実写版『美少女戦士セーラームーン』ファンブログ


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【第105回】北川景子生誕21周年記念レビュー『Dear Friends』

1. 大丈夫、いい映画でした

 


 北川景子さんの21歳の誕生日を祝って、何か記事を書きたいと思っていたのだが、残暑のせいか、スランプのせいか、さっぱりアイデアが浮かんでこない。そうしたら、前々回の日記で、Nakoさんから「今『Dear Frends』レンタルしてますよ〜。是非ご覧になって感想でもいかがでしょう?」というコメントをいただいた。
 この作品、原作を読んで以来、私はあまり積極的に観る気がしないで、そのまま遠ざけつづけていた。でも北川さん主演の、全国配給のメジャー作である。実写版のファンとして、やはり観ておく義務がある。というわけで、これを機会にと腹を据えて、DVDで鑑賞しました。
 結論からいえば、予想以上に良い作品であった。しかもこれ、北川景子が良いので、映画全体が良いという、つまり北川景子が映画の柱になって成立している作品なのだ。主演女優なんだから当たり前だろ、と言われればそれまでだが、正直なところ、私は、映画そのものはちょっとアレでも、北川景子だけが良ければいいやと思っていた。しかし彼女は、映画全体を支えるという、主演としてのつとめを、見事にまっとうしていた。『M14の追憶』のレビュー(中編)でも、北川さんの演技が非常に高く評価されていたが、私の感想も同じで、たぶんファンのひいき目ではないと思う。北川景子が、どれだけの力量をもった女優であるかということが、この映画ではっきりと示された。観終わったときには、なんか肩の荷が降りたというか、ある意味、ものすごくホッとしました。
 というわけで本文に入るが、本日の記事、いちおう、まだ映画をご覧になっていない方にもお分かりいただけるよう、あらすじなども書いてあるが、いわゆる「ネタばれ」もあると思う。なので、まだの方は、できればこの先を読まれる前に、最寄りのレンタルビデオ店に行って、映画版の方を鑑賞されてから、改めてお読みいただければ嬉しい。急がなくともこの日記、向こう一週間は更新がありませんので大丈夫(開き直っている)。ただし原作小説は買わなくて良い。

2. おはなし

 


 Yoshiの携帯小説を、私は『Deep Love アユの物語』と、この『Dear Friends』しか読んでいない。正直『Deep Love 』で「もういいよ」という感じで、北川さんの主演映画の原作でなければ、『Dear Friends』だって最後まで読んでいなかったかも知れない。
 どちらの話も、援助交際とか、乱交まがいのセックスを平気でやっているような女子高生が主人公である。そういう子が、本当の恋とか、友情とか、人と人との心のつながりに目ざめていくのがテーマで、しかもそこに必ず、エイズとかガンとかの難病が絡んでくる。で、主人公は最後に死んでしまったり、あるいは大切な人を失ったりする。
 それから、父親や母親がほとんど物語を動かさない、というのも大きな特徴ではないかと思う。そもそも十代のすさんだ少女を描こうと思えば、その背景として、学校とか友達とかよりも、家庭環境が大きなポイントになってくるはずだし、主人公の改心は、家族との和解につながらなければならないと思うのだが、そういう側面はあまり扱われない。まあ、私の考え方が古いのかもね。
 『Dear Friends』の場合、主人公のリナ(北川景子:以下、主要登場人物には映画版のキャストを入れておきます)は、完璧な美貌と肢体をほこる18歳の高校3年生である。夜はクラブの女王。世界中を自分の思うがままに動かしているような子だったが、リンパ腺のガンを患い、闘病生活を強いられる。
 治療の副作用で髪の毛が抜けたり容姿が衰えたりして、不安におちいり、ますます荒れるリナのもとに現れたのが、リナはぜんぜん憶えていないが、小学校の時クラスメートだったという、地味な少女マキ(本仮屋ユイカ)だ。マキはこれまで何度となくイジメの被害に遭っていて、リストカットの常習犯で、リナとは正反対の、日陰者の人生を歩んできた。そんなつらい日々の中で、マキの心をずっと支えていたのは、小学生の時、リナの誕生パーティーに招かれた想い出だった。
 別にリナに特別な思いがあったわけではないのだが、マキにとっては、クラスの仲間はずれで、呼ばれると思っていなかったのに、誕生会に誘ってくれて、みすぼらしい自分のプレゼントを、バカにもしないで受け取ってくれて、帰り際に「友達だから」とオルゴールのお返しをくれたリナの気持ちが、心から嬉しくて、今でも忘れられない。だから病気ですさんだリナの心を、今度は自分が癒してやろうと、リナには疎まれながらもせっせと病室に通って、看病するのである。
 やがてリナのガンは胸に転移してしまい、右の乳房のほとんどを摘出せざるを得なくなる。自慢の容姿を失うことと、死の不安に自暴自棄になったリナは、病院の屋上から飛び降りようとする。マキは命がけでそれを説得する。
 というように、美しくてワガママで自己中心的な少女リナが、重い病気にかかり、同級生マキの無償の友情によって、少しずつ変わって、本当の友達の意味を知る、というようなお話です。

