実写版『美少女戦士セーラームーン』ファンブログ


最新記事〕 〔過去記事〕 〔サイト説明〕 〔管理人

【第72回】涙のタンデムシートの巻(Act.43)

 そうかショウタ君はまこちゃんの変身を見ていたのか。これで何となく分かってきたような事実。人ルナを見て「見なかったこと」にする進悟、まことの変身を見るショウタ、そして子供の前で平然としゃべるアルテミス。後半の小林靖子の頭の中には「子供バレはOK」という法則が成立している。しかし、それがどういう考え方に基づいているのか、視聴者どころか各話の監督にも分からなかった。で、みんなそれぞれ苦労してヘンなことになっている。ショウタ君はいなかったことにしたり、もうわけが分からなくなって、アルテミスに目玉焼きを作らせたり。違うか。
 まあいいや。今週は梅こんぶ茶のボトルも捨てられていなかったし、黒沢清の新作のCMもなかった。字数削減のため、さっそく本題に入る。がしかし、今回、Act.43の主題歌終了後、いきなり始まるマーキュリーのバトルについては、何も書かずにおく。突然あっちのブログを「卒業宣言」された方を慰留するための、撒き餌のようなものである。ほら今回は、いきなり「濡れちゃう、あはは、うふっ」だよ。あなたのために書かないでおくのだから、感想とか、技の解説とか書いてね。せめてこっちのブログは卒業しないでください。

1. メエルシュトレエムに呑まれて


 というわけで2007年3月7日(水)深夜2時15分、Act.43再放送開始。冒頭のマーキュリーのバトルは飛ばして、その後、セーラームーンが加勢に駆けつけるところから始める。「うさぎちゃん」と一瞬ほほえむマーキュリーは、しかしその戦いぶりの、普段とは違うアグレッシブな激しさに息を呑む。一緒に攻撃することもせず、なんか、いつものうさぎちゃんじゃない、こわい、という表情を浮かべたまま、ただ見つめている。
 前回Act.42のラストもそうだった。セーラームーンとエンディミオン、そしてプリンセス・ムーン出現、という事態の推移を前に、マーキュリーは、ほとんど呆然と立ちつくしているだけだった。そんなふうに、まるで取り残されたようにセーラームーンを見守るマーキュリーを見ていて、私はつい、Act.17の亜美を連想した。妖魔出現の知らせをうけて教会に駆けつけようとしていたうさぎ・亜美・まことは、途中で偶然、腕を組んで歩く衛と陽菜に出くわしてしまう。取り乱して逃げ出すうさぎ。そのうさぎを、一緒にいたまことは追いかけているのに、亜美はあっさり足を止めて「うさぎちゃん…」と立ちつくす。その亜美の姿は、後半の、うさぎに対して距離を置く亜美と、何だか非常に近い感じがするのだ。
 前回の日記で私は「後半の亜美は、もうすっかり物語の中心から離れてしまって、傍観者になっている」と書いた。そういう印象が強まるのが、Act.42と、今回Act.43なので、最近そのことを考えているのだけれど、まだよくまとまらない。もっとも、こっちよ!さんからは、亜美の態度は、なにも後半に入ってから、ことさら受身的になってしまったのではない、という趣旨のご指摘をいただいた。言われてみればそのとおりだ。前半の亜美も、自分からアクティブに行動を起こしているわけではなくて、常に目の前の状況を受け止め、状況を整理しつつ関わっていく「観察者」だから、基本的なスタンスに変化はないので、前半では「物語を引っ張っていた」という私の言い方は、不適切であった。
 ただそれでも、私にはどうも、ここから先、うさぎを筆頭に、美奈子やまことやレイは「前世」という大渦巻きに呑まれ、ぐいぐいと中心に向かって引きずりこまれて行くのに、ただ亜美だけが次第に離れていって、渦巻きの端っこをゆっくり巡りながら、それを傍観している、というイメージがぬぐい去れない。「うさぎちゃんを返して」とクンツァイトに叫んだAct.14、恋愛のことは分からないから、地場君への片思いで悩むうさぎちゃんをそっと見守ることしかできないけれど、でもまずうさぎちゃんのためにピンクの手袋を編んでいたAct.19、そんなふうに、せめて自分のできることで、うさぎになにかしてやろうとする一途な亜美の姿は、もうこのあと描かれない。これから先、亜美のうさぎへの思いやりは、うさぎを思う自分の気持ちよりも、全体の状況と、うさぎが置かれた立場を優先的に考え、冷静に判断したうえで、示される。同時に、レイとまこととの関係も、疎遠になっていくような気がしてならない。レイもまことも、それぞれの立場から美奈子とかかわりをもっていくなか、亜美だけは、美奈子とほとんど接点をもたないからだ。そういうところに、亜美とほかの戦士たちとの間の距離感、という問題を感じるのだ。

