実写版『美少女戦士セーラームーン』ファンブログ


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【第67回】久しぶりに観るとけっこう楽しいAct.39の巻(Act.39)


 『マスター・オブ・サンダー』DVD、買ったぞ。いやさすがに2枚というわけではないが。でもまだ観るヒマがありませ〜ん。

1. いきなり「前世問題」に脱線


 2月7日2時45分、Act.39再放送。前回の日記にも書いたように、一応公式には2時15分が放送開始時間のはずなのだが、一向にそういうことにならない。先週に続いて今週も『どろろ』の特番である。もういいよ『どろろ』は。嫌いになっちゃうぞ。
 まずはアヴァン・タイトル。四天王(ネフライト除く)を引き連れて姿を現す衛=エンディミオンから始まる。はっと振り向くセーラームーン。「衛!」
 前回クンツァイトは、衛から「もしオレが剣の勝負でお前に勝ったら、しばらくオレに協力してもらう」と言われ、勝負を受けて立った。「いいだろう、ただし剣では私に分があったことを憶えているか」「いや、五分五分だった」そしてエンディミオンの姿に変身したんでした。
 この、衛が前世の姿に変わるというのは、これは変身能力と考えて良いのだろう。ただ、四天王は自分の意志で前世の姿と現世の姿の間を行ったり来たりはできない。たぶんね。まあクンツァイトがシンに戻らないのは本人の意志かもしれない。でもネフライトの場合、決して自分から人間になったわけではない。だからおそらく、四天王も本来は衛のように、前世の姿にも、現世の姿にも、自由に変わることができるのだが、いまはベリルの力に支配されていて、それができない、ということなのだろうと思う。
 四天王が四天王になる前の、あるいは四天王になるまでの物語が詳しく語られたのはAct.13、クンツァイトのケースだけだ。記憶を失って、ひとり古びた洋館に暮らしている青年。自らを「シン」と名乗っているが、それは仮の名だ。衛も同様に記憶をもたない。だから一応「地場衛」と名乗ってはいるが、それが現世の本名かどうかすら怪しい。
 というか、エンディミオンと四天王は、普通の人間じゃないのかも知れない。つまり誰かの赤ん坊として生まれ、幼年時代、少年時代を経て成長したのではなく、いきなり青年の姿で、こつぜんと現世に転生してきたかも知れないのである。だって現世で自分がそれまでどう育ってきたかとか、そういう記憶がまったくないんだもんね。
 ともかく、前世の記憶は四天王それぞれでまちまちだが、しかし現世の幼年時代・少年時代の記憶は、たぶん誰ひとり、まったく持っていないのだろうと思う。というわけで衛=エンディミオンおよび四天王については、次の2つが共通点として指摘できるんじゃないかな。

(1)エンディミオンと四天王は前世の姿に戻れる
(2)エンディミオンと四天王は現世の記憶をもたない

 一方、セーラー戦士はどうか。原作やアニメでは、セーラー戦士の変身した姿は、前世の彼女たちの姿だということになっている。しかし実写版では、前世の回想シーンに戦士たちが登場することは一度もない。どういう格好であったかはまったく示されていないのである。ということをこの日記に書いたら、M14さんがコメント欄で「実写版の世界では、あのコスチュームのセーラー戦士は前世にはいなかった」可能性を指摘してくださった。私もそう思う。前世の4人がプリンセスの忠臣で、プリンセスを守護する「セーラー戦士」であったことは確かだが、あのコスチュームであったとはどこにも語られていないのだ。だから、四天王やエンディミオンの「変身」が前世の姿への回帰であるように、戦士たちのメイクアップが前世の姿の再現であると決めつけることはできない。
 という前提で、以前ikidomariさんがこの日記の【第63回】のコメント欄で指摘しておられたベリルのセリフを考えてみたい。

【Act.2】
ベ リ ル「ジェダイト。セーラー戦士の1人が目覚めたというのはまことか?」
ジェダイト「はい。セーラームーンと名乗りました」
ベ リ ル「あの小娘らが再びあたしの前に現れるとは…(略)…」