3. この項、原作からの引用があるので18禁


 こうしてプロットを取り出してみると、さほど新鮮味が感じられる話ではない。それがなぜ若い読者を惹きつけ、50万部というベストセラーになるのか。正直なところ私にはよく分からないのだが、かなりどぎつい描写とエグいイベントが、これでもかと詰め込まれていて、とにかく様々な事件が次から次へ起こる、そういう展開の派手さが人気の理由のひとつかなあとは思う。携帯小説って、そんなに沢山読んではいないが、だいたいそうみたいですね。
 どぎつい描写というのは、つまり性描写のことだ。たとえば『Dear Friends』は、リナが退屈しのぎに、同級生のヒロコ(通山愛里)の彼氏と寝てしまう場面から始まる。ヒロコが、つきあっている剛(上野亮)という少年のアパートに来たら、彼はベッドでリナと大変なことになっているのだ。

ヒロコの頭が真っ白になった。ヒロコの瞳は、2人の行為を見つめている。2人は、ヒロコにまったく気づかずに悶えあっている。剛は、女の胸を下からもみ上げながら腰を突き上げている。
巨大になった剛のモノが女の割れ目に、出ては入れてをくり返している。女がのけぞったときに、その横顔が見えた。それは、クラスメートのリナだった。

 なぜ冒頭にこのシーンが来るかというと、「リナ、何やってんの、あんた友達でしょ!」というヒロコに対する「友達だから借りたんじゃない」というセリフで、リナが「友達」というものをどう考えているかを、端的に示すためである。だから別にそんな激しいセックスシーンを入れる必要もないのだが、こういう描写が冒頭から出てくるのは、つまり読者への「つかみ」ということか。
 ただこれなんか、わりと普通だ。全編を通して読むと、もっと変態っぽい描写が多い。たとえば、この冒頭シーンの後、リナはさらに刺激を求めて夜の街に繰り出す。馴染みのクラブでは、友達のエミ(松嶋初音)がリナを待っていて、アメリカ帰りのDJ、洋介(黄川田将也)を紹介する。で、そのまま三人は、またまた大変なことになってしまう。あのう、映画版の配役がカッコに入っていますけど、別にこういうシーンがそのまま映画にあるわけじゃないですから。

洋介はリナを品定めするような目つきで見ている。ミニのリナは、足を広げて見せた。下には何もはいていない。
むき出しのアソコを洋介に見せつけ、指で開いて言った『舐めてよ』
洋介は、たまらず舐め始めた。リナは、エミにサインを送った。エミは、洋介の大きくなったモノを後ろからもみ始めた。エミは洋介のファスナーをおろし、くわえ始めた。そして、足を開いているエミのアソコに他の男がむしゃぶりついていた。
リナは、洋介に舐められたままイッた。洋介はエミの口の中で果てた。エミは他の男に突き上げられてイッた。