2. 亜美の問題


 で、その距離感をつくりだしている原因としては、ひとつには、さっきのAct.17で見て取れるように、亜美には異性への恋愛感情がよく分からない、だからそういう話になると、自然と引いてしまう、ということがあると思う。亜美は衛に対するうさぎの気持ちにも、元基に対するまことの想いにも、どうしても入り込めないのだ。それからもうひとつは、亜美だけが前世を知らない戦士であるという事実もあるんじゃないかな。
 Act.25のラストで、マーズとジュピターは頭をおさえながら「私たちのプリンセスは」「プリンセスは…」とつぶやき、プリンセス・セレニティの姿になったうさぎの前に、ヴィーナスと同じように自然な動作でうやうやしくひざまずく。続くAct.26の冒頭でも同じ光景が再現される。ジュピターは「はっきりとはしないけど、なんとなく」前世を思い出しているし、マーズも「そうね。確か昔はもう少し丁寧にしゃべっていたような気がするわ」と、ヴィーナスと共にセレニティの前にひざまずく。以前も書いたが、実写版全話のなかで唯一、きわめて前世に近いかたちで、プリンセスと戦士の関係が示される場面だ。このとき、レイやまことは、おぼろげながら前世の存在を自らの身をもって体感している。しかしダークマーキュリーは、「エンディミオン」と叫ぶうさぎの姿が輝きだしたその時、クンツァイトによってダーク・キングダムに引き戻されてしまった。彼女だけは前世そのままのプリンセスの姿を見ていないし、前世の記憶を取り戻す経験ももたなかった。亜美にとって、前世は最後まで実感を伴わない知識、リアリティを欠いた情報だった。
 Act.33、Act.34で、レイも亜美も、それぞれ自分自身の物語にひとつの決着をつける。しかしレイはその後も積極的に物語にかかわり続ける。それは彼女が、前世に反撥しながらも、前世を見てしまった事実にはさからえない、というジレンマをかかえていたからであり、またレイ自身の性格のせいもあると思う。自分はカラオケ嫌いのくせに、美奈子がどれほど歌を愛しているかを誰よりも理解し、それを捨てさせないためにマーズれい子作戦を実行する。男嫌いを公言しているくせに、Act.44では、前世にこだわるまことを「じゃあ元基君のことは?『一人でいい』なんて、とらわれてる証拠じゃない」なんてやり込めている。レイは自分とは異なる他人の感情をも、正確にシュミレートする力をもっている。しかし亜美にはそれがない。
 亜美は、自分自身のこととして実感できない問題には、レイのように対処できない。異性に恋する気持ちも、前世との葛藤も、知識や情報としてなら何とか理解できるものの、その気持ちまでは推しはかることができなくて、さっぱりお手上げなのだ。だからプリンセス・ムーンの登場によって「エナジーを吸い取る妖魔から人々を守るために、仲間と共に妖魔と戦う」という戦士たちの共通テーマが崩れてしまったとき、亜美はほかの戦士たちから、心理的にはひとり取り残されてしまったのだと思う。
 しかしそんな亜美が、最後の最後に「うさぎちゃんを止めなきゃ、うさぎちゃんと戦っても」と、ひとり決然とセーラームーンを倒す意思表示をして、まこととレイに先だって変身するのだ「私、戦えるよ、本当はうさぎちゃんがいちばん、星を滅ぼしたくないはずだから。だから、戦う」。最もつらい、しかし選択の余地がない決断を、最後に下すのは亜美である。強くなった亜美。その心理的プロセスを、どうフォローするか、ということも、今後の課題だ。亜美の問題もむずかしいや。Act.45、Act.46あたりまで観ていったら、また違う見方ができるかも知れないし、この件については、今回はこれくらいで。いや冒頭の亜美の表情だけで、えらい脇道にそれてしまって申し訳ない。