【Act.10】
ベリル「お前がセーラームーンか?」
ムーン「だれ?」
ベリル「おぼえておらぬか?そうだな、わらわも昔とは違う。お前たちセーラー戦士も」
マーズ「なんのこと?」
ル ナ「お前はまさか…」
ベリル「ふっ。わが名はクイン・ベリル。闇の王国ダークキングダムの女王」
ムーン「クイン・ベリル…」

 ベリルはAct.2で、前世に「セーラー戦士たち」がいたこと、それが「小娘たち」であることを語っている。しかしセーラームーンの名を聞いても、その正体が誰であるのか見抜けなかった。そしてAct.10で、当のセーラームーンを目の当たりにしても、やはりそれがプリンセスであることに気づいていない。
 「だれ?」と問いかけるセーラームーンに向かって「おぼえておらぬか?そうだな、わらわも昔とは違う。お前たちセーラー戦士も」と答える。「わらわも昔とは違う」と言うとおり、前世にクイン・ベリルはいなかった。地球の王子エンディミオンに秘かな思いを寄せ、月のプリンセスに激しく嫉妬する、貧しい身なりの女がいただけだ。彼女はこの世に生まれ変わって、前世の貧しい身なりを捨て、ゴージャスで菱形なクイン・ベリルとなったのだ。お前たちに前世の記憶がないように、自分も、あの忌まわしい過去を捨て「女王」として生まれ変わったのだ。ベリルはそう言っている。
 そして続ける「…わらわも昔とは違う。お前たちセーラー戦士も」そしてお前たちもまた、私と同様、前世とは違う姿に変身しているようだ。だから誰がだれやらよくは分からないが、ともかく前世で私の邪魔をした、あの小娘たちの生まれ変わりであることには間違いない。そういう意味だろう。
 かなり安直な発想かも知れないが、セーラームーンだけではなくて、5人のセーラー戦士が全員、前世ではあんな格好ではなかった、と仮定してしまえば「非対称問題」はわりとあっさり解決する。最も、こういうコスチューム以外のどういう「セーラー戦士」の姿を想像したらいいのか、と問われると、私も困っちゃいますが。
 ともかくこの場合、非対称なのはセーラームーンではなくてプリンセスということになる。5人は基本的には前世の姿には戻らず、現世での戦闘フォームとして新たな「セーラー戦士」の姿を手に入れたが、ひとりセーラームーンだけは、銀水晶の力で前世の「プリンセス」の姿に戻ってしまう場合がある。これはうさぎ自身にはコントロールできない。さらにうさぎのストレスが強まると、前世のプリンセスと現世のセーラームーンの戦闘フォームが融合して、キケンきわまるプリンセス・ムーンが誕生する。
 それから、さっき見たエンディミオンおよび四天王と対比した場合、セーラー戦士が、みんなきちんと現世に家族がいて、子供の頃からの生い立ちをもっている、というのもひとつの特徴だと思う。うさぎ以外は、両親が離婚していたり亡くなっていたり、あんまり幸せいっぱいという感じでもないですが。

(1)エンディミオンと四天王は変身して前世の姿に戻る
(2)エンディミオンと四天王は現世の記憶をもたない
(3)プリンセスとセーラー戦士は変身して新しい姿になる
(4)プリンセスとセーラー戦士は現世の記憶をもっている

 ひとまずこんなところだ。前世の問題はややこしいので、いろんな仮説を立ててみて、矛盾があればまた考え直しながらやっていくしかないね。みなさんのご意見、ご指摘をお待ちしております。