 女王様タイプのせいか、リナはとにかく男に奉仕を要求する。特に「舐めさせる」のが好きなようである。こういうアブノーマル嗜好にもベストセラーの秘密があるのだろうか。要するに渡辺淳一が売れるのと同じ理屈か。しかしだんだん、こんな引用ばかりしていていいのかという気がしてきた。

4. さらにアブノーマル


 と言いつつ、もうちょっと話を続けると、リナが洋介に「舐めさせる」だけで「やらせ」なかった理由は(って私は何を書いているのか)、洋介のような、イケメンで、いつも女にモテて、自分がくどけば絶対に女は落ちると思いこんでいる自信家は、じらせばじらすほど手玉に取りやすいことを、彼女が熟知しているからである。だから馬の前にニンジンをぶらさげるようなやり方で、コントロールするのだ。
 まあ「恋の駆け引き」の一種と言えるのかも知れない。でもリナという子は、やり方がけっこうエグい。この後も、洋介を何度か呼びつけておきながら、何もさせなかったりして、じらしにじらす。洋介は、初めて自分になびいてこない女に出会ったことで、ペースを乱され、完全にリナの術中にハマって、彼女の言いなりになる。
 病院に入院したリナは、深夜、病室から携帯をかけて、洋介にすぐ来るように言いつける。洋介が「これからDJなんだよ」なんて言おうものなら「そう、2度と来ないでね」と切ってしまう。それで洋介は、DJを友達に代わってもらったりして、消灯後の病院に駆けつける。そんな洋介に、リナは「早く、舐めて」と脚を開く。洋介が「69しようよ、俺のモノも舐めてくれない?」と訴えても聞き入れない。結局、洋介はリナの命令どおりにご奉仕するのだ。
 リナがこんなふうに自分の「奴隷」にするのは洋介だけではない。担当の看護婦に対する仕打ちもひどい。この看護婦は、いつもワガママなリナを辛抱強く看病していたけれど、ある日とうとうキレて「カワイイからって調子にのるんじゃないよ!」と病室でリナにつかみかかり、患者の前で取っ組み合いの大ゲンカをはじめてしまうのである。まあ確かに悪いのはリナだが、いくらなんでも看護婦として、これはまずいよな。なお、最近では「看護婦」ではなく「看護師」と呼ぶべきなのだが、表記は原作に準拠します。
 そして深夜、この看護婦が巡回に来るのにもかまわず、リナは洋介を呼びつけ、奉仕させる『ほら、もっともっと舐めな!』。何も知らずにやってきた若い看護婦は、この刺激的な光景を目撃して、腰を抜かしてしまう。するとリナは洋介に命じる『そこにいるメスネコに入れてやんな』。で、洋介は言われたとおりにする。

洋介の腰が動くたびに看護婦の意識が薄れていく。看護婦の目の前に、ニヤついたリナがいた。そして、リナが言い放った。
「あんたは、友達だね」
それは、リナにとって奴隷という意味だった。リナは勝ち誇ったように笑った。

