実写版『美少女戦士セーラームーン』ファンブログ


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【第88回】Act.ZEROとSpecial Actを考える<序説>


 2007年5月4日に亡くなられた阿知波信さんのご冥福をお祈りします。さようなら、『ウルトラセブン』のソガ隊員。享年67。ウルトラ警備隊としてはキリヤマ隊長こと中山昭二氏(1998年12月1日逝去)に次ぐ物故者である。

1. 35人ウルトラマン勢揃い


 行ってきましたよ中日劇場、史上初、全ウルトラマン35体がステージに勢揃いするという売り文句の「ウルトラマンプレミアステージ」。私は初日の5月2日夜の部。こっちよ!さんは4日の公演に見えたそうです。
 内容は、恒例の「ウルトラマンファンタジックライブ」なんかと同じく2部構成。第1部は、進行役のお姉さんたちの登場から始まり、歌やアトラクションを中心に進む。そして第2部が、ウルトラマンと怪獣のバトルをメインとするドラマである。ただ、どっちもやたらと長い。第1部は手品入りのコンサートと抽選会だったのだが、歌のなかには出光のコマーシャルソングがあったし、座席番号でオモチャが当たる抽選会では「提供のバンダイさんに拍手!」を強要されるし、もう大人の事情だらけ。でも子どもたちが飽きてきたところで、タイミングを計ったかのように怪獣をぞろぞろ花道に出して興味を引っ張るあたりは、さすがに上手い。
 その後の休憩がこれまた長い。30分くらいあったんじゃないか。とはいえ、1400席もある劇場に子どもたちが満杯なので、おやつとかトイレとか、そのくらいの時間は必要であった。中日劇場の男子用トイレは大人向けの「朝顔型」なので、幼稚園児くらいの子は届かない。だからみんな、親が宙づりにしておしっこさせてたぞ。うちもそう。なんか変な光景。
 ようやく始まった第2部は、いつにも増して本格的なドラマ。なにしろ演出は北浦嗣巳だし、GUYSからは アイハラ・リュウ隊長(仁科克基)、イカルガ・ジョージ隊員(渡辺大輔)、アマガイ・コノミ隊員(平田弥里)、それにハヤタ・シン(黒部進)とモロボシ・ダン(森次晃嗣)まで出演しているのだ。
 仁科克基という人は、やはり生まれ育った環境のなせる業だろうか、役者としての存在感が群を抜いていたと思う。テレビシリーズ最終回は、それまで赤いカラーの襟元をきちんと閉めず、だらんとはだけていたことも多かったリュウが、白いカラーの隊長服のジッパーをきっちり閉め、GUYS新隊長として、緊張感の入り交じった笑顔で任務に向かう、という印象的なカットで終わっていた。今回の舞台劇は、いわばそのアイハラ新隊長ひきいるGUYSの後日談である。そういう、主役ともいえるポジションを仁科克基は十分にこなし、ちょっとした風格すら漂わせていた。『Dear Friends』はどうだったんでしょうね。
 そして渡辺大輔のイカルガ・ジョージ。風貌からいえば、やんちゃ坊主ふうのリュウよりも彼の方が大人びているはずなのだが、役者としてはむしろこっちが新人っぽさを感じさせて、その対比がちょっとおかしかった。私が観た回ではいきなり最初のセリフを噛んでいたし。でも、たぶんこんなデカイ舞台は初めてのはずなのに、すごくしっかり声が通っていたし、この人は案外、舞台向けなのではないかと思わせた。
 ただ、マリナ隊員もテッペイ隊員も、それぞれ本来の進路だったレース界や医者への道へ戻って、もうGUYSを辞めているのに、彼だけサッカー界に復帰しないで居残りっていう設定は、可哀相な気もした。が、休憩ロビーに渡辺大輔ファンクラブの会員募集ブースが設けられていたから、本人的には良いのか。
 平田弥里のアマガイ・コノミは、保育士の仕事に復帰しつつGUYS隊員も兼業、ということらしい。なぜ保育士もやっているかというと、人間だけではなく宇宙人の子どもたちも引き取っている保育園に勤めているんですね。最初はエプロン姿の保育園の先生姿で登場して、あとからおなじみの制服で再登場というサービスぶりである。それだけに、後半さらに、グラビアでおなじみの水着姿にお色直しをしてくれなかったことが惜しまれる。いつものファンタジックライブだと、MCのお姉さんが舞台ソデで何度も、子どもたちに「ウルトラマン、ガンバレー!」のかけ声をかけさせてテンションを上げるのだが、今回はそれがなくて、代わりに一度だけコノミが、客席に向かってメビウスへの応援を求める場面がある。これはかなり盛り上がったぞ。
 黒部進と森次晃嗣に関しては、もう居てくださるだけでありがたい。ちゃんと二人の変身シーンを入れたスタッフも偉大である。どちらかというと森次晃嗣が、座長というか、みんなを束ねて引っ張る役で、黒部進はその脇で好き勝手をやっている、という感じだったのがおかしかった。あくまで印象だけど。そして子供が喜ぶバトルシーンは、「全ウルトラマン初競演」をうたうだけあって、とにかく大量のウルトラマンと怪獣が出たり入ったりで、感心を通り越して、ほとんど呆れた。バルタン星人も分身の術をしていたし、一体どのくらいの数の「中の人」がいたのだろう。こういう「プァーッと歴代ウルトラマン全部出して、中日劇場の大舞台でやりゃー、みんなおったまげるでよー」という発想は、やはり名古屋のものだと思う。もっとも、さすがに35人のウルトラマン全員が一度に勢揃いしたのはカーテンコールだけだったが。
 というわけで、ミライ役の五十嵐君は出てこなかったが、メビウスの声はちゃんと彼が当てていたし、楽しめましたかと言われれば、十分に楽しめた。


