実写版『美少女戦士セーラームーン』ファンブログ


最新記事〕 〔過去記事〕 〔サイト説明〕 〔管理人

【第53回】Act.34の主役は誰かを再考するの巻(Act.34)


 祝『バベル』の菊池凛子さん、ニューヨーク批評家協会賞新人賞受賞、そしてゴールデングローブ賞助演女優賞ノミネート。これでアカデミー助演女優賞へのノミネートもかなり可能性が高まった。ノミネートさえされれば、紹介の際に『バベル』のなかの彼女の出演シーンが世界に中継される。はたしてビキニの小松彩夏は一瞬でも映るのか?

1. 伏線とトリックとミスディレクション


 2006年12月13日(水)深夜2時15分、Act.34再放送。ようやく本来の時間帯に戻ってきた。バンザイ!来週12月20日も 2時15分の模様。その次の12月27日がAct.36、プリンセス・ムーン登場で、これが今年最後の放送となる。てことは、年明け第1回目の放送はAct.37だ。かなり深刻な状況のわりに、亜美とまことがうさぎに扮し、レイはナコナコの格好で美奈子と台本読みをするというコスプレ大会の回だ。それはそれで正月にふさわしいような気がする。
 さて前々回の日記は、先週Act.33と今週Act.34のエピソードのために用意された伏線というか、前提となる描写を拾い集めて一覧にしたところで時間が尽きた。そのなか、Act.8に触れておきながら「雑誌の取材」の件に一言も触れなかったのはうっかりミスでした。なにせこれはAct.34へダイレクトにつながる伏線ですから外せない(『M14の追憶』2005年1月18日参照)。
 しかしこうやってまとめてみると、改めて実写版の「壮大な伏線」ぶりに感心する。ホワイトボードが登場するAct.5、「雑誌の取材」が出てくるAct.8なんかもう半年も前の話だ。教会の墓地がAct.17、遊園地のメリーゴーラウンドがAct.21でそれぞれ紹介されて、ネタふりがぜんぶ終了してからだって、実に3カ月も引っ張っているのである。ほとんど呆れるね。その間、亜美はダークマーキュリーとなり、レイは「何が一人でやってみるよ、うぬぼれもいいとこ」(Act.22)「仲間を、信じる」(Act.23)「変わったのは、ルナだけじゃないか」(Act.28)とガンコ者なりに少しずつ変化してゆくのである。こんな悠長な展開じゃ視聴率はとれないよ。もちろん誉め言葉です。ゴールデンに、これほどじっくり時間をかけてキャラクターの変化を描き込んだ脚本なんてあるか?
 ところでAct.34には、こういった、かなり以前のエピソードから張られた伏線に加えて、もうひとつ、前編である Act.33から敷かれた伏線、というか構成上のトリック、というかミスディレクションが仕組まれている。つまり前編Act.33に、我々視聴者の予想を間違った方向へ導く「ひっかけ」あるいは「だまし」をつくっておいて、後編Act.34に意外性をもたせる、という工夫がされているように思うのである。そしてそのことは、前々回に書いた「この2話の主人公は火野レイと水野亜美だが、メインはあくまでレイだ」言い換えれば「亜美の存在感が弱い」という問題とも関わっている。ではそのトリックとは何かというと、Act.33に出てくるレイのパパ火野隆司と、亜美のママ水野冴子、二人の描写である。