 そして以降、この看護婦はリナの言いなりになるのだ。すごいでしょう。

5. あげくの果てにこんなオヤジも登場する


 こんな話、もういいよ、早く北川さんの映画の話にしようよ、という声が聞こえてきそうだが、もうひとつ、原作を語るにあたって、外せないキャラクターがいる。リナと愛人契約を結んでいるSMオヤジだ。
 病院での検査がひととおり終わって、いったん退院したリナは、その足で愛人関係にあるオヤジと会う。このオヤジは、週に1回、2時間相手をするだけで、30万払ってくれるのである。なんでそんなにくれるかというと、リナにムチ打たれて「もっといじめてください」とか喜ぶ、特殊な趣味があるからだ。
 ところがこのオヤジ、プレイが終わった後で、たまたまリナが入院していたことを知ると「そうか……病院か……うちの娘も入院しているんだ。血液の病気でね、白血病なんだ」などと告白を始めるのである。「あの子の病気は小さい頃からで……友達もいないし、遊びにも出れないんだ……。それを思うとつらくて……。こんなことで気晴らししている俺は……弱い父親だよ……」。
 難病の娘をかかえ、苦悩して、そのうさばらしにSMプレイに走る、というのも凄い話だが、さらにオヤジは、おいおい泣き出しながらセリフを続ける「でも、この間、友達が出来たってはしゃいでさ……カナエはかわいそうな子だよ」。
 それを聞いてリナはハッとする。カナエっていうのは、リナが入院中に知り合った、同室の白血病の8歳の女の子なのだ。映画では佐々木麻緒ちゃんが可憐に演じていた。そして「友達が出来た」というのは、実はリナ自身のことなのである。
 きっかけは、検査のために入院した夜、トイレに行こうとしたとき、小さなカナエが「私も、おしっこ」とついてきたことだった。無邪気な幼女だけに、さすがのリナもそう邪険には扱えず「友達に、なってくれる?」というカナエの願いを聞き入れる。入院生活が長くて、友達がいなかったカナエはすごく喜ぶ。
 その後、カナエの姿は病室から消える。元気になって退院したのかと思っていたら、リナは偶然、集中治療室のガラス張りの部屋にいるカナエを見つける。居合わせた婦長から、カナエが重い白血病であることを知らされるのだ。すでに父親から骨髄移植も受けていたが、残念ながら良い結果にはつながらなかったらしい。ガラス越しにリナを認め、手を振るカナエに、リナもぎこちなく手を振って返答する。
 結局カナエは、物語の前半で命を落とす。でも、同じようにガンと闘っているリナがショックを受けるだろうから、リナには何も伝えないでくれと言い残して死んでいくのだ。8歳なのに。マキと並んで、このカナエが、リナの心を動かす重要な役回りを演じる。その無垢で純真な少女の父親が、マゾの趣味があって、リナと愛人契約を結んでいるという設定。作者が何を訴えたいのか、もう私にはよく分かりません。
 それだけではない。その事実を知ったリナはひそかに「ニヤっと笑って」、その後この父親に電話をかけて、娘にお前の趣味をばらされたくなかったら「100万持ってきてよ」とゆするのである。
 指定されたホテルに金を持ってきたカナエの父は、リナから「ほら。1回ヤラせてあげる」と言われる。しかしその時のリナはすでに闘病中で、ホテルのベッドの枕には、治療の副作用で抜け落ちた頭髪がたくさん散らばっている。それを見たオヤジは、リナも自分の娘と同じなんだと気づき、金だけ渡して帰っていく。それでも「頼む!カナエには何も言わないでくれ!」と土下座することは忘れない。
 ひとりホテルに残ったリナは、奴隷あつかいしていたオヤジにまで憐みを受けたことに「行き場のない怒りを感じ」、髪の毛をかきむしる。すると髪がごっそり抜け落ちる。リナは「ギャー!」と叫びながら髪の毛をむしり続けて、ほとんど禿頭になってしまうのだ。
 なんかもう、リナも、カナエの父親も、どいつもこいつも狂ってる。私が映画『Dear Friends』をなかなか観る気になれなかった理由が、多少はお分かりいただけたでしょうか。

6. ようやく映画の話


 そんなわけで、いったい映画版はどうなることか気が気ではなかったんだが、幸い今回は『劇場版Deep Love アユの物語』(2004年)のように、原作者自身が自ら脚本・監督を買って出る、という事態にはならなかった。作者のYoshiは「監修」という立場にまわり、映画化にあたっての脚色はプロの手に任せられることになった。これが良かったのだと思う。脚本は三浦有為子と両沢和幸監督の共同名義。原作を読んでいて、私が「いくらなんでもこれはまずいだろう」と思った部分は、ほぼきれいに削られている。



