実写版『美少女戦士セーラームーン』ファンブログ


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【第101回】502号室記念レビュー『マスター・オブ・サンダー』(第4回)


 小松彩夏さんのお誕生日を祝って始めたこの映画感想メモも、小松彩夏がほとんど出てこないままいよいよ最終回だ。ところで、記念イベント「502号室」に参加されたぽんたさんのレポートを読んで気になったのが、会場で出たという「コマツランチ」だ 。どういうものかというと「ケチャップ味のスパサンドとクロワッサンの卵サンド。フライドポテトにケチャップ、それにサラダ」のプレートだそうですぞ。
 私は焼きそばパンというのは普通に知っていたが、スパサンドなんて気楽に言われても、そんなものが存在することさえ知らなかった。でもみんな気にならないらしい。それもちょっと驚きだったが、味も気になった。しかしぽんたさんは特にコメントされていない。MC-K3さんもそう。そしてdante-1さんのところには「この食事が、こまっちゃん考案だという話とか(ウーン・・・)」と書かれていた。(ウーン・・・)って何だろう。姫を応援する方々にとっては、あまりコメントしたくない味だったのだろうか。どなたか教えて下さい。
 はっきり言えないのなら四択でも良い。以下の四つから選んでコメント欄でお答え下さい。(1)うさぎと美奈子が観覧車で食べたショートケーキのような、うれしい味、(2)鴨川の海岸でうさぎが衛と半分コした肉まんのような、切ない味、(3)うさぎのママが作ったゴーヤオムレツアボガドソース入りのような、ありがた迷惑な味、(4)ダーク・キングダムで衛が黒木ミオと食べた鶏の足のような、もうどうにでもなれという味。

1. 出生の秘密


 ほとんど人里離れた山寺で、和尚の言いつけを守って育ってきたアユミは、世間ズレしていない純朴な娘だ。だから山を降りて街に出るときも、中が見えちゃうくらい短いスカートを平気ではいていくし、街を歩けばすぐに自動車に跳ねとばされるくらい無防備である(そういうことなのか?)。
 そんなアユミといちばん打ち解けるのが、たぶん都会育ちの、ケンカ上等のヤンキー娘アンナ。まあ色々な経験をしてきたに違いないが、芯のところはスレていない一本気で、そのへんがアユミと通じ合う。この二人が、夜、寝る前とか、昼、練習の合間とかに、まるで学校の昼休みや合宿の夜みたいな感じでしゃべりあうシーンは、この映画の青春ドラマ的なパートのなかで、私が最も好きな場面だ。
 最初の修行を終えた夜、アユミとアンナが縁側で話をしている。

アンナ「……あたしはてっきり、お前のじいちゃんかと思ってた、あの三徳和尚」
アユミ「そんなわけないじゃん。あたしの両親、あたしのちっちゃいころに死んじゃってるし、じいちゃんの話とか、聞いたことないもん」
アンナ「お前、けっこうヘビーな話、フツーの顔で話すのな。……それにしてもあれだよ。そんな、孫でもなんでもないガキ、預かるわけないじゃん」
アユミ「うん…」

 我々も、ここまではアユミが倉田保昭の孫だとばかり思いこんでいた。そう思っていたから、アユミも入れて七人になったところで「青龍の七人衆を継ぐ者たちが揃った」と思ったのだ。でも実はそうではない。アユミは単に、物ごころつかない幼児のころから、この寺に預けられ、倉田保昭の手で育てられた少女らしいのだ。
 しかし、アンナの言うように、いくら慈悲ぶかい僧侶だとしても、男やもめの倉田和尚が「孫でもなんでもないガキ」を寺に預かって育てる、というのもおかしな話だ。きっとそこには理由があるにちがいない。アユミもそれはうすうす感づいていて、でも正面切って倉田和尚には聞けない。いまさらながら自分の出自を知るのがちょっと怖い気持ちもある。そういう気持ちが、最後の「うん」というためらいがちの返事にこめられている。
 アユミはいったい誰なのか?それはすぐ分かる。というのも、事態は急転直下、松村雄基扮する篁の怨霊が、深夜の桔梗院の境内にあらわれ、たまたま外をぶらぶらしながら考え事をしていたアユミに襲いかかったからだ。その時、松村雄基はアユミの面影に「源流…」とつぶやく。
 我々としては、ボーイッシュで爽やかで綺麗でセクシーな木下あゆ美と、歩く男性ホルモン千葉真一のどこに共通点があるのか、と思ってしまうが、そこはさすが冥界の存在、アユミが源流の血を継ぐ者であることを瞬時に見抜いてしまうのである。そう、アユミは倉田和尚の兄弟子、源流(千葉真一)の孫だったのだ。

