美は「うさぎちゃん、駄目!今のうさぎちゃんには耐えられないよ、壊れちゃうよ!」と叫ぶ。私は、このセリフには二重の意味がある、ひとつは(A)まことの「やめろ!」と同じように、うさぎにつらい思いをさせたくないという悲痛な想い、もうひとつは(B)それをやってしまったら、悲しみと絶望のあまり、うさぎはプリンセス・ムーンの破壊衝動を抑えられなくなるだろう、という冷静な状況判断である、と書いた。で、piatoさんも「なるほど、確かに脚本家や演出家の意図はそうだったのかも知れない」と同意してくださったのだが、ただ実際の作品を改めて観ると(B)の方はそんなに感じ取れない。
 つまり浜千咲の演技力が不足していたということか?いや、あの天才、浜千咲に限ってよもやそんなことはあるまい。でも考えてみると、後半の浜千咲って、確かに前半の、天馬空を翔るかのごとき才能の奔流と較べれば、全体的になんだか地味だ。ということは、後半はそれだけ芝居がむずかしかったと理解すればいいのかな。それとも、監督陣も亜美の位置づけにもうひとつ迷っていて、それが浜千咲の演技にも反映されてしまったのか、どうなんだろう?という内容でした。
 ことが「浜千咲の演技力不足か?」という、コメント欄に書き込んだら暴動が起きて炎上しかねないテーマをはらむ問題だっただけに、piatoさんは直接メールをくれたわけです。いやしかし、いまどきそのくらい実写版と浜千咲の話題で盛り上がることができるなら、このブログが自爆してもそれはそれで本望だ「たとえ命を捨てても、前世の使命ははたす」なんてね。ジュピターは消えないから。
 冗談はさておき、実際の映像を観ると、確かにこれは、冷静な状況判断というにはあまりにも悲痛な叫びに響く。こっちよ!さんは「地球が壊されることよりうさぎが壊れることのほうが大問題」とまで書かれていたが、それも決して大げさな表現とは言えない。じゃ、私がなんであんなことを書いたのかというと、浜千咲の演技や演出家の意図よりも、小林靖子のスタンスを優先的に考えると、そういう解釈になる、という意味なのです。
 この1年間、実写版を再放送で観つづけているうちに、私は、プリンセス・ムーン登場以降の物語の展開にしばしば、ややドライなものを感じるようになった。そしてその印象の底には、前半のドラマを自らのめり込むように感情移入して書いていた小林靖子が、結末に向かって物語が収束するにつれ、冷静に一定の距離をとるようになっていった、という事情があるんじゃないかという気がしてきた。その原因をあれこれ考えてみた結論が、今回ながながと書いたことです。そこには、白倉伸一郎と小林靖子の間に生じた理解のずれというか、白倉プロデューサー的な物語の解釈に対する、小林靖子のジレンマという問題があるのではないか。
 そして同時に、そういう自分自身のジレンマを、小林靖子はしばしば亜美に投影していて、それが終盤の亜美の曖昧さにつながっているんじゃないかと、まあここまで来ると私の妄想も極まったなあと自分で思うが、なかば真剣に考えている。前半で、小林靖子独自のセーラームーン世界を切り開いた、象徴的なキャラクターである亜美。その亜美のセリフや行動を通じて「これでいいのか?」という脚本家の思いが、後半の作品のなかに吐露されている、そんなふうに思っているわけです。
 レイと美奈子のドラマを、一歩引いた位置から見守る亜美には(このまんまじゃ美奈子ちゃんは本当に死んじゃうよ、それでいいのプロデューサー?)という想いが、「うさぎちゃんがメタリアにもなれる」というセリフには(やっぱり私は、うさぎちゃんが星を滅ぼすラストはどうもいやなんですけど、そうしなくちゃいけませんか?)という躊躇が、そして「今のうさぎちゃんには耐えられないよ、壊れちゃうよ!」という叫びには、(白倉さん、ここでうさぎが衛を刺したら、やっぱり絶望したうさぎちゃんが星を破滅させなくちゃならなくなるけど、ホントにホントにそういう終わり方でいいの?)という訴えが、二重写しに読みとれてしまう。やはり私はちょっと病気かもしれない。
 そういう意味で、終盤の亜美のセリフのあちこちには、物語の展開に乗り切れない、やや冷めた脚本家の自意識が重ねられている。しかしそれは亜美を演ずる浜千咲の演技に反映させる必要はないもので、だからドラマの中で「うさぎちゃん、駄目!」と叫ぶときの亜美は、もうひたすらに、うさぎちゃんが壊れてしまうことだけを必死に心配していればいい。ただそれを観ているこちらには、ドラマの外の脚本家のつぶやきまでもが聞こえてしまう。それが終盤の亜美に、物語の流れから距離を置いているような、影が薄いような、不思議な印象を与えるのではないだろうか。piatoさんのメールに対するご返事になっているとも思えないのだけれど、私はそういうことを考えています。

6. エンドロールだ!


 さて最後くらいは楽しく分かりやすい話題で締めたいとおもいます。「Friends」が流れるラスト、台本の最後の一行「走るうさぎの手が、仲間達の元へもうすぐ届く」を忠実に再現してストップモーション。以前に書いたが、その直前の、みんなの名前を呼びながら手を振るうさぎの背景に一瞬、観覧車が映っているのもお見逃しなく。偶然かどうかは分からないが、Act.12以来、前世を繰り返す「運命の輪」を象徴していた巨大な観覧車から、みんな自由になったのだ。
 で、ここからエンドロールで、1年間の番組から選りすぐった戦士それぞれの名場面集が流れて、エピローグともカーテンコールともいうべき5人のキャスト紹介にいたる。このエンドロール、どの回からどのシーンがとられているかは、大家さんがまとめてくださっているのでそちらをご覧ください(ここ)。でもまことと美奈子の名場面選択については大家さんはご不満でいらっしゃる。これは確かにそのとおりだと思う。さすが美奈子ファンサイトの古参であり、安座間サイト認定の初代王者である。そこで、翌日の日記に2種類の代案を示されている(ここ)。個人的には第2案が楽しいが、実際にということになると、どうもね。しかし私はもう本日は力尽きた。どうかみなさん、木野まことと愛野美奈子に限らず、全話のなかから名場面集をマジメに考えてみて「この回のこのシーンはぜひ入れて欲しい」というのが浮かんだらコメント欄にご提供ください。よろしくお願いします。それをネタに将来、決定版エンドロールを考えてみたいのだ。というわけで本日はこれまで、どっとはらい。



(放送データ「Final Act」2004年9月25日初放送 脚本:小林靖子/監督:鈴村展弘/撮影:小林元)