 まず性描写は全面カット。まあこれは当然だ。いきなりリナがヒロコの彼氏と交わっている冒頭シーンも、映画版では、ことをすませた北川さんが、ベッドの上で胸までシーツを巻きつけて寝ているだけ。やれやれ。
 この冒頭で、北川景子と寝ちゃっているのが、上野亮というのがちょっと笑える。『仮面ライダー電王』で、主人公のお姉さんにぞっこんのオカルト占い師、三浦イッセー役をやっている人である。
 それから、次のクラブでの洋介とのラブシーンも、なんかVIPルームのようなところのソファで、洋介の愛撫を受けていたリナは、キスの一歩手前で「やっぱやめた。帰るわ」と、あっさり帰ってしまう。やれやれ。といっても、二人がクラブのフロアで出会って踊るシーンから、このペッティングのシーンまでは全体的にセクシーで、露骨な描写は使わずに、妖しいムードをたっぷり醸し出している。



 この日記の第70回に書いたように、実写版では火野レイがクラウンのカウンターを通り抜ける場面はほとんどなかったし、黄川田君は北川さんとほとんど共演できなかったから、そのうっぷんを存分に晴らしているようにも見えてしまう。まこちゃんがいるのに。
 ということはともかく、リナと洋介とのやりとりはクラブのシーンだけにとどめて、原作にあった、病院に呼びつけて奴隷のようなプレイを愉しむ場面は一切カット。当然、洋介に看護婦を犯させるシーンもなし。看護婦(野波麻帆)もキレたりしない、いい人だ。さらに、カナエの父親は物語から完全に姿を消した(退院のシーンとかに出ては来るが)。おかげで、リナの好感度はだいぶアップした。と言うよりも不快感が減ったという感じか。
 つまり性描写を削ったことによって、単に表現がマイルドになったというだけではなく、その性的嗜好を通して語られる、リナのアブノーマルで鬼畜なキャラクターも、大幅に緩和されたのである。北川さんのためには、エロい場面を演じないで済んだということよりも、本当はこっちの方が意味が大きかったと思う。



 たとえば終盤、片方の乳房を失ったリナは、本気で自分を愛しているという洋介の言葉を信じて、ラブホテルの一室で彼に胸を開いてみせる。だがその傷痕を目のあたりにした洋介は、リナに「悪い」と言って去っていく。作者としては、悲しく切ない場面のつもりなのかも知れないが、しかしねぇ、それまでさんざん、自分勝手に呼びつけては「もっとすすってよ」と脚を開いていたリナもリナなら、犬のようにはいつくばって舐めていた洋介も洋介なわけで、そんなのをたっぷり読まされた後では、ちっとも感情移入できないわけですよ、原作に関しては。
 しかし映画は、そういう倒錯した性描写をぜんぶ省いているので、二人の関係は現代的な若者の恋愛として、まあアリかなという範疇に収まっている。だからおずおずと胸を開いて見せるところから、洋介に去られて号泣するまでの北川さんの渾身の演技が充分に効いて、見ている側の胸に迫るのである。しかし本当に芝居がうまくなったなあ。

7. 映画版のリナの設定をめぐって


 というわけで、原作の、性的に奔放で根っからのサディストという、かなり常軌を逸したリナのキャラクターは、映画版では「ハードな不良少女」というくらいのレベルに抑えられている。原作からそのまま映画に残された、リナの身勝手さを象徴するエピソードは(1)冒頭の、クラスメートのヒロコの彼氏を寝取るシーン、(2)通学バスのなかで、視覚障害の少女(西川風花)が目の前に立っているのに、席をゆずろうとしないシーン、(3)初めて身体に異変を感じたリナが、自分は妊娠したのではないかと疑い、すぐに心当たりの男(小林且弥)を呼び出して「あんたのガキだよ、責任とってよ」と手術費用を出させるシーン、この三つくらいである。三番目についてはちょっとひどいな。結局、妊娠してないことが分かって、リナはその金でいつものクラブに行き、札びらを切ってドンペリを入れて豪遊するのである。だからこれもゆすりたかりの一種だ。