2. ヤツなら仕方がない


 しかしそうするとですね、自分の妹を愛してしまい、そのせいで妹が篁の怨霊に殺されたという懺悔の念から山を捨て、放浪の旅に出たはずの源流和尚は、独り身を貫いていたと思いきや、実はちゃっかりどこかにしけこんで子供を作っていたことになる。そうじゃなきゃ血を分けた孫のアユミが生まれるわけないもんね。
 でもこれは、意外でも何でもない。少なくとも私は全然OKだ。そもそも小学生時代の私にとって、千葉真一って全然アクションスターじゃなかったもんな。『逆襲!殺人拳』(1974年、小沢茂弘)で、池玲子のあからさまな色仕掛けにも平然とベッドを共にした「据え膳は食う主義」のヒーロー、『けんか空手 極真拳』(1975年、山口和彦監督)で、修行中の身でありながら我慢できず多岐川裕美を襲ってしまった大山倍達、『トラック野郎 度胸一番星』(1977年)で、シャワーを浴びているところを後ろから夏樹陽子に抱きつかれ、逆に激しくむしゃぶりついていったトラック野郎のライバル、タンクローリー運転手、私の記憶の中の千葉真一はいつだって「やりまくる男」だった。そしてまだ成人映画を観に行けなかった私は、そういう千葉ちゃんのやりまくり人生を手本に将来を生きていこうと、食い入るようにスクリーンを観ていたのだ。かなわぬ夢であった。ということはどうでもいいが、ともかくそういうわけで、千葉真一に孫の20人や30人くらいいても、私はまったく動じませんぞ。むしろこの映画にアユミしか出てこないことが不思議なくらいだ。
 物語に戻る。松村雄基の怨霊は、倉田保昭を弟子の七人もろとも倒してしまうために桔梗院に姿を現したようなのだが、アユミの姿を見て考えを変える。ここで倉田たちを殲滅できても、もう一人「鬼封じの法」を知っている手強い相手がいる。今はどこにいるとも知れない千葉真一だ。だから倉田やアユミたちをすぐには殺さず、彼らを餌に、千葉真一をおびき出す作戦に変更だ。とくにアユミは千葉の孫娘だ。かつて妹を失った千葉は、今度はアユミの命が危ないとなれば、必ず姿をあらわすに違いない。と言うわけで、松村は不敵な笑いと共に一時撤退する。
 アユミの悲鳴にかけつけた若者たちは、魔法のように消えて、鳥の姿になって散っていく松村の怨霊に茫然としている。

三 徳「ヤツが小野篁。封印を解こうとわしらを狙っている怨霊だ」
アンナ「じゃあ、あいつが本物?」
カオリ「怨霊って、ホントだったんだ」
コースケ「実写版?てか、本物?」