 話を戻して、前世の姿に戻った衛=エンディミオンとクンツァイトの一対一の戦いは、衛の勝利に終わったようだ。mizuさんは「あれでどうやって衛が勝ったんだ」と言ってはいけないことを言っちゃっているが、そのへんをなんとかフォローするのが、やはりクンツァイト窪寺昭の演技である。
 「うさぎ、オレは今からお前の敵になる」とセーラームーンに告げるエンディミオン。このとき、左側に控えたゾイサイトとジェダイトは、一緒にセーラームーンを見据えているが、右側のクンツァイトだけは、負傷した左腕を押さえながら、最初から最後までじーっとエンディミオンだけを睨みつけているのだ。
 この視線は(こんなヤツに負けるはずがないのに、こういうときに限って負けちやった、何だかんだ言って、自分はまだ、いざという時、かつてのマスターに対して非情に成りきれていないのかも)という口惜しさと理解しても良いし、あるいは(こいつ一体なにを考えているんだ、プリンセスに宣戦布告するなんて、何か考えているに違いない、そのへんの真意を見極めるために、今回は勝ちをゆずってやったんだ)と、あえて選んだ屈辱に耐えている表情と考えてもいい。いろんな含みがあって、ともかく前回ラストに行われたエンディミオンVSクンツァイトの戦いが、ストレートな剣と剣のぶつかり合いではなく、ある種の心理戦というか、暗黙の駆け引きというか、腹のさぐり合いというか、そういうものであったことを暗示しているように思う。
 「幻の銀水晶は地球に災いを起こす。オレたちは星を滅ぼすわけにはいかない。それだけ伝えに来た。次に会ったら、たとえオレでも油断するな」と言い残して去っていくエンディミオン。ひとり取り残され「……衛……星を滅ぼすわけにはいかない」とつぶやくセーラームーン。ここまでがアヴァン・タイトルで、前回までの悲劇のトーンを引きずっている。
 主題歌が終わった後は、ダーク・キングダムに帰ってきた 衛=エンディミオンとミオの対話だ。

ミ オ「うさぎちゃんに宣戦布告しちゃったね。いまごろうさぎちゃん、泣いてるかなあ」
 衛 「いや、あいつはもう少し強い」
ミ オ「そう?」

 この「あいつはもう少し強い」という衛のセリフを受けて、次のクラウン、前回の日記でも触れた「ショートケーキを明るく食べるうさぎ」につながるのだから、ここでのうさぎは脳天気でも無邪気なのではない。すでにうさぎは、そういうふうに明るく振る舞う「強さ」をもっている、ということなのだ。とはいえ、このシーンをきっかけに、今回のAパートとBパートは、うさぎと家族たち、ルナ、そしてなぜか美奈子の事務所の齋藤社長を中心としたコメディ調のエピソードへと転調していく。

2. 今回は「明るい美少女戦士もの」だ!