 でもまあ、最初は堕胎費用のつもりで出させた金なので、もとから恐喝目的ではなかった、とは言える。だいいち「責任とってよ」といわれて、すぐに金を払う男も男だ。私だったらまず妊娠検査薬を渡して「トイレに行ってこい」と言う。金なんかないし。いや冗談ですってば。
 ともかくこの程度だと、確かにリナはどうしようもなくワガママで自己中心的な女だが、見方を変えれば、M14さんがレビュー(後編)で書いているように、彼女は彼女なりに、自分のルールと価値観に従って生きていて、ただそれが一般社会の基準とずれているだけなのだ、と解釈することもできなくはないのである。
 また原作では、リナに同情し、闘病中のリナを応援する人物として、マキとカナエと、病院の婦長(大谷直子)、あとはただおろおろとリナの言いなりになっている母親(宮崎美子)ぐらいしか出てこない。リナの夜のお仲間で、リナを心配する人物は、原作にはひとりもいない。ヒロコは、最初に彼氏をリナに寝取られてから、ずっとリナを憎み続ける。冒頭でDJの洋介をリナに紹介したエミは、リナが夜の女王でいる間はリナにつきまとっていたが、闘病生活でリナが別人のようにやつれ果てると、離れていく。憔悴したリナが、抜け落ちた髪を隠すカツラをかぶってクラブに姿を見せ、以前のように傍若無人に「あんた、あたしのことを最高の友達だって言ってただろ」とエミに言うと、エミはキレて「はぁ?友達?今のリナに友達の価値あんの?」と返す。そして病院にリナの見舞いに来る。「ヒロコが、昔のクラブの女王がどうなったか見たいって言うからさぁ」と、ヒロコと一緒に、みじめなリナをあざ笑いにやって来るのだ。



 でも映画版のエミ(松嶋初音)は、軽薄ではあるがそれなりにリナの味方だ。可愛くて、イケてる男を手玉にとって、自立しているリナの生き方に、あこがれているような感じである。ヒロコと一緒にリナを見舞いに来る場面でも、いまはヒロコがクラブでブイブイ言わせているからヒロコについているけど、やっぱりリナが好き、という気持ちをちらちらと伺わせる。このエミの描き方ひとつで、リナの印象が原作とはだいぶ違ってくる。同性からあこがれられるような魅力ももっている少女なのだ。



 それからもう一人は、リナのなじみのクラブでバーテンをやっている仁科克基。ご存知『ウルトラマンメビウス』のアイハラ・リュウだ。これは原作にはまったく出てこない。クラブの男たちが、みんなあわよくばリナと寝たいと思っているようにしか見えないなかで、彼一人が、そういう目でリナを見ていなくて、アニキみたいな感じでリナを見守っている。そして洋介がリナを思う真剣な気持ちを、リナに伝えてやったりもするのだ。この二人の、わりとリナに好意的な人物の視点が加わることで、映画版は原作よりはるかにリナに感情移入しやすくなっている。

