実写版『美少女戦士セーラームーン』ファンブログ


最新記事〕 〔過去記事〕 〔サイト説明〕 〔管理人

【第38回】愛をちょうだい脇役にもの巻(Act.24)


 お久しぶりです。先週はadrasteaさんの『Dear Friends』エキストラ参加レポートに大いに興奮し、同じくエキストラ参加されたD.Sさんの無念の涙に思いを馳せつつ、なぜか安座間美優ページにアクセスできなくなった、というあたりで仕事が修羅場に入り、もうブログどころではなくなった。この一週間の平均睡眠時間は3時間ちょっとなのではないだろうか。しかも週末からの連休には家族と義母の分のお弁当を作って子供の運動会に行って親子競技をきちんとやったぞ。誰も誉めてくれないから自分で誉める。偉いぞ私。それからぽんたさん、「ドラファンをやきもきさせ、虎ファンには大逆転の夢を与えた見事なライバル」本日の中日新聞の一面からです。
 それにしても、間に合わせにアニメをキャプチャーして作った期間限定の臨時日記が思いのほか好評だったのにはびっくり。「消しちゃうのもったいない」というありがたいコメントもいただきましたが、まあしかし最初に「次回更新時に削除します」と言っているので、今回はやはり消しておきます。またこういうことがあったときに、セリフだけ入れ替えて再利用したりして。
 そんなことはさておき安座間さんだ。スポーツ新聞独占だ。すごい(らしい)ぞ!やった(らしい)ぞ!思い切り喜びたくても(らしい)と書かなければならないところに「ノンノモデル・グランプリ」というのがどれだけスゴイのか、実はよく分からないおじさんのあわれを感じていただきたいわけだが、とにかく、これを機会に彼女の自然体すぎる自然体の魅力が広く知られるようになれば、こんなに嬉しいことはない。記者会見できちんと出身地をアピールしたのも正解だ。いま現在ならかなり有効な武器だからどんどん使うべきだ。それでテレビや雑誌が「沖縄出身タレント」というくくりで安座間美優をナカマさんたちのナカマに入れてくれればしめたものである。
 あ、それから長文に弱気になっていたところ、皆さんからコメント欄で色々と温かい励ましの言葉をかけていただいたことにもお礼申しあげます。とはいえ、物理的にも仕事がきつくなる一方で、もう少しコンパクトにまとめなくちゃとやっぱり思う。
 というわけで今回はまず、とにかく取り上げなくちゃならない重要項目を書き出してみよう。目次みたいなものです。

  • 冒頭ダーク・キングダムのこと(特にクンツァイトを中心に)
  • 脚本のこと(伏線の収拾と人物の出し入れのうまさ)
  • 演出のこと(佐藤監督、今回はビミョー。しかし田崎監督リスペクトは偉い)
  • うさぎと衛の物語がいよいよ中盤のクライマックスに入ること