 もっとも、物語の内容は、多少の問題なしとしない。3月に終わった『ウルトラマンメビウス』の最終回3部作で、メビウスとクルーGUYSは、総力を尽くして最大の敵、エンペラー星人と戦った。以前メビウスに果たし合いを挑んだ宇宙の剣豪ザムシャーも、地球を救うために駆けつけて命を落とした。とにかく壮絶な戦いの末に、みんなで地球の平和を守ったのである。ところが今回のプレミアステージは、そのエンペラー星人が「あんな戦いで私を倒せたと思ったら大間違いだ」と復活して、再び地球に危機が訪れる、という話なのだ。いいのか?そんなに簡単に復活して。
 もちろん、「全ウルトラマン登場」という縛りがある以上、チマチマした外伝的ストーリーでは収まりがつかない。敵だってそれにふさわしいスケールの、強力な大物でなくちゃならない。となると、エンペラー星人が実は生きていた、ぐらいのインパクトが必要だ。それは分る。でもやはり思うのだ。だったら、あのテレビの最終回は何だったのか?
 ご存知の方はご存知だろうが、番組放送終了後のファン感謝イベントが恒例となっているライダーやスーパー戦隊ものと違って、円谷プロ関係のウルトラマンライブショーの舞台に、テレビ版の俳優が出たことは、実はこれまでほとんどない。着ぐるみ、スーツアクターだけだ。だから番組内で滅んだはずの悪役が出てきても、世界観が違うはずのウルトラマンが共闘しても、それはそれで、番外編のショーと割り切って楽しめる。しかし今回の舞台は、アイハラ・リュウ本人が、隊長のしるしである白いカラーの制服を着て登場する。だから我々は、どうしてもこの物語を、テレビの『メビウス』の後日談として意識せざるを得ない。それがいつもと違うところだ。一体なぜ、今回だけそのような特別仕様だったのだろう。
 私が目にしたあるブログでは、この舞台は、夏に劇場版『メビウス2』を公開するための「つなぎ」なのではないかという推測が語られていた。作夏の劇場版もまずまずの成績だったというし、ありえない話ではないが、どうなんだか。
 まあ、そうは言っても、全ウルトラマン集合だ。テレビの方は、ウルトラマン80以降の、グレートとかティガとかゼアスとかネクサスとか、そういうのは「なかったこと」になっている世界なのだが、この舞台にはぜんぶ出てくる。だからこれは、一種のパラレルワールドのお話みたいなものだ、と考えて納得すれば良いだけの話だ。俳優のみなさんも「お祭り」と割り切って楽しんでおられたようですし。