 う〜ん。「実写版?」のセリフはぜひカオリ(小松彩夏)に振って欲しかったよ谷垣監督。

3. 世界のソニー千葉、その優秀の美を看取った美少女戦士


 この後、実は倉田和尚は千葉真一の所在を知っていて、アユミを連れて、どこかの山小屋で隠遁生活を送っている千葉のもとを訪ねて協力を仰ぐ、というエピソードが挿入される。おそらく、アユミを引き取ったときに、居場所を教えてもらったんでしょうね。
 山小屋の奥、千葉真一は黙々と木彫りの仏像を彫っている。倉田和尚に「挨拶しろ」と言われて「アユミです」と頭を下げるアユミ。その名にハッと振り返り、成長した孫娘の顔をしばし見入る千葉。だが、視線は再び手もとの仏像に戻る。
 倉田は「この娘、アユミを初めとして、七人の若者がいま、厳しい修行に励んでおります。封印を守る戦いをしようと…かつての我々と同じように」と言う。あんたの孫が七人の仲間を集めて頑張っているのだから、どうか力添えをしてやってくれないか、と懇願しているのだ。だが千葉の答えはにべもない「何度も言うようだが、わしは世を捨てた身。今さら何も言う資格はないが、ただ、若者たちを傷つけるな。篁の相手ではない」。
 「相手ではない」と一蹴されてむっとするアユミだが、そんなアユミを外で待たせておいて、倉田はさらに説得を続ける「確かにまだまだ修行は足りないかも知れません。しかしあの子には不思議な力を感じるのです。いや、アユミだけでなく、他の子どもたちにも、そんな力を感じるのです。あの子たちに賭けてみたい。今はそう思っております。源流和尚、私に、いえ、あの子たちに力を貸してください」。が、やはり千葉は動かない「今の私になにができる。すまぬ三徳、悪霊と戦う力など、もはやあろうはずもない」
 説得に失敗して、小屋を出た倉田和尚は、外で腰かけて待っていたアユミの傍らに座る「あれでもいい人なんだ」。「どこがですか」と反撥するアユミに、倉田は「これ」と、ふところから小さな仏像を取り出して、アユミに渡す。さっき千葉ちゃんが彫っていた木彫りの仏像である。「いらないです。こんなの」「いいから持っておけ、おじいちゃんが作ったもんだ」ここで初めて、アユミは自分の祖父が誰であるかを知るのだ。
 倉田保昭は上手いなあ。前々回の日記で、私はこの人の「相手を受ける」芝居の幅が、ビデオシリーズ『静かなるドン』で非常に広がったと書いたが、考えてみれば倉田保昭って、1970年代の香港映画や台湾映画でも、ずーっと悪役のトップを張ってきたのだ。悪役というのは、存在感がなくてもダメ、主役を食ってもダメという「受け」の芝居のプロ中のプロみたいなもんである。ここでも、ベテラン千葉真一と新人木下あゆ美、両者の相手を実に上手にこなしている。これは若者たちにとって良い勉強になったのではないだろうか。小松さんは何かを学べたのかな。
 一方、千葉真一の演技から何かを学ぶのは難しいね。今回の引退宣言によれば、もうこの名義では俳優活動をしないということだが、そうすると「千葉真一」としての映画出演は2006年の 2作品、つまりこの『マスター・オブ・サンダー』と、それから『ワイルドスピード3 TOKYO DRIFT』をもって打ち止め、ということになる。二人の元セーラー戦士が、ワン・アンド・オンリーなアクションスターの最後のスクリーンにつき合ったわけで、私などはやはりその事実に、ある種の感慨をおぼえてしまう。でもおそらく、当人たちは何とも思っていない。北川さんは、アメリカでの撮影の晩、向こうのスタッフやキャストを日本食レストランに招待するからと千葉真一に誘われ、サングラスをかけて出かけたら「サングラスっていうのは夜かけるもんじゃない」と説教されたとか言っていた。小松彩夏は、千葉さんについて、なんか言ってましたでしょうか。たぶん何も言っていないんじゃないかな。ていうか、宣伝素材の撮影とかプロモーションでは顔を合わせたかも知れないが、映画本編のなかでは、同じ画面に映ったシーンはない。ほとんど会っていないのではないかと思う。