2. 予想された展開


 Act.33、セーラーマーズは華麗ともいえる深夜のバトルで妖魔を撃退する。そこへ遅れて亜美が駆けつける。変身を解くレイ。「レイちゃん、妖魔は?」「消えたわ」ほほえみを交わす二人だが、そこへやって来た夜間パトロール中のおまわりさんに詰問される。「君たち!こんな時間に何やってんだ?」勉強していて遅くなったと必死に言い訳するレイだが、結局、住所を聞かれてしまう。当たり前ですよ、中学生、しかも女子がこんな真夜中に。
 二人の心配どおり、おまわりさんは両親にそのことを連絡してしまう。そして亜美には翌朝「帰りに病院に寄ってください」というママからのメールが届き、火川神社に向かう参道では、パパの秘書の西崎が学校帰りのレイを待ちかまえている「お迎えに参上いたしました。お父様がお待ちです。お食事しつつお話ししたいと」
 レイのママ、水野冴子は、とても理解ある母親に見える。娘が深夜に外出していたり塾をさぼっていたりしたことを知っても、一方的に責めたりはせず、むしろ、忙しくて亜美と話せなかった「ママも悪かったわ」とさえ言う。要するに、娘の気持ちを汲み取ろうと一所懸命に努力している、思い遣りのあるお母さんだ。最後も「大丈夫。勉強に集中して」と亜美の肩に優しく手を置く。
 一方のレイのパパ、火野隆司は、何しろ最初は自分から姿を見せず、秘書を通じてレイを自分のところまで連れ来させようとするのだから、これは強引である。おそらく政治家としても相当なやり手なのであろう。そしてそういう、仕事で豪腕を振るうのと同じやり方で、娘のことも力ずくで自分の思いどおりにしようとしている感じだ。
 Act.33ではこういう、非常に対照的な二人の親の態度が交互に示される。さらに我々は、シリーズ前半のエピソードで、亜美は「なかなか自分の意見が言えない子」逆にレイは「誤解や孤立を怖れず自分の意見を主張できる子」というイメージができている。するとここから予想される後半の物語の流れはどのようなものか。亜美のママは、亜美が自分の意志を伝えさえすれば、ちゃんと聞いてくれそうな感じの人だ。だから問題は、亜美がどれだけおとなしい「ママの良い子」でいる今のカラを破って、自立する勇気をもてるか、という点に集約される。一方、レイのパパは、いくらレイが訴えたって分かってくれるような人ではなさそうだ。だからこっちは、パパの側がどういうふうに、強引だった自分を反省して、レイに理解を示せるか、そこに問題の解決がかかっているということになる。つまり亜美がママに向かい、パパはレイに向かう、そうやって二組の親子が和解に近づくという展開だ。そうじゃないですか。

3. 予想外の展開


 ところが後編、Act.34になってフタを開けてみると、それが脚本(および演出)の「ひっかけ」であったことが分かる。事態はまったく逆なのだ。火野隆司と火野レイの関係において、これまで自分が相手の気持ちに気づいてなかったことを知り、相手に歩み寄るのは、パパではなくレイの方だ。自分を見捨てて神社に預けたとばかり思っていたたパパが、ずーっと自分のことを気にかけ、会いたがっていたらしいことを知って驚愕するのはレイである。そして亜美は、もちろん最後には勇気を出してママに気持ちを伝えるのだけれど、そのために「自分から」ママのもとをたずねて行ったわけではない。ただ木馬遊園地のメリーゴーラウンドの前で「待って」いただけだ。これまで自分が亜美のことを分かっていたようで、実はぜんぜん分かっていなかったことを知って、うろたえて、亜美を必死でみつけだそうとするのはママである。私は前々回もさっきも、この2話はレイと亜美の物語だと言ったが、それはウソぴょん、である。実はこれは「父親の本当の姿を見つける火野レイ」と「娘の本当の姿を見つける水野冴子」という二人の主役が対になっている物語である。亜美はあくまで、ママから見つけてもらう受身の存在で、脇役だ。
 という構成は、実は台本を見ないとはっきり分からない。対照的な二組の親子のコミュニケーションギャップ。「台本上では、このギャップに対してより大きく心が動きアクティブに動くのは水野家は母親、火野家では娘である。本来、対称形で描かれている水野家と火野家なのだが、放送では亜美の母親の描写がかなり抜け落ちている」(『M14の追憶』「 検証・これが実写版の台本だ!−act34(その6)」)。台本に書き込まれた、亜美ママの重要な描写がどんなふうに削られているか、それは各自M14さんの台本比較をご覧いただきたいが、ここで一例だけ挙げると今回のアヴァン・タイトル。オリジナル台本だと、まずルナのナレーションで回想が始まったあと、事実上のトップカットが、自宅のマンションで何も書いていないホワイトボードを見つめる水野冴子なのである。そしてとぼとぼ道を歩く亜美の映像を挟んで、墓地で母親の墓の前にたたずむレイへとつながる。この冒頭で、小林靖子が今回の主人公を、亜美とレイではなく、水野冴子とレイだと考えていたことが明確に分かる。ところが脚本が長すぎたのか、ぜんぶは時間的に収まりきらなくなった(東映公式には「Act.34 では、1/4 ものシーンが入りきらなくなってしまいました」とある)。で、どのシーンを削るかとなれば、まあこれはセーラー戦士たちが主人公の物語だし、ママに泣いてもらおう、ということになってしまったのですね。そして演出が、他の監督よりも亜美ちゃんに対する思い入れが3割増しぐらい強い(もっとか?)舞原賢三監督なので、亜美の存在が本来の構想よりも強調されてしまった。それが、このエピソードが一見レイと亜美の物語に見えて、そのわりに亜美が弱いというちょっとおかしな印象になってしまった真相である、と思う。
 と、だいたい以上の前提をもとに、Act.33の水野冴子と火野隆司の描写をここで振り返ってみたい。

