実写版『美少女戦士セーラームーン』ファンブログ


最新記事〕 〔過去記事〕 〔サイト説明〕 〔管理人

【第74回】プリンセスの品格の巻(Act.44)


 来る3月20日から、エアギター世界選手権の国内予選が始まる。この世界選手権は1990年代からすでに存在していたが、初めて日本人が入賞したのは2004年のことだ。そしてこの頃から少しずつ「エアギター」という言葉は、「ロックっぽいギターの弾き真似をするパフォーマンス」の呼び名として、我が国でも広く浸透するようになっていった。
 さて今回の実写版レビューはAct.44である。まこちゃん初登場回の思い出の地でもあり、たまらさんが最近プレゼンを行った地でもあるシーバンスで、セーラームーンと妖魔が対決する。そして最後にゾイサイトが木の下で静かに散る。
 もしみなさんがこのラストシーンを誰かと観ていて、思わず泣きそうになって、でも泣いたら恥ずかしい、なんてときには「これは遠藤君のエアピアノだ」と自分に言い聞かせてみてください。そして、まだ日本にエアギターという言葉が定着していなかったときに、すでにこんなこともやっている実写版は偉い、と心の中で拍手して、明るい気分で涙をふきとばそう。どんなときも「馬鹿みたいに」笑ってなきゃなんないうさぎちゃんにも、この方法を教えてあげたいのだが。

1. 監督VS脚本家


 3月14日(水)深夜2時15分、Act.44再放送。ホワイトデーだ。男性の皆さんは義理をもって義理に答えましたか?女性の皆さんも友をもって友に答えましたか?そして本命の方は愛をもって愛に答えましたか?まあいいや。
 前回は、淋しく切ない笑顔を浮かべ、海岸でひとりぽつんと膝を抱くうさぎに続いて、レイと美奈子の最終抗争が勃発したところで幕引きとなった。アヴァン・タイトルはその場面から直接続く。向き合う二人。バスト対決として見た場合、勝敗は誰の目にも明らかだが(まだ言うか)、にもかかわらず今回のレイは余裕しゃくしゃくだ「あなたをリーダーとは認めない。戦士の力に目ざめていないからよ」。図星を指されて動揺する美奈子。
 初放送の時には我々も同じくらい動揺していた「え?どういうこと?レイはどうして、美奈子が戦士の力に目ざめていないことを知っているの?霊感?それともただのレイのハッタリ?」しかし今や我々は、M14さんの台本比較で、実はAct.36の病気見舞いの帰りに、レイがアルテミスからこっそりその事実を打ち明けられるシーンがあったことを知っている。その後のレイの美奈子に対する思いを理解する上で非常に重要なポイントなのに、なぜ放送で切られてしまったのかは分からない。ともかくあの回も今回も、担当は鈴村監督である。責任者だ。
 鈴村監督だって、あのシーンが、こういう爆弾発言のようなかたちで活かされる伏線であることを知っていたら、もちろん入れていただろう。ここへ来て「しまった!あんな大事な伏線を、オレ切っちゃってた」と思ったかもしれない。美奈子が「あたしが戦士の力に目ざめてない?言いがかりはやめて」と強気の姿勢を崩さないながらも動揺しているのは当然だが、アルテミスの、この緊縛した場にそぐわない、ほとんど笑えるくらいのうろたえぶりは、ひょっとしたら鈴村監督自身の狼狽なのかもね。アルテミスだって、こんなところで仲間の前でバラされてしまうことを予想していたら、レイにこっそり打ち明けていなかったはずで、気持ちは鈴村監督と一緒だ(笑)。もう破れかぶれである。

美奈子「アルテミス、私がちゃんと戦士の力に目ざめてるって、マーズに言ってやって」
白 猫「…うう…」
美奈子「アルテミス!」
白 猫「…美奈子は、ちゃんと目ざめてるよ、目がさめてるっていうか」
美奈子「意味わかんないことは言わないで。どう?」