4. さあいよいよクライマックスだぞ


 その夜、今度は中村浩二の悪鬼が桔梗院に現れ、倉田和尚を襲い、倉田アクションクラブの師匠二人による見応えのある対戦シーンが始まる。たまたまそれを見かけた小松彩夏が仲間を呼びにいって、駆けつけた七人は倒された和尚を助けようと悪鬼に組みつくが、あっさり吹き飛ばされる。悪鬼は、血を吐いて動かなくなった倉田を引きずり、去っていく。さらには、映画冒頭の大格闘シーンの唯一の生き残りで、これまで倉田和尚と共に七人の修行を指導してきた若い僧イサムも、松村雄基の怨霊に操られてしまって「アユミ、篁さまはお前を待っている」というメッセージを残し、闇に消えて行く。
 夜が明け、頼りとしていた師匠を連れ去られ茫然としている七人。諦めムードが漂うが、しかしカオリ(小松彩夏)は「何か悔しい、ここまできてギブアップするの」と、まだ完全にギブアップしたわけではない。その時、ミカ(芳賀優里亜)は地面に散らばっていたお札を見つける。倉田和尚が七人のために書いたお札だった。「ちゃんと弟子って認めてくれていたんだ」
 これで七人はちょっと元気を取り戻す。そこでミカが活路を見いだす「初七日って言うでしょ、人が死んで、魂が奪われるまでには七日かかる。だから三徳和尚も七日以内に助ければ!」「和尚、助かるのか」「必死で修行すれば、今よりももっと強くなりますね」「バージョンアップね」という最後のセリフは小松さんだ。なんだか分かったような分からないような理屈だが、ともかくこれから七日間、特訓に特訓を重ねて、五重塔に連れ去られた和尚を助けようと決意をするのだ。「般若波羅蜜、仏教の教え。修行の基本は智慧。そう、三人寄れば文殊の智慧、七人寄ったら、何でもできる!」
 ということで、「日々是決戦」の貼り紙をして、特別自主トレに入る。メニューはウサギ跳びやって逆立ちしてお札を書いてタイヤを引っ張ってランニング。それで五重塔のところにやってくるまで、DVDで計1分ちょっと。早いね。とにかく若者たちの修行シーンがものすごく少ないのがこの映画の特徴なのだ。
 不吉な暗雲たれ込め雷鳴とどろく中、和尚を拉致した小野篁の怨霊と悪鬼が待ちかまえている五重塔を見上げる七人の若者。で、この五重塔の構造が、入ってみるとおかしなことになっているのだ。普通だったら、塔の各階にトラップや敵が待ちかまえていて、ラスボスは最上階にいるはずですよね。でも違う。アンナいわく「階段がないんだよ!」
 そう、この五重塔は、塔とは見かけ倒しで、実は上に昇る階段がない。敵も上階にはいないのだ。これはいったいどういうことなのか。というところで唐突ですが、ちょっとここで1970年代の有名なパニック映画の話をしてみたい。

5. なぜ五重塔には階段がなかったのか


 1970年。ロスに道場を開き、ハリウッドのアクションスターなどを門弟に迎えて、世界進出のための準備を着々と進めていたブルース・リーは、弟子のアクション俳優ジェームズ・コバーンや脚本家スターリング・シリファントらと、『サイレント・フルート』という映画を企画した。「沈黙のフルート」と呼ばれる伝説の秘宝が隠された洞窟に、主人公たちが乗り込んでいく、という話だ。その洞窟は、迷路のように狭く枝分かれしていて、しかもあちこちに地下水がたまって、そこを潜らないと通過できないような構造になっている。主人公たちは、そういう自然の危険なトラップにひっかかって、負傷したり命を落としたり、メンバーを少しずつ減らしながらお宝を目指す。今日のいわゆるダンジョン・ゲームを先取りしたような内容である。
 結局この映画の企画は流れたが、シリファントはその後、ポール・ギャリコの小説『ポセイドン・アドベンチャー』の映画化台本を手がけるにあたって、この時のアイデアを活用することを思いたち、直接ブルース・リーから承諾を得ている。
 『ポセイドン・アドベンチャー』(1972年、ロナルド・ニーム)は、豪華客船ポセイドン号が津波にあって転覆してしまう話だ。ダイニングルームにいて生き残ったわずかな乗客や船員たちのなかには、運を天にまかせ、ただその場で救出を待つ者もいれば、生き残るために脱出すべく行動を起こす者もいる。ギャリコの原作は、極限状況で起こる様々な人間の反応や、人生観、宗教観を描き出すことにウェイトを置いている(らしい。読んでいない)。シリファントはそのような心理描写も活かしながら、一種のサバイバル・ゲームみたいなハラハラドキドキで観客を引っ張る娯楽映画として脚本を仕上げた。ジーン・ハックマン演ずる牧師に率いられた脱出グループが、逆さまにひっくり返ってあちこちに水のたまった船内を、じりじりと上へ向かって降りていく、というか、船底の方へ向かって昇っていく。その途中にはさまざまな障害があって、脱落者が出ていく。はたして最後まで生き伸びるのは誰か、なんて、おそらくあらすじを紹介しなくてもご存知の方も多いでしょうね。このへんの脱出プロセスに『サイレント・フルート』のゲーム的アイデアがプラスされているらしい。
 一方、ブルース・リーは、たぶんこの『ポセイドン・アドベンチャー』の「ひっくり返す」というところにひとつの着想を得たと思うのだが、「障害をクリアしながら最下層の財宝を目指して洞窟を降りていく」という『サイレント・フルート』のアイデアを、「最上段のお宝を目指して塔を昇っていく」というふうにひっくり返して『死亡遊戯』の企画を立てた。1972年後半のことだ。
 『死亡遊技』のオリジナルストーリーはこんな感じだ。格闘家の主人公が妻子を誘拐される。犯人たちの要求は、ある五重塔の最上階に昇って、財宝の在りかを示す地図をとってこい、というものだ。この塔の入り口には金属探知器と連動した特殊な仕掛けがしてあって、銃器などの飛び道具を持ち込めない。そして各階ごとに、フィリピンの棒術使いとか、テコンドーの達人とか、めちゃくちゃ強い格闘家の刺客が待っているので、悪党たちには手が出せないのである。家族の命を守るために、ブルース・リーは何人かの助っ人を集め、五重塔に挑む。
 撮影はクライマックスの五重塔の対決から開始された。ところがその途中、ハリウッドから、かねてからの念願だった『燃えよドラゴン』(1973年、ロバート・クローズ)の企画にGOサインが出たという知らせが舞い込む。ブルース・リーはただちにアメリカに飛び、そして『燃えよドラゴン』の完成後間もなく還らぬ人となった。そのため『死亡遊戯』は未完に終わる(後に『燃えよドラゴン』の監督が、残されたフィルムの一部と、後は吹き替えの役者を使って『死亡遊戯』を完成しているが、ここに紹介した内容とは話が異なっている)。
 ついでだが、スターリング・シリファントは、その後『ポセイドン・アドベンチャー』と並ぶ1970年代パニック映画の代表作『タワーリング・インフェルノ』(1974年、ジョン・ギラーミン)の脚本も書いている。これには原作がふたつある。高層ビル火災をテーマにした同じような2つの小説を、20世紀FOXとワーナー・ブラザースがほぼ同時期に映画化しようとして、結局、客の食い合いにならないよう企画を合体させ、両者が共同出資して1本を制作することになった超大作だ。138階建て超高層ビルの最上階展望台で落成記念パーティーが開かれる。ところが配電盤ヒューズの手抜き工事のせいでビルは中程から燃え上がり、豪華な高層ビルは一転「そびえたつ地獄」と化す、という話だが、塔(のようにそびえたつ建造物)を舞台にしたサバイバル劇という意味で、なんとなく『死亡遊戯』を連想してしまうあたりが奇縁である。