こんなところかな。う、なんかまた長くなりそうだ。

1. ダーク・キングダムの物語が始まる


 2006年10月4日2時40分、Act.24再放送。今回は特番が入ってこの時間帯になったが、月刊テレビ雑誌などによれば、次回からは2時15分開始で安定するみたいだ。たぶん第3クールは基本的にこの時間帯で放映されるのだろう、あとはまた番組改編がある年明けの最終クールだな。ここでなんとか1時台になればとも思うが、何しろ第2クールのときは、放送時間が早まって大喜びしたらいきなり3時台にもっていかれたという苦い経験もあるので予断は許されない。
 今回気になったCMは「アートネイチャーのもしもしヘアチェック」。これ何だろう。電話をすると、ものすごく露出度の高いビキニのお姉さんが髪の相談に乗ってくれるらしいのだが。しかしお姉さんがどういう服装なのか、電話では分からないしなあ。
 そして「ぷっちょ」(U-HA味覚糖)のコマーシャルが終わったところでアヴァン・タイトル。この「ぷっちょ」は戦隊モノのパロディーCMだ。セーラームーンの前座にはふさわしい。
 かどうか。実写版セーラームーンは、少女版戦隊モノらしいタテマエをとってはいるが、その実「ヒーローと悪の戦い」にはほとんど重きが置かれていない。これは少女たちが様々な悩みや葛藤をかかえながら、友だちを信じる勇気や人を愛することの重さや家族との絆の大切さを学び、少しづつ成長してゆく連続物語なのであって、毎回登場する妖魔は、その大河ドラマ的流れに1話ごとの区切りを与えるためだけに現れては倒されているようなものだ。だからダーク・キングダムの影も薄い。戦士たちの気持ちが、敵をやっつけようという目的に収束していかないので、敵も敵としての本領を発揮できないのである。
 そういう意味では、Act.28とは別の意味で、このAct.24は前半と後半を区切るおおきな節目と呼べる回となっている。つまり、実写版はいつまで待っても、五人の戦士がそろい踏みして「戦士VSダーク・キングダム」という戦隊ものの展開に入っていかないことが判明してくる。で、それじゃダーク・キングダムってのは一体なんだ?結局ただの刺身のツマか?と思い始めた我々に対して、きちんとその存在意義を示したのが今回Act.24なのである。それを端的に象徴するのが、ベリルが今回つぶやく「エンディミオン、近いうちに必ず会える」というセリフだ。
 これまでのベリルは、杉本彩の妖しい存在感をとってしまえば、結局は「人々からエナジーを吸収し、銀水晶を狙い、邪悪な力クインメタリアを復活させようとしている」という、ただの悪の親玉でしかなかった。そのベリルが、いままで秘めていたエンディミオンへの想いをついに吐露する。ベリルにはベリルの、個人的なモチベーションがあったのだ。そしてそれに誘われるかのように、四天王もまた「妖魔を放ち、セーラー戦士を倒し、プリンセスを探し出して銀水晶を手に入れる」という本来の使命から逸脱して、自分たちの物語を生き始めるのである。ジェダイトはただベリルへの無償の愛に殉じ、ネフライトはプライドを砕かれて孤独の淵に歯ぎしりし、ゾイサイトはマスターへの忠誠を誓い、クンツァイトはあらゆるものへの復讐を決意する。こうしてダーク・キングダムの物語が始まり、ようやく一人一人が、セーラー戦士たちの物語に見あうだけの重い存在感を獲得する。そのことをはっきりさせる、というのが今回の脚本の最大の狙いだと思う。
 そしてそんなダーク・キングダムの物語の中心にいるのがクンツァイトだ。

2. クンツァイト、そしてヴィーナス


 たとえばAct.20は、ラストで亜美がダーキュリーに変身するので、記憶には「亜美の物語」として残るのだが、改めて観てみると主役はまことだった。それと同じようにこのAct.24も、最後のシーンがあまりにも印象的なので「うさぎと衛の物語」と考えがちになるのだが、よくよく見ればこれはクンツァイトが主役の回である。というか、クンツァイトとエンディミオンの物語。
 衛は今回、タキシード仮面の衣装を棄てようとする。記憶を取り戻すためにこれ以上タキシード仮面となって「幻の銀水晶」を追い求めれば、またうさぎと出会うだろうし、そうすればうさぎへの思いはますます深まっていくだろう。それは幼いころからずっと自分を信頼しきっている陽菜への裏切りである。だからもう追い求めてはならない。そして陽菜とロンドンへ行かなければならない。それでも揺らぐ自分の感情にけじめをつけるために、すべてを棄てて過去を精算しようとするのだ。
 しかしゾイサイトがあらわれ、衛をプラネタリウムに連れ去る。かつて前世で幾度となく星空に輝く月を見上げていたマスターに、その情景を再現してみせて、記憶を取り戻させようとするのである。けれども衛は「オレは地場衛だ!」と叫び、頑なに過去を拒む。
 そんな彼の前に、今度はクンツァイトが登場だ「ゾイサイトが変な気を起こさなければ、破滅の日までそのままにしておくつもりだったが」
 クンツァイトはすべての記憶を取り戻している。「破滅の日」のことも。そして「破滅の日までそのままにしておくつもりだったが」というこのセリフは、かれがその到来を、ほぼ避けられぬ運命と確信していることを示している。ここまで来てようやく、かつてクンツァイトがクイン・ベリルと交わした、謎めいた対話の意味が明らかにされるのである。

ク ン「プリンセスか……なかなか巧妙に逃げ回ってますな」
ベリル「小娘があがいたところで、何も変わらぬ!」
ク ン「そう、消えるでしょう、再び」
ベリル「クンツァイト、お前は忘れておらぬのか?」
ク ン「何を?」