 「どう?」って言われても、ねえ。
 一方、レイはひさびさに強気だ。北川景子の魅力爆発である。まことが美奈子と近い立場にあること、そして亜美もまた「でも、美奈子ちゃんは、いちばん前世の記憶を持ってるし」という考えであることはもちろん承知してはいるのだろうが、それでも「まことと亜美ちゃんだって、納得できないでしょ。戦士の力に目ざめてないのに、リーダーだなんて」なんて強引に言い切っている。
 レイの怒りは、美奈子の孤独を思いやる気持ちが相手に通じないことへの苛立ちであり、仲間なのに心を通わせようとしない意固地な美奈子への腹立たしさである。しかし怒りだけではなく、ちょっと勝ち誇ったような感じもする。まあ、これまでのいきさつなんかも考えれば、ついに美奈子をやり込めたぞ、と快哉を放ちたい気持ちも分からなくはない。ついでに言うと、小林靖子が憑依して鈴村監督をいじめているようにも見える。あんた、私がAct.36で張っておいた大事な伏線をカットしちゃって、このシーンどうしてくれるのよ。「アルテミスも困ってるじゃない」なんてね。
 アルテミス鈴村は地べたでたじたじである。一方、前回なかなか果敢に戦ったルナは、この場面では猫に戻って亜美にだっこされている。この後のエピソードでは、ルナもまたうさぎを離れ、戦士たちと行動する機会が以前より増えると記憶しているが、猫ルナの時にルナを持ち運ぶのは、もっぱら亜美の担当になっていったんじゃなかったかな。でもアルテミスは、地べた。この距離感は、すでにAct.40のラスト、自分を抱きしめる美奈子と地面からそれを見上げるアルテミス、という構図で示されていた。
 ヴィーナスではなく愛野美奈子の身を心配するようになって、アルテミスはだんだん美奈子から距離を置かれるようになり、次回はついに絶縁宣言され、火川神社に転がり込む。それで今度はレイの胸にだっこされるようになるわけだが、やはりこの、ふくよかさというものが若干違うわけで、どうしても美奈子への思慕の念は消えない。だからそういう話はもうやめろってば。
 ところでふと思い出したんだが、この二匹の猫、Act.48とFinal Actの2話では失踪していなかったか?アルテミスは美奈子の喪に服していたと考えて、ルナはAct.48冒頭の、あの印象的な浴衣姿のうさぎちゃんの部屋にさえいなかったような気がするけどな。猫たちの物語は美奈子の死と共に終わった、と考えるべきなのか。まあいいや、再来週の再放送で確認してみよう。

2. 女王の孤独


 以上でアヴァン・タイトルが終わり、主題歌に続く場面はダーク・キングダム。ベリルとの約束を反故にした衛の体内では「命を吸い取る石」がさらに活動を始め、衛に激痛を与える。マスターの苦悶する様子を見かねたゾイサイトは、ベリルのもとへ命乞いに訪れる。
 そのベリルも、いつもと様子が違う、かつての威厳と自信に満ちた面影は影をひそめ、また前回あたりの、プリンセスへの嫉妬にめらめら燃える情念の炎も見えない。愛する者の気持ちを向けさせることができず、苦しみ打ちひしがれる、弱々しいひとりの女がいるだけだ「どうやってもエンディミオンの心は、手に入らぬ。あの頃のように。やはり命を…」。命を奪うことによってしか、プリンセスからエンディミオンを引き離すことはできないのか。前世の身分違いの恋は、悪の王国の女王となり、力を得た今も決して成就しないのか。そう思い悩むベリルのかたわらには、しかし「私にはお側にいることぐらいしかできません。お目触りならば消えます」と一途に寄り添うジェダイトがいる。ベリルは「構わぬ」と答えるが、かといって、今はまだジェダイトの心に気づく様子もない。むしろ、家来に憐れみをかけられているのに腹を立てることすら忘れてしまっている姿が、この憎いはずの女王を痛々しく見せる。
 そんなベリルを、ゾイサイトの懇願がいっそう孤独に追いやるのだ「クイン・ベリル、どうか、マスターを助けていただきたい。私の命など、代わりになるはずもないが、もし聞き届けてもらえるならば……」「死んでも良いと申すか」「それですむなら、喜んで」「わらわにはそのような忠誠心、一度も見せたことのないお前がな」
 エンディミオンはプリンセスのために、ゾイサイトはエンディミオンのために、命をなげうつことも辞さない。しかし自分にはそんなふうにつくす者は誰もいない。せいぜい役に立ちそうもないヘタレが一人。苦悶の中でベリルは交換条件を持ち出す「プリンセスの命、それと引き替えなら、考えても良い」。前世でも現世でも、自分からすべてを奪い尽くすプリンセスが憎い。もう幻の銀水晶がどうのこうのという話ですら、なくなってしまっている。
 この提案は、ゾイサイトにとっても即座に乗れる話ではなかった。マスターはプリンセスを救うために命を捨てた。なのに、そのプリンセスの命を奪うことが、正しい選択と言えるだろうか?悩みながらも、最終的にゾイサイトは妖魔にプリンセスを襲わせる。やはりマスターを守ることが、優先されるべき使命なのだ。