3. 分かりやすいお話


 ところで、今回Act.43を再放送で観て、私は不思議な印象をもった。実写版もここまで来ると、もうどのエピソードもほとんど単独で観たって何がなんだか分からないほど物語が錯綜し、しかも小さいお友だちへの配慮もどこへやらというぐらいハードで重い展開になってしまっている、と思い込んでいたのだけれど、改めて観てみると、このAct.43、意外と独立した話として楽しめるようになっているような気がする。もちろんここまでの大まかな話の流れをつかんでいる必要はあるが、プロット自体はまとまっていて、ビジュアル的にも盛りだくさんなのである。
 第一に、ここのところ、プリンセス・ムーンとは何者なのか、とか、銀水晶とメタリアの力はどういう関係なのか、とか、ネフライトはなぜ中途半端に力を取り戻せたのか、という謎が次々に出てきて、それが分かったような分からないようなまんま終わっちゃっていたのに、今回はなんだか説明が丁寧なのだ。そしてテーマが明確で、完結性が強い。まずアヴァン・タイトルで、地場衛が「命を吸い取られちゃう石」を埋め込まれたことが説明される。次にバトルがあって、さっき書いたように、セーラームーンの激しく攻撃的な戦い方に、マーキュリーが驚いている。続くクラウンのシーンで「そうか、うさぎだって落ち込むよね。彼を助けに行きたくたって、場所も分からないし」とまことが言うと、亜美は「落ち込むっていうか…」と一瞬、言いよどむ。戦っているときのうさぎちゃんの様子、あれは「落ち込むという」より、もうちょっと違う感じだ、それは何か。ここまでがテーマの提示だ。
 で、ダーク・キングダムのシーンを挟んで、場面は夜、うさぎの部屋に移る「クイン・ベリルってさ、衛のこと好きなんだよね。だったら、何であんなことするんだろう。…ひどいよ」。Act.36で、ベリルはセーラー戦士たちの前でエンディミオンへの想いのたけを告白し、そして衛をうさぎから奪い去った。だからこれは時空を股にかけた壮大な男の奪い合いの話でもある。
 いまのところアドバンテージはうさぎにある。衛がダーク・キングダムに行ったのは四天王を人質に取られたからであり、自分から気持ちが離れてしまったわけではないことをうさぎは知っている。でも相手はベリルだ。杉本彩だ。花と蛇だ。そして衛だって若い男だ。囲われてずっと一緒にいたら、あんなことやこんなことをしちゃったりして、なんて心配をしているわけではもちろんないが、ともかく、まさかベリルが衛の命を奪うなどという残酷な仕打ちをするとまでは思っていなかった。私たち二人への腹いせか。それはひどすぎる。
 ムーンフェイズの時計をぎりぎり握りしめるうさぎの表情は、これまで一度も見せたことがないくらい、暗く、陰惨で、怒りに満ちている。ここらへんで視聴者にも、マーキュリーを呆然とさせたセーラームーンの戦いぶりの意味が明らかになってくる。ただ敵を倒すというのではなく、愛する者を奪い、その命も奪おうとしている敵への、激しい怒りと憎しみを、そのまま妖魔にぶつけていたのである。いままで、どんなときでもポジティブ・シンキングだったうさぎちゃんが初めて見せたその生々しい負の感情に、亜美は気づき、息を呑んだのだ。
 さらに分かりやすいことには、この、ベリルに対するうさぎの憎しみが、今回はこのあと何度も説明的に繰り返されるのだ。部屋ではウサギのぬいぐるみを投げつけ、黒木ミオがふたたび目の前に現れれば、かつてニセ美奈子ライブなんて仕打ちを受けたときも笑顔で許したことがウソのような、厳しいまなざしでにらみつける。「ミオちゃんも、敵の仲間だったんだ」(え、ひょっとしてあんた今まで気づかなかったのか?)そして最後にエンディミオンの剣で妖魔を刺したときには「許せない、妖魔、クイン・ベリル」とはっきり口にする。そして、そういううさぎの負の感情が一定の限界を越えると、プリンセス・ムーン化が起こるらしい、ということも、これまた二度にわたるプリンセス・ムーンの登場と、最後に変身しかかるシーンで、明確に示されている。さらには、うさぎのネガティブな感情が幻の銀水晶を通じてメタリアの活動を活性化し、そうすると人々は倒れ、妖魔はますます強力になる、という因果関係も、プリンセス・ムーンがハープを奏でると街では妖魔が力を蓄え、バタバタと人々が倒れる、そしてプリンセス・ムーンがうさぎに戻ると、ダーク・キングダムではメタリアの活動が小休止する、という形で、とても分かりやすく描写されている。
 さて、うさぎの感情が激しく乱れ、メタリアに力を与えていることを察した衛は、一日だけ「命を吸い取られる石」の働きを止めて、うさぎに会わせて欲しいとベリルに頼み込む。ベリルは、日が沈むまでに帰って来れば、石を体内から取り除こうと約束し、衛を解放する。だが衛が思い出の海岸にうさぎを連れて行き、その気持ちを静めてから話をしようとしたとき、妖魔が邪魔に入る。妖魔と戦っている間に、日は暮れてしまい、衛がすべてを説明し終えたときには、もはやあたりは暗くなっていた。この最後の衛の話も、ほとんどダメ押し的な今回のエピソードの謎解きになっている「うさぎ、よく聞け、今日メタリアの力を強めていたのは、プリンセスじゃない、お前だ。お前の怒りや憎しみの感情が、幻の銀水晶に伝わったんだ。お前はベリルや、前世を引きずった人間たちのようになるな。どんな時にも笑ってればいいんだ。馬鹿みたいな。得意だろ」同一エピソードのなかで、前半に張った伏線の意味を、最後にここまで丁寧に説明してすっきり決着をつけるなんて、小林靖子としては珍しいのではないだろうか。
 いやすっきり決着というわけでもないが、うさぎがこれほど憎しみに満ちた表情を見せるのは、今回限りで、次回からは衛との約束どおり、悲しみも怒りも懸命に封じ込めて笑顔でいようとするのだ。今までだったら、たとえばレイとまことのにらみ合い、亜美となるのにらみあい(というかなるの一方的なにらみつけ)、レイとパパのにらみ合い、というように、登場人物が激情をあらわにするとき、だいたいエピソードは2話にまたがって、前週の伏線が翌週に回収されてひとまず決着する、というパターンが常なのだが、今回は1話にまとめられている。アヴァンで示された「命を吸い取られる石」の成り行き、最初のバトルで示されたうさぎの怒りの正体、というふたつのテーマを軸に物語が進んで、きちんと完結するようになっているのだ。ひょっとしたら残り話数の関係もあったのかも知れない。