 これはAct.19の対話だが、この段階ではおそらくまだベリルもクンツァイトも、ヴィーナスがプリンセスだと信じている。いや、あるいはクンツァイトはもう真相に気づいているのかも知れない。「なかなか巧妙に逃げ回っていますな」というセリフは、普通に考えればホテルを転々としている美奈子のことを指しているはずだが、そう思わせて、実はクンツァイトが考えているのは、ヴィーナスを隠れ蓑に姿をくらましている本当のプリンセスのことなのかも知れない。小林靖子だったらそういう二重の意味をふくませているかもね。少なくとも次のAct.20で、ヴィーナスのもつニセの銀水晶にまんまと踊らされたネフライトに向かって「ニセ物しかもっていないのかもな」と言って、彼女が真のプリンセスではないことをほのめかしているのだから、すでにこのAct.19で、かなり疑惑を感じてはいるとしてもおかしくはない。しかしベリルはまだ気づいていない。ベリルが、ヴィーナスはおとりのプリンセスかも知れない、というクンツァイトの推理をジェダイトから聞かされて「ほう」と納得するのはAct.25である。
 いやその話をしたかったのではなかった。クンツァイトの「そう、消えるでしょう、再び」ということばに「クンツァイト、お前は忘れておらぬのか?」と動揺するベリル。初放送時には何が何だか分からなかった対話である。しかし今回クンツァイトは、かつてのマスターに向かって「破滅の日までそのままにしておくつもりだったが」と言い、「お前は我らを裏切り、そしてこの星は滅んだ」と言う。ここでようやく「消えるでしょう、再び」というAct.19のセリフが「破滅の日」「星の消滅」の到来を意味していたことがはっきり示される。と同時に、クンツァイトがこの時点で、前世の悲劇の繰り返しを、もはや避けられない運命と確信していたことも明らかになる。プリンセスが、あるいはダーク・キングダムが何をたくらみ、どう行動しようが、もはや星の破滅が再び到来することは避けられない。どんなに「あがいたところで」すべては再び「消える」だろう。クンツァイトはすべての記憶を取り戻し、そして未来までも知ってしまった。
 その意味で、彼はヴィーナスに似ている。ただヴィーナスは、悲劇の再来を予感しつつ、運命を変えるために抵抗し続けようとする。それに対してクンツァイトは、すべてを破壊してしまおうとする。
 もっとも、ヴィーナスも、たとえ自分の努力で星が救われることになったとしても、その時にはもう自分の命がないことを知っている。戦士としての使命を果たせようと果たせまいと、それが終わったときに、彼女の命に残された時間は尽きる。彼女の世界もそこで終わる。だから救いのためでもなく、未来への希望でもなく、ただ自分が納得するために戦い続けるという意味では、ヴィーナスとクンツァイトは同じだ。

3. 目的なき復讐者


 しかしクンツァイト、迫力もあれば華もある。もともとダーク・キングダムで唯一ベリルとタメを張れるだけの見ばえのする彼が白昼堂々、都会のど真ん中にあの格好のまま現れるとなんかものすごく派手だ。あまり派手なので、衛もこれでは釣り合いがとれないと思ったか、棄てるはずだったタキシード仮面の格好に急いで着替える。とでも考える以外、ここで衛が変身する意味はないのだが、しかし今回は最後に「タキシード仮面の正体がセーラームーンにばれる」という大イベントがあるのだから、このへんで変身しなくては仕方がない。
 それはともかく、Act.13のシンは、自分の記憶が戻るのを恐れる男だった。そしてその前に現れた地場衛は、記憶を求めようとする男だった。

 衛 「お前が自分を思い出すのを怖い気持ちは分かる。おれも最初はそうだった」
シ ン「君も?」
 衛 「けど、自分から逃げることはできない。たとえ記憶はなくても。だから、俺は自分を追うことにしている」
シ ン「そうだね。でも、オレが本当に怖いのは、こういうものが好きな自分じゃなくなるような気がするからだよ」

 しかし皮肉なことに、このAct.24で久しぶりに再開をはたした二人は、その時とは立場が逆転している。衛は過去を追うことをやめ、シンはクンツァイトとなり、すでに過去のすべてを思い出している。そして「復讐者」として衛=タキシード仮面を追いつめてゆく。

ク ン「いつか、お前は自分を追っていると言っていたな。知るのは恐くない、と」
タ キ「お前は、怖れていたとおりの自分になったな」
ク ン「お前のせいだ。お前は我らを裏切り、そしてこの星は滅んだ。私はすべてに対して復讐する。最初はマスター、お前だ」