 3時間以上にわたる公演で、舞台がハネて中日劇場を出ると、あたりはもう暗くなっていた。ほとんど瞬きもせずに見入っていた息子がくたびれ切った様子なので、だっこして帰りの電車に乗ったら、途中で眠ってしまっていた。行きの電車のなかではあれほど興奮してしゃべり続けていたのにね。そんなわけで私はぼんやり「まあ、今回のは壮大な番外編だったな」と納得することにして、それからなぜか『仮面ライダーアギト』のことを思い出した。私は1作目の『クウガ』をちゃんと観ることができなかったので、『アギト』放送開始直後に起こった騒動については、だいぶ後になってから知った。ご存知の方も多いとは思うが、実写版を考えるにあたっても大事な話だと思うので、ちょっとまとめてみたい。

2. 「時間軸の矛盾」


 現在放映中のスーパー戦隊シリーズや仮面ライダーシリーズは、シリーズと言っても、1作ごとに作品内の世界観はリセットされている。たとえば現在放送中の『仮面ライダー電王』は前作『仮面ライダーカブト』の話と直接の関係はないし、『カブト』もその前の『響鬼』とはつながっていない。これは最近のウルトラマンも同じで、『メビウス』は前作『ウルトラマンマックス』をなかったことにしているし、『マックス』はその前の『ネクサス』を無視している。
 テレビの前で観ているこちらの理屈としては、ほんの1週間前に世界に平和が戻ったばかりなのに、翌週にはその同じ世界に、新しい敵と新しいヒーローが登場し、新しい地球防衛軍が組織される、と考えるのもあんまりなので、前作のお話はいったんチャラにして、新しい物語を楽しんでいるわけだ。一方、作り手の側から言えば、前作に対する敬意と仁義ということもあるだろう。新番組が、前作と同じ世界での新たな戦いというかたちで始まれば、それは前作のヒーローたちが世界に平和を取り戻した結末を、ないがしろにすることになるからだ。
 でもこういう設定の仕切直しというのは、3作目以降に定着するもので、平成ライダーも平成ウルトラマンも、第2作目は、1作目の世界観を強く意識している。どうしてだろう。推測に過ぎないが、スポンサーや上層部の意向が大きいのだと思う。1作目が好評だったから続編を制作するのに、それが完全に前作とは断絶した物語では、せっかく1作目についたファンを、取り逃してしまうかもしれない。そういう不安があるので、何らかのかたちで前作の「続き」にするよう、現場に要請する、ということなんじゃないでしょうか。
 逆にスタッフの側には、最終回できちんと完結させた前作の作品世界を、安易に「続きの話」を作っておじゃんにしたくない、という想いがある。それで苦労するわけですね。平成ウルトラマンの幕開けとなった『ウルトラマンティガ』には、引き続き制作された『ウルトラマンダイナ』という続編があり、ふたつの世界は完全につながっている。しかし『ダイナ』は『ティガ』の7年後の話という設定になっている。時代的な隔たりを設けることによって、『ティガ』が実現した世界の平和を、わずか一週間でぶち壊さないよう配慮しているのだ。
 しかしこれは、そもそも『ティガ』の世界が、実際の放送期間(1996年9月〜1997年8月)よりおよそ10年後の近未来、2007年の物語として設定されていたから使えた手で、平成ライダーで同じやり方はちょっとむずかしい。というのも『仮面ライダークウガ』は、荒唐無稽な特撮物語にリアリティを与える手段として、物語内の時間の経過をものすごく厳密に計算していたからだ。シーンごとに、まるでドキュメンタリーのように劇中の時間と場所を表示して、電車なんかが登場するシーンがあれば、そのつど実際の時刻表を参照していたというのだから、たいしたものだ。『クウガ』は放送期間と並行して、2000年1月から2001年1月というリアルタイムのなかで進行していた物語なのである。
 そういう凝ったドラマ作りでクウガの世界を構築したのは、高寺成紀プロデューサーである。それが一部に熱狂的なファンを生んだわけだが、しかし反面、高寺プロデューサーのこだわりは、放送期間中から、上層部やスポンサーと様々な摩擦を起こしていたという。たとえば秋ごろにスポンサーが売り出した新フォームのライダーが、年明けの最終回直前にほんの一瞬しか登場しなかったりとか、逆にスポンサーにも知らせずに新フォームのライダーをいきなり番組に登場させて、周囲を慌てさせたり、とか。すごいことやるなあ。で、放送当初は好調だった玩具の売れ行きが、肝心の年末商戦で落ち込んじゃったらしい。スポンサーはカンカンだったでしょうね。バンダイの玩具担当者は吠えた「続編だ!続編で、クウガでもうけ損なった分を稼がせてもらうぞ!ただしあんなワガママなプロデューサーはダメだ。もっと話の分かる奴を連れて来いっ!」(このセリフ、ただの空想ですよ。いつものように)。そして高寺自身も「『クウガ』は『クウガ』で完結した作品だ。安易に続編など作るのはおかしい!」と、続投に否定的な態度を取った。
 というわけで、続編の制作は、『クウガ』後半からプロデューサー補として参加した白倉伸一郎にまかされることになった。だが白倉も困った。『クウガ』には自身も参加しているし、しかも彼は高寺プロデューサーを評価している。続編を拒んだ高寺の気持ちはよく分かる。一方、上からは「続編を作れ」と言われる。『クウガ』の完結した世界を損なうことなく、かつ「続編」を作るには、どうしたらいい?