4. 水野冴子の誤謬


 まずは亜美とママだ。Act.33 、朝「帰りに病院に寄ってください」というママからのメッセージをもらった亜美は、放課後、言われたとおり明和大学病院へ向かう。ここで水野冴子が登場する。診察待ちの椅子に座って待っている間は不安そうな表情だったのに、ママの姿を見ると満面の笑みになってしまう亜美ちゃんが可愛いですね。ママも嬉しそう。でも「交番からね、電話があったの。夜のこと」と言われて亜美の表情は曇る。
 ママは忙しくて外まで出る時間がない。病院内の喫茶店かどこかで向き合う二人。

ママ「ママね、塾にも電話してみたのよ。最近休みが多いって聞いてびっくりしちゃったわ」
亜美「それは…」
ママ「二人の間には秘密をつくらない。何でも話す。話せないときは伝言板に書く。それがルールだったわよね」
亜美「ごめんなさい…」
ママ「ママも悪かったわ。やっぱり、亜美には向いてなかったのね。前から考えてたんだけど、転校した方が良いと思うの」
亜美「えっ?」
ママ「中学までは普通の学校もいいんじゃないかと思ったけど、やっぱりいろいろ影響されちゃうものね」
亜美「違う!学校はぜんぜん関係なくて…」
ママ「じゃあ、なあに?」
亜美「それは…」
  (ママにコールがかかる)
ママ「ごめん。……大丈夫。勉強に集中して。ね」

 みなさんご存知のとおり、筒井さんは亜美を思うママの温かさをとても上手に演じている。それが一見、さっきも言った「優しくて理解のあるお母さん」という印象を与える。ところがこうやってセリフだけ拾ってみると、あんがい強引なのだ。だいたい「それがルールだったわよね」って言われたって、そんなのプレッシャーになるだけじゃん。そして交番から通報があって、塾にもちゃんと通っていないと知ると、娘の意見も聞かずにすぐさま転校を決めてしまう。その理由は「やっぱりいろいろ影響されちゃうものね」だ。翻訳すれば、まことが言うように「友だちの悪影響ってわけか」ということになる。
 ここで注目すべきは「違う!学校はぜんぜん関係なくて」という、かなり強い調子の亜美のセリフである。亜美はもう、ママが思っているような、内気な子ではない。うさぎとのこと、レイとのこと、なるとのこと、そしてダークマーキュリーとなったこと、様々な経験を通して強くなった。ちゃんと自分の意見を言っている。でも「じゃあ、なあに?」と問われれば、理由までは答えるわけにはいかない。そりゃそうだ。それはセーラー戦士の秘密だ。亜美でなくても答えられない。
 でもここは、あえてそう考えなくてもいいのではないかと思う。セーラー戦士であろうがなかろうが、14才にもなれば、親の知らない自分の世界、大人には見せたくない秘密のひとつやふたつ、持っていておかしくはない。そして亜美の場合は、ママを裏切っているわけでも、自分の気持ちにウソをついているわけでもない。確かに、ママの期待どおりの優等生であり続けることにプレッシャーを感じて、ひょっとしたら自分が勉強ばっかりしているのは、友だちがいない淋しさをそれで紛らわしているだけなんじゃないかと迷った時期もあった。けれどもいろいろ回り道をして、信頼できる仲間や友だちができて、それでもやっぱりママみたいなドクターになりたい気持ちは本当だ、と確認することができた。だから今は理由を聞かないで、私を信じて欲しい。亜美はそう訴えているのだ。
 けれども水野冴子はそんな我が子の気持ちをくみ取ることができなかった。もし彼女が「違う!」という亜美の言葉の背後に、娘が自分のコントロールを離れ、自立した世界を持ち始めている兆候を読みとることができたなら、おそらく不安を感じて「ママはあなたのことを信じているわ」とか「あなたのためを思ってするのよ」とか、ともかく亜美の心をこちらへ引き留めようとするセリフを言っただろう。あるいは、もっと理解のある親ならば、もう娘を一個の対等な人格として認めてやるべき時が近づいてきたことを知り、不安を押して理由は聞かずに娘を信じてやる勇気が持てただろう。
 でも最後にママが言ったのは「大丈夫。勉強に集中して」だ。つまり「あなたの悩みはママが解決してあげるから大丈夫。あなたは心配しないで勉強に集中しなさい」という意味だ。水野冴子は、娘が自分で考え、判断できる一個の自立的な人格になったことを理解できていない。まだ自分のコントロール下にあると思い込んでいる。彼女が娘を見失ってしまうのは、そしてAct.34が、亜美を探し求める水野冴子の物語になったのは、そのためだ。決して亜美が自分の意見を言えなかったからではない。そう見えてしまうのは、舞原監督の演出が前半の「内気な亜美ちゃん」の可愛らしさを引きずりすぎているせいである。でもそういう亜美ちゃん自身の物語は、やはりAct.28で終わってしまっているのである。淋しいけれど。
 ところが亜美自身には、自分がそこまできちんと意見の言える子に成長したという自覚はない。だから父親に反抗するレイを目のあたりにして(レイちゃんは、あんなにはっきり言えるんだ…パパにも…)なんて思ってしまう。ちがうんだ亜美ちゃん。もう君はきちんと自分の意志をママに伝える勇気をもっている。そしてそのことをいちばん理解しているのはレイだ。亜美が、転校先の学校へ面接に行くママとの約束をすっぽかしてクラウンにやって来たとき、「どうやってママと話していいか分からなくて」と途方に暮れる亜美を「そうやって、ちゃんと話そうとするの、偉いと思うわ」と最大限に評価するのはレイである。亜美にしてみれば意外で「え?レイちゃんがそうしてたから」なのだが、それは誤解だ。レイにしてみれば「私のは、ただ、ぶつけてるだけ」なのである。
 というわけで次は火野隆司と火野レイの会話を見てみたい。