 しかしそれはなんと虚しい復讐であろうか。彼は過去の記憶を取り戻したばかりではない。さっきの「ゾイサイトが変な気を起こさなければ、破滅の日までそのままにしておくつもりだったが」という言葉が示しているように、彼は再びおとずれる「破滅の日」が避けがたいものであることをも予見しているのだ。いずれすべては滅びると確信している彼には、あらゆる者を憎み、呪い続ける以外に、自分を支えてゆくすべがないのだ。だから誰のためにでも、何のためにでもなく、ただひたすら目の前にあらわれるものを破壊しつくす「無目的な復讐者」とならざるをえない。それがクンツァイトだ。セーラールナとのハリセン遊び以外に、彼の荒涼とした心を癒してくれるものはない。
 空虚な心を憎しみと怒りで満たしたクンツァイトの攻撃は熾烈をきわめ、タキシード仮面は絶体絶命の危機におちいる。しかしそこで邪魔に入ったゾイサイトと、助けにやってきたセーラームーンの、強力なムーントワイライトフラッシュの前に、クンツァイトの復讐はあと一歩のところで退却を余儀なくされる。とはいえ、セーラームーンの圧倒的なパワーの源が何であるか、そして真のプリンセスが誰であるかがほぼ分かったのだから、まあ収穫はあった「そうか。セーラームーン、お前が!」

4. まことの長い道のり


 えーとだいぶクンツァイトに感情移入してしまったが、そういう意味でこのAct24は、これまで張られた伏線がきれいに回収されていて、話数的に言っても前半と後半のおおきな区切りになっていると思うのです。ともかく脚本はいよいよ冴えわたっている。しかし、もはや一回ぽっきり見ただけではそのすごさは分からない状態になってもいる。複数回にわたって細かく観ていって、初めてキャラクターの動かし方というか、人物の出し入れの緻密さに感心させられるのだ。
 人物の出し入れというのは、たとえばレイは前回の主役だったので今回は控え目にしておいて、その代わりまことを前面に出すという、そのへんのバランス感覚が、物語の流れのなかで無理なく活かされているということである。まことは今回ようやくうさぎに向かって「あのさあ、私まえに、好きになったらあきらめるな、って言ったけど、でも……」と切り出す。いやあ長かったですね。
 しかし、ようやくここに至るまでのまことの動向を整理してみると、Act.18で「こういうことは、やれるとこまでやっとかないと、後悔するよ」とうさぎと衛の恋の後押しをしようとしたが、元基に探りを入れたら陽菜が衛の婚約者であることを知ってみごとに玉砕。Act.19で「どうしよう。本当のことは言った方がいいけど……」と悩み、Act.20でようやく「やっぱりうさぎに言おうかと思って」と決意するが、言えないどころか、地場衛がタキシード仮面だという驚愕の事実を目の当たりにしてしまう。で、Act.21でそのことを亜美に相談しようとしたら、亜美の様子がおかしくて、ついにダーキュリーと化したところでAct.22。だからこの回はうさぎの恋愛どころではない。一段落ついてAct.23は「マーズれい子」の回。始めの方のクラウンのシーンにまことは登場するが、ここでは、衛のことをうさぎに言うことはできない。なぜかというとレイがいるからである。「オトコ絡むときびしい」レイには、うさぎと衛のことはそもそも内緒だったのだのだから。
 今回レイの出番が少ないのは、ドラマの外の事情としては、前回メインだったので一回休み、ということだろうし、ドラマの中の事情としては、うさぎもまことも私服なので、つまり今回は学校はお休みの日、だからレイは神社の巫女さんの仕事があってクラウンに来られない、という設定であろう。そこでようやくまことがうさぎと一対一で、衛のことをあきらめろと言える状況ができるのだ。こう考えると、ものすごく長くひっぱっているように見えて、ちゃんと必然性がある。決してまことは、Act.20で「やっぱりうさぎに言おうかと思って」と決意して以来、いたずらにうさぎに話す機会を引き延ばしていたわけではない。今回しかチャンスがなかったのだ。そしてその間、うさぎは戦士として成長し、事実をきちんと受け止めることができるだけの大人になったので、少なくとも前ほど取り乱したりはしない。それを見守るまことの視線は複雑だが、つらいけどがんばろうという芯の強さを見せるうさぎちゃん、ということで、愁嘆場にならずにひとまず決着がつく。うまいなあ、と思う。