8. 北川景子原理主義


 このように映画版は、主人公の性格を中心に、物語全体が、わりとストレートでオーソドックスな「難病もの」の変種の形に落ち着いている。でもこの作者の小説から、過激な性描写と人物のエキセントリックな行動を抜いてしまうと、後には非常に地味で類型的な話しか残らない。となると、後はそれを「どう見せるか」という問題になってくる。つまり監督の方法論が問われるわけである。
 この作品の監督は両沢和幸。にっかつの出身らしい。テレビドラマの世界ではビッグネームで、プロデューサー・脚本・演出と何でもこなす才人だ。私はこの人の『ナースのお仕事』シリーズをよく家族と一緒に観ていた。観月ありさ主演。この日記の第92回 で書いたように、武内直子は観月ありさをモデルに火野レイのキャラクターを考えた。その火野レイを演じた北川景子が、『ナースのお仕事』を作った監督と、病院を舞台にした映画を撮っているのである。人生いろいろ因縁がある。ついでに言えば、観月ありさ主演のテレビドラマ『鬼嫁日記 いい湯だな』に出てくる尼僧(野際陽子)の坊主頭を担当した特殊メイクの江川悦子が、『Dear Friends』では北川景子のために坊主頭のカツラや胸の傷を制作した。北川景子の胸の型どりをしたのは男性ではなかったわけで、みなさま安心されよ。
 くだらぬ話ですまん。ともかく、『ナースのお仕事』で病院での撮影に慣れている、というのが、この作品が両沢監督に決まった理由のひとつではないかと思う。
 その病院のシーンも含めて、この映画は全編にわたって、手持ちカメラによる長回しが非常に目立つ。構図を決めてカメラを据えるのではなく、北川景子に演技させておいて、カメラはそれをずーっと追う、というパターンが多いのだ。北川景子が歩けば、カメラは彼女を画面の中心から外さないように、ただそれだけに注意して、ひたすらついて行く。そして北川景子が立ち止まると、カメラは回り込んで、その表情をできるだけ正面からとらえようとする。カットが割れているシーンでも、もともとはつながってるテイクを、編集で切ったような場合が多い。



 つまり監督は、この古典的で地味な物語を、凝ったカメラワークや構図などの技巧で見せるのではなく、とことん主演女優を前面に立てて、彼女自身のナマの魅力で見せていく方向で構成した。言い換えれば、北川景子の存在感と演技にすべてを託したのだ。北川さんの側から言えば、いきなり作品の成否のカギをにぎるポジションに立たされたわけだ。主演だから当然と言えば当然だが、ふつう、まだまだ新人と言ってもいい売り出し中の女優を主演に据えるなら、監督以下スタッフの側が、なんとか彼女を主演らしく盛り立てよう、とする方向で動くものである。でもこの作品では、監督は北川景子に思い切って下駄をあずけた。これはちょっとした冒険ではなかったかと思う。そして、ファンの我々でさえ驚いたことに、北川さんはその期待に十二分に応え、主演女優として見事に大役を果たしたのだ。



 病院に行こうとしないアバズレ娘に匙を投げた父親(大杉漣)が、勢いあまって「お前は、ガンなんだよ。自業自得だ、お前にお似合いの病気だ」と告知してしまったときのリナの反応、治療の副作用で髪の毛を失った少女カナエの前で「あんたと私は友達って言うか、仲間なんだよ」と言いながら、帽子を脱いで、自分もすっかり髪を失ってしまった頭を見せるときのリナの表情、そして乳房を切除した後、洋介の前で胸を開いてみせる先述のシーン、どれも原作にある場面だ。でも「それはリナが初めて見せる表情だった」「リナはぶっきらぼうに言った」「リナは決心して言った」などといった紋切り型の文章で綴られた原作に対して、この映画の北川景子の表現がどれほど豊かなものであるか、できればぜひ、原作と映像を較べて欲しい。と言いたいところだが、それでみなさんが原作を買って原作者に印税が入るのも非常に腹立たしいので、小説の方は立ち読みでもしてください。