3. ゾイサイトと美奈子のビミョーな関係


 というわけで今回は、何よりもダーク・キングダムの物語である。何しろ先ほどのベリルやジェダイトだけではなく、クンツァイト、さらには引退したネフライトについても、それぞれ印象的なシーンが用意されているのだ。そして主役はゾイサイト。彼が死を迎える場面がクライマックスで、そのままエンドマークが出る。
 ただ何しろセーラームーンなので、悪の組織の話ばかりにしてもしょうがない。そこでアヴァンに出た美奈子とレイの対立をサブストーリーとして絡めていく。こっちで中心になるのは、どちらかと言えば美奈子だ。レイに反抗された美奈子は、自分がリーダーであることをはっきり示すために、ついにクラウンに足を運ぶ。当然レイと衝突して、レイは出て行ってしまい、今回はもうそれっきり姿を見せない。ゾイサイトと美奈子の話なのだ。
 改めて言うまでもなく、美奈子とゾイサイトは何かと因縁がある。Act.6のラストで登場したときから、ゾイサイトはセーラーVに目をつけていた。Act.8ではその正体が愛野美奈子であることをつかんでおり、ナコナココンテストの現場に妖魔を送る。Act.10の「プリンセスへのレクイエム」作戦は空振りだったが、ラストではロンドン帰りの美奈子を襲う。Act.12ではヴィーナスビームに倒され、復活後、Act.35では、今度はヴィーナスに共闘を持ちかけている。だから今回も、あっちの主役がゾイサイトなのでこっちの主役は美奈子だ。
 それだけではない。美奈子のレイに対する確執と友情が、ゾイサイトにおいてはクンツァイトとの関係に対応することも、ときおり暗示されている。たとえばAct.40の、放送からはカットされたシーンで、ゾイサイトは「意外だな。マスターとの賭けを律儀に守るつもりとは」とクンツァイトを揶揄している。クンツァイトがマスターとの一騎打ちに敗れ、そのあと約束通りマスターにきちんと仕えている様子をちょっと面白がっているのだ。復讐だと口にはしているが、お前はやはり我らの中でもマスターの第一の忠臣だよ、それが宿命なのさ。クンツァイトは憮然として「奴が何をするのか興味がある。それだけだ」と意固地に否定する。そしてこの二人の描写をひとつのきっかけとして、Act.40は、メインストーリーであるマーズれい子登場、美奈子とレイの意地の張り合いという話に入っていくのだ。そんなふうに、ゾイサイトとクンツァイトの関係が、美奈子とレイの関係になぞらえられている。
 それが今回も繰り返される。今回、クンツァイトはダーク・キングダムを出て行くと宣言し、ゾイサイトに背を向けて去っていく。その時ゾイサイトは「マスターを守れるのは、やはり私ひとりか」と、ついにベリルの条件を呑むことを決意して、ピアノを弾き、プリンセスを襲わせるための妖魔(革命)を作り出す。そこで場面はクラウンに移り、まだゾイサイトの弾くショパンが流れる中、美奈子とレイの対立が描かれるのだ。やはりここでも、ダーク・キングダムの洞窟を去っていくクンツァイトを見送り、マスターを守る決意を新たにするゾイサイトと、クラウンを去っていくレイを見やって、プリンセスを守る戦士たちのリーダーとしての決意を新たにする美奈子のイメージがオーバーラップするように描かれている。
 でも私には正直いって、小林靖子がなぜこうも美奈子とゾイサイトを対応させるのか、その真意はよく分からなかったりする。今回なんか、終わりの方のシーンでは、ヴィーナスが妖魔を追おうとして力尽きて倒れる瞬間と、ゾイサイトが妖魔から死の一撃を受けてがっくりくずおれる瞬間を、しつこいぐらい交錯させているのだが、それが何を意味するのか分からないのである。共通点というと、どちらも前世の使命に忠実であり、自分の主人の恋路を邪魔することに執念を燃やしていたこと、でも最後には改心したこと、どちらも音楽が好きなこと、それから健康状態が悪そうで、最終回より前に死んでしまったこと、そのくらいか。
 いや「死んでしまう」という件に関しては、クンツァイトも含めて考えなければならない。クンツァイト・ゾイサイト・美奈子、この三人の共通点は、前世をよく記憶していることだ。最後まで前世を明確に思い出せなかった亜美・レイ・まこと、そしてネフライトは、そのために現世を生きる力を与えられた。けっこう思い出しかけたようだが、「今の主人」であるベリルへの想いが勝ってそれを振り切ってしまったジェダイトもぎりぎりセーフ。逆に、前世の記憶に深くとらわれてしまった者は、それゆえにみな、志なかばで命を落とす。もちろん美奈子は最後に「今を生きる」決意をしたが、時すでに遅すぎた。これが実写版の法則だ。