5. まったくの余談


 と思ったがそっちに行く前に一言。私は、実は再放送で改めてこのシーンを見ていて、いま述べたようなことと同時に、またヘンなことも考えてしまった。つまり舞原演出が、ホントはもうちょっと前より成長した子として描かれるべき亜美ちゃんを、どうしても頼りなげな「守ってあげたい」子に見せるもんだから、なんかいじめられっ子みたいに感じてしまうんですね。そうすると「やっぱりいろいろ影響されちゃうものね」と言ったときにママが想定しているのは、亜美が自分の意志で夜中に外出したとか、塾をさぼったということではなくて、逆に望んでもいないのに嫌々そうしていて、しかも自分からはっきりとそのことは言えない、そういう状況ではないか、なんて考えてしまったんです。
 亜美は鍵っ子で、母親は医者でたぶん収入も結構あって、だから大きなマンションに住んでいる。しかも気が弱く、他人に反抗したことなんて一度もない優等生。そんな自分の娘が、深夜に別の学校の女子といるところを補導された。しかもお巡りさんの話では、一緒にいたのはすっごくキレイだけどすっごくキツそうな感じの茶髪の子だという。こっこれは、ウワサに聞く関東スケバン連合のヒロミから呼び出されてカツ上げされているんだ。そういえばこの間、参考書買うからって言われて、かなりの額のお小遣いを渡したけど、ひょっとしてあれはその茶髪の子への貢ぎ物に?
 いやアホみたいな話だが、そうなると「大丈夫。勉強に集中して」と安心させて、娘を守ってあげようとするママは実に正しい。亜美が、好きでもない「友だち」とのつき合いに引きずられてイヤイヤ塾をさぼったり、深夜に外出したり、小遣いを貢いだり、パシリをさせられたりしていて、でも内気な性格のせいで、その悩みを誰にも、ママにさえ打ち明けられない状態でかかえこんでいるのだとしたら、これは親が強引に介入してでも即座に環境を変えてやらなきゃいけないくらいの非常事態だ。今は「じゃあ、なあに」と問いかけても「それは…」としか答えない娘であるが、こういう子の場合、なかなか自分からは言い出してくれない。SOSのサインを出すのは大抵、もう限界ぎりぎりの状況になってからで、それから異変に気づいて、学校や教育委員会に問い合わせたときには、追い詰められて屋上から飛び降りているかも知れないのである。そうなる前に有無をいわさず転校だ。という理屈で言うと、水野冴子は、ここで非常に賢明な処置をとっていることになる。
 な〜んてことを夜中に真剣に考えてしまったのは、今これを観ているのが初放送から2年半後の、色々あった2006年の年の瀬で、私が二人の子供をもつ父親であるせいで、作品の意図とはまったく関係のないただの妄想でした。いやな世の中である。
 寄り道しました、今度こそ火野隆司と火野レイの会話を見てみたい。