6. みなさんは渋江君のブログを読んでいますか?


 話が長くなってしまって恐縮ですが『マスター・オブ・サンダー』のクライマックスの舞台、五重塔の意味を理解するには、これだけの教養が必要だ。いや別に必要でもないのかな。ともかく、七人の若者が、いざ五重塔に挑もうとする。ここで観客は当然(かどうかは知らないが)「これは『死亡遊戯』の五重の塔だな」と思うはずだ。各階に格闘技の達人が待ちかまえていて、下の階から順々に戦って行くうちに、敵に倒されて七人が六人、五人と減ってゆく。最も手強い中村浩二の悪鬼を倒したときには、残っているのはアユミだけだ。彼女ひとりが最上階にたどり着くと、そこに松村雄基と倉田保昭がいて、でもそのあたりで千葉真一が出てこなくちゃいかんなあ、という感じ。
 ところが、最初に入った一階で小松彩夏と椿隆之が敵との戦いを引き受けている間に、ほかのメンバーは上階に昇る階段を探すのだが、これが見つからない。代わりにアユミが、地下に通じるダストシュートのような穴を発見して、そこをすべり降りていくのである。ここで、画面は五重塔の地下を断面図で映し出す。これが夏休みの一研究のアリの飼育セットみたいな断面図で、地下への道がいくつも枝分かれしていて、敵はそっちに控えているのだ。
 そういえばエンディミオン渋江譲二くんは、一時期とても熱心に自宅のアリ飼育記録を報告をしていたけれど、6月1日のブログを最後に話題に出てきていませんね。どうなったのか心配しています。それからついでに、6月27日のブログで『トリプルファイター』のDVDジャケットに「ファイターが4人いる」と突っ込んでますが、これは3人が合体すると真ん中のヤツになるってことですから。きっとそのうち円谷プロからも仕事が来ると思うから、いまのうち勉強しておこうね。
 またも余談になったが、結局、敵の本拠地は地下の迷路にあるわけで、つまりこれは、外観は『死亡遊戯』の五重塔、でも実はそのアイデアの原型となった『サイレント・フルート』のダンジョンや、それを応用した『ポセイドン・アドベンチャー』のように、底へ向かって「降りていく」構造になっていました、というマニア向けのオチなのである。しかも前回の日記に書いたように、もともと小野篁という人は、井戸から黄泉の国に降りて閻魔大王とコンタクトをとっていたという伝説なのだから、当然、この世とあの世の通路は地下の穴ぼこにあるべきだよね、ということでもある。