4. 「分からん!」


 分からないと言えばネフリン。例の「まずい、まずい」のシーン。何か新発見でもないものかと改めてじっくり観たけど、やっぱり何のことか分からないよこれ。
 ネフライトはAct.42の最後の方で、メタリアの力で人々がばたばた倒れたとき、自分の手に何やら力がみなぎるのを感じた。そしてそれと連動するように、メタリア妖魔と戦うマーキュリーの手が傷ついた。私はここに、2人の間にテレパシー的な交感を想定したのだけれど、これは見当違いでございました。今回の回想シーンで観たら、Act.42でネフリンが「この力は」とじっと見つめていたのは左手。右手はモップを持っていた。一方マーキュリーが傷ついたのは右手でした。
 なんでこういうケアレスミスをしたかというと、今回、クラウンのカウンターで留守番しているネフリンが「やはり何かが違う。力が戻ったのか?」と差し出す手が右手だったからです。で、本当に力が戻ったのかどうか、目を閉じて思念を集中して右手を伸ばすネフリンのカットに続いて、亜美がクラウンに入ってくるカットにつながる。だからまるで、ネフリンが念力で亜美を呼び出したように見える。その印象があったので、Act.42でも同じ右手でつながるな、と錯覚してしまったのです。すみません。
 ただお話のなかの時間は直接つながっていなくて、ネフリンは中途半端に力を発揮したらしく、あたりは色んなものが散乱しているし、元基も帰って来てあきれ顔だ「亜美ちゃん、またこいつがやってくれちゃったみたい。でもホント、何すればこうなるわけ?」「分からん!」。私も分からん。本当に分からん。メタリアの活動が活発になり、もはや四天王ですらないネフリンにも微弱な影響を与えるほどパワーが増大してきた、ということだろうか。
 亜美はクッキーの入った紙袋を元基とネフリンに差し出す「あの、よければ、これ。私が作ったんだけど、気分直しに」。嬉しそうにのぞき込む元基だが、焦げたクッキー。これも分からん。そもそも亜美は家庭科の成績も悪くなかったはずだ。Act.16ではママにクッキー焼いているし。
 普通の料理だったら、たとえばタマネギ「中1個」だとか、「塩少々」「とろ火で」なんて、考えてみるとけっこう曖昧というか、測定不能な表現が出てくる。それに作り方や飾り付けにしても、下手に教科書にとらわれず、むしろその場その場で味見をしたり、火の通り具合を確かめたりしながら、臨機応変に対処できる反射神経がものを言う。まことが料理上手なのはそのへんに理由があるのだろうし、亜美はどっちかというとそういうのは苦手そうだ。
 しかしこれはクッキーなのだ。クッキーやケーキというのは、バター何グラム、砂糖大さじ何杯、牛乳を何cc、そしてオーブンを何度にセットして何分、というように、数値は完全に測定可能なかたちで示されるし、これをきちーっと、量りや計量カップを使って正確に計らなければダメである。そして作るときも、書いてある通りの作り方で作る。そうすれば意外と簡単なのである。逆に自分のアイデアや創意工夫を勝手にもちこむとまず失敗する。そういう意味では、亜美のような子に向いていると思う。この回が放送されたのは夏の最中だから、バターだって冷蔵庫から出しておけばすぐに常温に戻って、柔らかくなってツヤが出てくるだろうしね。この、バターを常温に戻すというのがけっこう大事なポイントなのだ。