5. 陽菜の物語


 こういうふうに、うさぎと衛と陽菜の三角関係という、話の運びようではかなりどろどろになりそうな素材を、複数回にまたがって人物を出し入れして、あまり濁った印象を与えずにまとめたところに、脚本家の手腕が光っている。陽菜もそうだ。
 以前『眠れる森の美女』観劇記を書いたとき、あまり松下さんに触れることができなくって、私はそれがずっと心残りだった。主役なのに。だからお詫びのしるしとして、ちょっと今回は陽菜について詳しく書いてみたい。私のなかで陽菜は、Act.25ただ1話以外は、衛のことで決して泣きそうな表情も辛そうな表情も私たちには見せなかった健気で優しい子なのです。国民的美少女で、気品があるけどちょっと冷たい眼差しとかにキツイ印象があって、でも笑顔には意外と庶民的というか優しそうな雰囲気もある、松下萌子という人ならではのキャラクターであった。
 しかしこの陽菜をどう扱うかというのも、けっこう面倒な問題だ。衛を一途に愛する素直な良い子だからこそ、衛は陽菜を裏切れなくなり、心はうさぎに惹かれつつもロンドン行きを決意する。陽菜がわがままだったりイヤな女だったりすれば衛の葛藤は説得力をもたない。しかし一方で、そんな非の打ち所のない優しい婚約者から衛をとってしまう、うさぎの略奪愛の物語になってもいけない。そのへんの加減が問題なので、脚本は陽菜の描き方についてはかなり細心の注意を払っている。
 たとえばAct.20、大地君とひかるちゃんの公園デートの後、妖魔の気配を察知して去っていくうさぎを追う衛。恋人が尋常ではない様子で別の女の子の後を追いかけていったというのに、それを見送る陽菜の顔は画面に映らない。そして今回、衛が陽菜と携帯電話で話している途中、クンツァイトが衛に襲いかかり、携帯はとつぜん切れる。パニック状態でクラウンの元基のもとを訪れる陽菜。そこにたまたま居合わせたうさぎは、事情を聞くなり血相を変えてクラウンを飛び出す。今度はうさぎが衛のことでただならぬ反応を示したというのに、それに対して陽菜がどんな表情を見せたかのフォローは、またしてもない。この二つの場面で陽菜のリアクションを拾うと、当然、陽菜の疑惑、不確かな嫉妬、といったような感情が物語に絡まざるをえなくなって、三角関係の昼メロになってしまうからである。
 だから三角関係的な部分は抑えに抑えて、Act.25まで出さない。かといって、Act 25でうさぎのハンカチを見つけた陽菜がいきなり激しい嫉妬と婚約者を失う不安にかられ「ロンドン行き送別会を婚約発表の会にしたい」と言い出す、という展開も、いささか唐突すぎる。衛の部屋で手料理をご馳走したり一緒に買い物をして部屋に入る陽菜のシーンを数回にわたってちょこちょこ入れるのはそのためだと思う。つまり、陽菜はまずAct.20でうさぎを追う衛を見て、漠然と疑惑を感じる。でもそれからも普通に恋人同士みたいに部屋に出入りしているし、とりたてて不審なこともなかったので、そのわずかな不安は心の底に封じ込める。ところが今回のAct.24では、今度は「うさぎちゃん」が衛を追いかける。そこでまた不安が甦ったところへ、次のAct.25でハンカチが出てくる。ロンドン行きの引っ越し荷物の整理を手伝っていた陽菜は、いままで女っ気を感じさせるものなど何もなかった衛の部屋に、ひとつだけ大事に取っておかれたハンカチを見つける。そこで、自分でも気づかないふりをしていたうっすらした疑惑が、はっきりかたちをとる。だから婚約の正式発表を早めようと焦るのである。しかしAct.25の終わりで、やっぱり衛の心のなかには「うさぎちゃん」がいることを知る。陽菜の心の流れは、だいたいそんな感じだ。
 しかしそれは、陽菜の気持ちに寄り添ってよ〜く考えてみて初めて分かる話であって、さっきも言ったように、陽菜の葛藤や嫉妬を直接あらわすような描写は、Act.25までは周到に避けられている。それをやると、うさぎと衛が陽菜の気持ちをどれほど傷つけたかをあからさまに示すことになって、主役二人の恋愛ドラマが後味の悪さを残してしまうからだ。
 そして私の個人的な希望を言えば、陽菜の内面がストレートに描写される回を、本当にAct.25「だけ」に限定すれば、もっと良かったと思うのだ。実際のところは、次回Act.26でも、病院の衛を見舞う陽菜は複雑に沈んだ表情をしている。そして成田で別れを告げた後、去っていく陽菜は泣きそうな顔をしている。これは絶対NGだと私は思うのですが。
 私のなかでは陽菜をそんなふうに描いてはいけないことになっているのだ。病院で、ベッドに横になっている衛に飛行機のチケットを渡すとき、陽菜はもう半分、衛をあきらめることを決意している。こんな風に二人きりで話ができるのは、もうこれが最後かも知れない。最後まで笑顔でいて、良い想い出として残したい。だからあえて前回のことは何もなかったように明るく振る舞うのである。
 そして空港。陽菜は結局、自分から衛に別れを告げて、ロンドンへは行かずに去っていく。そんな陽菜に向かって衛は「オレは本当にお前を大切だと思っている」と叫ぶ。おいおい、ウソはついていないだけにその言い方は卑怯だろう渋江君、という問題はさて置くとして、その衛の言葉を背中で受け止め「分かってる」と振り返らずに手を振る陽菜の後ろ姿には、ただ恋人をあきらめたというネガティブな意味がこめられているだけではないのだ。子供の頃から衛にべったりだった甘えん坊の自分自身ときっぱり決別できた彼女には、きっと新たな、素晴らしい人生が待っているであろう、という希望もきちんと示されなくてはいけない。もちろん、そのためにはまず心の傷を癒す時間が必要だ。だから衛には日本に居ないで欲しいんだね。観ている我々もそう思う。
 陽菜ちゃん、あなたもきっといつか笑顔を取り戻す。だから我々も、そんな未来の幸せなあなたの顔を想像して、泣きそうな思いをこらえているに違いない今のあなたの顔は見ないまま、後ろ姿を見送るよ。これが実写版のなかでの、あなたの物語の結末だ。最後まで衛に一途で、衛の幸せのために身を引いたあなたにふさわしい新しい旅立ち、美しいフィナーレだ。ここでいまのあなたの顔をアップで写して、未練たらしさで画面を汚してしまうような監督は、あなたの気持ちを分かっていない本物の馬鹿だ。この場面では、カメラは最後まで衛の視点と同化して、陽菜が空港の雑踏のなかに消えてゆくまで「後ろから」見守らなくてはいけない。
 と言っているのに、次のカットで、あろうことかカメラは陽菜の前に回り込んで、涙をこらえるその表情をアオリで写してしまうのである。馬鹿か!
 「馬鹿って何よ!」と高丸監督が抗議しているので、そろそろ次のテーマに移りたい。