 『仮面ライダークウガ』は2001年1月24日に最終回を迎え、翌週から「続編」である『仮面ライダーアギト』の放映が始まった。『アギト』は「未確認生命体4号が未確認生命体を滅ぼしてから2年後の世界」として始まった。「未確認生命体」というのはクウガの世界内の警察用語で、つまりこれは「アルティメットフォームのクウガが、最後の敵を倒してから2年後」という意味である。要するに「アギトはクウガが終わって2年後、2003年の世界」という設定なのだ。とファンは思った。
 ところが『アギト』第2話(2001年1月28日放送)で、仮面ライダーG3こと氷川誠の携帯に「2001.1.30」の表示が出るのだ。熱心なファンはこういう矛盾を決して見逃さない。東映には、クウガの「2年後」なんて大嘘じゃないか、という質問とか抗議とかが殺到したんでしょうね。白倉プロデューサーは、そういう騒動を沈静化すべく、かの有名な「時間軸の矛盾について」という一文を公表したのであります。まだご覧になっていないかたは、この日記の続きは読まなくてもいいので、ぜひこれを読んでみてください。
 お読みになりましたか?こういうふうに、一種の台所事情をばらしてしまう行為に対して批判的な人もいたと記憶しているが、別にこれは小さいお友だちに向けられたメッセージではない。矛盾を指摘したファンに対して、こういうふうに公式に答えることは、むしろ誠実さの表れであると私は思う。そして、一人の特撮番組プロデューサーが、商業的な要請とクリエイターとしての職業倫理の板挟みにあったとき、何を考え、どう行動したかというサンプルとして、しかも本人によって具体的に語られた証言として、貴重な資料なのではないかとも考えます。