9. 本仮屋さんも好演しています


 というあたりでレビューを終えたいが、本仮屋ユイカさん演じるマキについて一言も書いていないね。DVDのジャケットでは二人並んでいるのに。
 マキもなかなかいい芝居しています。ただ映画は、原作よりも視点をリナの方にあわせているので、マキの物語は、さらに一歩、背景に退いている。たとえば原作では、マキがリナに向かって、自分がイジメの被害者で、リストカットの常習者であったことを告白する、比較的長いモノローグがある。でも映画にそれはない。その後、病気に絶望したリナが病院の屋上から飛び降りようとするとき、駆けつけたマキがいきなりカッターナイフを出して「あたしもリナちゃんと同じ痛みを味わう!」と自分の胸を傷つける。原作を読んでいれば、ああこれはリストカット用のナイフだと分かるのだが。映画では分からない。映画でもリストカットの件は触れられるが、それは「マキはなぜカバンの中にカッターを持っていたか」の種明かしとして、後から言及されるのだ。



 あるいは原作では、リナが胸の手術を受ける場面で、実はそれを不安げに見守るマキ自身、全身の筋肉が次第に萎縮していく特殊な病気にかかっていることが明かされる。その病状が本格的に悪化してくるので、マキは手術後、リナの前から姿を消してしまう。だから、退院したリナは「なぜマキは来ないんだろう?」といぶかしんでいるが、読者は理由を知っている。でも映画ではその説明がずっと最後の方まで後回しにされて、リナがその事実を知るのと同じタイミングで観客に知らされる。
 リナを主人公としながらも、一応「リナとマキ」のお話としてまとめられた原作に対して、映画はあくまでもリナに焦点を絞っている。そんなわけでマキにはあまり触れませんでしたが、本仮屋さん、熱演でありました。
 まあとにかくそういうわけで、初めに書いたように、案じていたよりもはるかにちゃんとした映画で、私はほっと胸をなでおろした。でもこの原作者の映画に、もう北川さんには出て欲しくないのも事実だ。こっちの心労が増える。

10. おまけの謎


 ついでだ。これは劇場公開時にあったのか、それともDVDだけについているのかは分からないが、全編が終わった後、こんな奇妙な字幕が出る。

この物語はフィクションであり、登場する人物・団体等、名称は、実在のものとは関係ありません

 おかしいではないか。だって『Deep Love』の時と同様、Yoshiはこの『Dear Friends』の後書きでも、はっきり「なお、今回も物語の内容の一部は、病に倒れたある少女の実話を元に書かせていただきました」と書いているのだ。なのにその映画版が「実在のものとは関係ありません」ってどういうことだよ。と思ってもう一度この字幕をよく読んでみた。するとこの日本語、変なのだ。「登場する人物・団体等は」ではなく「登場する人物・団体等、名称は」実在のものとは関係ない、と言っているのである。つまり話の一部は実話に基づいているが、「リナ」とか「マキ」とか、あるいは「青葉会総合病院」とかの「名称は」仮名だという意味なのか。なんでわざわざこんな注意書きをつけるのだろうか。この作品がPG指定を免れたことと並ぶ謎である。よくわかんな〜い。


 遅くなりましたが、北川景子さん、21歳の誕生日おめでとうございます。こんなレビューで申し訳ない。



【作品データ】『Dear Friends ディア フレンズ』 配給:東映/製作:『Dear Friends』製作委員会/2007年2月3日公開/115分/カラー/ヴィスタ
<スタッフ>企画:中曽根千治/プロデューサー:河瀬光/監督:両沢和幸/原作:Yoshi/脚本:両沢和幸・三浦有為子/音楽:藤原いくろう/撮影:上野彰吾/照明:赤津淳一/美術:和田洋/録音:室薗剛/編集:大畑英亮
<キャスト>リナ:北川景子/マキ:本仮屋ユイカ/洋介:黄川田将也/ヒロコ:通山愛里/カナエ:佐々木麻緒/エミ:松嶋初音/バーテン:仁科克基/リナの母:宮崎美子/リナの父:大杉漣/医師:小市慢太郎/婦長:大谷直子/看護士:野波麻帆/少女時代のリナ:小林愛里香/少女時代のマキ:安藤咲良/バスのおばちゃん:根岸季衣/盲目の少女:西川風花