6. 馬鹿問答(このネーミングはなんとかならないものか)の中間総括

Act.4:池袋の雑踏で亜美と話をしていたうさぎが衛とぶつかる。
 衛 「ひとごみで馬鹿みたいにはしゃぐなよな!」
うさぎ「馬鹿みたいって何よ!」

Act.15:美奈子の宝石を盗んだ泥棒を追おうとするうさぎ。
 衛 「馬鹿か、こういうのは警察の仕事だ!」
うさぎ「馬鹿って何よ!」

【今回】Act.24:信号無視して車に轢かれそうになるうさぎを助ける衛。
 衛 「馬鹿、赤だろ!」
うさぎ「馬鹿って何よ!」

【今回】Act.24:ラストシーン
タキシード仮面「馬鹿か!」
セーラームーン「馬鹿って何よ!(はっ)」

Act.43:想い出の鴨川、前原海岸
エンディミオン「お前はベリルや、前世を引きずった人間たちのようになるな。どんなときでも笑ってればいいんだ。馬鹿みたいにな。得意だろ」
セーラームーン「馬鹿みたいはよけいだよ」

Act.48:ヴィーナスが死んでも、衛との約束どおりに笑おうとするうさぎ。
衛「お前…馬鹿、泣け。オレが一緒にいるときは我慢しなくていい」

 というわけで、前半の無邪気な馬鹿問答と、後半の書いていてもつらくなる馬鹿問答の折り返し点となるのが今回Act.24であるが、まず最初の交差点のシーンの佐藤演出はちょっと複雑だ。私はこの場面を評価すべきかどうなのか迷っている。ビデオをお持ちの方も、できたら7時34分から7時35分に変わるあたりのところを改めてじっくり見て、ご検討いただきたい。クラウンに出かけるうさぎが交差点で信号待ちをしていると、隣では若いカップルが、携帯の画面を見ながらラブラブな感じ。うさぎがその二人を見ていると、その向こうに思いがけず衛が現れる。
 普通だったら、うさぎと衛が、ほぼ同時に互いの存在に気づき、ぎこちなく「どうも」「ああ」という展開だろう。ところがここでは、まずうさぎが一方的に衛に気づくのだ。何も気づかず信号待ちをしている衛にどぎまぎして一度はうつむくのだけれど、どうしても気になって、もう一度そっちを見る。その時はじめて衛もうさぎに気づいて、視線が合ってしまう。気まずい二人。そういう流れである。
 これはどういうことかというと、うさぎが衛に気づいてうつむいた後、信号待ちをする二人を、ちょうど道路を隔てた向こう側の正面から捉えたロングショットがあるのだ。左側にうさぎ、真ん中にカップル、右側に衛。大好きな衛はすぐそこにいるんだけど、それはとても長い距離だ。だって間にラブラブの二人(もちろん衛と陽菜の婚約関係を象徴している)がいるんだもの。私の気持ちは届かない。そんなうさぎの想いを画面で見せるためには、まずうさぎだけが衛の存在に気づいている、というシチュエーションが必要だ。佐藤監督の得意な演出パターンと言える。
 私もこういう演出は嫌いではない。がしかし、ここで強調すべきポイントはやはり、偶然にも衛に出会ってしまって(なんで?せっかく忘れようとしているのに)と心乱れるうさぎにある。それでつい赤信号なのに横断歩道を歩き出してしまう、というふうに話を進めるには、ばったり出会ってお互いに驚く、ぐらいのシンプルな描写の方が良いような気がする。しかもカメラは衛の側に据えられているので、(1)衛がフレーム・イン、(2)衛に気づいてはっとするうさぎ、(3)うつむくうさぎ、(4)それからもう一度おずおずと衛の方を向くうさぎ、という一連の動作を演ずる沢井美優の芝居が、こっちにでっかく衛がいる背景で行われることになって、うさぎの揺れ動く心理が視聴者には伝わりにくい。そしてその後うさぎに気づく衛は、切り返しのバストショットで思い切り「はっ」としているので、バランスが悪いように感じられるのですね。
 そしてもうひとつの「馬鹿か」「馬鹿って何よ」つまり今回のクライマックスであるが、でもそろそろ、今日の日記もいい加減で終わなくちゃね。ぜんぜん短くなっていないような気がするし。
 それにしても私はこの場面を、この2年半の間に何回、いや何十回観たことだろうか。原作でもアニメでも不満の残った「セーラームーンがタキシード仮面の正体を初めて知るシーン」を、これほど理想的なかたちで実現してくれたという一点だけでも、実写版は私のなかでは永遠の作品だ。そのことをアニメや原作と比較して本気で語り出すと、おそらく字数は2万字を越えて頭の中で「ぽん!」と音がするので、またの機会にしておくが、今回観ていてもやっぱり鳥肌が立った。