6. ポマード野郎の登場


 ママが転校を決めたことを、クラウンでうさぎたちに告げる亜美。もちろん転校なんかしたくない。でも「ママは私のためにやってくれているんだし」と思うと、どう説明していいか分からない。そんな亜美に対して、じれったそうに「イヤだったらイヤって言えばいいだけよ」と言うレイ。「自分の考えを押しつけているだけよ。親なんて勝手なんだから。亜美ちゃんのママだっておんなじよ」「ママのことそんなふうに言わないで!」「じゃあ言いなりになっていればいいわ」険悪な空気。まことが「ストップ!そと出て、ケーキでも食べ行かない?」と、何とかその場を収める。
 一緒にスイーツを食べるために人間体に変身したルナと出かける4人。お前が人間の姿を手に入れたのはやっぱりそういうことのためだったのか。そこへ黒塗りの車がつけて、そこからいよいよ姿をあらわす火野隆司。押し出しは立派だが、実はレイにどうやって話しかけようか、内心ものすごく緊張している。だから一緒にいる娘の友だちの中に、真っ青な髪と異様なコスチュームをした、めちゃくちゃ変な幼女が混じっていることにも気づいていないのである。

レ イ「パパ!」
隆 司「警察の世話になったそうだな」
レ イ「関係ないでしょ」
隆 司「ある。お前は私の娘だ。一緒に来なさい、話を聞く」
レ イ「話すことなんてないわ」
隆 司「レイ…」
レ イ(心配そうに見守るうさぎたちに)「ちょっと、先行っててくれる?」
うさぎ「え…」
まこと(うさぎをたしなめるように)「うさぎ…」
  (レイをその場に残して立ち去るうさぎたち)
うさぎ「レイちゃん、パパと何かあったのかな」
人ルナ「そんな感じね」
まこと「……」
亜 美(レイちゃんは、あんなにはっきり言えるんだ…パパにも…)
  (二人だけになったレイと隆司)
レ イ「いまさら、親子だなんて言わないで。私のことを神社に預けたのは誰よ。私のことを見捨てたくせに。ママの時だって、ママを独りにして、いちばんいて欲しいときにいてあげないで…(少女時代のレイの映像)…最低よ」
隆 司「仕事だ。ママの時もお前のことも。何度も言っただろう」
レ イ「仕事のせいにしないで!どうせ、ママも私も、どうでもよかっただけでしょう」
隆 司「…もうこの話はいい。お前はパパと一緒に食事をすればそれでいいんだ」
レ イ「ぜったい嫌。ママだってそう言うわ。パパなんかと結婚して、あんなふうに死んじゃったママが可哀想。みじめよ!」
隆 司(思わずレイを殴って)「勝手にママを不幸にするな!お前に何が分かる!」
レ イ「そうしたのはパパよ…(妖魔出現。気配を察知して)…二度と来ないで」