4. バトル炸裂!格好いいです


 それから第二のポイントとして、ビジュアル的な効果の充実ということがある。うさぎは光り輝いてプリンセス・ムーンになったり戻ったりするし、ルナもCGで出てくるし、それにバトルシーンの華やかさにはちょっと目を見張らされる。最初にマーキュリー・セーラームーン組VS水滴妖魔戦があって、後半には思い出の海岸で、セーラームーン・エンディミオン組と水滴妖魔の戦いがあり、それと並行して、残りの戦士はさいたまスーパーアリーナで前回のイガイガとトゲトゲと泥妖魔軍団を相手に戦う。火薬がすごい。東映公式には「ナパーム」「セメント」(細かい粉を飛ばす)「銀星」(火花パチパチ)「色粉」(今回は青い粉)「水爆」(水上爆発)と様々な爆破シーンの種類が挙げてあるけれども、今回の後半のバトルで、ナパーム以外はぜんぶ出てくるんじゃないだろうか。それからマーズが放つ火炎と、ジュピターが手を地面につけて放つ稲妻は、CGではない。本物の火と火薬を使っている。ジュピターのは即火線というそうだが、香港映画でよく見かけるやつだ。格好いい。で、駆けつけたヴィーナスのラブミーチェーンはもちろんCGだ。そして最後に同時攻撃で色とりどりのビームを放つ。豪華絢爛。
 それから変身シーンはセーラールナを中心に構成されている。全員きっちりポーズをとって決めゼリフを言うし、ルナからは「待ちなさい」も出る。ついでにハリセンも使っている。このあたりは、ひょっとして小さいお友だちへの配慮か。この回が放送されたのは2004年の8月7日。お盆に向かって最後の玩具商戦が始まる。それに向かって、派手めのアクションをふんだんに盛り込み、ルナを前面に出す作戦にでたのかな。もしそうだったとしても、前にM14さんがコメント欄に書かれていたように、この期に及んで、もはや焼け石に水ではあろうが、努力は買う。
 そんなふうに、まず話の構成がコンパクトにまとまっているうえに、視覚的にも派手めに作られているので、今回は特撮番組の1話ぽっきりのエピソードとしてもわりと楽しく観られるように思う。