 しかし冷静に考えるならば、それは脚本レベルの話なのである。実はこのシーンの佐藤演出は、それほど誉められた出来ではない。好みの問題もあるだろうが、リピートとかカット割りといったオカズが多すぎるのだ。まず、「どうして、今まで気づかなかったんだろう」といううさぎの独白とともに俯瞰から寄っていくショット。このとき、セーラームーンはタキシード仮面のマスクを外そうと右手を彼に向かってのばし始めている。次がタキシード仮面のマスクを外すセーラームーン。細かい切り返しで9カット。ここはさっきの俯瞰とはダイレクトにつながっていない。もういちど、ゆっくりと右手を上げ、タキシード仮面のマスクに伸ばしていく動作から繰り返されている。こういうリピートが、私は好きではないのだ。でも沢井美優は素晴らしいなあ。
 そして次、逆光を浴びながら見つめ合う二人。カメラは右回りに回り込んで寄っていく。半分くらい回り込んだところで、また少し位置がもどって、さっきよりアップで同じように回り込み、沢井美優の横顔を映す。ここはリピートもイヤだし、こういう大事な場面で沢井さんを真横から撮って、特徴的な鼻筋を目立たせてしまったのも気にいらない。後はディゾルブ(オーバーラップ)で、うさぎとタキシード仮面の交差する眼差しを4カット。ディゾルブか、どうしてそう技巧をこらそうとするのだろう。
 ここでちょっと佐藤監督を讃えておくが、あるいはみなさん先刻ご承知でしょうけれども、このシーン、倒れたセーラームーンとそれを気づかうように寄りそうタキシード仮面というこの構図は、Act.1で二人がセーラームーンとタキシード仮面として初めて出会ったシーンと、ものの見事にぴたりと一緒なのだ。前半のゾイサイトと衛のプラネタリウムの会話のなかで、その直前にあたるAct.1の場面が回想シーンとして入るから、この構図の一致は偶然ではない。こんなところにも、Act.1から始まった物語が、ここでひとつ折り返し点を迎えたよ、ということが示されている。特にだいぶ最近になってからローテーションに加わった佐藤監督が、こんなふうにきちんと田崎監督のAct.1をリスペクトするのは、非常に素晴らしいことだと思う。
 それだけに惜しい。これがAct.1と同じ構図であることを示す引きの画面と、沢井美優の素晴らしい表情を見せるアップと、見つめ合う二人の切り返し、これだけでいいのだ。回り込みとか俯瞰から寄っていくとかリピートとか、よけいな小細工はない方が、もっともっと万感胸にせまったと思うのである。
 しかし繰り返すが、これは好みの問題である。Act.17、バレンタインのクッキーを渡せなかったうさぎの前を、衛と陽菜の乗ったバイクが通り過ぎる場面を、少しずつ距離を近づけて3回繰り返すシーンとか、同じAct.17、教会で初めてレイと美奈子がすれ違う場面を、スローモーションを挟んで違う角度から、やはり3回繰り返すところとか、Act.18、セーラーヴィーナス登場でついにそろい踏みしてポーズをとる五戦士を、正面、俯瞰、回り込みなどで都合4回も繰り返すシーンとか、とにかく決め所となると、アングルを変えたりスローモーションにしたりカメラを回り込ませたり、あの手この手でくどいほどリピートする佐藤健光監督の演出のクセが大好きという方には、ここもまた名シーンということになるだろう。私はちょっと、どれも駄目なんである。まあそれでも何十回も観ているんですけどね、このAct.24のラストシーンは。
 えーと恐る恐る字数計算をしたら、すでに13,000字を越えているので、もう今日はこのくらいにしておきます。このクライマックスに至るまでも、いろいろ語りたいことはあるのだけれどもね。
 ここのところ私は、ものすごい量の書類書き仕事に死にものぐるいだった。そういうことがあると、しばらくはもう字を見るのも書くのもイヤだという方も世の中にはおられるのだろう。しかし私の場合、そういう仕事の後で、自分の好きなことを仕事の文書量以上に書きまくるのが、何よりもストレスの発散につながるということが最近分かってきた。困ったものである。
 あ、それから読んじゃいないだろうが最後にCBCにお願いだ。前にも書いたが、たのむから実写版が終わったすぐ後にいきなり『渡る世間は鬼ばかり』のCMを入れないで欲しい。何も私はピン子さんに含むところはないのだが、今回のように沢井美優の余韻にひたっているところにいきなりアップで見せつけられては、嫌いになりそうである。その次にすかさず「細木数子六占星術スペシャル」の番組宣伝というのもいかがなものかと思う。火野レイ以外の霊能者はいらない。