7. 大団円


 だから、五重塔を見せつけておいて、実際には地下に降りて行くという一種のはぐらかしに対しては「じゃあ何のための五重塔なんだ!」という突っ込みはしない。私にとっては、それはそれで「なるほどそういうことね」と納得のいく展開なのである。落っこちた先が、洞窟ではなく、デカレンジャーやボウケンジャーのロケにも使われていた高崎市阿久津水処理センターなのも、予算とか考えると仕方ないだろう。
 ただしここから先、この作品が『死亡遊戯』のパターンを踏まない点については注意しておきたい。つまり「黄泉の入り口」へのルートが一本で、その途中途中に敵がいて、若者たちが順々に戦いを挑んで倒れながら、ひとつづつクリアして、最後は主人公のアユミひとりになってラスボスのところにいたる、という流れにはなっていない。
 最初に入ったエントランスホールにはちびっ子たちが待ちかまえている。カオリ(小松彩夏)とトオル(椿隆之)がこの子たちを引き受けて時間を稼ぎ、残りのメンバーに先を急がせる。で、アユミたちが地下への穴を見つけて滑り落ちていくと、この穴が枝分かれしていて、ミカ(芳賀優里亜)とコースケ(平中功治)は、ヒンズーシスターズという二人組の美少女キョンシーがいる部屋へ、そしてアユミとアンナはさらに奥まで進んで、そこに待ちかまえていた中村浩二の悪鬼と戦うのである。アポロ(アドゴニー)はこの時点でいなくなる。つまり、地上の小松さんたちを含め、いきなり別々の場所で三つのバトルが同時進行するのだ。
 それぞれの戦いぶりについては、前回の日記に詳しく述べたのでここでは割愛する。問題は、なぜ戦いを順々に描くのではなく、同時進行にしたのか、ということだが、これはおそらく、千葉真一の出し方が絡んでいるのではないだろうか。
 この映画のラストバトルはやはり、倉田保昭と千葉真一の一騎打ちである。拉致された倉田保昭は、すでに身体を松村雄基の怨霊に乗っ取られ、メタリア化したエンディミオンのように、最凶の悪役と化している。そこへ千葉真一がやって来て戦いを挑む。怨霊が取り憑くことで、ここまでおとぼけ演技で映画を引っ張ってきた倉田に、往年の悪役スターの凄みのある相貌が戻り、三顧の礼で迎えた千葉真一は、きっちりヒーローとなることができて、文字通りの夢の対決だ。
 このアイデアには唸った。私は「千葉VS倉田」という宣伝文句を、実はかなり疑っていたのだ。直接対決は前半にチラッとあるだけで、クライマックスでは千葉・倉田が力をあわせて(最悪の場合それぞれ別個に)敵と戦う、という、つまり東映まんがまつりの『マジンガーZ対デビルマン』みたいな構成を予想していたのである。だからこれは嬉しかった。前回は色々ケチをつけたが、この一点においては、両巨頭の媒酌人をやった谷垣監督に、心から感謝したい。
 ともかく、そういう夢の対戦を実現するためには、千葉真一も五重塔にやって来なくてはいけない。が、地下のルートを一本にしておくと、どうしても千葉和尚は、若者たちがすでに通った道を後追いをすることになってしまう。ところがそれだと、みんなが戦い終わった後からノコノコやって来るか、さもなくば追いついて途中で助っ人するしかない。
 でも千葉の登場は満を持して最後の最後に持っていきたいし、あまりザコの相手をさせるのはもったいない。それに若者たちも、厳しい修行の結果、みんな独力で敵と戦えるほど強くなったんだ、というところを見せたい(ほんとうはそれほどでもないけれど)。というわけで、みんながそれぞれ別個に戦っているドサクサに紛れて、千葉真一はどこかから入ってきて、最短ルートで黄泉の国の入り口までやって来る。本当に、どこから入ってきたのでしょう。
 松村雄基の怨霊と、彼に操られてダーク化した倉田保昭がいる最後の間、黄泉との通路がある部屋の扉。その扉の前には中村浩二の悪鬼がどんと構えている。たどりついたアユミとアンナは果敢に戦いを挑むが、さすがに強い。これはかなわない、せめて時間稼ぎをするのみ、と悟ったアンナは、アユミが軽々と投げ飛ばされた隙をついて悪鬼にタックルをかけ、胴体にしがみついたまま叫ぶ「アユミ、早く行け!いいか、あたしはな、タイマンだったら負け知らずなんだよ!」後ろ髪を引かれながらも、アンナの熱い想いに、アユミは扉を開けて先へと進む。
 残されたアンナは、何とか悪鬼を食い止めようと頭突き勝負を挑むが、力尽きて倒れる。悪鬼は咆哮してアユミの後を追い、襲いかかる。ここでようやく千葉真一の登場だ。『少林寺拳法』(1975年東映、鈴木則文)の宗道臣のときと同じ装束で、頭に荒縄を巻いているのがたまらない。何でまた荒縄を?
 ここから後、悪鬼の中村浩二VS千葉真一、そしてメタリア倉田保昭VS千葉真一、『般若心経』を唱えながらのバトルは、言うことありません。ベースは倉田保昭の香港映画系アクションで、しかし随所に千葉真一のアクション。これはもう新たな伝説の誕生である。アユミの方も、もう一勝負あるが、これもかなり頑張っている。しかしセットがむちゃくちゃにショボい。倉田保昭に投げ飛ばされたはずみに、千葉真一があっさりぶち壊してしまうほどのショボさだが、まあいいや。最後は、メタリアエンディミオンがセーラームーンに刺し貫かれたAct.48と同じ趣向。つまり、妹を愛し、愛したが故に失ったという同じ悲しみを共有する千葉真一が、倉田保昭を支配していた松村雄基の怨霊を体内に取り込んでメタリア化し、孫娘アユミの剣に貫かれて燃えあがり、自らの身体を犠牲に、松村を成仏させてやる。究極の「鬼封じの法」である。もちろん千葉の全身を包む炎はCGで合成されているんだが、千葉真一は最後まで「本物の火を使いたい」と言い張って監督を困らせたそうです。
 千葉が消え去ったあと、ぽつんと「おじいちゃん」とつぶやくアユミの涙がとても美しい。結局これは、木下あゆ美の映画なのだ。