 さっきレイが亜美に言った「自分の考えを押しつけているだけよ。親なんて勝手なんだから」という発言の印象もあって、登場するなり有無を言わさず「一緒に来なさい」と言い、最後にはやはり「お前はパパと一緒に食事をすればそれでいいんだ」と繰り返すレイのパパは、ものすごく「強引で聞き分けのない父親」という印象を与える。このAct.33だけを見た段階では。
 ところがここへ今回Act.34で出てくる例の秘書の西崎のセリフ、つまりレイを驚愕させた「先生は、お嬢様と会う口実が欲しいだけなんですから。ここだけの話、いろいろ考えたみたいですよ。世論調査だとか雑誌の取材だとか。だから、交番から連絡があったときなんか、むしろ喜んでいるのが見えましたもん」を持ってくると、イメージはがらりと変わる。これは聞き分けのない父親が、娘をムリヤリ自分に従わせる話ではないのだ。そう思わせておいて、娘と話をしたがっているお父さんと、「関係ないでしょ」「話すことなんてないわ」と、もうハナから対話を拒んでいる娘という構図なのである。で、徹底的な拒絶にあったお父さんはどうしていいか分からなくて「レイ…」と溜息をつくばかり。ここまでが会話の前半。
 そして仲間を先に行かせた後、後半の会話のクライマックスとなるセリフは、パパの「お前に何が分かる!」だ。いくら自分の娘とはいえ、これほどの美少女を殴るというのは非常に問題のある行為ではあるが(美少女でなければいいのか?)とにかくつい手が上げてしまったくらい切実に、パパは娘に「分かって欲しい」のである。要するにこの会話は「話がしたい」「絶対イヤ」「そこんとこ分かって欲しい」「絶対イヤ」という、父と娘の対話にならない対話だ。レイは亜美に「イヤだったらイヤって言えばいいだけよ」と亜美に言った。それは日頃のレイのイメージからすれば「自分の意見をはっきり言いなさい」という意味にとれる。でもこの会話を聞く限り、レイはパパに自分の意見を言っているわけではない、たんにパパとの会話を拒んでいるだけである。これは亜美がママにきちんと「違う!学校はぜんぜん関係なくて…」と自分の主張をできたのとは対照的だ。
 いや、厳密に言えば、レイは父親に自分の思いをぶつけている。「私のことを神社に預けたのは誰よ。私のことを見捨てたくせに。ママの時だって、ママを独りにして、いちばんいて欲しいときにいてあげないで」。でも、これに対してパパは「仕事だ。何度も言っただろう」と繰り返し答えるしかないのだけれど、レイはそういう解答そのものを受けつけようとしない。だからやはり、対話として成り立たない。
 なぜレイはそれ以上の会話を拒むのか。「ママを独りにして、いちばんいて欲しいときにいてあげないで」というレイのセリフにあわせて挿入される回想イメージが、少女レイから見たママのショットではなく、「独りぼっちの少女レイ」自身のショットであることが全てを語っていると思う。つまりママではないのだ。「独りに」されて「いちばんいて欲しいときにいて」もらえなかったのはレイ自身である。したがって次の「パパなんかと結婚して、あんなふうに死んじゃったママが可哀想。みじめよ!」という言葉も、本当はママのことではない。パパの娘に生まれて、あんなふうに取り残された自分自身が「可哀相」であり「みじめ」であり、そんな境遇に自分を置いたパパを「最低」だと言っているのである。レイはママにかこつけて、本当は自分の不幸を訴えている。
 この意味において「勝手にママを不幸にするな!」というパパの反論は正確だ。火野隆司にとっては、妻が最後まで自分の愛情を疑わずに死んでいったこと、そして彼もまた、妻を愛した気持ちにまったくいつわりがないこと、だから離れていても、最後の時まで信頼の絆は壊れなかったこと、その事実だけが、仕事のために最愛の妻の死に目に会うことすらできなかった不幸な自分を、今日まで支えてきてくれたのである。ママの死は、孤独であったかも知れないが決して「みじめ」なものではない。そんなパパとママの絆を、お前にだけは分かって欲しい。お前はそんなふうに結ばれてた私たちの絆のあかし、私たちの娘なのだから。どうしてそこを分かってくれないのか。だからパパは思わず手を挙げた。
 しかし一方でレイの「そうしたのはパパよ」という返事も、まったくもって正論である。レイは、パパとママが深い愛情の絆で結ばれていることを、たぶん心の底ではよく分かっている。しかしだからこそそれを認めたくない。だって、ママはパパを愛していたし、パパもママを深く愛していて、ママが死んでしまって二人の絆は永遠のものになったとすれば、レイひとりがそこから疎外され、取り残されるからだ。「可哀相」で「みじめ」とはそういうことだ。
 ママが逝ってしまったとき、私は独りぼっちで、淋しくて、大好きなパパを何度も呼んだ。でもパパは来てくれなかったばかりか、私を神社に預けた。つまりパパが愛していたのはママだけで、ママがいなくなった途端に私は厄介者にされたのだ。それはレイにとっては自分の存在を否定される怖ろしい体験だった。
 だからレイは、ママが死んだ後「パパ、パパ」と繰り返しパパを呼ぶ自分の姿を記憶の底に封印した。そして代わりに、その見捨てられた「可哀相」で「みじめ」な自分自身の姿をママに投影して、ママを自分の分身にしたのである。「ママは、パパに裏切られて可哀相に、みじめに死んでいった。そんなママの気持ちが分かるのは、私ひとりだ」というニセの物語をつくりあげて、ママと「二人で」パパを憎悪するという虚構のなかで、つまり「ママとは一緒」という幻想を演じることで、大好きなパパに見捨てられ独りぼっちになったショックを克服しようとしたのだ。
 ほんとうにひとりぼっちだったのだ。だから、もしママが死んだあの時、ほんのちょっとの間でもいいから、パパがやって来て私を優しく抱きしめてくれさえすれば、そんな不幸なママの虚像をわざわざつくって、自分の心の支えとする必要もなかった。このように「勝手にママを不幸にするな!」という火野隆司の叫びに対する、レイの「そうしたのはパパよ」という答えは、きわめて論理的な反論なのだ。

7. 北川景子はやっぱりお勉強中


 うーん、まだ書きたいことの半分くらいなんですが、もうけっこう長いし、徹夜しちゃったし、この調子じゃ月曜日過ぎても終わらなさそうだし、どうしよう。とにかくレイだけに焦点を絞って、もう少しだけ続ける。急ぎます。
 パパの命令で、火川神社にはパパの秘書がうろうろしていて落ち着かない。そこでこっそり抜け出し、クラウンに転がり込むレイ。しばらくして亜美もまたやって来る。そして、Act.4、Act.16に続くレイと亜美の対話になるのだけれど、ここがまた実に良いですね。