 このAct.39、私はこれまであんまり観なおす機会がなかった。DVDで観るときも、アヴァンの後AパートとBパートを飛ばしたりしてたからなあ。で、改めてじっくり観ると「何でだ?」と思うくらい手がこんでいる。たとえばアルテミスが、齋藤社長にキスされた時のことを憤慨すると、鼻からシュッと出る湯気がわざわざCGで表現される。それから、たぶん『少林サッカー』にヒントを得たのであろう、アスレチックトレーニング中の月野一家が、いつの間にか戦場にいる、というギャグのシーンでは、かなり本格的に兵隊のエキストラを用意し、火薬をボンボン炸裂させている。それから空中に飛び上がった状態でビームを放つセーラームーンとか、ネコ耳で敵の所在を突き止めるセーラールナの特撮バンクとか、なぜこんなに豪華なのかなあ、と思わずにいられない。はっきり言って、いま展開している大きな物語からすれば、箸休めみたいなエピソードなのに。
 あと前回Act.38のラストに流された今回の予告編も、こっちよ!さんが指摘されていたように意味もなく特別仕様。ついでに言っておくと、Act.38のラストの予告編・初回放送バージョンは、ママが「月野育子で〜す」と言ってウインクする場面で終わる。その後、育子ママがナベをかぶるところから、うさぎが「な、何なのこれ」というところまでは、DVDで初めて観ることができたロングバージョンである。初回放送版は、その部分の代わりに、クラウンでうさぎとルナが「セーラームーンシール絵本」抽選で50名様にプレゼント、という告知をする。そしてラストカットは、また雰囲気ががらっと変わって、白抜きのバックでPムーンが「エンディミオン…」とつぶやく。もちろん今回の再放送は、DVDバージョンの地上波初放送でした。ナマで観た人はどれだけいるかな?(優越感)
 話を戻す。そういう、視覚効果の多用ということもあって、今回Act.39のAパートとBパートは、ここしばらくのシリアスでヘヴィな展開とは対照的に、見た目も派手で、ポップで明るく華々しい。「正義と悪の戦い」という図式がいつになく前面に出されて、逆に善悪二元論を混沌とさせる泥妖魔のような存在は出てこない。妖魔(妖魔「氷」)はビルの屋上でスーツケースを開けて銃を組み立てるスナイパーだし、対するセーラームーンは久しぶりに「待ちなさい!」と叫ぶ。そしてセーラールナとポーズを決める場面なんて、アニメ版のセーラームーンとちびムーンを連想させる。それから攻撃前のセーラームーンのウインクも出る。
 「待ちなさい!」という命令形が似合うのはマーズのような気がしていたけれど、こうやって観るとセーラームーンの高く通る声の方がハマってるような気がする。そしてチャーミングなウインクもセーラームーン、というか沢井美優の独壇場だ。この軽やかさは、アンドロイドなヴィーナスや目ヂカラのマーズには決して真似できないもんね。というふうに、今回のメインパートは、明るく戦う美少女戦士セーラームーン(とルナ)の魅力に満ちあふれている。その屈託のない明朗会計ぶりは、まるで子供番組のようだ。
 いや子供番組なのである。つまりそういうことだ。視聴率はじり貧、玩具の売り上げもトントン、肝心の小さいお友達への浸透がいまいちだった実写版へのテコ入れが、たぶんこの回なのだ。もう少しアニメの頃のような明るい路線を取り入れて、メインターゲット(おそらく幼稚園から小学校低学年の女子)に受けるお話を、という指示がどこかから降りて、それでこのAct.39のA パートとBパートのプロットが考え出されたのだろう。
 ただ、急いで弁解しておくが、客観的に言って、実写版セーラームーンは決して失敗作だったわけではない。視聴率は確かに低かったかも知れない。しかしこの種の子供番組でいちばん重要な成績は、視聴率よりも関連商品の売り上げである。そして以前どこかで目にしたバンダイの発表資料によれば、実写版セーラームーンの玩具やグッズ関連の収支は、決して悪いものではなかった。というか、そこそこのセンまで行っていた。繰り返すが失敗作ではないのだ。
 ただ問題は、これがあの『セーラームーン』の実写版だったという点にある。1992年に放送されるや、社会現象なみの爆発的ブームを呼び、少女たちのあいだに、玩具も服も靴も文房具もぜ〜んぶ「セーラームーン」というぐらいの流行を呼んだ、あのアニメのリメイクなのだ。作る側、金を出す側には、あわよくばその10年前の夢よもう一度、という思いがあったはずだ。そしてそういう目で見れば、まあ確かに実写版の「そこそこの成績」は、決して満足いくようなもんじゃなかっただろう。
 ともかくそんなわけで、最終クール突入にあたってもう一度、メインユーザーである低年齢層の女子に実写版をアピールして、これからの夏休み、最後の関連商品売り上げのためのテコ入れにしたい、という外部からの意向があり、そのためにこのAct.39は、シリーズ後半の作品としては異様なくらい、コメディ満載の明るい美少女アクション物として仕上がったのだと、私はそのように思っている。
 で、もうちょっと踏み込んでいうと、そういう外的な条件があったために、今回のお話は、小林靖子が最初に考えていたものとはだいぶかけ離れたものになってしまったのではないかと思う。というわけでここから先は恒例の、直接証拠のないただの私の仮説になる。いやここまでの話も十分にそうか。

3. オリジナルAct.39問題


 上述の理由によるテコ入れ・修正が入る前の原型、つまり私の想像するオリジナルAct.39とは、簡単に言えばAct.40の「前編」である。私は、Act.39とAct.40は、本来この2話で一対をなす予定だったのではないかと考えている。今回と次回にわたる齋藤社長(池田成志)の2話連続ゲスト出演は、もともと、Act.33、Act.34に連続出演したレイパパや亜美ママと同じ意味をもっていた、と思うのである。だってそうでも考えないことには、Act.39の池田成志の出演には意味がなさすぎる。
 Act.40ではレイが「マーズれい子」に扮して自分を齋藤社長に売り込む。それは引退を決意した美奈子にハッパをかけるための計略だった。そして社長もレイのアイデアに乗る。でも社長が最初からレイの狙いに気づいたうえで話に乗っているのか、それともはじめは本気でレイを売り出すつもりだったのか、そのへんが視聴者にはよく伝わらない(『M14の追憶』2006年8月30日「検証・これが実写版の台本だ!−act40(その5)」を参照)。最後に齋藤社長がマジ顔になって「美奈子、歌を止めるなんて、許さないわ」とつぶやくシーンで、ようやく美奈子を思う社長の気持ちが分かるが、そのセリフにいたる伏線が、前半に何も張られていないのである。Act.40は、美奈子、引退の決意→マーズれい子登場→東京フレンドパークという流れを追うのが精一杯で、社長の心理までフォローする余裕がない。だから本当はこのAct.39が、美奈子を思う社長の心理をさりげなく描いて、Act.40への「引き」となる回だったのだ。それが、さっき述べたような事情で予定変更になって、社長の使いどころがなくなった。その結果の苦肉の策が「ママの学生時代の友だち」→「主婦ドキュメンタリー制作」といういささか強引な設定ではないか、と私は妄想しているわけだ。