 あとエンドタイトルのNG&未使用シーンのこととか、若き日の千葉と倉田を演じている岡田秀樹と竹財輝之助のがんばりぶりとか、特典映像としてついている千葉・倉田インタビューの、千葉真一の吼えっぷりがめちゃくちゃ面白いとか、そういうのも紹介したかったのですが、いい加減このくらいにしておきますね。
 谷垣監督は、「監督」としての仕事はこれからもけっこう辛いと思う。たとえば来春、角川から『カンフーくん』という映画が全国配給される。泉ピン子が中華料理店「幸楽」のおかみさんでカンフーの使い手という話だ(店名については橋田先生の許諾を正式に得ている)。個人的には、これがヒットすると「和製カンフー映画」というトレンドができて夏の『少林少女』への起爆剤となるから、大いに期待している。でもこの映画の監督は小田一生。つまり、まとまった資本と時間のかかった映画の場合、谷垣健治は「アクション監督」としてのみ起用され、本編の監督は、ちゃんと別にいるのだ。そして、予算もスケジュールもないビデオ作品になると「監督と別にアクション監督なんて雇えないよ」「じゃ谷垣だ」というわけで、一人分のギャラ(それも安め)で二役に使える、という経済的な理由から、谷垣健治に監督のチャンスが回ってくる。今後もこういうパターンがしばらく続くと思う。そういう意味では大変だとは思うが、まあ人生そんなもんだ。それに、コネもなければ広東語も分からないのに、50万円の預金通帳だけを片手に香港へ渡って、いまの地点まで来た谷垣健治なら、そんなことでへこたれないと思う。勝負はこれからでございます。(劇終)