5. しかし謎はますます深まる


 ところが、逆に前後のエピソードとくわしく関連づけようと思うと、わからない問題が続出するのだ。まずなによりもプリンセス・ムーン。今回かぎりを見ると、衛との仲を引き裂かれたうさぎが激しい怒りと憎しみをいだくと、プリンセス・ムーンの姿になる、ということで一貫しているけど、Act.41とか観るとそうでもないしね。なぜ今回になって突然、プリンセスへの変身がそういう状況で起こることが強調されるようになったのか。
 それにうさぎの激しい憎しみの感情。確かに前回の最後で、衛の命が危機にさらされていることを知ったために、これまでになくベリルに対する憎悪が高まった、ということでいちおう説明はつく。でも今までいろいろあって、だんだんとベリルへの敵意が募ってきて、それが爆発する、というのなら分かるけど、いきなりなのである。あるいは、プリンセス・ムーンとうさぎの人格が少しずつ混ざり合いはじめていて、うさぎの感情のレンジを拡げている、ということでもあるのかな、なんて考えてしまう。
 それから妖魔を倒した後の、衛の「今日メタリアの力を強めていたのは、プリンセスじゃない、お前だ」というセリフ。いちおうこれも、今回かぎりのつながりを考えれば、分からないではない。妖魔と戦う直前、二人は次のように対話しているのだ。

うさぎ「私も大丈夫だよ。力使わないように頑張っているし」
 衛 「じゃあ、さっきのは?」
うさぎ「あ…うん、頑張ってるんだけど、やっぱり、プリンセスがね」

 この「やっぱり、プリンセスがね」という、うさぎの答えに対して、衛は、いや問題はプリンセスじゃない、お前自身なんだ、と言いたかった、それで「プリンセスじゃない、お前だ」なんだろう、ということは分かる。しかしそれ、たとえばAct.39の「落ち着け、力を止めろ、お前が止めるんだ。うさぎ!」とどこが違うんだ?と思うのである。これまでだって、ベリルが衛を奪おうとしたり、衛が敵として目の前に現れたり、強い妖魔がばんばん攻撃を加えてきたりして、うさぎの感情が乱れると、プリンセス・ムーンがあらわれた。そしてメタリアに力を与えた。今回もそうだ。うさぎがネガティブな感情にとらえられると、プリンセスの姿になって メタリアに力を与える。だから結局メタリアに力を与えているのはうさぎだ。そしてそれを防ぐために、うさぎは自分の感情を鎮めなければならない。
 こういったことは、もうすでに分かっていたはずだ。だからうさぎも、どういう効果があるのかは知らないが、長時間風呂に入ったり、レタス炒めを食べたりして、努力していたのである。命を捨ててまで会いにやってきて、ここで衛は、うさぎに何が言いたかったのだろう。
 そしてプリンセス・ムーンのハープだ。前回はマーキュリーの傷を癒したが、今回はメタリアに力を与える。でもそこにどういうシチュエーションの違いがあるのかが分からない。どちらも、エンディミオンのことを思って弾いているようにしか見えない。どちらかというとAct.42の、癒しの力を発揮した場合の方が珍しいケースなんだろうけど、う〜ん。
 さらに、これまで厳格に守られていた「呼び名」の問題。個人的にはこれがいちばん大きな謎だ。二度目のクラウンでの会話で、ルナから、うさぎが寝ている間にプリンセス・ムーンになったという話を聞いて、亜美がつぶやく「やっぱりエンディミオンのことがあるせいだよね」。エンディミオン?亜美ちゃんいま「地場君」じゃなくて「エンディミオン」って言ったか?まあいいか、空耳かな、と思っていたら、もう少しして、ダーク・キングダムのシーン、メタリアの力が強まったことを知って「またか」と心配そうな衛のところに黒木ミオが登場する。「衛君、プリンセスのところに行ってもいいよ」。え、「プリンセス」だって?黒木ミオ、あんたは「うさぎちゃん」と呼ぶことに決まっていたんじゃなかったのか?そして黒木ミオの同伴で、ハープを奏でるプリンセス・ムーンのもとにやってきた衛が「うさぎ」と声をかけると、プリンセス・ムーンは「衛…」と言う。あれ、まだプリンセス・ムーンの姿のままなのに「エンディミオン」じゃなくて「衛」って呼んでいるよ。それからうさぎの姿に戻るのである。さらに後半のバトルで、戦闘に駆けつけたヴィーナスに向かって、マーズは「ヴィーナス!」と呼びかける…ってこれは別にいいのか。とにかく、小林靖子は「呼び名の法則」をこの回で少し崩しているのだ。だんだんと前世の話と現世の話が混濁し始めているという意味なのだろうか。私には非常に気になりました。とにかく、もう何が何だか、だんだん分かんなくなってきたので、この問題も今回はここまで。