レ イ「亜美ちゃん…」
亜 美「レイちゃん…いたんだ。…私も、いいかな」
レ イ「いいけど、どうしたの」
亜 美「面接、行かなかったの。ママにも黙って。私ね、レイちゃんには信じられないかもしれないけど、いままでママと喧嘩したことないし、逆らったこともないんだ。ママが好きだし、がんばれば喜んでくれて嬉しかったし……だからね、いま、どうやってママと話していいか分からなくて……。怒られるのか、嫌われるのか」
レ イ「そうやって、ちゃんと話そうとするの、偉いと思うわ」
亜 美「え?レイちゃんがそうしてたから」
レ イ「私のは、ただ、ぶつけてるだけ。……そうだわ、まことがお弁当作ってくれたの。食べる」
亜 美「え!?まこちゃんが?」
 (重箱に詰められたお弁当)
亜 美「うわあ、おいしそう!」
レ イ「こういうのはまことにはかなわないわね」
亜 美「レイちゃん、二人きりだし、パーティーしようか」
レ イ(とんでもない声で)「へぇ?」

 とにかく手短にまとめますね。このシーンが感動的なのは二つの意味からである。第一に、いままで亜美の「お姉さん」で、亜美を見守ってきたレイが、ここでは亜美に学ぶ立場にまわること。ママが言ったとおり転校しそうだった亜美に向かって「言いなりになってればいいわ」と言ったレイは、いま「どうやってママと話していいか分からなくて」と悩む亜美を間近に見て反省している。亜美はママときちんとコミュニケーションし、心を通わせたいからこそ、ママの意見にも耳を傾け、そして自分の意見もきちんと伝えるための方策を考えて、真剣に悩み苦しんでいる。それに較べれば、私はパパの話を聞こうとも、パパときちんと対話しようともしていなかったんだ、と痛感するのだ。
 第二に「私のは、ただ、ぶつけてるだけ」というセリフが、まるで女優北川景子の本音のように聞こえるところである。
 私は、この日記の第七回で、Act.4の北川景子は「お勉強中」である、という言い方をした。浜千咲のような、ある種の天才的なカンをそなえた演技者に対して、北川景子は、セリフ一行の意味やその背景に流れる心理を丁寧に学習しながら、不器用といってもいいくらい、演技というものを、基本から一歩ずつ段階的に学んでいる。そういう意味では Act.4はまだ「段取り芝居」に近かった。でも少しずつ着実に成長している。前回・今回でも、まだ目線に不必要な力が入りすぎだし、感情移入するといわゆる「ハリウッド演技」になるし、いま引用したシーンの最後の「へぇ?」など、どういうつもりで演じたのか意味不明なディテールもあるにはある。でもきっといろいろ考えた末なんだと思う。そしてそういう試行錯誤が、Act.4の頃よりも着実にこの人を成長させているのが手に取るように分かる。ずぶの素人が演技を身につけていく過程をドキュメンタリー的に楽しむ、という実写版のひとつの楽しみを、何よりも体現しているのはこの人で、将来セーラームーンは女優北川景子の初期の演技を知ることのできる、貴重な映像資料となるかも知れない。レイの台詞が一行一行非常に深い意味を持つこのAct.34は、キャストのなかでもいちばん台本を読んで読んで、ほんとうに良く読んで考えるという北川景子への、小林靖子およびスタッフからのプレゼントであり、宿題だったのではないかという気さえしてくる。
 DVDの連続座談会の最後の方で、北川景子は、一年間で印象に残った思いでのひとつとして、確か「火野隆司役の升毅がバカにしないでくれたこと」を挙げていたと思う。で、浜千咲か誰かが「バカにするってどういうこと?」とか尋ねて「新人だからって見下した態度を取らず、きちんと相手役をつとめてくれたこと」とか説明していたっけな。以上は記憶に基づくので、言葉は違うけど大体そういう趣旨だった。また後で観てみます。
 Act.33の北川景子は、升毅のパパを相手に、ハリウッド演技全開で、普段は冷静なレイの激しい感情を表現してみた。しかしそれを受けるパパの芝居のうまさに、なるほどこれが演技というものか、それに較べれば、自分はただ激しく声を荒げて、ただぶつけてるだけ、なんじゃないかと思う。そこでAct.34の墓地のシーンでは、また自分なりに考えて、レイの心が父親との和解へと向かう感動的なクライマックスシーンに、もっともっと抑えた表現で取り組んでいる。クラウンでの「私のは、ただ、ぶつけてるだけ」というセリフに、なんかそういうノンフィクション的なニュアンスを感じてしまうのだ。さあ、あと最後は墓地のシーンだけだ。徹夜しちゃったよ。みんなよく知ってる話を、私はなぜここまで苦労して書いているのだろうか。ずっと読んでくれているみなさん、おつかれさまです。あと少しですから。