 私が勝手に想像している「Act.39オリジナル版」は、まずスタジオで新曲を録音している美奈子のシーンから始まる。ステージで倒れてしまい、みんなを心配させた美奈子だが、まず映画『カメファイターVSイカキック』への特別出演でリハビリがわりの仕事復帰をはたす(前は「主演」と書いたかな。ま、忘れてください)。そしていよいよ歌手としての活動を再開。その第1弾がニューシングル『Kiss Kiss Bang Bang』である。
 ところがなんど歌ってもうまくいかない。じれる美奈子。スタッフも病み上がりの美奈子に気をつかう「美奈子ちゃん、今日はもうこのへんにしておこうよ」。プライドの高い美奈子はそんなふうに扱われること自体くやしい。でも調子を取り戻せていないのは事実だ。
 歯がゆそうにスタジオを後にする美奈子。それを静かに見守る社長。レコーディングスタッフは「社長、美奈子ちゃんまだ調子戻っていないのかな」と心配そうだが、齋藤社長は「だいじょうぶよ。美奈子のことは私がいちばん分かってるんだから」とスルー。でもその表情に、ちょっと心配そうな影がよぎる。
 齋藤社長は、芸能界を金儲けのビジネスとしか考えていない業界人ではない。「みんなに愛されるスターを育てたい」という夢をもっていて、その夢は「いつまでもみんなの前で歌っていたい」と願っている美奈子とひとつである。だから美奈子のことを、消耗品のタレントとしてではなくパートナーとして大事に扱っているし、その意志を尊重している。
 ではなぜ、時には強引に仕事の話をとりつけるのか。ひとつには当然、サクセスの方程式からすれば、今が多少無理をしてでもプッシュのしどころだ、ということを心得ているのであろう。それからもうひとつの理由もある。齋藤社長はたぶん、今の美奈子がなにか、他人には打ち明けられないような秘密に悩んでいることに気づいている。そして引退を考えていることも、ひょっとするとうすうす察している。でも社長は、もし引退したら、それはきっと美奈子自身にとっても不幸なことだろうと思っている。
 美奈子は歌うことが大好きな子だ。本人の気の迷いにまかせて引退させたら、きっと彼女自身が後悔する。(自分でもまだ気づいてないかも知れないけれど、美奈子、あんたは歌っているときがいちばん幸せなのよ)そういう信念のもとに、齋藤社長はとにかくいろいろ仕事を捜してきては、強引にでも美奈子に芸能活動を止めさせないよう仕組んでいる。そしてそう仕向ければ、きっと美奈子はついて来てくれると信じてもいる。でもやはりここのところの体調不良とか、ちょっぴり心配なんである。
 さて私の考えた台本の続きを言うと、なかなか調子を取り戻せず、レコーディングも上手くいかないままに引き上げた美奈子は、運悪くスタジオを出たところで黒木ミオとすれ違ってしまうのだ。ミオも新曲レコーディングである。そしてすれ違いざま「あ、美奈子ちゃん、おつかれさまでした。でもこんなところでレコーディングなんかより、もっと大事なことがあるんじゃないですかぁ?」とか、とにかくチクリとひとこと言う。にらみ返す美奈子であるが、彼女自身、戦士としての戦いと芸能活動という二足のわらじが、どっちも中途半端な今の状況を招いていると痛感しているだけに、これはかなり痛い。と、ここまでがAct.39のAパートで語られる。
 で、宣戦布告した衛とうさぎの物語なんかを間に挟みつつ、Bパート。ホテルに戻って、自分が表紙になっている沢山の雑誌を並べて見入る愛野美奈子。こんなふうにアイドル稼業をやっているから、いつまでも戦士の力にめざめることが出来ないんだ。ついに決意して「アルテミス、もう、歌はやめる」と、こういう展開になる。で、アルテミスはCパートでさっさと火川神社を訪ねる。だから私のAct.40は、マーズれい子の誕生から始まるのである。ね、こうすれば、詰め込みすぎのAct.40に余裕ができる。そうすればマーズれい子の登場シーンでも、カメラは北川景子のお尻をもっと時間をかけて接写できたと思うのだ。いやそういう問題じゃなくて。
 つまりこの私の案は(1)Act.37の美奈子は、映画撮影というかたちで芸能界復帰していて、そのことを特に悩んでいるようには見えない。なのにAct.39で引退を決意したのはなぜか。美奈子が引退を決意するきっかけを、もっと分かりやすいかたちで描きたい、(2)齋藤社長がマーズれい子デビューの計略に乗った真意を視聴者にうかがわせる描写を入れたい、と同時に、彼がただのオネエ言葉の変な人でも、美奈子を商売道具とだけ考えているビジネスライクな業界人でもなく、本当は美奈子の成長を温かく見守る「美奈子のお父さん」であることをもう少し明確にして、Act.40のセリフへとつなげたい、(3)ラストの「レコーディング成功」と対比させる意味で、最初に「レコーディングが上手くいかない美奈子」の描写を入れたい、という3つの要件がポイントなんだけどな。どうかな?やっぱり独りよがりか。