 男の脚本家ならともかく、小林靖子がそういうことを知らなかったとは考えにくい。だからおかしいのだ。几帳面な亜美ならクッキー作りなんか得意なはずだ。なのに一目見て失敗作と分かるクッキーを、作り直しも味見もせずに、なぜいきなり持って来たのだろう。わざとやっているとしか思えないね。
 わざとか。わざとやったのか亜美ちゃん。(1)テレティアに入れている変な服と同様、できそこないみたいな変なお菓子が好き、(2)自分の手作りと知れば、元基とかなら、まずくても無理して食べるだろうから、それを見てひそかに楽しもうと思った、(3)自分の失敗ぶりをわざと見せて、不器用なネフリンを慰めようとした。(1)はない。Act.2のプリンもAct.14のプリンも普通のプリンだった。(2)これはダークマーキュリーだ。でもちょっとそういう感じもする。可愛い格好で、ブリッコしながらも妙に強制的だし。しかし本命はやはり(3)だね。そうだとすれば、もうこの時点で亜美は、ネフライトとかなり心を通い合わせていることになる。私もこんなに失敗するんだよ。だからあなたも、そんなにいらいらしないで、ひとつずつ、がんばろうよ。
 私は、亜美がネフリンのことを、あの洞窟でしょげていたネフライトだと内心気づいている、という説は採っていない。そもそもダークマーキュリーであったころの記憶なんて、どれほどあるんだか「私、どれくらいあんなふうだった?何してたの?」。でも無意識には何か残っているはずだし、そういう部分で、自分でもよく分からないけどネフリンに何かを感じた、ということならありうると思う。だから一目見たときから、何かネフリンのことが気になって、こんなことまでして励まそうとしているのだろうか。
 一方のネフライト、私は第69回で、ネフライトは亜美たちを見てセーラー戦士たちと気づいていなかった可能性があると書いたけれど、M14さんが紹介してくださった台本を見ると、やはり気づいていたようである。だから、ネフリンは亜美が、洞窟でみじめな自分を見て憐憫の情をかけたあのダークマーキュリーだと知っているのだ。その相手に突きつけられて、一口喰ったクッキーが実にまずい。で「まずい」「まずい」とむさぼるわけだから、こいつもこんな失敗をするんだ、という事実を知って元気が出た、とでも考えるほかない。ほとんど亜美の計略どおりというか、単純な男だな。
 ただ彼は次回で、その「まずいものの礼」を買い「借り」を返そうとしている。クッキーを「借り」と考えているのだ。亜美が自分を励ますために、わざと自分の「ぶざま」な失敗作を食べさせてくれたのだ、ということを、もうすでに、うすうす気づいているのかも知れない。それでもプライド高く拒絶しようとしないところに、この男の変化が見られる。そして最後に、ゾイサイトのエアピアノでショパンの調べが聴こえたときも、彼は一瞬はっとして、それから再びうつむき、黙々とモップを動かす。もう中途半端に戻ってきた力に頼るのはやめよう、ここで人間として、こうやって失敗を繰り返しながらこつこつやっていこう、と静かに決意しているのだろうか。私がいちばん好きなネフライトのシーンだ。

5. 「大切なものに順番なんてない」


 「分からん」と言いながらだいぶ時間と字数を費やしてしまった。そろそろ終わりにしないとAct.45も控えているし、後は思い切り飛ばしていくぞ。再びダーク・キングダム。ゾイサイトはすでにプリンセスを倒させるために妖魔(革命)を送り込んでいる。もちろんそのことはマスターには言えないまま、マスターの身体を気づかう。