3. 「番外編」の流儀


 先月、実写版の再放送レビューを終えたとき、私はちらっと「このままSpecial Actのレビューまでやっちゃおうかな」と考えた。で、「Special Act」を観ながらあれこれ考えて、結局それは止めにして、もう一度はじめからDVDレビューをやろうと思い直した。で、その時も「どうせならAct.1からでなく、Act ZEROから取り上げてみようかな」とも思った。でも、あれこれ考えたあげく、それも止めにした。
 東映公式によれば、もともとこの「Special Act」が「Final Act」と題される予定だったという。ややこしい話だが、実際、Final Actのラストメッセージはまだ「See you again」で、「Special Act」でようやく「bye bye」と結ばれる。あるいは、Final Actの四天王は「何かあれば必ず駆けつけます」という謎めいた言葉を残して去り、「Special Act」でその言葉どおり駆けつける。そして最後にうさぎが「あの頃が、本当に終わる」と心のなかでつぶやきながら、本編の印象的なシーンの数々を回想する。様々な要素が本編とリンクしており、ばたばたと慌ただしい幕切れだった Final Actにそえられたエピローグとも言える「後日談」ではあった。
 でもその一方で、クイーン・セレニティという新キャラクターが出てくるし、黒木ミオの突然の復活だって、どういうことなのか分かったようで分からない。原作によれば、前世のうさぎの母、月の女王クイーン・セレニティの人格は、シルバー・ミレニアムの宮殿の廃墟にあるコンピューターにコピーされ、一種の人工知能として保存されている。「Special Act」のルナは、そこから投射される立体映像のイメージを、地球に居ながらにして目の前に召喚し、対話しているらしいのだ。そんなことできるんだったら、今さらうさぎと衛の痴話ゲンカの解決のために呼び出すんじゃなくて、もっと本編にいろいろと危機的状況があったときに、クイーンに相談すべきだったんじゃないのか?
 同様のことがAct. ZEROにも言える。タキシード仮面はいつセーラーVの正体を知っていたのか、とか、うさぎの部屋に貼ってある美奈子のポスターはいつ入手したものなのだろうか、とか、そういう本編だけでは分からない謎が解明されて、最後は本編のオープニングを再現して終わる。その意味では、まさしくプロローグであり、そのままAct.1へと連続していく前日談である。しかしそれと同時に、あちこちが本編と矛盾している。
 とりわけ美奈子。Act.36でレイに語って聞かせる回想シーンと、Act. ZEROの冒頭と、アルテミスとの出会いはどちらが正しいのか。そして美奈子のキャラクターは、原作漫画で言うと『美少女戦士セーラームーン』よりも『コードネームはセーラーV』に近い。どちらかというとうさぎに似たり寄ったりの、ドジで明るいミナで、本編とはぜんぜん違う。そもそも、実写版本編のストレートな序章にするなら、病気の話は外せないだろう。
 これらについては、いろいろな事情が想定できるわけだが、結局のところ、白倉伸一郎はすべて承知の上でやっているのだろうと、私は思う。もちろん「Special Act」も「Act ZERO」も、ほぼ同じスタッフで、実写版本編の撮影終了後、ただちに制作に入っているようだし、作り手側の意識のなかでの連続性は、非常に強いとは思う。だからごく普通に、これらを実写版の「後日談」「前日談」として楽しむこともできる。そういう意味では、『クウガ』から「続編」の『アギト』へ、という流れと、実写版セーラームーンとこれら2本のビデオ版「番外編」の関係を、同じように扱うことはできない。とはいえ『アギト』に確信犯的に「時間軸のズレ」をもちこんだ白倉プロのことだ、上に挙げたような本編との矛盾点が、単純なケアレスミスや見逃しの結果であるとも思えない。
 これまでこの日記で、私はときおり「Special Act」や「Act ZERO」の情報で本編を補っているが、一方では決して、これらがストレートに実写版の世界とつながっていると考えているわけでもないのだ。いまのところはごく大ざっぱに「実写版セーラームーンは、ゴールデンウィークもしくは夏休みに劇場版を公開し、さらに番組後半の時期に、テレビスペシャル版を夜の時間帯に放送する計画もあった。それが諸事情に寄って流れた結果が、Special ActとAct ZEROである」と想像している。こんなこと、よく考えるよな私も。
 とにかく2本のビデオ作品の随所に仕掛けられた、本編との連続性と非連続性(矛盾点)は、白倉プロデューサーが我々熱心な実写版のファンに与えたヒントなのだと思う。「この2作がどうして<番外編>としてビデオリリースされたのか、理解する手がかりは作品の中にあるよ。分るかな」という。舞台のメビウス番外編を観た後で、私はちょっとそんなことを書きたくなったのだが、例によって、あれこれ無計画に書いているうちに、だいぶ字数も費やしてしまった。今回の日記は「序説」ということで、ひとつご勘弁を。今夜は名古屋支部としての極秘重要任務もあるしな、万丈。