4. でもこれは「菅生ちゃん」の希望かな?


 以上は、まあ半分は冗談だが、Act.39とAct.40が本来、2話連続で齋藤社長と美奈子の心のふれあいを描くエピソードになるはずだったのではなかったか、そしてAct.39が子供向け路線に大幅変更されたために、そこで語りきれなかった部分がAct.40に回され、その結果、Act.40の脚本がやや詰め込みすぎになったのではないか、という仮説は、けっこう前から真剣に考えていたことである。
 しかし、前回のコメント欄にこっちよ!さんが台本比較を書かれているのを読んで、ちょっと考えてしまいましたね(ちなみにこっちよ!さんは先日のオークションでAct.38、Act.39、Act.40の台本を入手された)。こっちよ!さんの書かれるところによれば、今回のエピソードのうち、齋藤社長と育子ママの二人で展開される悪ノリは、かなりの部分が台本には指定されてない、つまりアドリブだというのである。
 そう言われてみれば、確かに池田成志は、うさぎママの学生時代の友人「菅生ちゃん」を実に楽しそうに怪演しているのだ。森若香織と池田成志は舞台で共演経験もあるというけど、とても息が合っている。仲良さそうなのである。前回の予告編もノリノリだったし。ということは、池田成志サイドから「これが最後の出演なら、せっかく同じ番組に出ているんだから、森若香織と共演するエピソードを入れてくれ」というような希望があって、それがあの無理やりな「学生時代の演劇仲間」という設定になったのかも知れません。
 まあ私としては、せっかくAct.39、Act.40に続けて出演したのだから、やはりもうちょっと美奈子に対する社長の思いを掘り下げてやって欲しかったとは思うし、池田成志はあんな芝居をしながらもそれが表現できる人だと思うので、残念ではある。が、御本人としては楽しい想い出になったのかもね。いずれにせよ、久々に観ると、不満は脇において、あんがい楽しめるエピソードではありました。


 ということで、進悟にもルナにもまだ触れていないが、今日・明日は冠婚葬祭が色々入ってバタバタなのです。相変わらずの尻切れトンボ状態の投げっぱなしで、行ってきます。


【今週の猫CG】なし(ただしアルテミスの鼻息がCG)
【今週の待ちなさい】Bパート(7時47分)セーラームーン

(放送データ「Act.39」2004年7月10日初放送 脚本:小林靖子/監督:舞原賢三/撮影:上林秀樹)