6. 鈴村展弘を讃えよ


 さて今回は、四巡目7本目となる鈴村展弘監督の担当回である。私、こうやって再放送を観ていて、一番その真価が分かったのは鈴村監督だ。何しろ鈴村監督と言えば、作品がどうのこうのというよりも、あのダレきったDVDの特典映像の座談会の司会役としての印象が強かったのだ。監督の威厳もどこへやら、戦士たちはみんな彼のことをなめているように見えた(特に北川と浜)。対する鈴村監督も、生徒をおさえられない女子校の新任教師みたいで、いくら注意しても私語が止まない教室で、クラス委員長の沢井だけが必死でまとめ役をやっているという感じだったね。それで長いこと見くびっていたのだが、すまなかった。鈴村監督はすごい。
 鈴村展弘の作る画面には、前回・前々回の佐藤健光監督のような、明らかにそれと分かる映像的な技巧はあまり出てこない。この人独特のクセと言っても、せいぜい、口もとのアップが多いかな、という程度だ。それも佐藤監督の「ヘリの音」みたいに、もうどんなときでもトレードマーク代わりに絶対入れる、という無理なことはしない。実際、今回も、口のアップはベリルのルージュが印象に残るワンカットがあった程度だと思う。あるいは舞原監督のように、美少女たちへの偏愛が物語の枠をぶち壊してほとばしるということもない。まあそういうわけで、画面上に「ここが」というはっきりした特徴を指摘できないぶん、解説もしづらいので、この日記でもこれまで、鈴村監督のすごさを適切に紹介できていないと思う。しかし、お話のポイントをつかみ、脚本家が伝えたいことをきちんと視聴者に語る、という最も基本的で大事な技量についていえば、この人は舞原監督さえも越えているのではないでしょうか。
 だから職人受けというか、スタッフからの評価も得られ、現場受けもするのだろう。とにかく、この時期の鈴村監督はすさまじい。なにしろ『仮面ライダー555』で4話を担当し、第38話(2003年10月19日放送)を終えてからすぐさま実写版セーラームーンにやってきてAct.9(2003年11月29日放送)に登場、以降、Act.16(2004年1月24日放送)までの間に4本を撮った後、『仮面ライダー剣』に第3話(2004年2月8日放送)から参加、セーラームーンにAct.35(2004年10月17日放送)で復帰してからも、『剣』では第41話(2004年11月28日放送)まで計6本を担当する。Act.47(2004年10月17日放送)でセーラームーン(全8作品)を終えると、休む間もなく『特捜戦隊デカレンジャー』に直行して第34話(2004年10月10日放送)に参加、以降、第45話(2004年12月26日放送)まで計4話を監督している。これだけの本数をこなしているのにこのアベレージ。ちょっと鬼気迫ると言っていい仕事ぶりだ。私もこんなブログばかり書いてないで、もう少し仕事に精を出さなければ。北川景子は、好きな男のタイプを聞かれて、仕事に打ち込んでいる人、とか答えていたと思うが、だったら断然、鈴村監督だよ。浜千咲とぼそぼそしゃべっている場合じゃない。
 ということはさておき、今回も実に分かりやすく、メリハリのある画面である。火薬や効果などにかなりこだわって作ったと思える戦いのシーンも、軽快なBGMを選んで楽しく一気に見せる。プリンセス・ムーン登場のロケーションも申し分ないし、さっき書いた「物語がまとまっていて、テーマが明確で、説明が丁寧で、ビジュアルもきれいなので、これ1話だけで楽しめる」という今回の特徴は、鈴村監督の腕によるところも多いのではないかと思う。そして情感あふれる海岸のシークエンス、エンディミオンとセーラームーンのキスシーン。ここは本当に素晴らしい。何なら、セーラームーン全編中のベストシーンといってもいい。ありがとう鈴村監督。