8. 解かれた呪縛


 亜美のようにきちんとパパと「話そう」と決意したレイは、待ちかまえていた秘書の西崎にしたがって車に乗る。パパに出した唯一の条件は、会うのはレストランではなく、教会の墓地で、ということだ。亜美が母との楽しかった記憶の原風景であるメリーゴーラウンドへ向かったように、レイもまた母の眠る場所に向かう。でもその車中で「先生は、お嬢様と会う口実が欲しいだけなんですから」という例の西崎の話を聞いて、愕然とする。仕事第一で、政治家としての体面ばかり気にして、家庭なんか顧みたことがない、というパパのイメージが、ただの不器用なお父さんに変容して、レイはとまどいを隠せない。そして待ち合わせた教会の墓地でママの墓石をじっと見つめるパパの横顔に、いままでのパパに対してとは違う感情を憶える。

レ イ「どうして、どうしてあの日、病院に来なかったの?」
隆 司「しつこいなお前は。何か理由があれば許せるのか?」
レ イ「理由によるわ」
隆 司「仕事だ。本当に忙しかった。お前を預けなければならなかった理由も、ほかにない」
レ イ「じゃあ…」
隆 司「分かれとは言わん」

 たぶんこれまで何度も聞かされたのと同じ言い訳だ。でもレイは、いままでそんなこと、初めから聞く耳を持たなかった。パパと会うのは、パパに憎しみをぶつけるためだったのだ。いま、初めてパパの言葉をきちんと「聞いた」のだ。それが本当のパパの気持ちかどうかは、まだ分からない、でもとにかく今日は、何も反論せず、その言葉をそのまま受け止めておこう。そう考えて、黙って立ち去ろうとするレイの背中にパパが声をかける「レイ、取材があるんだ。親子で食事をする。出席しなさい」。
 西崎の話を聞いているレイには、その言葉がこれまでとは違った意味をもって響く「ここだけの話、なんとかお嬢様とうまく話したくていろいろ考えたみたいですよ。世論調査だとか雑誌の取材だとか」。だから前回、Act.33では「お前はパパと一緒に食事をすればそれでいいんだ」と言われたときは、思わず激昂して「パパなんかと結婚して、あんなふうに死んじゃったママが可哀想。みじめよ!」と叫んだレイは少し考える。
 そこで浮かんだイメージは、いつものような、独りぼっちで泣いているかつての自分ではない。パパを求めて、パパの名前を呼び続けていた幼い自分の姿だ。それはレイがずうっと無意識の底に封印して、自分でも忘れていた記憶である。きっと来てくれると信じていたパパに裏切られ、捨てられた、大好きだったパパは、実は私のことが大嫌いで、だから私を神社に捨てた。父親を深く深く愛していたレイは、その怖ろしい事実に直面するのが怖くて、そうじゃなくて私の方がパパを大嫌いになったんだ、という虚構の物語をつくりだし、10年近くもそれを自分に信じ込ませてきたのだ。封印していた記憶が解放されて、ようやくその呪縛が解けてゆくレイ。でもだからといって、そんなにすぐには変われない。

レ イ「たぶん、もう少し時間が経ったら」
隆 司「そうか」

 変化は確実におとずれている。でも決して急ではない。もちろんこれは実写版を通してのテーマであるが、特にAct.5の、いろいろあったけど結局また屋上で独りで昼食を食べる亜美、でも眼鏡を忘れている、というラストを思い出させずにはおかない。つまり意外なことだが、火野レイはある意味、このAct.34でようやく、Act.5の亜美のラインまでたどり着いたのだと思う。
 

 えーい、この2話については書きたいことがまだ幾つかある『カサブランカ・メモリー』との関係も触れずじまいだっしなあ。しかしまあそういうことはまたそのうちにします。んじゃまた。万丈。(これ定着させる気か?)


【今週の猫CG】なし
【今週の待ちなさい】Cパート、7時54分、セーラーマーズ


(そういや今回のバトル終了後の「みんな、がんばるぞ、おー」は台本に書かれていたんでしょうか。もし書かれていないとしたら、基本的に「みんな、がんばるぞ、おー」は舞原監督が考えた、という仮説が成立すると思うのだが)


(放送データ「Act.34」2004年6月5日初放送 脚本:小林靖子/監督:舞原賢三/撮影:小林元)