 マスター「俺がベリルとの取引を蹴ったこと、納得いかないみたいだな」
ゾイサイト「いえ、ただマスターには、何より命を大切にしていただきたいと」
 マスター「大切なものに順番なんてない。何かのために犠牲にできるようなものなら、最初からたいしたものじゃないんだ。そりゃ俺だって死にたくないけどな。でも、そのために捨てられるようなものも持ってない。おれがここに来たのも、そういうことだ。お前だって、そういうものがあるだろう」
ゾイサイト「私は……」
 マスター「それは捨てるべきじゃない」

 消耗しきった身体を椅子にあずけたままそう言うと、静かに目を閉じる衛。とても印象的なシーンだ。ダーク・キングダムに行ってから、衛には少しづつ、四天王たちの動向やメタリアの活動を察知する特殊な能力が目ざめはじめている。それとともに、彼のたたずまいには、確かにマスターとしての威厳がそなわりつつある。最初にエンディミオンの白装束で出てきたときには、コスプレにしか見えなかったのだが、渋江譲二も成長した。
 そんな「マスターらしさ」のよみがえりを何よりも喜んでいるのがゾイサイトだ。ところがマスターがマスターとしての威厳を取り戻し、前世に立ち向かったところでとった行動は、軽率にも月のプリンセスのために命を投げ出すことだった。結局、前世からまったく何も変わっていないのだろうか?そんな想いで、前回、Act.43のゾイサイトは、夜の海岸で戯れるうさぎと衛を遠く見つめながら「マスター…」と嘆息していた。そしてクンツァイトは「二度目だな、プリンセスのために命を捨てるのは。何も変わってない。次に奴は星を捨てる」言い捨て、その場を去っていった。
 そして今回、ゾイサイトはうさぎを襲うために妖魔を放った。マスターが何よりプリンセスを大切にするのなら、自分はマスターを何より大切にするのが努めだ。すべてはマスターのために。たとえプリンセスの命を犠牲にしても。
 これがゾイサイトの論理である。ところがここで衛は「大切なものに順番なんてない」と言い「おれがここに来たのも、そういうことだ」と続ける。その言葉に耳を傾けるゾイサイトの脳裏には、Act.36のラストシーンがよみがえる。あの時、マスターは我々の命を助けるために、プリンセスのもとを離れ、進んでベリルの手に堕ちた。マスターは決して、我々をプリンセスのために犠牲にしようとはしなかった。どちらも救いたかった。「大切なものに順番なんてない」そのために捨てられるものは、マスターには自分の命しかなかった。それがマスターの想いだ。
 ならば私もその想いに忠実でありたい。私の大切なものとは何か。いかなるときも、マスターと共にあること。クンツァイト、ネフライト、ジェダイト、そしてマスターの大事なプリンセス。大切なものに順番なんてない。
 このようにしてゾイサイトは改心し、自ら放った妖魔から大切なプリンセスを守ることを決意し、戦いの場に赴く。
 自分の作りだした妖魔ならなんとかなっただろう。だがそいつはヴィーナス・マーキュリー・ジュピターと戦っていて、プリンセスはさらに強力なメタリア妖魔を相手にしていた。メタリア妖魔が襲いかかったその瞬間、ゾイサイトは、まるでかつてタキシード仮面がそうしたように、セーラームーンを危機から救う。しかし代わりに、メタリア妖魔から致命的な攻撃を受ける。最後の力を振り絞って妖魔を追い払うゾイサイト。軌を一にして倒れるヴィーナス。暗転。
 豊かに繁る木の下で静かに息を引き取ろうとしているゾイサイト。ロケーションは横浜の根岸森林公園だ。石田秀範監督の『仮面ライダー555』第44話(2003年12月7日放送)で、薄幸の少女、結花(クレインオルフェノク)が啓太郎に最後のメールを送って散っていたのも、同じこの木の下だ。そして奇しくも同じ第44話。と言いつつ残念ながら私は555、観ていないんですが、構図も非常に近いらしい。
 石田秀範監督は鈴村展弘の師匠で、鈴村氏が『仮面ライダークウガ』でチーフ助監督に抜擢され、さらには監督にステップアップしたのも、この人の強い推薦があったからだと聞く。ゾイサイトの死に場所にここを選んだのは、お世話になっている師匠へのオマージュということだろうか。
 というわけで、ゾイサイト最後の挨拶だ。練習曲第3番ホ長調「別れの曲」。みなさんハンカチかティッシュを用意するか、それともエアピアノにするか、どっちか選んでください。