 今回、全体を通して明らかな演出ミスと言えるのは、美奈子とレイがにらみ合うラストシーンくらいだろう。でもこれも、美奈子の衣装がタンクトップということもあって、レイとの胸の大きさの違いがあまりにも露骨に分かるアングルになっている、という程度のものだ。私は、直前の砂浜のうさぎには真剣にぽろぽろ涙をこぼしつつ、ここでの、美奈子に勝ち誇ったような表情のレイには「こんなにサイズの違うバストを前に、お前はどうしてそんなに堂々とできるのか」と激しい疑問を感じたのだが、ひょっとしたらそんなことを考えたのは私くらいかも知れないし、こういうことを書くとまたNakoさんに怒られそうなのでこのくらいにしておく。
 というわけで、鈴村監督については、あとはM14さんの台本比較を待つことにする。Act.16のときも、出来上がった作品を見ていただけではちょっと分かりづらい鈴村監督の個性が、いろいろと指摘されていた。妖魔のアリ地獄とか、山本ひこえもん君だとか、ラストのバトルとかね。台本にあったマーキュリーの「こっちよ」を、独自の解釈でバトルシーンのチャーム・ポイントに仕立てたり、戦いが終わった後の、レイの「やったわね」のセリフの後に、「やったね」「やったな」というセリフをさりげなく付け加えたりするあたりが、この人の真骨頂であると思う。これが舞原監督だと、戦闘の後に、オリジナル台本にはない「行くよー、がんばるぞ、おー!」をまるごと付け加えたりするのだ。台本の流れを踏まえたうえで、自分の個性を発揮する。そういう意味で、やっぱり実際の台本との比較を通してではないと、鈴村演出のおいしさは、分かりにくい。しつこいようだが、それは彼が、真にすぐれた職人的技量をもっている証拠だと思う。
 今回の日記はこのくらいにしておきます。うさぎが衛のバイクのタンデムシートに乗ったのは、初めて鴨川に行ったAct.13と、宝石泥棒をやっつけたAct.15以来だ。Act.13のツーリングで、だんだん気持ちがほぐれていくうさぎの表情、Act.15の最後で「送ってく」と衛に言われて、嬉しそうに後ろにのって衛をぎゅっと抱きしめたときのうさぎの表情が忘れられない。どちらのシーンにも『オーバーレインポー・ツアー』がかかっていた。でももうあの歌はかからないし、あんなふうに明るいうさぎの表情を見ることも出来ない。とってもとってもとっても悲しいツーリングだ。そして、今回の妖魔の出現が、うさぎの憎しみの感情から起こったのなら、結局うさぎは、自分が生み出した妖魔のために、衛を日没までにダーク・キングダムに帰せなくしてしまったのである。そう考えるのはつらい。そしてそれでも必死に、泣かないように微笑んでいるうさぎを見るのは、たまらなく哀しい。
 ここんとこ身辺がバタバタして、たぶん次回も、また週末まで記事の更新はないと思います。すみません。次回のタイトルは「この樹なんの樹さよならゾイサイトの巻」かなやっぱり。
 

【今週の猫CG】Aパート、7時36分。夜の街でハープを奏でるPムーンのもとへ駆けつけるルナ。
【今週の待ちなさい】Bパート、ルナ、7時43分。
【今週の進悟】そうめん(毎週やるのか?)


(放送データ「Act.43」2004年8月7日初放送 脚本:小林靖子/監督:鈴村展弘/撮影:川口滋久)