7. 【おまけ】元基ママとタキシード仮面の意外な関係


 で終わろうと思ったが、ついでにもうひとつオマケだ。今回はおバカな役どころに徹している元基だが、私、実写版には一度も出てこなかった元基の母親について、ちょっと個人的に考えていることがあるので書いておく。あるいはどなたかがもうご指摘ずみなのかも知れない。そうだったらすみません。
 さっき書いたように、今回のラストシーンのセーラームーンとタキシード仮面の構図は、Act.1の最後とそっくりだとは前から思っていたのだが、間違いを書いてもいけないので、一応ビデオで確認してみた。それで疑問に思った。ご存じのように、Act.1のタキシード仮面のマスクのデザインは、たとえばこのAct.24のものとはだいぶ違っている。縁飾りもなんにもない、厚紙を切り抜いたようなものなのだ。
 で、この旧型マスクが新型マスクに変わったのは何話からだろうかと、ざっくりビデオを確認してみたら、なんとAct.7からなのだ。うさぎがタキシードを手にする元基を見て勘違いして、トリプルデートをする回である。
 待ち合わせをしていた東京ドームシティで、元基は衛にタキシードの入った紙袋を渡す。「あ、これうちのお袋に直してもらったから」「ああ、サンキュ」「そんなの着るのなんて変わったバイトだよな」このときの紙袋にマスクまで入っていたかどうかが確認できないのは残念だが、しかしこの次に登場するシーンから、タキシード仮面のマスクは新型に変わっているのだ!というわけで名古屋支部ではひとつの仮説を立てた。このAct.7で、衛はタキシードと一緒にうっかりマスクも紙袋に入れたまま元基に修繕を依頼した。そしてそれを受け取った元基のお母さんは、タキシードを繕うついでに、「このマスク地味ねえ、どうせサンドイッチマンのバイトなら、もっと目立たなくちゃ」と思ったか知らないが、勝手に飾りを入れた、つまり次回クンツァイトに真っ二つにされるタキシード仮面のマスク(ニューバージョン)は、元基ママの作である。どうかな。ちなみに『Act. ZERO』もちらっと再確認したら、ちゃんと旧型マスクであった。偉い。


(放送データ「Act.24」2004年3月20日初放送 脚本:小林靖子/監督:佐藤健光/撮影:松村文雄)