プリンセス「大丈夫、しっかりして!」
ゾイサイト「プリンセス、許して欲しい、あなたの命を狙ったこと。マスターへの裏切りだ」
プリンセス「そんなこと、助けてくれたじゃない」
ゾイサイト「忘れてはいけなかった。私の、なにものにも替えがたい想い。いかなる時も、マスターと共に。クンツァイト、ネフライト、ジェダイト、もう一度、マスターのもとへ……マスター…」

 セーラームーンは、いつもみたいに「助けてくれたじゃん」とか言わない。「助けてくれたじゃない」だ。まあシリアスな場面だから当然と言われればそれまでだが、たとえばプリンセス・ムーンとの対話でさえ「衛だって、力を止めろって言ってたじゃん」なんて言っていたのが思い出されて、私はここでのセーラームーンに、何かしら今までにないプリンセスの品格のようなものを感じる。
 以前、この日記のどこかに「アニメでうさぎの声を担当した三石琴乃にあって、沢井美優にないものは母性だ」と書いた憶えがある。ふだんはドジでおバカな中学生のうさぎだが、いざとなれば「大人の女」の声も持っているというところが、当時20代だった三石さんの強みだった。毎回の終わりの次回予告で「月の光は愛のメッセージ」という締めくくりのフレーズを囁くときの、あの大人びた雰囲気のことである。そしてプリンセス・セレニティになれば、戦士たちを庇護し、銀水晶の力であらゆるものを癒す聖母となる。そういうプリンセスを演ずるときの三石琴乃の声は、母性に満ちあふれていた。アニメ版のうさぎの最大の魅力だったと言ってもいい。
 ただそういう母性、聖母のイメージは、当然ながら生身の10代の少女が表現するにはかなりハードルが高い。て言うか、成功例なんて『セーラー服と機関銃』(1981年、相米慎二監督)くらいしか思い出せない。女子高生の薬師丸ひろ子が、小さなやくざの組の組長になるが、強大な組織を背景に持つある陰謀に巻き込まれて、組員たちは次々と虫けらのように殺されていく。ヒロインは死に行く者たちを守ることができず、ただ彼らの最後を看取る。若い組員、たとえば当時「つかこうへいの秘蔵っ子」だった20歳そこそこの酒井敏也(髪の毛あり)は、うっとり「組長はおふくろと同じ匂いがします…」と言いながら息を引き取るのだが、このとき彼を胸に抱く薬師丸ひろ子は、やはり妖しいほどに母性のエロスを発散していた。
 何となく同じようなシチュエーションのせいか、私にはここでの沢井美優もまた、本物の10代の少女による「セーラー服を着た聖母」であるように見えてしまったのだ。もちろん、薬師丸ひろ子のようなヤバイくらいのエロスはここにはない。沢井美優の場合はもっと慎ましやかな少女の面影である。最後までマスターの気持ちに忠実だった男、ゾイサイト。マスターの愛するプリンセスとして、その最後を衛に代わって見届けるのが、ここで彼女のしなければならないことだ。その見守る姿、涙を浮かべながらも、決して号泣に崩れない抑制された演技、あるいはゾイサイトがエアピアノを弾くために伸ばした右手を、そっと見やる仕草、そういったひとつひとつのうちに、傷つき息絶えようとしている男に最後の安らぎを与える、聖母の優しさと哀しみがにじみ出ていると思う。私がこの場面の沢井美優に感じる、プリンセスの品格というか気品を具体的に説明しろと言われれば、たぶんそういうことになる。沢井美優はアニメ版セーラームーンの「聖母」というキャラクターに対して、三石琴乃とは違う角度からアプローチをかけた。やはりこういう才能には、めったに出会えないのではないか。
 なんか美奈子の話に入るきっかけがさっぱり見つからないまま最後まで来てしまった。せっかくクラウンに初登場したというのに。アクションシーンについても何も書いていない。仕方ない。引き続きAct.45も観てしまいましたので、こっちのレビューも書かなくては、というわけで、今回はこれまで。


【今週の猫CG】なし
【今週の待ちなさい】Aパート、7時51分。セーラームーン

(放送データ「Act.44」2004年8月14日初放送 脚本:小林靖子/監督:鈴村展弘/撮影:川口滋久)